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2022-05-26 08:35

#88 円谷プロ、東映と大活躍した喜多方市出身の東條昭平監督についての話

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喜多方市出身で、円谷プロと東映で多数の特撮テレビ番組を作った東條昭平監督。「帰ってきたウルトラマン」の名作と呼ばれる「怪獣使いと少年」の監督です。東映時代の鬼軍曹の伝説も有名。そんな監督について簡単にご紹介。そのうち深く語りたい監督です。

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はい、おはようございます。本日の放送は2022年5月26日、木曜日です。
本日は第88回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメを見た漫画大好き親父のピョン吉が響きになったことをただただ話をしていくという番組です。
そんな親父の一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったらごめんなさい。悪意がなかったんです。
他にもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
福島県が生んだ特撮界の監督というとですね、なんといっても椿英二監督が超有名ですよね。
実はもう一人ですね、すごい監督がいらっしゃるんです。東映のですね、スーパー戦隊シリーズで最も多くの演出をされた方です。
その演出をされた作品数は215本。引退してもうですね、10年近く経つんですが、いまだにこの記録は破られておりません。
しかも東映だけでもすごい量なんですけどね、つぶやアップロードでもですね、多数の作品を監督に演出してきた方なんです。
その監督の名前は東条翔平監督なんです。福島県の北方市出身の監督です。
生まれたのは1939年12月5日。日本大学芸術学部の映画学科を卒業した後ですね、テアトロプロという会社に入社して、
その後27歳の時にですね、つぶやアップロードの怪獣ブース化で監督として関わり、そして2年後の68年の29歳の若さでですね、戦いマイティジャックで監督デビューをしたんですよ。
今でもですね、29歳の若さでテレビの一つの番組を監督するっていうのはすごいんじゃないですかね。
マイティジャックの雰囲気でね、急遽ね、戦いマイティジャックって番組作んなきゃいけなかったっていうことを考えたとしてもすごいんじゃないかと思います。
その後、つぶやアップロードの作品に携わりましてね、なんといってもですね、帰ってきたウルトラマンでね、名作と言われる怪獣使い少年の監督をしています。
この作品ですけどね、脚本の上原翔三さん、沖縄出身のというので、そちらの方がついついクローズアップされますけども、上原翔三さんに言わせるとね、東條監督の方がね、これはかなり乗っちゃって作っちゃったっていう話らしいんですね。
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そしてですね、つぶやアップの方ではミラーマン、ジャンボンエースなどで監督を続けてきます。
74年の35歳の時ですね、ちょっとですね、活躍の場を広げちゃいます。
映画の方なんですが、ジャンボンエース&ジャイアントっていう作品なんですよ。
ただこれがですね、問題作なんですね。
つぶやアップの作品と言ったら作品なんだけども、タイのチャイオーフィルムと組んで制作した作品なんですよ。
続いてその同じ年にですね、ウルトラ六兄弟対怪獣軍団っていう制作にしまして、日本でもこれも制作されましたけどもね、ハムマンが登場するやつです。
今ではね、つぶやアップの工夫歴史になっている作品ですよね。
私たちが子供の時にはね、これは普通にウルトラシリーズの中の一本として見ていたんですが、
本当はこれをきっかけとして、つぶやアップとしては世界へ進出を足掛かりとして制作したんでしょうがね、
まさかですね、それを阻むことになるとはね、当時はね、つぶやアップの監督も思ってなかったでしょうね。
さらにですね、このハムマンの作品にはもう一つですね、続編があるんですね。
ハムマンと五人の仮面ライダーっていう作品で、これもつぶやアップと全然関係ないですよね。
そのテレビの方に戻ってきまして、その後ウルトラマンタロウ、ウルトラマンレオ、プロレスの星、アステカイザー、
それから恐竜大戦争、アイゼンボーグとつぶや作品を中心に活躍してきます。
で、ウルトラマン80の後ですね、活動の場所をですね、東映の方に移動するんですね。
というので、81年に42歳で太陽戦隊サンバルカンからですね、参加いたしまして、
そしたらメタルヒーローシリーズなども参加してきます。
そして、1997年のビーファイターカブト、58歳の時ですが、そして監督の活動を休止しているんですね。
この東映時代はですね、鬼軍装と呼ばれてたんですね。
妥協を許さない徹底した演技ぶりでね、かなり新人のスタッフや新人役者を泣かせたそうなんですよ。
その中にですね、同じ福島県出身の千葉玲子さんもいたんですね。
あの、ジュウレンジャーのプテラレンジャーですね。
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で、それまでの人生でですね、登場監督と怖い人がいなかったっていうんですね。
今だったらもうパワハラってなっちゃいますよね。
バカ野郎死んでしまえとかね、散々と言われたりとかしたらしいんで、
それでまあ、いつも泣いていたそうなんですよ。
そして何と言っても許せなかったのは、千葉さんのね、喋る言葉がちょっと行き島弁がなまじるとですね、
ほら、なまってるってね、すぐさま祝いされそうなんですね。
そう言ってる監督自身もね、あの、なまってるんですよね。
その他ですね、つぶあやプロ、それからあと東映作品外にですね、
あの、ナックっていうアニメスタジオがあるんですが、
そこで漫画サルトビサスケなども作ってます。
また1985年ですね、エリマキトカゲブームに便乗してね、
また茶色いフィルムと組んで、エリマキトカゲひとり旅っていう映画も作っちゃってます。
そして忘れちゃいけないんですが、残念ながらですね、完成に至りませんでした。
つぶあやプロがですね、東宝のゴジラを作ったらっていう企画があったらしいんですよ。
幻の企画なんですよね。
その作品名はゴジラレッドムーンエラプスハーフン怪獣万が一っていう作品で、
脚本はですね、ウルトラセブンなどの数々の名作を書いた金城哲夫さんなんですよ。
そして、東城監督っていう組み合わせだったから、
金城脚本、そしてあと東城監督だったら、
どんな作品になったらいいのかなと。
ゴジラレッドムーンエラプスハーフン怪獣万が一。
本作を実現したらね、どんな作品になったらいいのか非常に気になるんですね。
映画界ではですね、恒例になっても映画を作る監督がいますからね、
また特撮を書いてね、復活ってことをしてくれないかなと期待してるんですけど、
それではまた次回、よろしくはピョン吉のオタクの話をお付き合いくださいね。
本日も聞き下さいまして誠にありがとうございました。
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