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2025-11-25 22:52

第5261回 哲学回結果論で考えるのは本能&感情は一瞬のもの長く続くものあると…&自転車に乗らされている

特別支援学校に転校して大学に行った彼女、普通学校から引きこもりになった俺。

発達障害当事者です。そして宗教2世でもあります。ハイブリットなこの生きずらさによって起きた過去にあった学校や家庭での事件や悲喜こもごもな話を赤裸々に語ることによって、特性や特異な考え方をすることを知ってもらいたいです。

発達障害の特異な感性ゆえに世の中の理解できないことや、宗教をやめてから哲学的に考えてきたこと、そして音声配信者としての苦悩などの話もPodcastでしています。

発達障害専門家、当事者、興味がある人が発達障害を考える材料になればと思い、日常の考え行動を細かいところまで話しています。番組登録よろしくお願いします。コメント待っています。

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サマリー

このエピソードでは、哲学的な観点から人々が好むものや感情の本質について考察されています。特に、大衆が選んだものに惹かれる理由や無意識の行動が深掘りされ、自転車に乗る体験を通じて感情の変化が紹介されています。このエピソードでは、本能と感情についての考察が行われ、結果論が人間の認識に深く根ざしていることが探求されています。また、感情が一瞬のものでありながらも持続的に感じられることについても議論が交わされています。

