自分の心の殻をへこませている話
(カフェイン・イワホーズ)
こんにちは、こんばんは、おはようございます。
カフェイン・イワホーズです。
僕、今ですね、理学療法室という人にリハビリを提供する仕事をしていて、
訪問リハビリという分野で働いているんです。
訪問リハビリというのは、そのなんともに、
我々が人のお宅に訪問して、そこに住んでいらっしゃる方に対してリハビリを提供して帰るというふうなサービスなんですけど、
その訪問でね、伺ったお宅の中で、
行くたび行くたび、ペットボトルで緑茶をくださるお宅があるんですよ。
ご家族の方が、そもそも家に箱買いしている緑茶があるということで、
いっぱいあるからどうぞどうぞみたいな感じで、終わるたびに渡してくださるんです。
「ありがとうございます、すいません、いつもそれ要ります」みたいな感じで受け取っているんですよ。
それは綾鷹だったりとか、家紋だったりとか、ちょっとずつ時期に応じて種類が違ったりするんですけど、
つい先日、また新しく、緑茶の種類が変わりまして、
それが、綾鷹の濃い緑茶、内臓脂肪と皮下脂肪を減らすという機能性表示食品に該当する類の緑茶だったんです。
ちょっと自分のお腹見ちゃいましたよね。
多分、そういうふうな遠回しのアプローチをしてくる類のご家族ではないだろうし、
僕も今のところ、そんなに最近体重増えてもないし、体型もそこまで変わってないとは思うんだけれども、
なんかちょっと不快を見せちゃいますよね、そういうことがあるとね。
ありがたくいただいて、美味しく頂戴いたしました。
僕、体重はね、多分今、社会人になってから一番少ないんですよね。
身長が180ちょいで、今体重73キロくらいなんですけど、
やっぱり若干女性ホルモンの影響が出ているのか、胸とお腹は肉が取れないんだよな。
太っているとかそういうふうな感覚ではなくて、本当に女性っぽい肉づきをしてるなみたいな感じなんですよね。
まあ、シンプルに僕の持病による女性ホルモンの変動の関係で、
女性っぽい肉づきにその部分だけなっているのかもしれないし、
単純にね、ただ腹が出ているだけなのかもしれないけれども。
そう、だから気になるは気になるんだよな。
どうしたらいいんですかね。
理学療法師として体を動かすことそのものには詳しいけど、ダイエットにはそんなに詳しくありませんで。
なんでなんでしょうね。気になるんだよな。地味に。
高校生ぐらいの時にね、僕はバドミントン部だったんですけど、
高校生で運動部に所属していた時期が確実に人生の中で一番痩せてたんだけど、
その時期でも胸とお腹は減らなかったんだよな。
多分そういうものなんだろうと思うんですよね。
いやだから、それこそ女性でね、お腹が引き締まっている方とかって、
マジでどうなっているんだろうなって思いますね。
どれだけの努力でもって、あのお腹のところの引き締まりというか、
首輪を獲得されているのだろうかっていうのはね、
不思議でならない。そんなことが人体として起こりうるのかっていう、
そういうぐらいな感覚でどうしても見れしまいますね。
でね、あの、今日は点5回という風な位置づけでね、
前回話した内容の続きをちょっとお話ししようかなという風に思ってるんだけど、
その前回というのが「心の殻を出っ腹せよ論」みたいなタイトルだったと思うんですけど、
僕という人間はどちらかというと、相手の発言や行動に対して、
自分の心の殻を極力へこませ、けこませ、
跳ね返すでもなく、受け流すでもなく、
ちょっと自分の心の中心の嫌な部分に近づかせながら対応する、
みたいなコミュニケーションの取り方をこれまでずっとしてきていて、
それによって自分の心の殻をへこませている分のストレスが地味に溜まってきているのではないかと。
無意識に損をしてしまうことに気づいたこと
だからへこませた分、ちゃんと出っ腹せる術を身に付けなきゃいけないね、みたいな、
そんな感じの話を前回はしたんですけど、
自分が他の人と自分の心の殻をへこませながらコミュニケーションを取っているのだ、という仮説を前提としてね、
改めて日常生活を過ごしていたら、
なんかすごいしょうもない場面一つ一つ取っても、自分が常に殻をへこませる、不利になる、損をする、みたいな方向性にコミュニケーションを無意識に取ってしまっているな、というふうなことに気づいたんですよ。
それはマジで本当に些細なことなんだけれども、
電車に乗った時にね、僕は座席に座ったら真っ先に肩幅を最小にするんです。
僕自身できる最小の肩幅にするんですね。
