言葉への強いこだわり
かけないです。
言葉に対するこだわりが異様なほど強いという話なんですけど
話しきたいと思います。
自分で気づかぬうちにすごいこだわりを作ってきましたね。
作ってきたのか、もともとあったのかわからないですけど。
小さい頃はね、そこまでじゃないような気がするんですよね。
いや、これもうわかんないですけどね。
ただ、なんかめちゃくちゃなこと言ったり、しりつめつれてたことを言うような子供ではなかったと思うし、結構ませてたかもしれないし。
割と親の感じからすると、理屈っぽく映ってた可能性もあるし。
ただね、これも倉木のこだわりで。
なんか偏屈な子供、理屈っぽい子供には絶対違うぞ、そしてそう見られないぞという意識はある。
なぜか大人びた子供でしたね。
だから表面だけそうやってね、なんか頭良さそうに見える子供、大嫌いでしたって言います。
これ本当だからまだ5歳とか6歳でそういう感性は持ってましたね。
で、人を反面教師にしてね、っていうところがある倉木なんで。
いろんな人見てね、相当好き嫌いも激しいし言葉遣いに関して相当こだわりは強いですね。
まず一つ目なんですけど、これは前から、もっと小学生の時から思ってたかな。
さすがに小学生の時、でもほぼ無意識に気づいてたと思うんですけど。
難しい言葉は使うんだけど、あるいはあまり日曜会話で使われない言葉は使うんだけど、
基本的に使われる言葉との意味の違い、ニュアンスの違いを分かってないで使ってる。
これって無駄だなと思うんですよね。
無駄な能力、無駄な知識でしかないと思ってるんですよ。
でもね、ほとんどの場合、そうですね、語彙力がある人、ほとんどこれですよ。
とりあえず難しい言葉を使ってるような感じ。
でもそれだけ普段使われてない言葉って、なかなか出会わないから、
人間の言葉って何回も出会ってやっと関連語との違い、ニュアンスの、
その言葉の特有のニュアンスを分かるわけですよ。
こういったことはね、英語勉強してる時にもね、気づきましたね。
何回もこういう言葉に出会わないと、その言葉の特有の意味って分かんないから、
だとしたら、英語なんか勉強する時も、細かいことは気にしないで、
ざっくり理解した方がいいんだなって悟りましたね、それは。
日本語も同じです。
中途半端にそうやって、いかにもより難しい言葉を使って、
より鮮明により細かく伝えられてる気になっても、
その言葉の独特なニュアンスが分かってないから、それじゃ意味がないんですよ。
逆に普通、基本的に使われる言葉を使った方が正しい使い方をしてるかもしれないし。
もう一度言いますよ。
難しい言葉だったり、普段あまり使われないような言葉を使うのって、
単なる知識をひきらかしてるだけであって、完全に不正解ですから。
それでちゃんと、基本的に使われる言葉との違い、意味の違いをちゃんと理解して、
ふさわしいときにその言葉を使って、説明をより豊かに、よりダイレクトに細かい違いを伝えてできてる人っていないし、学者とかだろうね。
だし、聞く人がその言葉の特有のニュアンスを分かってないと意味がないんで、だから意味ないですよ、結局は。
高等な会話の実態
では次です。
よく学園ドラマでこういう場面見たことないですかね。
新学校の生徒同士が物理学の知識を使って高等な会話をしてる。
でもね、単に物理学の知識を使って会話してるだけであって、会話の、簡単に説明すると、会話自体は別に高等な会話してるわけじゃないんですよ。
高等に聞こえるだけなんですね。
こういうこともね、まあまあありますね。
単に知識を明らかしているだけの場。
これに関連することで言うとね、テレビなんかで多いと思うんだけど、ディベートするもの、ディベートっていうかまあ、まあ例えば政治についてちょっと議論するようなもの。
で、よく聞いてるとね、全く建設的ない会話って結構あるんですよ。
つまり、ただ言いたいことを言い合ってるだけ。
ロジカルにある人がこう言ったらそれに対してロジカルに言い換して建設的にね、答えを導き出すっていう会話じゃなくて、
単に難しいことをベラベラ言ったかと思ったら、理解できてるのかわかんないけど、
というかまあ、それに対する答えになってないからね、それに対する反応になってないから、会話になってないんですよ、そもそも。
それに対して、またベチャベチャベチャベチャして、だから全然議論になってないってことですよ、要するに。
こういうこともね、あると思いますね。
では次。
いやー最近、うちの嫁さんが厳しくて、会社の上司も厳しくて、自由がないんだよ。
