性善説と性悪説の再考
今回は、性善説・性悪説の話になるんですけど
以前はね、どっちか決めることがまず先決だと
それをやらずにしてはいけないタブーだという話をして
なんですが、今回は性善説・性悪説ってそもそもおかしいだろうっていう話をしていこうと思うんですが、早速ですが
どういうことかというとですね、あることに気付いたんですよ。性善説・性悪説っていうのは
人間の奥の部分
はいいのか悪いのかっていう
古代中国の司祖が純子が唱えた考えで、本性
いわゆる欲望的なのが性悪説
に対して本性が前提あると唱えた
申しの言葉ですね、これはね、らしいです
いやいや、人間に本性なんてないですから
古代って言うと平安時代までなんだ
らしいんだけど日本で言うと
ブッダが生まれる前だったのかなこの人たちは
だとしたらしょうがないけど
本性なんてないんだからいくら掘り下げていって、人間は善なのか悪なのかなんていったって
あんなものを見当たるわけないですよ
もともとはですね
性善説・性悪説、こんな二分できるものではないと
これこそまさにブッダも言ったことだけど
言ってたって別に直接聞いたわけじゃないけど
そうやって良いだのか悪いだのか
区分けしてしまうのが自我なのだと言ってましたが
じゃあだからなんなのかは今回は話しませんが
そう思ってたんですけど、でも最近お話した通り
どっちか決めないと議論が始まらないし
たとえどっちでもいいと思っててもどっちも違うと思ってても
どっちか決めなきゃいけないからクラキは性悪説だっていう話はしたんですけど
そういう流れにあってね、結局
どっちもおかしいっていうクラキの結論ですけど
人間の本性と視点
もともとそうだったんですよね
宗教やってたせいもあんのかな
どっちもあるっていうか
でももっと掘り下げていけばどっちかなんだっていう
ちょっと孔子の、孔子じゃなくて老子?なんて言ったっけなさっき
の話なんですけど
国には徳があるとか、そうでないから
霊説をつけましょうとか
いう教えですね、教えっていうか考え方
クラキは別に正直まだにどっちでもいいだろうと思うし
人間はどっちも違うんですね
だから一旦本性っていう言葉を置いといて
って言っても意味ないのかな
それだとね、人間はいいか悪いかそれはもう
その時によって変わってきますから
誰が見てるかによって違ってくるし
ただ丸つき生物学的に
生物学的に
得となるような状態なのか
はたまた
人間は生まれつき利己的な生き物だという意味では
でもそれだってね
別に利己的でいいだろうっていう人からしてみたら
悪いわけじゃないし
悪いわけじゃないしただ
クラキなんかはそういう意味では制約説かなとか思っちゃうんだけど
でもそれに対しては生物学的に見ても
いい部分だったるわけだし
丸つきのどういうことかっていう点でいくと
ちょっと分かることあるかもしれないけど
議論は分かれますよねこれどっちか
今みたいな感じで
人の助けを借りなきゃいけないのが人間だし
でも人を思いやることもできる
これ誰にも備わってる
備わってない人いんのかないないと思うんだけど
全部が生前説だし
今回の話はそんなところかなそれではしたっけ