自分の周りが固められていくということですよね。
ということはたまたま街中で出会ったものってそういうものが多くなってしまうかもしれないけど、
例えばですよ、花屋さんに行くんではなくて、
花屋さんなんていうのは企画物が置いてあるんだから、
スーパーの農作物なんかも企画物を置いているわけですよね。
じゃなくて、野に咲く花。
だったら違いますよね。企画関係ないですよね。
そこでたまたま自分がこれだったものを花に出会った場合って、
好きに受けられるものを並べておいた花屋で、
なんとなくこれが好きなんじゃないかと思い込んでしまうのと違って、
自分のアンテナに適合したと言えますよね。
それが本当の好きなんじゃないかと思うんですけど。
だからテレビなんかはもう、テレビっていう時点でもうおしまいですよ。
もう視聴率取りにくかってるんだから。
まあ最低でも1%は、深夜で1%は、ゴールデンだったら10%は取らなきゃいけない。
何万人の人に好かれるようなものを作らなきゃいけないわけですよ。
ちなみにクラキュは、ちょっと世間の人の感覚がずれすぎてて、
そういったものであんまりいいと思うことって少ないからね。
そういったものがいいと思う人って羨ましいけれども、
まあ人が好きなものでしかないわけですね。
音楽で言うと、自分で探すってことですね。
自分で掘っていく楽しみをわかってる人っていうのは、
自分の好きなものを選んでることには行わないですよね。
ランキング上位のものを見て、なんとなくこれがみんな好きだしいい曲なんだろうと思ってるのは、
人が好きなものを自分が好きだと思ってるのにしきりないってことですね。
では次の話。
この前話してた中学生の時、なぜかレッドビットビーの言葉に惹かれる。
でも今はこのイットってなんだってよくわかんないし。
でも中学生の時は何度考えてみてもわかるんですよ。
これなことはわかるでわからないと思うはずだけども、しっくりきたんですね当時。
でもレッドイットゴーとかレッドイットビーってなすがままに言って、
よくわかんないですよね。自然に言ってなんなんだって。
これを考える手がかりとしてですね。
次の話の前に、自然にって言う場合、無意識に何かをしてしまうっていうのと、
自然に立ち返るとか言う場合あると思うんですけど、まず無意識にってことだけど、
倉木は人間の行動って、自由意志は働かないのは当然だし、
自分で行動してると思ってるだけで、行動が先に来ると思ってるんで、
その行動の理由は後付けでしかないと思ってるんですよ。
ということは自ずと行動しているんですね。自分で意識じゃなくて。
じゃあどういう場合その無意識とか自ずとっていうかっていうと、
その無意識に行動していることを自覚すると言ってしまうとそれはまた違うし、
完全に無意識だとそれってもう睡眠状態だし、
一番近いのは催眠自身に操られている状態なんですかね。
気づいたら行動していることもわかる。でも意識はあるっていう状態。
完全に催眠かかってなくてもこういうことってあると思うんですよ。
倉木はそれ最近食うと言ってますが。だから歯磨きするときとかですね。
自然に立ち返るっていうのは、自転車で乗って越えてるときって不思議な眼科なんですけど、
それに近いんだけど、不思議なんですねあれ。
ここを頭で考えたら上手く行けないんですよ。
でも単にその無意識っていう話とも違って、
やっぱり自転車に乗っているのか乗らせてもらっているのか
あやふやな状態なんですね。
電動自転車に乗ったらよりその感情が出てくるんだろうけど。
自分の足で力入れて漕いでるっていう感じではない。
と言ってもペダルに足のただ乗っけてる感じでもないし、
息切りしてる感じですね。自分の意志でずっと漕いでる。
ただそれだとずっと加速してしまうんで、そういうわけじゃないんですね。
ずっと力入れてるわけではない。でも漕いでる。不思議な状態なんですよ。
あとピアノのね、昔子供時代に誰も人が弾いてないのに
勝手に鍵盤が置いてあって、スーパーではあったんだけど
踊り場に置いてあったんですね。ちゃんと音を出てて。
これ逆に人が弾いてる場合って何なんだろうと思ったんですよ。
子供ながらに。別に人いなくてもいい。
