家族の食事とサポート
みみとも
久しぶりですね。
久しぶりに、みみともの時間だね。
5月ね、僕が結構忙しくて家にいなかったから、なかなか録れなかったけど、また久々にやってまいりました。
なんか3人でいるっていうのも、すごい久しぶりな感じだしね。
子どもとね、家にね。
そんな3人でご飯を食べた昨日の出来事。
僕もそれが今、頭に残ってるから、なんかそれが話せるといいかな。
そうだね。
昨日のその出来事というか、話したいポイントみたいなところでいくと、
我々は3人家族だけど、6歳の子どもがいて、一緒に夕飯を食べていたんだけど、
すごいゆっくりなんだよね。うちの子が食べるのがね。
ゆっくりで、それをけいちゃんが手伝うみたいな場面があって、
僕としてはご飯を食べるのは手伝う必要がないと。
なぜなら自分で食べれるのだから。
ということを話した。
そんな出来事だよね。
思ってるところで言うと、我々の学び、モンテッソーリとか様々な学びからいくと、
自分のことを自分でしていくってすごく大事な要素の一つ。
それはねばならないような大事な要素。
だからそれを学んでいるけいちゃんとしても、
我々の考えをベースにすると手伝うってことはないんだろうな。
っていうことを多分けいちゃんも思うと思うけど、
でも手伝ってしまうこの感じみたいな。
時間の管理と意識
なんかそれが扱えたら今日面白いかなと思う。
そうだね。
さっきゆうくんが言ってた、自分でもう食べられるのだから、
手伝う必要はなくて、自分で食べてくださいっていうのはそう思ってるんだけど、
だからなんか私がその手伝うという行為に出るときに、
私の中にあるのは、
この子はまだサポートが必要だからやっているということではなくて、
だいたいよくあるパターンとしては、
その後の生活のスケジュールが気になっていて、
そこから逆算したときに、
この時間ぐらいまでに例えばご飯が終わっててほしいみたいなのがあって、
今の様子を見ているとその時間に終わらないっていうふうになったときに、
そのタイムマネジメント的な意識としてサポートに入るみたいなことが多いなと思ってて、
自分は子どもに自分でもうできるから食べてほしいなと思いつつ、
時間をコントロールする的な意味合いとして、
手を出してしまうみたいなことがよくあるなっていう感じ。
けいちゃんはそのパターンあるよね。
時間の話だよね。
子どもが育っていくっていう過程では自分でやった方がいいよと思いつつ、
でも現実として様々な時間が目の前にあるときに、
それを成し遂げるために子どもの食べるのを手伝うという形で行動が出てくるみたいな感じで。
これはさ、もちろんけいちゃんの例で話してるけどもちろん自分にもあるわけなんだけど、
この課題は全部の親御さんがおそらく持ってるやつじゃん。
あるかもね。
持ってるやつで、この話をどうしようかね。
今二つ思っていて、一つは時間っていうキーワードが出てきたから、
時間って一種の、それぞれの時間であると思っていて、
自分が思い込んでいる時間みたいな時間の話をしていくのもいいなと思ったし、
もう一つは、現実として時間がない、24時間という切り口での時間がないとしたときに、
そういうときどう関わるのかみたいな話をしてもいいなと思ったし、
他でもいいんだけど、どうですか?
そうだね、どうしようかな。
つながるかもしれないけどね、なんとなく。
つながるかもね。
でも私結構やっぱり時間を起点とするパターンが多い人だと思ってて。
そう思います。
だから結構時間について話してみるのは面白い感じがしてるけどね。
そうだね。
時間を起点に状態がすごく変わる人ではあるよね。
じゃあちょっと時間について話していこうか。
何だろうな。
良い状態の時間と言うのはどんな時間ですか?みたいな問いから入ってみようかな。
良い状態の時間。
すごい良い問いが出せた感じがしないけど。
時間ってさ、時間をどう捉えているかみたいな話だと思うんだよね。
うまく回るみたいな話があった時に、
うまくとは何を指しているのかなとか、
ゲージャーの中でとか、
あとはうまくとはちょっと似ているようでちょっと違うかなっていうところで、
良い時間ってどんな風に思っているのかなとか、
そういうところから入るといいのかなってちょっと思ったんだよね。
なんかね、うまく回るっていう話でいくと、
完了するっていうことなの。
それは、その日に自分がやりたかったことを終えられて、
一日を終えるみたいなこと。
で、やりたいことっていうのはもちろんいくつかあるし、
自分でやりたいこと、
家族でやりたいこととかっていろんなものがあるんだけど、
それが完了できた、今日終わったって言って、
一日終えられるっていうのが、
なんか嬉しいし、
うまく回ったっていう感じなのかもしれない。
多分未完了で終わるとちょっとそのもやもやして、
積み残した感覚で一日を終えるから、
完了してすっきり終わりたいっていう感じなんだよね。
なるほどね。
それとさ、今の話と、
良い時間っていうのは重なるところもあるかもしれないし、
良い時間の探求
違うところもあるかもしれないけど、
良い時間みたいな方にいくとどんな感じなの?
