自然とモンテッソーリ教育
みみとも。
はい、では今日も録り始めました。
今日はさ、いつも録ってる場所と違う場所で録ってるんだよね。
そうだね、珍しく外で。
外でね。
ウッドデッキに座りながら、森を眺めながら録ってみましたと。
そうだね。
これはこれでいいね。
広がる感じがするよね、外にいるからね。
部屋の中に閉じこもって録るときとは気分が違うね。
自然の音も聞こえるし。
さっきまで鳥の声が多かったけど、セミの声が今多いね。
そうだね。
時間によってなのかな。
うん。
そんなことを感じながら話を始めていきますけども。
何について今日話そうかなみたいなのある?
今日は、そうだね。
こっちに引っ越してきて、隣にワークショップのスペースがあったりとか、
あとは周りが結構自然に囲まれている環境だったりとかしてて、
この場所を使いながら、私たち二人ともやってきたモンテッソーリ教育も使いながらやっていけるといいなっていうのを思ってて。
いいね。
それについてふわっと話していけるといいかなっていう気はしてるけど。
いいねいいね。
そういうのをやっていけたらいいよねみたいなところのワクワク感みたいなことを持ちながら、
具体はまだ全然詰まってないけど、ワクワク感が今ある状態だから、
そういう活動をしながら、どういうことをするみたいなこともそうなんだけど、
どういう状態になったら嬉しいかなみたいなことが話していけるといいかなって今思ったかな。
そうだね。
なんか「コト」より「状態」な感じがするかな。
子育ての楽しさ
そうなって欲しいために何をするか、どんなことをするかだから、「コト」が後でいい気がしてて。
それこそどんな状態になったら嬉しいかなみたいなのがある?
そういえば今思い出したのは、
私がモンテッソーリのトレーニングセンターに通いだしたときに、最初にほら大体自己紹介ってするじゃない?
自己紹介で、なぜそのセンターで学ぶことにしたのかっていう動機みたいなのを添えてみんなが話してたんだけど、
その中に2パターンいたの。お子さんがいる方でね。
1人は大変でどうやって子どもに向き合っていいのかと思ってっていう大変っていうワードが出てきて、
逆側にいる人は思いのほか子育てが楽しくてっていう人といてね。
こんなにも子育てというものの捉え方が違うんだってその時驚いたっていうことがあるんだけど、
今自分がどうかって言われると、子どもとの関わりとか、あんまり私が育ててるっていう感覚はないんだけども、
便宜上子育てというワードを使うと、子育て自体は楽しいなと自分は感じてるのね。
確かに大変とかしんどい、もうどうしていいかわかんないっていう声も聞いたりするなって思うんだけど、
思いのほか楽しいって言えちゃえるのってすごくいいなと思ってて、
どういう状態かっていう話で言うと、そういうふうになってもらえるといいなっていうのは思うかな。
楽しいなってことね。
そうだね。それはいいよね。今のにつなげていくと楽しいなってとてもいいなと思っていて、
僕自身も楽しいと思うし、楽しい状態ってさ、より広げていくと子育てが楽しいなっていうこともあるけど、
もう少し広げると子育てを好意としてはしてるかもしれないけど、
その時の家族全体の営みが楽しいなっていうか、
それは関係性の話かもしれないし、
なんか分からないけど、生活を営んでいる状態が楽しいなとか、
なんか発見があるなとかさ、そういう感じをちょっとイメージしたかな。
要は子どもにだけに視点が当たってるわけではなくて、子どももいる関係性自体が楽しい。
家族として楽しいなとかいう感じになったらいいな。
だからそういう意味ではことの話になっていくと、
子どもに対してモンテッソーリ教育を提供する、以上!みたいなことは別にしたいなと思ってなくて、
そのモンテッソーリのエッセンスで何かしらをすると思うんだけど、
しながらそれに関わる人たちが楽しいなっていうか、
そういうことをそれぞれが思えるといいかな。
今聞いてて思ったんだけど、自分の感覚として、
子どものことは見ているつもりだけど、あまりそこにフォーカスしすぎてないかもしれないって今ちょっと思って。
わかるわかる。
だから、この間の話じゃないんだけどさ、私は私じゃないんだけど、
自分としての在り方とか自分の世界っていうものも大事にしてるっていうか、
そういうとこあるなと思ってて。
だから、あまり子どもがどうかっていうこと自体に影響されてない。
その影響を受けて自分がどうしようどうしようって動揺しちゃうとか、
焦るとか、落ち込むとか、そういうことがあんまりないのかもしれない。
って思った時に、その世界をどう捉えるかって話はそれはそれとしてあるんだけど、
お互いの状態、子どもがどうかっていうこともそうだけど、
親である自分がどういう状態かとか、今ゆうくんが言った家族全体としてどういう状態なのか、
そこが全部がいい状態だといいなって思ってて。
そういう意味では、さっき言ってくれたモンテッソーリの教具を使って子どもに何かを提供します。
それだけということよりは、そのお子さんの周りにいる親御さんだったり大人の方たちも含めた
みんなにとって、さっき言った言葉で言うと楽しいという状態を作れるといいかな。
モンテッソーリの教具と関係性
そうだね。それをジェスチャーで表現するとどんな感じですか?