さっき冒頭でチラッと話が出ましたけど、僕その身長が180丁位ぐらいあって、肩幅もそれなりにあるんですね。
だから普通にボカッて背もたれにもたれかかるような素晴らしさをすると、超邪魔だと思うんですよ。
周辺の乗客に対して。
だから、そういう場に座る=自分は肩幅を狭めて、極力周辺の人に対して迷惑をかけないようにしよう、みたいなのが、
意識して狭めようとかじゃないんですよね。
座る=狭めるっていうのが完全にワンセットになっちゃってるわけ。
だからといって、背もたれに広々ともたれかかって足組んでゆるゆると過ごしたいわけではないんだけれども、
別に誰に言われたわけでもないけれど、
自分が損をする方向に無意識に動くように体がなってるなーっていうことに気づいたエピソードその1。
音楽やポッドキャストを止める行動について
で、もう一個がね、僕、今パートナーと二人の子供と暮らしているんだけれども、
例えば僕が一人で洗濯物を干してたりとか、洗い物してたり料理してたりっていうふうな時に、
スマホから音楽流したりポッドキャスト流したりするわけですよ。
で、そこにパートナーとか子供たちがやってきた時に、僕、絶対その音楽とかそのポッドキャストとかを止めるんですね。
「あ、近づいてきたな」っていうふうなのに気づいたタイミングで必ず止めるんです。
で、つい最近までその行為に何の疑問も抱いてなかったんですよ。
どちらかといえば、普段聞いてる音楽だったりポッドキャストだったりって、
自分の趣味思考みたいなものが多文に含まれるじゃないですか。
それを相手に聞かれる気恥かさからなのか、
自分が選んだようなものを相手に聞かせるのが申し訳ないなのか、
なんかわかんないけど、僕が選んだものを相手に聞かせてはならないみたいな思考が今まで無意識に働いてたんですよね。
で、それってまあよく考えると、すごいよく捉えると、
なんだろうな、音楽とかその諸々を流している環境でパートナーが来るのではなくて、
そういうものものを止めることによって「あなたとの会話に集中しますよ」っていう風な意思表示と、
ギリよく捉えれば捉えられなくもないけど、
そんな聞かれちゃいけないような変なものを聞いてるのかなと思われたりとか、
そういうのを隠したい人なのかなって思われたりとか、絶対するよね。多分してたと思うの。今まで。
でもそれに全然気づいてなかったわけ、これまでは。
それにね、自分は殻を凹ませているタイプの人間だっていうことに気づいたときに、
堂々としてりゃいいのにさ。
堂々としてりゃいいのに、
自然と「これを聞かせては申し訳ない」みたいな謎の配慮が働いて、
音楽やポッドキャストを止めるっていうことをしてたっていうことを自覚した。
一応自覚してからはそのまま流すようにして、別に流すようにしたからといってパートナーからは何も言われないんだけれども、
なんとなくちょっと自分の心はスッキリしたみたいな感じ。
っていうね、なんか際立ってこれっていうエピソードがあるわけではないけれど、
逆にそういうふうな日常生活の中の些細な点でも、
なんか基本ちょっと自分を押し込める方向に日常生活を送っているんだなっていうふうなことに気づいたわけですね。
こういうふうな行為ってね、多分世間的に色々な表現で言語化されていることだと思うんですよ。
ちょっと前の本になりますけど、例えば「嫌われる勇気」っていう本が流行った時期がありましたよね。
今でもあるのかな。
多分その本でいうところの「嫌われる勇気がない人」に該当するんだろうし、
「自己肯定感が低い人」に該当するんだろうし、
比較的最近だと多分「HSP」とかね、そういうふうな括りにも照らし合わせてみたら多分引っかかってくるんだろうなとは思うんです。
だから、多分僕がわざわざね、自分の体験を振り返って考えて言語化しないでも、
同じようなことを言語化してくれている人は世の中にいっぱいいらっしゃるんだと思うんですよ。
で、つい先日ね、前回のエピソードを公開するかしないかぐらいのタイミングで、
この上なく正確に僕の思考回路とかそういうものものを言語化してくれている方に遭遇したんですよ。
それは、ポッドキャストでね、「隣の雑談」っていうTBSラジオかなんかが運営しているポッドキャストだったと思うんですけど、
そのかの有名なJane Suさんとね、桜林直子さん、この番組上では「さくちゃん」と呼ばれておりますけれども、
そのお二人が喫茶店で隣の席から聞こえてきた会話みたいな感じで「お楽しみください」みたいな触れ込みで話すポッドキャストなんですね。
で、僕この桜林直子さんという方は、この隣の雑談に出会うまで全く存じ上げなかったんですけれども、