なんか今の完了の話は、
多分一日を終えるときに、
今日が良い時間だったっていうふうに振り返って感じられることの要素なんだけど、
その完了するってことはね。
その、
一個一個なんかやりたいことがあったとして、
それをやっているときの時間、
でもそれもちょっと完了とつながる気がしてきたな。
目の前のやりたいことに集中して向き合っていられる時間っていうのは、
良い時間な気がする。
そのときに未完了の何かが残っているときの私って、
目の前のそれをやりながら、
すごい頭の片隅に未完了のことがすごいある。
ある気がするわけじゃん。
そうすると、
今やりたいと思っている目の前のことに、
完全に向き合う自分ではいられなくて、
なんかこう、
それは良い時間じゃないのかもしれないな。
この未完了がなくすっきりした自分で、
目の前のことに向き合えているっていう、
そういう過ごし方ができている時間だと、
良い時間なのかもしれない。
なるほどね。
じゃあなんかもう少し問いをしてみたいんだけど、
良い時間なんだけど、
未完了のことがある。
良い時間なんだけど未完了のことがある?
みたいなときって、
良い時間なんだけど未完了のことがある。
あるのかなって。
あるのかもしれない。
ちょっと今具体例、こういうときっていうのはちょっと思い浮かべられてないんだけど、
なんかその未完了のことを、
自分の中で塩漬けできちゃうくらい、
目の前のことが楽しかったりすると、
良い時間なのかもね。
要は塩漬けにしてここに集中できるからっていうことなんだけど、
そういうのってあるのかな?
どういうときなんだろう。
でもあんまりね、
平日の日常生活回している中であんまりイメージが湧かないかもしれない。
休みの日にちょっと、
日常の生活を回すっていうのじゃない、
外で何か活動するとかさ、
そういうのをやってるときとかだと、
もしかすると頭の隅に、
今日あれちょっとやらなきゃなんだよなみたいなのがあっても、
ちょっとそれを横に置いて、
目の前のアクティビティみたいなものを楽しめるのかもしれないけど。
そこへの向き合い方みたいなところがね、
違う自分が強く出てきてるのかもしれないみたいな感じかな。
なんで聞いたかっていうところでいくと、
寛容していることって多分ほぼないんだろうなと思っていて、実際問題。
本当に寛容していることってないじゃん。きっと。
だけどそれでもいい状態のときってあるのかなと思って聞いたんだよね。
寛容が何を指すかみたいなところにももちろんよると思うんだけど、
でもこれを深めていきたい気持ちもしつつ、
今ちょっと僕が思ったのはね、
あ、平日はやっぱり日々を回してる感じなんだって。
そうだね、そういう感じがする。
個人の時間管理
それってさ、どうなの?みたいな。
それはけいちゃんにとってどういう感じなんだろうなって。
なんかいいの悪いのみたいな話をちょっと聞きたいって思った。
結構手放したいよね。
手放したい感じがするけど、
やっぱり自分がね、一人のときってそういう感覚なかったかもしれない。
一日の生活を回していく。
あとなんなら未完了で終われたかもしれないな。
面白いね。一人のときは未完了で終われたけど、
特に子どもかな。
子どもができてからだと思うけど、
なんか次の日のことを考えると、
この時間ぐらいまでに寝たほうが良さそうだな、みたいなものがあるし、
朝もこの時間に出発するためには、
これぐらいに起きたほうがいいし、とかっていうことのスケジュールがあって、
そこに納める。
納めながら回すっていうことが中心に置かれてる感じなんだよね。
一人のときは、変な話それを作らなくても、
例えばすごい寝るのが遅くなったとしても、
受け取るのは翌日の自分だけだから、
誰に何の影響もないというか、自分がその影響を受けるだけなんだけど、
だから一人のときとはちょっと違うっていうのかもしれない。
どう違うんだろうね。
もう一個思ったのは、どう違うんだろうねって結構大事な問いな気がしてるみたいな感じを思いつつ、
東京から軽井沢に引っ越してきたじゃない?