ジェスチャー?音声だから見えないけど。
エッセンスを見たくなった。
こういう感じだけどね。
柔らかい感じね。
ハグみたいな感じ。
フワッとしてね。
今、突然ジェスチャーで話をしたけど、我々の他の要素として関係性のコーチングとか、
そういうのも扱ったりしてるから、そういう要素とかも入れるといいな、自然に入ってくるんじゃないかなと思って。
そんなことを今思ったかな。
ジェスチャーをやってもらいながら。
そうだね。
あとなんだろうな。
どういう状態みたいなところでいくと、みんなが楽しいといいなって思ってるし、
そこには、今、モンテッソーリの話もしたし、関係性のコーチングの話も出てきてるんだけど、
そこでの学びの要素ってすごく役に立つって言えばいいのかな。
うん。
じゃないかなって思ってて、表現がいいかわかんないけど、それを知っておくとすごく楽になるって言えばいいのかな。
うん。
さっきのけいちゃんの話にもさ、もともとの性格とか特性としてそういう要素もあるかもしれないけど、
でもそれを学んだことによって、めっちゃ楽に捉えられるわみたいな、
これを苦しいから楽しいっていう方に捉え直せるわみたいなことってあるんじゃないかなと思ってて。
そうだね。
自分もそういうところはあっただろうなって思うんだけど、
子どもの世界って、自分もそこを通過して大人になってきたんだけど、
未知じゃん。なぜこれをやってるのか、なんでこんな行動をとるのか、わからないみたいなことも多かったわけだけど、
親から見て。
親から見てそうそう。
だけど、やっぱりそのモンテッソーリ教育で学んだ考え方とかそのエッセンスを通じて、その眼鏡で見たときに、
その同じ行動であっても、その受け取り方がちょっと変わるというか、
受け取り方が変わるともちろん自分で感じるものも変わるわけで、
だから、そういうことねって受け止められると、
例えばそのさっきのエピソードで言う、いやもう子育てが大変でって言ってたものが、
もう少し違う感覚に変わってくるかもしれないなって思うから。
あーそうね。確かに確かに。
今ちょっと挟んじゃうんだけどさ、思い出したのがさ、なんかこう何かの行動をとってるときにさ、
例えば、すごいゆっくりやってるとかさ、子どもだとなんだろうな、
歩くときにこの白い線の上だけ歩きたいとかさ、
ご飯食べるときめっちゃ遅いとかいろいろあって、親的にはもうちょい早くせいみたいなことあるけど、
それをモンテッソーリの言葉にすると、今自分を作ってるんだみたいな考え方があるじゃない。
その活動を通してね。
そういうのがわかってくると、おーなんかめっちゃ今自分作ってるなーみたいなのが見れるみたいな、そういうことでもあるよね。
そうだね。確かに。大人はほら、それこそ目的的だからさ、これをやりたいっていう、
次はこれやりたいとか、その次これやりたいとかっていうのがあるから、
そこのプロセスは、できるだけ短くお願いしますって感じだけど、
思うけどね、実際に。
そうそう。自分の何かのね、力を発達させるために今その行動をしてるんだなというふうに捉えられるよね。
うん。なんかそこを知ってるだけで、ちょっと優しくなれる自分がいるみたいな感じはあるよね。
そうだね。
あとなんかさ、ちょっと話がずれちゃうかもしれないけど、今の目的的みたいな話が出てきたけど、
結構モンテッソーリの勘違いポイントがあるなと思っていて、
モンテッソーリってよく注目されるのが独特な教具とか、それを使って活動するみたいなことで、
それはすごく大事って意味、大事なことなんだけど、
その一つ一つの具体の活動だとものすごく目的的じゃない?モンテッソーリって。
この目的のために、この教具を使って、こういう手順で、これをしますっていうのが決まってるからね。
モンテッソーリ教育の本質
でもめちゃくちゃ緻密じゃない?だし、観察眼みたいなのが必要になったりするし、
そういうのはいろいろあるけど、そうすると、何ていうのかな、
具体の活動にフォーカスするとさ、目的的だから何かのためにそれをしているんだけど、
そこだけにフォーカスすると勘違いするなと思っていて、
そういうとこだけにフォーカスすると、例えば地域みたいな発想になってくるなっていうことに繋がりがちかなと思うんだけど、
この能力を高めるためにこれをやるっていう感じね。
でも本来的なモンテッソーリの考え方って全然違うなっていうか、
っていうのがあって、それもちょっと今思ったんだよね。
モンテッソーリを学んでいると、人間ってどういうものなのかとか、
人が発達するとか成長するってどういうことなのかみたいな学びの要素がやっぱり大前提としてあってさ、
そっちがすごく大事かなと思うんだよね。
で、要はその中には、ちょっと説明を省くけど、
人間の傾向性みたいなことで、人間ってこういう特徴があるよねみたいなことだったりとかさ、
人ってすごく個別的だよねみたいな、平均的ではなくて個別的だよねみたいなことがあったりとかさ、
なんかそういうことがすごく大事かなと思ってて、
そういうことから落とし込まれていくと活動になるところ具体になっていくんだけど、
そこの誤解みたいなのがあるなと思ってて。
誤解はあるよね。
なんかちょっと今出してみたくなったけど。
例えばさ、ある能力を身につけてもらうために教具を使ってこれやりますっていう風になるのって、
身につけてもらうが目的になるじゃない?