この方のおっしゃっていること一個一個があまりにも的確に俺の思考回路を言語化しすぎていて、
「あ、これもうなんか俺喋らんでええやん」っていう風に思わされてしまったんだよね。
今も週に一回ぐらいのペースで更新し続けられていて、
毎回聞くたび聞くたび「ああ、そうなんですよね。自己紹介代わりにしてくださってありがとうございます」みたいな気持ちで聞いているんですけど、
そうなんですよ。ここで引用するのも申し訳ないので、ご興味ある方は是非とも実際に聞いてみていただければと思うのですが。
なので、これまでの人生の中で最も的確に言語化をしてくれる第三者に巡り会った巡り会ったんだけれども、
その上でね、そのものものを自分の中で噛み砕いて消化して、その上で自分の言葉にして吐き出しておくという風な行為は、
なんとなく自己理解を深めるための手順として必要なんじゃないかなっていう風に僕は思っているので、
あんまり先行文献だったりとか、そういうものものを調べたり参照したりすることなく、
ただただ僕が思っていることを表に表出していこうかなっていう風に思っています。
自己肯定感を高める手段としての言語化
自分の言葉で極力表現をしようというのは、そこは結構僕意識をしていてですね。
それは今このポッドキャスト上においてもそうだし、文章の上でもそうだし、仕事上でもそうだし。
さっき挙げたような、例えば自己肯定感に関する書籍であったりとか、嫌われる勇気であったりとか、
そういう風な書籍だのなんだのの情報を仕入れてしまうと、自分の思考回路がそっちに寄っちゃうような気がするんですよね。
個人的には、僕がこういう風にあれやこれやと、自分の性格であったりとか日常生活について考えた上で、
最終的に答え合わせ的なニュアンスで、そういう本を参照したいなという風には思っているんですけど、
今のところは、ああでもない、こうでもないと自分について考えるのはそんなに嫌いじゃないので、
あんまりね、あんまり積極的にそういった文献は参照しないでいきたいなという風に思っています。
でね、何をきっかけに僕が心の殻をへこませていく側の人間になっていったかは、
正直これっていう風に特定するのが難しいんだけれど、少なくとも今の現状を見るとね、
僕はパパでPTでデュエリストなわけですよ。父親であり理学療法士であり遊戯王を趣味でやっている人なんです。
で、いろんなものものを、育児を理由に相当諦める方向に舵を切っているんですね。
僕は理学療法士として一番働きたい分野っていうのは、整形外科の分野なんですね。
それは就職してからずっと整形外科の分野で働いてきたっていう風なのもあるし、
そもそも理学療法士って学生時代に臨床実習っていうのをやるんですね。
学生の立場で実際に理学療法を提供している施設に何ヶ月間か行って、
そこで実地で経験を積んで、レポート書いて発表してみたいな機会があるんだけれども、
それでいくつかの施設を回らせてもらった結果、一番整形外科の分野が面白そうだったっていう風なところがスタートなんですけどね。
それで整形外科の分野で働きたいんだけれども、育児があるから極力早く帰れる業域かつ家から近いみたいな理由で、
ホームリハビリの方に舵を切っているんですね。
遊戯王を含め、諸々の趣味の活動であったりとか、
シンプルにどっかに出かける、買い物に行く、適当に会食するみたいな、
そういうもろもろも育児があるから、子供がいるからっていうことで、
頻度を減らしたりとか、そもそもやらなくなったりとか、
いろんなものを手放したなっていう風に思っているんです。
自分で自由に使えるお金を減らして、その分子供のための貯金に回したりとか、日々の生活に回したりとか、
そういういろんな面で制限をかけながら、なんだかんだ生活を回しているなという風に思っている。
それら1個1個の物事については、その瞬間その瞬間で合理的な選択をしたと思っているし、
多分世間一般のいわゆる親たちは、多かれ少なかれ何かを我慢して制限をかけて、
苦しみながら、仕事と育児の両立をしているんだろうなという風には思っているんです。
それこそ、男性はちょっとわからないけど、少なくとも女性の立場からすると、
子供ができたから転職します。子供ができたから仕事を辞めます。時短にします。パートになります。
まあ、いいか悪いかはともかくとして、割合一般的なことのように思いますし、
子供ができたからその趣味をやめました。減らしました。諦めました。みたいなことも別に珍しいことではないと思うんですね。