学生時代の頃は、自由が多かったような感じだったんですけど、
でもまあそんな不自由では不自由だって考えてもしょうがないし、
自分の国が自分の国に基づいてるんですよ。
自分の国が自分の国に基づいてるんですよ。
自由が多かったよな って言ったらBさんが
いやうちの会社も
もうほぼ社畜になりかけてるし自分は
でもまぁそんな不自由では不自由だって考えてもしょうないし って言ったらCさんが
でも学生時代は学生時代で学校生活が全てだと思ってるから そういう意味じゃある意味じゃ今のほうが自由になってるとも言えるしな
これに対して ある人が急に
でも自由というのは 人間の心が解き離れた瞬間に
自由になるのであって 自分の価値観を失せない限りは自由になれませんっていう
この会話 こういうことってあるんですよ
急に抽象度が変わったりね でも
良いこと言うなーでチャンチャンで終わってしまうんですね
Cさんまでは 同じ抽象度で話したのに急に哲学的な
話になって これは完全にDさんの間違いですから
日本人のコミュニケーションスタイル
こうやって言葉って
同じ自由でもね 哲学的な概念での自由と
普段使われている会話での自由 それは脇巻いて話さなきゃいけないわけですよ
どっちが正解とかじゃない その時に相応しい使い方をするのが正解なんですよ
こんなことも意識しないで適当にね 会話してる人と見ると本当にね
投げかわしい気分になりますね
次です
雰囲気なんかはね あれ別にどっちでもいいんですよ 何でかというと
社会で間違ってね雰囲気って言われてるから それが
一般化すれば 別にどっちが正解っていうわけでもなくて
これをどっちが正解だとか言い出したらね その人は不正解です 間違いですから
でもそういう人もいるんですよね
こういう言葉って どうしても発生してしまうんだけど
でもねなんていうのかな 若間の言葉とはまた違うけど
明らかに言葉を雑に扱ってる 別にクラクはね
言葉を大事にしたいとかでもないし まあそもそも文学
カラッケし興味ないし そういう感じじゃないんですよ
そういうことじゃなくてね でもね
例えば ああこれはまだいいんだけど
でもちょっとひどすぎるなと思うのが
穴勝ちって言ったらその後にね
とも限らないとかそういう言い方なんですよね もともと間違って言ってますね
穴勝ち
何々じゃないとか 何々だとか
穴勝ちあっているとか
これじゃこの言葉使う意味がないし
もちろんねもうみんながそうやって使ってるから これが一般化になってるから
でもねこれの場合 明らかに間違いだからね
そういうのはすごい気になりますね
いかがなものかと思っちゃいますね だからそういうふうになっていいものと
さすがにダメだろうというものに分けられると思うんだけど そこらへんも曖昧になっちゃってますね
では次 一応会話ってね
ある程度の速さで話していく場合はしょうがないんだけど
ある程度ならある程度ならしょうがないんだけど 明らかに
説読詞適当だろうとかコピーが適当だろうとか 最近もねよくラジオ聞いてたらね
やっぱり間違ってたんですね その人命題出てるんですよ
だけどね言葉の使い方適当で だからあるちょっと世間の人ってあまりにもね説明するとき
言葉を適当に発しすぎてると思うしね やっぱり相手のこと考えてないですね
あとこういう言葉って絶対相手に響かないですねそういう説明って まあありきたりなことを
言ってるのなとしか思われないですよやっぱり
それだけ相手に何か自分の思いを伝えようとしたらね 言葉の節々まである程度
意識が行くはずなんですよね 適当に何か漠然とポッと思いついたことを言うから
言葉の節々で あれってなっちゃうんですよ
では次です 論理的っていう言葉どうですかね
大抵の人適当に使ってるんですよ 論理的ってもうね
ほぼ定義がないって言っていいぐらい 意味がもう曖昧なんですよね
理性的にって意味で使われたりロジカルにって意味で使われたり
だからジグソーパズルみたいなもの パズルは論理的っていう人もいたり
論文みたいなものは論理的っていう人がいたり だから前国会中継見せたらね
論理的に 話してくださいって相手に言うわけですよ
どっちかの党が もう片方の党の人が
あなたに収まった
会話の仕方をしたくないみたいな あなたのルールに
囚われたら会話をしたくないみたいな もうなんか滅茶苦茶な会話してましたけどね
どっちもどっちのような気がしてしょうがないけど
こういうことになっちゃうんですね 論理的
でもあまりにも世間で適当に使われすぎてるから
っていうことをね
