過去の結果と解釈
今回の暗示はですね、いきなり下りで出しますけど、スポーツで。
いつも思うんですよね、それ結果論だろうという場合。
あの素晴らしい連携プレーがあったから点数が入ったみたいな。
それは確かに後から振り返ってみたら、うまくできてた。
これは数字書きでもあるんでしょうかみたいな場合。
言い過ぎだろうと思いますし、今回はそんなお話ですね。
別にこれは極論じゃないんですけど、こうやってね、後から振り返ってみて、
あれは正解だったなとか、あれで良かったなという場合。
結構日曜でもあると思うんですよ。
あの時は失敗だと思ってたけど、あれで正解だったよなという場合。
後でそれによって良かった場合、あるいは最初失敗したと思ったけど、
もっと真っ黒な視点で見ると良かったという場合。
そうやって捉えてるだけで、だから人間って過去についても安易に捉えてしまうんですね。
しかも今みたいなこともありますよね。
最初はうまくいってなかったと思っても、後で振り返ってみると違うという場合。
それこそもう都合が良すぎですよね。
今のは都合が良すぎだよって感じたことはある人も、そういうこともあると思うんですけど。
だからクラゲが思うのはね、大抵の場合、後から取ってつけたような、
捉え方でしかなくて、野球の試合の結果の記事なんか見てるとこういうこと結構あるんですよ。
うまくいって点が入りましたと。
で実はその前にも、
すごいトリッキーなことをやっていてうまくいっていたと。
そういう場合、
自分が、
自分が、
運と挑戦の影響
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
自分が、
でそういう場合、
結構過剰な書き方してるわけですよ。
本当にこれは狙い通りだみたいな。
でもそれは結果的にうまくいったからそうやって言えるのであって。
今のはなんてね、大抵の場合、野球の場合だと特にそうなんだけど、単に運がうまくいったっていう場合がほとんどなんですよ。
だからもし失敗してたらなんでそんな大胆なことをするんだって言うんだろうし。
まさにこういうことですね。今みたいなことです。だから結局書きに出てうまくいったから、
あそこのあの判断は、
挑戦に出て素晴らしいとか。
いや、どうですかね、今までこんなふうに思ったことないですか?そんなのね。
ただ単に博打に勝っただけだろうと。
それだけ挑戦をするってことはね、
失敗する可能性だって上がるわけですし。
だからその判断が正しいなんて言えたもんじゃないだろうと。
そこから運でしかないだろうと思ったことないですかね。
特にスポーツ、ギャンブル、政治とかもそうなのかな。
ある程度運で、ほとんど運で決まってるようなもの。
別にその人の判断が正しいとか正しくないではなくて。
で、そんな書きに出たこともね、単にギャンブル好きだったんだろうっていう。
スリルが好きなだけだろうっていうことだし。
まあ挑戦についてはまた今度話しますけど。
今話したのがサイタル霊ですね。
霊ちょうど最近新聞読んでて。
まあそういうことが新聞に書かれてあって。
いやこれ失敗してたら結構、
まああるいは失敗してたら、もちろんこんな風には書かないだろうし。
あと結構リスクも大きいし危ういことだったと思うんですよね。
だからこれを悪く捉える人もいるだろうし。
でもほとんどはうまくいけば、どんなにその判断がちょっと危ういだろうと思っても。
あまり挑戦するのに賛成派じゃない人でも都合よくね、あれは正解だったというわけですよ。
で、これだけは全てのことによってそうなんじゃないかと。
だから例えば高校、偏差値の高いところを受けて、成功したら挑戦した回あったねと。
まあこれはさっき言った通りです。
でまあそれだけじゃなくて、やってきたその過程を褒めると思うんですよ。
いや半年前からよく頑張ったねとか。
やっぱりなんだかんだあれは正解だったねみたいな。
言うと思うんですよ。
いや新しいところに書いて失敗だと思ったけど、なんだかんだあれが正解だったんだねみたいな。
思い込みと反省
あれは正解だった、あれは素晴らしかった、あの判断は正しかったっていう場合。
実際はそんなことないってことですね。
後から振り返って、過去のものごとを勘違いして取られちゃってるんですよ。
変な解釈しちゃってるんですね。
別にいいんだけどね。
こういう問題があるんですね。
それはそれで困りますよね。挑戦するのをやめてしまっては。
今回はたまたま落ちただけなのに。
あとは、自覚ね。
そこまでの過程、頑張っていても頑張っていたと認めなくなったり、
あるいは正しいこともあれは間違ってたという風になってしまったり。
僕だけもそういう経験はありますしね。
でもね、そう思い込みたいんですよ。
あの方法論はダメだったと。
そういう方法論はやめていて、そしたら次回迷わずに進みますよね。
方法論で。
そうやってどんどん自分の行動の幅を狭めていくことは。
そうやって都合よくやっちゃうんですよ。
そういう反省の仕方になっちゃうわけですね。
どうでしょうね。日常そんな感じじゃないですかね。
昨日はたくさん寝るって正解だったなって。
長い時間横になっててよかったと。
これは朝起きて、あるいは昼間爽快な気分になったり、あるいは気分がよかったりするからなんですよ。
もしこれで背中が痛くなったり首が痛くなったりしたら、
いつも通りにしてればよかったとなるだろうし。
だからそのよく寝れたっていう事象自体は別にどういう風に捉えることもできないんですね。
ただ長くいつもに寝てたってそれだけの話なんですよ。
さっきの野球の試合も。
ただ単にトリッキーな事やった。いつもとは違う事やった。
それだけなんですよ。結果は後が分かる事であって。
でまたどうせ次の日寝れなくなったら、また手の裏返すんですよ。
いや昨日寝過ぎたから今日寝れなくなったと。
こうやって人間は都合よく考えをコロコロ変えてしまうわけですね。
もしこういう人が上司になったらどうしますか。
嫌ですよね。手の裏をね。
返してはまた手の裏を返してって。
やられたらもうたまったもんじゃないですよね。
意見がパパパパッと変わっちゃうわけですから。
会社の方針正しかったと。
前まで言ってたかと思ったら。
自分に都合よく。やっぱり間違いだったと言って。
また反省だって言ってね。会議をやらされて。
たまったもんじゃないですよね。
それはあんまり社長になりかねないわけですよ。そういう事をしてたら。
だからあまり過去の事を振り返って、現在の事を思うんですよ。
やっぱりこのやり方が正しかったとか。
やっぱりあれは素晴らしいギミックだったとか。
いい方法の音だったとか。
あの挑戦は素晴らしかったとか。
っていう風な自分勝手な解釈ってあまりしない方がいいと思うんですよね。
それではしたっけ。
それではしたっけ。