で、そういう環境に身を置いた時にですね、僕は、育児であったり子供だったりの理由があるから、
そういう自分の本来向かいたい方向とは違う方向に今多少舵を切っている。
で、そっち側に舵を切ったから、僕は本当はこっちに住みたかったのになという風な希望を口にしてはいけない、
それをこう望むなんておこがましいものだ、みたいな認識を今までしていたと思うんですよ。
うーん。本来であればね。
まあ、一時的にもろもろ無情で仕事を望まない方向に切り替えた趣味の時間を減らした。
自己抑制の強化とプラスアルファへの受容
でも、本当はこっち方向に行きたいんだよねっていう風に口にしたり、本当はもっと趣味やりたいんだよねっていう風に思うことっていうのは自由なはずじゃないですか。
別にそうしたからって誰に迷惑をかけるわけでもないしね。
でも、子育てをしている父親という立場で、そんな自分の望む場で働きたいと思うなんて、
それは子育てに対して真摯に向き合っているとは言えないのではないか、とか、
もっともっとこれまでの世のお母様方はやむを得ずそういう方向性に舵を切っているのに、
自分がそういうことを言うのはわがままなんじゃないか、とか、
自分は男だからそういうことを思ってしまうけれども、
世の女性は今までそういった圧力をなくなく受け入れてきているのだから、
もう我慢すべきなんじゃないか、とか、
なんかそういう風にね、頭の中で考えていったんですよね。
なので、例えば職場の人であったり、友人であったりとかとね、
例えば今の仕事をないように満足しているかどうかとか、
趣味に避ける時間が減って大変そうだね、とか、
いろんな物事を問いかけられた時に、
「いや、まあしょうがないですよね」って言って、
それ以上のことはあまり語らなかったんですよ、僕は。
「しょうがない」って自分の心にめっちゃ蓋をしていたんですね。
別に言っていいじゃないですか。
「いや、まあ例えば、子育てが落ち着いたらまたその整形化の分野で働きたいなと思ってます」って別に言ってもいいし、
「本当はもうちょっと趣味やりたいんだけどね」とか、別に言っていいはずなんですけど、
もう全部一律に「しょうがないですよね」って言って、
それ以上自分を出っ張らせること、自分を表現することみたいなことをしてなかったんですね。
だからなんとなく、自分に対して常にしょうがない環境がこうだからしょうがない、
周りの人間の立ち振る舞いを考えると、自分がちょっとそうやって損する方向に向くのはしょうがない、
っていう方向にずっと舵を取り続けている結果、
なんだかんだそれで生活はうまく回っているのかもしれないけれども、
自分は心の奥底で常に自分がちょっと損をし続けているなっていうふうに思いながら生活を送るようになってしまった気がするんですね。
その結果何が起こるかっていうと、
例えば誰かが僕に対して追加で何かこういうことやってよっていうふうに要求をしてきたりとかっていう時にね、
いやいや俺はこれまで自分が損してもしょうがないかという方向に舵取りをしてきた結果、
僕は現在なんとか生活が成り立っている、家庭がうまいこと回っているのに、
なんでプラスアルファでそんな要求をしてくるんだ、たまにはそっちも損しなよみたいな、
なんかそういう受け止め方になっていた自分がいる気がするんですよね。
性格悪いですね。
過去・未来・現在の自分に対する気づき
猛烈に性格悪いと思うんだけど、今自分で口にしていても。
だし、そういうふうに自分が本当はこうしたい、こう考えている、こういうところを目指したいみたいな、
そういうものものを表に出さずに、全部こうしょうがないですよねっていうふうな言葉で押し込めているから、
外から僕を見ている人たちっていうのは、僕が何を考えているかっていうのはほぼわかんないよね。
だってしょうがないねしか言わないんだもん。何を言われても。
だから僕が何を考えていて、どういうふうな希望を持っていて、
どういうふうなところに負担を感じているみたいなものを全く表に出していないのに、
なんか時々こっちの心の殻に近い棘を伸ばしてきた相手に対して、
「お前もうちょっとそれは棘伸ばさないように配慮してろよ。もうちょっと考えろよ」っていうふうに思うのは、
たまたま相手からすればね、全然関係ない方向に棘伸ばしたと思っているのに、
「お前なんで急にぶつかってきてんだよ。何してんだよ」って急に絡まれたみたいなさ、
そういうふうな驚きをきっとこれまで与えてしまっていただろうなっていうふうに思うですよね。
(笑)