なぜ分かんないのかなと思うんですよ
それを自覚しないで正しい敵があると思って 自信持って使っちゃうのは何でかなと思うんですよね
他にもこういうこともたくさんありますから
いやーでもねやっぱり
適当な世間話じゃないけど ある程度なんか人生論とか大事な話で
明らかに細かいことも 適当にして
でもちょっとやそっとじゃないですね
完全に建物で言うと土台が 土台途中
明らかに
しっかりなってないのにそのまま 建物を建て続けてしまって
っていう会話多すぎますね
特にこれだから日本人の特性なのかもしれないけど
で後から気づくわけでしょ 問題が起きて気づくわけですよ
でね日本人よりもアメリカ人の方が
圧倒的に論理的にね な会話をするみたいなんですよ
確かに英語って言語自体もそうだし
もう会話のね長さ自体が全然違うんですよね
アナウンサーなんか見ててもそうだし インタビューなんか見ててもそうだし答える方もそうだし
いかに日本人が適当な 直感って言ったら聞こえはいいけど
適当に話してるかそれで分かりましたね
詰めてちゃんと話さないんですよ 適当に話が進んでしまうんですね
これ一人の 一人語りでもそういうこと起きますからね
だからこれだけは絶対そういうことはないように
少しでも自分で 今の説明じゃ矛盾が生じるなっていう場合は
吟味して話してますね
相手に何かを伝えたいっていう気持ちは多分他の人も一般の人も同じなんだけど
それを説明するときに
単にもう言葉を発してしまってるだけでポンポンポン口から出てって
相手にどう伝わってるかっていう想像力も働かせないでね
異心伝心しちゃってると思ってるのか
そんな説明の仕方してる人ってちょっと多すぎると思いますね
ちゃんと相手に伝えたいという思いはあるんだろうけど
苦手だと思いますね日本人はね
まあでもラジオの中聞いても適当な会話でもある程度コミュニタ会話でも
全然ロジカルじゃないものがもう多すぎますね
いやある程度ならしょうがないですよ
相手の意味をちゃんと完全には汲み取れなくても多少話ずれても
でもそういうことが多すぎると思いますね
いや明らかにこの人こんなこと言ってたわけじゃないだろうっていうこととか
大事な部分をおざなりになって先に話し進めてしまったなとか
適当にしてしまってるなとか
簡単に解決したと思っちゃってるなとか多いと思いますね
相手にそれこうだろって言って
その返答もおかしいのに納得してしまってる場合とか
多いと思いますね
あと日本人は
記憶力があって言い換えると知識が多ければ多い人ほど
日本人の会話スタイル
もうすでにある知識をただそのまんま出してね
つまりありきたりなことだけしか言わない
こういう人のいかに多いことか
でもね独創性がないって日本人は言われますよね
だからなんとなくクラキが言うこともね
間違いというわけでもないのはなんとなくわかると思うんですよ
もったいないですよねたくさん知識があるのに
この両方兼ねされてる人ってなかなかいないと思いますね
まあでもさっきからいろいろ言ってますけど言葉についてもね
そもそもこうやってどうせ難しい言葉を使ったところで
あるいは普段使わないような言葉を使ったところで
それは一体どう意味あんのかみたいな
そもそもそんな考え
しっかり考えてまで言葉を使うっていう人がどの程度いるかですね
たぶんほとんどいないと思いますよね
全く疑問にも追わないで
とりあえず覚えた知識をよくわからず使う子供のようにね
使っちゃってるわけですよ
この言葉を使ったら相手に逆に
うまく伝わらないあるいはおかしなニュアンスで伝わってしまうのではないか
そういうことを絶対考えてないですよね大人の人はね
それが一番の問題だと思います
言葉の選び方とその影響
グラフィックはこだわりが強いからね
そのある時期はね
今はちょっとどうだったかどうなのかわかんないけど
自然はね不要にな言葉の変化を起こさないってこともありましたね
でもあると思いますよ
例えば大体同じ意味のいくつかの言葉を知ってて
何の理由もなく適当にその時思いついたのをポンポンポン言ってくる
ちょっと秩序がなさすぎますね
まあそれはいいんだけど
日常会話でそれはいいとしても
全くその言葉例えば3つ知ってたとして関連語
全くその違いはわかってないのに変えるっていうのは
その人の話聞いてる人はね
変えたことの何か意味があるんだろうって思う人もいるし
だからそういう余計な変化を起こさない方がいいと思うし
話しづらくなるし聞きづらくなるし
知識をひけらかしてることにしかならないですよね