そうすると、ある意味大人の意図で教え込んでるっていう感じに捉えられるなって思うんだけど、
その逆にあるじゃん。モンテッソーリ教育って。
大人が教え込むものではなくて、
ただ大人は子どもの中にはもう育つ力がそもそも持ってるから、
それが伸びていけるように援助するっていうことだから、
なんか教え込むものではないとされてるじゃない?
というのを知っているから知育的に捉えられてしまうとちょっとやっぱり誤解されてるなっていう印象はあるよね。
楽しい活動環境の重要性
だからそうなってくるとつらくなってくるじゃん。
そうだね。
そうじゃないんだなみたいな世界観とかも伝わっていくといいなとか、
その子がその人らしく何かが発達していくみたいなことがあって、
そっち行ったか面白いなみたいな。
うん。あ、そうだね。それすらも楽しめるかもしれないね。
そうそうそう。感じになるといいなって思うし、
なんかそれを見ている自分の発達もあるわけじゃん。
そうだね。
なんかそういうのを楽しいなーみたいになったりとか、
なんか関係性が変化したなーとかさ、
やべーめんどくせーけど楽しいなーみたいな。
そういう感じになったら状態としては嬉しいな。
うん。そうだね。
確かに。
知育っぽく能力獲得みたいなことを目的にすると、
その能力がうまく獲得できなかったときに、
親側が動揺するじゃん。
でもそういうことじゃなくて、
そもそもみんな持っているものは一人一人違っていて、
一人一人に伸びたい方向があるし、
その瞬間に獲得したい力っていうのもそれぞれ違うっていう風になったときに、
ただその子がその瞬間やりたい、獲得したい能力っていうのが、
自分の力で獲得できるようにアシストするというものだと思ったときに、
たぶんその目の前で子どもが行動している姿を見たときに、
受け取り方とか感じ方も違うと思うし、
そこで自分がどう声かけをするとか関わるかっていうやり方も、
教え込むとはまた違うやり方があるし、
教えなきゃっていうプレッシャーとかからある意味解放されるというか、
子どもの育ちに委ねて自分たちもアシストするっていう関わり方ができると、
楽でもあるし、その目の前で起きている現象を面白がったり楽しんだり、
そういう受け止めができるなと思っていて、
そういう風に辛いものではなく楽しいとか面白いものであるっていう風に感じられるといいかな。
本当だね。
それが楽しめるといいし、
初めの方に言ったけど、子どもだけに向いているというよりは、
その楽しめるは自分と子どもを含めてかもしれないし、家族を含めてかもしれないし、
そういう風に楽しめるといいなと思うし、
自分たち自身もそうあれるといいなって感じがしてるけどね。
そうね。
今日はコトの話まではいけてないんだけど、
なんとなくみんながそういう楽しいとかそういう状態になれるような場とか時間を作っていけるといいかな。
そう思いました。
そう思いました。
それはすごく心が柔らかに踊るかな。
そうなってくれると自分たちも嬉しいし楽しいっていう感じだよね。
そんな気持ちになったところで今日は終えていきますかね。
今日は話してみてどうでしたか?
今日はね、まず最初に言ってたんだけど、この場所でやるのもいいなと思った。
私たち自身が自然を感じながら自由にしゃべるっていう感じでたまにやりたいなって思ったかな。
あとは、ちょうど今モンテッソーリを改めて、今度は6歳以上のエレメンタリーのコースで学び始めて、
最近また先生から教わることが多いから、
モンテッソーリについての話をこの中でしていけるのもいいかなと。
私もまだ学び中なので、そういう話ができるといいかなって思ったかな。
いいよね。それはすごい思ってる。
ゆうくんはどうでしたか?
今日はね、エッセンスみたいな話をしてきてるけど、話すことでより活動が楽しみになったかなっていう時間かな。
いいね。いい時間だったね。
とりあえずやりたいよねみたいなところからよりワクワクした気持ちが高まっていった感じになりました。
そんなところで。今日は終わっていきたいと思います。
またどんなことをするかも話しましょう。