だからどうしていけばいいんだろうな、どういうふうにしていったら僕は僕が望む方向に、
僕が望む僕になれるのだろうか、僕が望む僕って何なんだろうか。
多分全部言葉にするとするならば、
僕は今後も夫婦円満でいたいし、子供をいろんなところに連れて行ってあげたり、
いろんな遊びに付き合ったりとかしたいし、理学療法士としてもっと成長したいし、
自分の技術を自分が助けたいと思う人たちに向けてあげたいと思うし、
遊戯王をやれる頻度をもっと増やしたいし、いろんなところに旅行に行きたいし、
ポッドキャストのイベントにも参加したいし、とか、
っていうふうなのが、多分今現在僕が持っている希望なんだと思うんだよね。
たぶんこれって、かなり概念的な話でね、ちょっと漠然としすぎているような気がする。
今言ったような物事を目標にしてても、現状はあんまり変わらないような気がするな。
そういうことを自分が望んでいるよっていうことを表に出していくべきなんだろうな。
家庭生活と自己主張
その場合の表っていうのは、もうちょっと身近な人たちに対してね。
このポッドキャストで放出するっていうのは、
自己理解を進めるっていう意味では役に立っているとは思うけど、
あくまでも僕が目指したいのは、人とのコミュニケーションで凹ませているばっかりではなくて、出っ張らせようみたいな話なんでね。
例えば、うちのパートナーと話すときに、
例えば「自分の時間が取れなくて大変だ」みたいな話にパートナーとの間でそれなりなヒントになるわけだけど、
それを「いやでも子供たちがいるからしょうがないよね」っていう風なので終わらせるのではなくて、
「いややっぱもうちょっと自分の時間が欲しいよね」「ある程度しょうがないけど、でもなんかもうちょっと増やすようになんとかできんかな」
っていうことを話し合えるのが、多分僕が求める夫婦関係なのかな。
「しょうがないよね」って言って、お互いにちょっと我慢して諦めるっていう姿は、多分僕が求めている関係性ではないような気がする。
もちろんしょうがないんだけどね。もちろんしょうがないんだけど、子育てしながらトンを働きをしている以上は、
自分の時間が削られていくのはしょうがないんだけれども、でも色々こう試行錯誤をしながら自分の時間を確保するための術を探す、模索する。
で、そのこうしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないかみたいなものを試し続けるみたいなのが理想の関係のような気がする。
そうですね。だからしょうがない、もちろんしょうがない、しょうがないんだけどしょうがないことを認めた上で、
でもゆくゆくはこうしたいよね、ゆくゆくはこうしたいんだっていう風な方向に自己主張をすることかな。
これはなかなかいい落とし所なんじゃないかな。自分で言うのもなんですけど。
結構本質に近いような気がしています、今。
そうします、僕はこれから。
なので、育児しながら共働きという環境である一定度何かを諦めたり制限していくことそのものは、もちろんしょうがないしやむを得ないんだけれども、
かといって自分が目指す方向性に少しでも近寄れないかという風に足掻くこと、それを求めることを制限しないようにする。
みたいな感じですかね。
番組紹介とフィードバックの要求
良さそう。これはなんとなく良さそうな気がします。
良さそうな気がしますが、もしこれをここまで聞いてくださっている方がいらして、
「それはちょっと違うんじゃない?」っていう風に思われる方がいらっしゃいましたら、
ぜひともお便りなり、Twitterなりでコメントを寄せいただければと思いますので、よろしくお願いします。
少なくとも僕は今のところ、割と納得しました。
ということで、僕がスッキリしたところで、今日の配信はここまでとなります。
ご静聴ありがとうございました。
この番組「僕はパパでPTでリリスト」は、大体週に1回くらいのペースで配信をしております。
番組概要欄にお便りフォームを用意してありますので、番組に対する質問・意見・苦情・感想などなど、
何かありましたらお便りを送ってくださると大変喜びます。よろしくお願いします。
また、Twitterで感想等々を呟いてくださる際には、
#カタカナでパピで、#パパでPTでリリストを頭持ちとって、#パピで呟いてくださいますと、
大体僕チェックしておりますので、こちらも大変喜びます。よろしくお願いします。
では、また。ありがとうございました。
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