2022-07-01 11:00

#124 真船禎監督のお父さんは郡山市出身の著名な劇作家 真船豊さんという話

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「帰ってきたウルトラマン」から「ウルトラマンレオ」まで活躍された真船禎監督。数々のテレビドラマを監督をされました。監督のお父さんは郡山市湖南町出身の著名な劇作家 真船豊さん。真船監督は子どもの時、かなりつらい思いをしたみたいです。いろいろお話を聞きしたいなと思うのは私だけじゃないはず。

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はい、おはようございます。本日の放送は2022年の7月1日、金曜日です。
本日は第124回目のお話となります。
このチャンネルは福島県郡山市在住の特撮アニメ漫画大好きおやじのピョン吉が
響きになったことをダラダラと話をしていくという番組です。
そんなおやじの一言を聞きになりまして、もしもあなたの心に何かが残ってしまったら
ごめんなさい、悪意はなかったんです。
ここにもこの番組に興味を持ってしまったら、ぜひ今後もご協力のほどよろしくお願いいたします。
7月に入りました。
1年の折り返し点ですね。
今日から2020年の後半戦ですね。
この収録もですね、2月の終わりから始まったんで、
丸4ヶ月連続配信を達成いたしました。
1年の3分の1を配信しました。
というわけですね。
どうにか1年間達成したいなと思っているところです。
郡山出身の劇局家で、マフネユタカさんという方がいらっしゃるんですよ。
戦前から戦後にかけて活躍された方でね、
イタチという作品が有名なんです。
郡山市のコナン町の方ですね。
稲橋録のすぐ近くの方ですね。
そこのところにですね、記念碑も建っております。
出世作となったイタチという作品はですね、非常に人気ですね。
現在でもですね、鈴木京佳さん。
ゼブラーマンのゼブラナースの方ですよね。
荒言の中によってね、その他多くの人によってですね、
今でも舞台で上演されているんですね。
その作品の舞台のモデルとなったですね、マフネユタカさんがね、
まあ愉快のある家の壁にはですね、
現在もイタチという字が大きく書かれているんですよね。
自分も実際に読んでみましたけどね、
強いしたたかな女性を表現した作品で、
当時の日本としてはね、かなり衝撃的な作品だったんじゃないかなと思いました。
実際にその舞台となったですね、ところに行ってみますとね、
この辺りっていうのはかなり大きな蔵を持っていることが家が多くてね、
裕福な地域だったんだなということがわかりました。
昔は藍津谷、米沢、それからあと新潟、列山がある交通の要だったんでしょうね。
マフネユタカさんはですね、
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繁殖伝の孤独の徒歩という本を書いています。
それを読んでみますとね、100年くらい前のね、
郡山市の湖南地方の状況がわかって非常に面白かったですね。
そしてまた東京に出てから劇業家として活躍するようになってからですね、
小林秀夫さんだとか、川端康成さんとかね、高田路藩さんとかね、
様々な文学界の方との交流が書かれておりまして、
非常に華やかで読んでいて面白い本でした。
さてさて、ここからが本題なんですよ、実は。
ここからが本題なんですが、その息子さんがいらっしゃるんですよね。
マフネターシさんって言うんです。
ターシっていう字はですね、非常にちょっと難しい字なんでね、
一般にもですね、マフネテイさんって呼ばれることが多いみたいです。
1933年のね、東京生まれの方なんですね。
というわけで現在89か90歳くらいでしょうかね。
実はこの子たちはですね、第二次怪獣ブームの時にですね、
活躍されたテレビドラマの監督さんなんですよ。
マフネターシ監督なんですけどね、
小学校2年生の時に小児血管が患ってしまってですね、
それで小学校2年生からですね、神奈川県の千ヶ崎のね、
全寮生のね、学校に入って、
寮からですね、施設内の小学校に通っていたらしいんですね。
というのですね、親からずっと離れた生活してたんですね。
まあ、戦争もあってね、疎開って意味もあったんでしょうけどね。
そしたら高校までずっと寮生活をしたらしいんですね。
父親のマフネユタカさんの孤独の徒歩にもね、
そのことが書いてあるんですが、
かなり悲しい思いをさせたってことを書いてありますね。
まあ、病気だから処方もなかったんでしょうね、当時としてはね。