実際の時間で言うと、仕事の仕方とかも変わっているから、
軽井沢のほうが時間があると思うんだよね。
けいちゃん自身の時間っていう意味ね。
あるときに、東京の感覚と今の感覚と一人のときの感覚とってあったときに、
グラデーションみたいなのがあるのか、
僕が勝手に感じた質感としては、わりと東京のときと同じこと言ってるなってちょっと思って。
時間は緩やかになってるけど、感覚はもしかして同じなのかなとか、
そんなことをちょっと思ってしまったりしたんだけど、
その辺ちょっと聞いてみたいな。
そうだね。
なんか近いのかもしれないな、感覚的には。
東京のときとってこと?
うん。そして、どうなんだろうな。
確かに同じことを言ってる感じはある。
が、自分の感覚的なものとしては、東京にいたときの発言的には同じことを言っていたとしても、
東京のときの感覚よりかは、ちょっと緩やかな感じがあるというか、もっと必死だった感じ。
そうね。
だから、話が戻ってくると、あのときの自分だったらもっと手伝っていたかもしれない。
興味深いね。
なんか今二つ出てきてるかなと思っていて、一つは時間というトピックと、
もう一つは子どもがいたときに自分がどう影響されるのかみたいなトピックと、
二つあるかなと思っていて、
両方が混ざりながらの話題だから、でも二つあるかなってちょっと思ったんだよな。
シンプルな時間の分量の話とか、時間をどう捉えているかみたいな話と、
あと子どもがいるということによって、自分が一人のときとは違う自分が立ち現れているみたいなときに、
それって自分の一種の願いみたいなものが投影されたりするわけじゃない。
おそらく。
生活の変化とその影響
みたいな話と、なんか二つあるなって思ってたけど、すごい時間がたってきたなと。
続編にしようか、じゃあ。
そうだね。
その二つのテーマで。
なんとなくさ、時間を置いてけいちゃんの中に出てくるものもありそうな感じになる。
うん。
次のとき忘れそうだから。
置いといて、置いといて。
お土産の声を置いといて。
置いとくと、
今回で言うと子どもっていう話だったんだけど、
人と一緒にいるときに違う自分が立ち現れてくるという話が今あったと思うんだけど、
たまたま子どもだったっていうだけで、
なんかね、結局その行動、
まあなんでもいいんだけど、
何かの行動による結果を受け取るのが自分だけだったら、
何もそこに対して思わないんだけど、
相手がその影響とか、もしかしたら被害みたいなものとか、
どっちかっていうとネガティブな体験のことなんだけど、
そういうことを相手が受け取るっていうことを願ってないっていうことだなって思ったのね。
今回は例えば子どもだったから、
子どもが例えば夜更かしをしたら次の日その影響を受けて、
もう眠いとかつらいとかっていう中で一日を過ごすんだっていうことを避けたいって思い出し、
それが例えば大人で一緒に仕事をする相手とかだとしても、
多分なんかその人が嫌な結果を受け取らなきゃいけないっていうことは嫌だな、望んでないなって思うから、
そこに影響された動きを私がするっていうことだなっていうことをちょっと思ったっていう。
それがたまたま今回は家族という中で子どもに現れているっていう話。
そういうのをちょっと話してみたいな。
もうちょっと置いておくと、その課題をけいちゃんが受け取っているんだなって思ったの。
人の課題をね。
っていうところがちょっと面白いなと思っていて、
それを続編話しましょう。
そうだね。
私はそれを話しながら、その課題を私が手放すっていうことをやってみてもいいのかもしれないって思った。
ってなった時に相手が子どものバイトをするのかみたいな話がまたグループして出てくるよねみたいな感じだけど。
一旦そんな感じですかね。
結局未完了で終わっちゃうけどね。
そんなところで終わっていきましょう。