最初にこうやってプログラミングしておけば弾かされるわけであって。
もともとある程度決まりきった。もちろん細かいニュアンスはあるだろうけど。
ある程度もう決まりきってる。過去に弾いてるだろうし何回も。
過去の記憶といい、もうすでにある音符といい。
それに操られてるようなとこもあるし、ピアノを操ってるようなとこもあるし。
仕掛けは逆転するみたいなことですよね。
これは人間も宇宙の一部だからそれが起こり得るわけですね。
自分ではこの自分が基本人生の主人公だと思って
自分という存在を意識して、つまり自我はあるわけですけど
実は宇宙の一部でしかないということの証拠ですよね。
ちなみにさっきのピアノの話は各器全てそうですね。
人間はいろんな意味で自然に自ずと行動してる。
けれども何か自分の意思で動いてるような気がしてる。
ただ、最近これも考えたんだけど。
もっと言ってしまうとたられば言うのも本能。
過去に過去のことで囚われたり、こうすればよかった。
そう言って後悔する以前に、
そもそも過去に意味悪かったと判断してること自体が本能だと言ってしまっていいということですよ。
でもなるべく過去に囚われないようにはしていきたいですよね。
最後の話ですが、感情って面白いもので、
クラキュラは感情って一瞬出てるようなもので、
本来察知できるはずがないような気がするんですよ、クラキュラ。
川の流れも一時も変わらないのと同じで。
だからこそ仏教で瞑想とかして自分の心を相当集中して瞑想中、
自分の心を捉えようとするわけですよね。
それじゃないと雑念だらけで、一瞬のこの動きを捉えるって難しいわけですよ。
だからずっといろんな感情が出てきていて、
人間の認識としては、グラデーションあってもあんまり変わってないイメージだけど、
一時として感情が整えることはないわけであって、と思うんですよね。
だから自分が今怒ってるなぁと認識した頃にはもう、
それは過去の自分の心を見てる状態にしか過ぎないわけです。
ただですよ、自分のこれって一瞬の頃の動きだなって思うことってあると思うんですよ。
一瞬この匂いを嗅いで、一瞬だけ何か想起されるなぁとか。
でも怒りの感情ってずっと続いてるな気がしますよね。
なんですよね、同じ感情なんだけど、同じ自分の心なんだけど。
絶対そんな感情は続くわけないのに、怒りは続いてるな感じる。
そもそも自分が集中してるかどうか確認してる時って絶対集中できないんですよ。
だから食事中、自分はこの味を味わってるかなっていう、
いわゆる認知の認知みたいなことをすると絶対味わえないんですよ。
もう経験でみます、これは。
100%味わえてないんですね。味なんか察知できないんですよ。
自分がちゃんとこれの性格高いものを食べてるんだからこれ、味わえてるかなって考えちゃ絶対ダメなんですよ。
集中してる時も同じなんですよ。自分は集中してるかなーなんて考えちゃいけないし、
瞑想中はちゃんと脱炎できないかなーなんて考えたら、それが脱炎だし。
そういう意味では感情を見ようとしたら、もうその時点で見れないわけですね。
なのに関わらず怒りの感情ってずっと出てるような感じしますよね。
っていうだけの話なんだけど、でも何でしょうね、
集中してるか確認してても集中できればいいんですけど、判断しようないんですよね。
いくら飴たりにしたところで。
聞いてみたら、目つき、体、姿勢とかの状態で集中できてるか、ある程度判断できるかもしれないけど。
だから瞑想中姿勢崩れたらお坊さんは叩かれるじゃないですか。
周りから見ると、ある程度経験積んでる人は人が集中してるかも見えるかもしれないけど、
自分では絶対一生わからないことですね、本当に集中できてるかどうか。
過去の自分を振り返って何となく集中できてたんじゃないかっていうことしかわからない。
つまり、感情も、怒りの感情が続いてたっていうのは、別に怒りの感情を見てるわけじゃないんですよね。
多分こうであろうという推測。怒りの感情で出てたらあれであろうという推測しかできないんですね。
それではしたっけ。
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