で、その後、早稲田大学に通って、
卒業後、父親の影響からですね、
映像関係の仕事をしていて、
テレビ監督になったわけですね。
初期の頃にね、監督した作品の中にはですね、
1968年のバンパイアっていう作品があります。
これは鉄子治さんの原作ですよね。
水谷豊さんが主演したことでも有名なドラマですよね。
約半年放映されたドラマのうちの約11話を監督されているんですよ。
その当時はですね、名前が読みづらいってこともあったのか、
マフネ・テイっていうね、ひらがなで表記しています。
それにしても水谷豊さんすごいですよね。
もう55年近くもですね、テレビでね、主役を演じ続けているんですからね。
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それから、なんといっても私たち特撮ファンにとって忘れられないのはですね、
1971年に帰ってきたウルトラマンですよ。
それ2作監督するんですね。
脚本を書いた方はね、市川信一さんなんですよね。
そして翌年のエース、ウルトラマンエースでもですね、6作監督しております。
そのうちの2作はですね、なんと自分でも脚本を書いてるんですよ。
さらに翌年のウルトラマンタロウでも4作。
さらにさらに翌年のウルトラマンレオでも2作監督しております。
2作って少ないように思いますけども、これはウルトラマンレオの第1回目、第2回目なんですよね。
つまりウルトラマンレオっていう作品がどういうふうな作品になるかのね、基本を作ったってわけですよね。
というわけで、ウルトラマンに関する作品数は多くいうわけではないですが、
ですがつぶやープロにとってはですね、非常に重要な監督だったと思うんですよね。
ところがですね、未だにウィキペディアがないんですよね。
なんででしょうかね、本当にちょっと残念なんですよね。
つぶや作品で他にですね、日本沈没、これで2話分の監督をしております。
それからあと恐怖劇場アンバランスっていうね、ドラマもあるんですが、
そこで監督の候補に2回になったんですがね、ちょっと一度も監督しなかったみたいですね。
脚本家として有名な佐々木守さんと組むことが多い方です。
帰ってきたウルトラマンの前にはですね、出発っていうね、東海テレビ製作のフジテレビ系列で放映された昼ドラマ、昼ドラ。
1970年の9月から放映された番組なんですが、
そこでですね、なんと父親の真船豊さんの作品を原作としてドラマ化したらしいんですね。
それからですね、昼ドラというとね、佐々木守さんが脚本を書いた三ヶ月情話っていう作品があって、
それがSF電気ドラマでね、非常に人気だったらしいんですね。
残念ながらですね、昼ドラだったんでね、当時の子供たちはね、見ることができなかったんですかもね。
脚本家としてもね、いろいろ活躍してみたいで、三島由紀夫さんのね、美しい星っていうね、SFチックな作品があるんですが、それもドラマ化しております。
その他自分たちの知っているところではね、ザ・ハグマンというね、現代の必殺仕事人というやつがあったんですが、その4作を監督されています。
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その他ですね、多数のドラマでね、監督されてるんですね。
1997年からですね、ちょっと名前を変えましてね、一部変えまして。
それで、笑うセールスマン、伊藤志郎さんがね、もぐろを吹く像をやっているというテレビドラマがあったんですが、その監督なんかもしております。
こういう素晴らしい監督さんがいるんだからね、お父さんの船井豊さんに関連して、高梨山市でね、講演会してはどうなのかなとね、
高梨山市の文学の森資料館にね、再造再始、提案しているんですが、全く動きがないんですよね。
親と離れた生活をしていたとはいえですね、父親の出身地ある高梨山市ですから、何か記憶していることがあるかもしれないんでね、その話を聞くだけでもね、高梨山市の文化になると思うんですけどね。
こうなったらですね、お隣の市だけどもね、福島県ということで、塚川市の方にお願いしてね、特撮アーカイブセンターの方でね、何かできないかなと思っているところなんですよね。
ぜひ来ていただいてね、当時のウルトラマンの話をお話ししていただいてね、特撮アーカイブセンターの壁にね、サインしてほしいなぁなんて思っているんですけどね。
はい、というわけで、それではまた次回よろしくお願いいたします。
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