だから無駄に普段使われないような言葉は使う必要もないと思うんですけどね
あとこれはねクラキの悩みなんだけど
その前にちなみにね
クラキはだからなるべく難しい言葉は使わないようにしてるんですよ
これもただ一つのこだわりなんだけど
あとねこれ高校3年時かな
ちょっとわけあって小学生レベルとは言っても結構難しいんだけど
こんな参考書ちょっと大学受験の参考書ではないんだけど
言葉と意味と
なんかね2000とか載ってるようなもの
ことわざと四字熟語と覚えてた時期があって
でもそれを覚えてね
かなり本気でやって覚えたからこそあることに悟ったんだけど
あることっていうのはね
いくら自分が覚えたところで世間の説変わってないんじゃ
その言葉も宙に浮いたままで誰にも聞き取ってもらえないんだよね
意味がないんだなって気づいたんですよ
じゃあ全く語彙力なんて不要かというと
普通あまり使われない言葉を使う人もいるわけであって
やっぱり語彙力つけた方がいいよなと思って
こういうのを何回も繰り返してますね
まあでもねことわざしたり何だりしてもね
知識をひきらかすことにしかならないっていう
やっぱりそういう結論になってますね今はね
何回かにしかならないぞと思ってますね
とにかく言葉の細かいニュアンスをするには相当
何百回って聞かなきゃいけないけど
世間でその言葉は使われてないんだったら
そういう細かいニュアンスはいつまで経ってもわからないですから
無理してね辞書で定義を覚えようとしてもね
コミュニケーションの課題
何も意味ないし
あと以前は新名会国語辞典っていうのはちょっと変わった国語辞典なんだけど
これ使ったらどうかとかいろいろ工夫してたことはありますね
英語でさえそうですから
これだけこだわりが強いんでね
細かいニュアンスまで分かってないといけない
場合によっては語源まで分かってないといけないと思って
英単語の覚え方は相当悩んでますね
小文の中で覚えないと意味ないんじゃないかとかね
しっかり辞書でいくつもの訳とか語源まで理解しないと理解したことになってないんじゃないかとかね
かなりこだわりがありましたね
あとクラキュラのこだわりが強すぎて
クラキュラの入ってた宗教の教祖がね
あまりロジカルに話してくれないんですよ
一応台本はあるんだろうけど
ある程度庶内にしても
やっぱりね庶内んですよ男性能と女性能とちょっと違うから
あまり論理的じゃないなって感じてしまうことは
ある程度我慢しなきゃいけないんだけどあまりにもひどすぎてね
すごい聞いてて腹立ってしまうやな気分でした
これ小学生の時の話ですよちなみに
あと本読んでてもね
クラキュラ矛盾とね浅はかなことと
大嫌いですから
でもお医者さんの本とか見てたら
平気で矛盾したこと書いてたりね
するわけですよ
そのたんびにクラキュラね立ち止まりますね
この矛盾はどう受け止めればいいのかと
考えてしまいますね
世の中ねそうやって平気で
矛盾したこと言う人は特に文化人とか頭いい人に
多すぎますね
込み入った話をすることが多くなるからという学者さんとか
文化人とかそうなってしまうのか分かんないけど
学者さんはね割と大丈夫なんですよ
医者とか文化人評論家あたりがね
だいぶ怪しい人多いですね
何でか分かんないけど
次の話最後ですけど
言葉を生むんじゃなくても
さっきね人に伝える思いを
みんな同様にやるって言ったけど
なんかもう本当に人に説明するってことって
もう本当に適当にしすぎてる
どうなんだろう自分が世界の中心に
いると思ってるとまでは言わないまでも
伝わると思ってるのかでも
本当に言葉を懸命してね
言葉っていうか何て言うんだろう
ある程度論理的に言葉も
ある程度選んで
ってやんないと
そもそもその人がちゃんとした
考えがあるのかそこがまず疑わしいし
まあでも日本人ってね
結局ただ身につけた知識を
つまりありきたりなことをただ言ってる
だけっていう場合が多いから
だからこそ別に言葉
一つ一つしっかり
オリジナルなもので
一からしっかり考えてっていう風に
する必要がないのかなと思うんだけど
誰でも言いそうなこと
言ってしまう人多いですよね
しっかり自分の考えを
自分で意識してしっかりそれを
これはねありきたりなことを言ってんじゃなくて
自分の考えがこういうことなんだよ
普通はこうかもしれないけど
この点ではまあありきたりに聞こえるかもしれないけど
この点は人とは考えが違うんだと
しっかり相手に伝えようとすれば
それほどそれだけしっかり吟味してね
言葉を伝えなきゃよっていう気持ちになると思うんですよ
それではしたっけ