哲学的疑問と大衆の好み
今回は哲学雑談会になっております。
まず、倉木が疑問だったことをお話したいんですが、
大衆に言語をして作ったものを人々がなぜ好むか。
当たり前と言えば当たり前なんだけど、
これは何か違和感があってね、
なぜそういうものに惹かれるのか。
この理由の回答にはならないんですが、
一つちょっと思ったことがあったというか、気づいたことがあって。
人が好きなものを好きだと思っていることに
他ならないと思ったんですよ。
大衆に言語をすると言うと角がなくて、
丸みを帯びているイメージですよね。
誰にでも好かれる。
無難なもの。
それは多くの人に救われる、適応するのは当たり前なんだけど、
そういったものを好きになっていること自体、
大勢の人が好きなものを自分が好きだと思ってしまっている。
ということですね。
例えば家電とかその程度のことだったら、
飲食事に関わることだったら生活に迫られて、
単に利便性があるからという場合もあるかもしれないけど、
世間の人が好きなものを自分が好きだと思っている節はあると思うんですよ。
とにかく世間の多くの人が好きなものを多くなる傾向があるのであれば、
それはもう人が好きなものの
無意識的行動と自転車の体験
自分の周りが固められていくということですよね。
ということはたまたま街中で出会ったものってそういうものが多くなってしまうかもしれないけど、
例えばですよ、花屋さんに行くんではなくて、
花屋さんなんていうのは企画物が置いてあるんだから、
スーパーの農作物なんかも企画物を置いているわけですよね。
じゃなくて、野に咲く花。
だったら違いますよね。企画関係ないですよね。
そこでたまたま自分がこれだったものを花に出会った場合って、
好きに受けられるものを並べておいた花屋で、
なんとなくこれが好きなんじゃないかと思い込んでしまうのと違って、
自分のアンテナに適合したと言えますよね。
それが本当の好きなんじゃないかと思うんですけど。
だからテレビなんかはもう、テレビっていう時点でもうおしまいですよ。
もう視聴率取りにくかってるんだから。
まあ最低でも1%は、深夜で1%は、ゴールデンだったら10%は取らなきゃいけない。
何万人の人に好かれるようなものを作らなきゃいけないわけですよ。
ちなみにクラキュは、ちょっと世間の人の感覚がずれすぎてて、
そういったものであんまりいいと思うことって少ないからね。
そういったものがいいと思う人って羨ましいけれども、
まあ人が好きなものでしかないわけですね。
音楽で言うと、自分で探すってことですね。
自分で掘っていく楽しみをわかってる人っていうのは、
自分の好きなものを選んでることには行わないですよね。
ランキング上位のものを見て、なんとなくこれがみんな好きだしいい曲なんだろうと思ってるのは、
人が好きなものを自分が好きだと思ってるのにしきりないってことですね。
では次の話。
この前話してた中学生の時、なぜかレッドビットビーの言葉に惹かれる。
でも今はこのイットってなんだってよくわかんないし。
でも中学生の時は何度考えてみてもわかるんですよ。
これなことはわかるでわからないと思うはずだけども、しっくりきたんですね当時。
でもレッドイットゴーとかレッドイットビーってなすがままに言って、
よくわかんないですよね。自然に言ってなんなんだって。
これを考える手がかりとしてですね。
次の話の前に、自然にって言う場合、無意識に何かをしてしまうっていうのと、
自然に立ち返るとか言う場合あると思うんですけど、まず無意識にってことだけど、
倉木は人間の行動って、自由意志は働かないのは当然だし、
自分で行動してると思ってるだけで、行動が先に来ると思ってるんで、
その行動の理由は後付けでしかないと思ってるんですよ。
ということは自ずと行動しているんですね。自分で意識じゃなくて。
じゃあどういう場合その無意識とか自ずとっていうかっていうと、
その無意識に行動していることを自覚すると言ってしまうとそれはまた違うし、
完全に無意識だとそれってもう睡眠状態だし、
一番近いのは催眠自身に操られている状態なんですかね。
気づいたら行動していることもわかる。でも意識はあるっていう状態。
完全に催眠かかってなくてもこういうことってあると思うんですよ。
倉木はそれ最近食うと言ってますが。だから歯磨きするときとかですね。
自然に立ち返るっていうのは、自転車で乗って越えてるときって不思議な眼科なんですけど、
それに近いんだけど、不思議なんですねあれ。
ここを頭で考えたら上手く行けないんですよ。
でも単にその無意識っていう話とも違って、
やっぱり自転車に乗っているのか乗らせてもらっているのか
あやふやな状態なんですね。
電動自転車に乗ったらよりその感情が出てくるんだろうけど。
自分の足で力入れて漕いでるっていう感じではない。
と言ってもペダルに足のただ乗っけてる感じでもないし、
息切りしてる感じですね。自分の意志でずっと漕いでる。
ただそれだとずっと加速してしまうんで、そういうわけじゃないんですね。
ずっと力入れてるわけではない。でも漕いでる。不思議な状態なんですよ。
あとピアノのね、昔子供時代に誰も人が弾いてないのに
勝手に鍵盤が置いてあって、スーパーではあったんだけど
踊り場に置いてあったんですね。ちゃんと音を出てて。
これ逆に人が弾いてる場合って何なんだろうと思ったんですよ。
子供ながらに。別に人いなくてもいい。
最初にこうやってプログラミングしておけば弾かされるわけであって。
もともとある程度決まりきった。もちろん細かいニュアンスはあるだろうけど。
ある程度もう決まりきってる。過去に弾いてるだろうし何回も。
過去の記憶といい、もうすでにある音符といい。
それに操られてるようなとこもあるし、ピアノを操ってるようなとこもあるし。
仕掛けは逆転するみたいなことですよね。
これは人間も宇宙の一部だからそれが起こり得るわけですね。
自分ではこの自分が基本人生の主人公だと思って
自分という存在を意識して、つまり自我はあるわけですけど
実は宇宙の一部でしかないということの証拠ですよね。
ちなみにさっきのピアノの話は各器全てそうですね。
人間はいろんな意味で自然に自ずと行動してる。
けれども何か自分の意思で動いてるような気がしてる。
ただ、最近これも考えたんだけど。
性格の形成と比べること
例えば、行動してる時に、最近も話しましたが、
急いでやろうと思っても、行動自体そんな変わってないんですよ。
急いでやろうと焦ってるだけで、行動が速くなることってあんまりないんですね。
今まで通りやってしまうんですよ。
ただ歩いてる時、速く歩こうとしたら一瞬だけ加速したりすると思うんですよ。
何でしょうね、一瞬だけ行動に変化がある感じはね。
だから意識的に何か行動に変化を与えられてるような気もしてしまうわけであって。
例えば、何かふと気づくことってあるんですよね。
いつもはこういう風に行動してるけど、
もうちょっと心込めてとか、もうちょっとダラダラやらないで行動してみようという意識が働いたりするわけですよ。
これ自体もたまたまというか、気まぐれなものなんですかね。
それの話で言うとですね。
人間の性格なんて、一覧性創生時の実験なんかで、こういう実験あるんだけど、一緒に過ごしてたら
うまく保管する形で性格は逆になる。
だからやっぱり上の子下の子みたいな感じで、明るい子暗い子みたいな。
芸能人みてもそう思いますね。
あと、それですよね。
逆に遠くで育った場合、巡り会ったらなぜかというか、これは逆に似た性格なんですよね。
ってことは、性格ってつまらないものだと思いませんかね。
一覧性創生者としたら、どちらだって正確に似たものになるはずなのに、
環境次第で性格が変わるなら、
性格なんて、いいですか、遺伝でほとんど一覧性創生時に似たものになるはずなのに、
変わるってことは、なんだろうな。
ごまかしが効くっていう証拠ですよね。
今日ふと思ったんですよ、ある番組って。
人間の性格なんて、周りからいろんな環境とかから流れてきたもので、
とも言えるし、自分の意思ではどうにもならないもの。
アルモニズム決まってくるし。
だから、この人はいい人悪い人だって言ってもしょうない。
もっとオートマティックなもの。
だとも言えるし。
だから、人間の裏の姿を見たくないとか言ったところで、
性格なんてそんなものだからあんまり、
たまたまその時、その一瞬そういう、
その人がそうだったってだけで、
なんかその人の本質だみたいに考えなくてもいいというか、
例えば、すごい自分を嫌ってるっていうところが見えたとして、
そこまで何か考えなくてもいいのかなと。
いうふうに思いましたね。
あとですよ、
不思議ですけどね、
一覧性創生児。
枕木は最近、人と比較することによって、
自分のものが形作られていく。
自分を認識するというよりも、
一覧性創生児だったら自分と全く同じもの。
だから比較しても、
比較できないわけですよね。
そこに難しさを感じるんですかね。
これはいけない、いけないと。
思わないような気もするし、思うような気もするし。
でもお互いが、お互いの保管し合う関係で、
ちょっとした違いがすでにあるのかな、どうなんだろう。
というか、違いは生まれてしまうと思うんですよ。
例えば親が、こっちは上の子、こっちは下の子とか。
あとはね、血液型。
性格なんて変わんないんだけど、
ただ親がこの子はA型だからという、
思い込みによって育ててしまうところで、
結構あるような気がないかな、どうだろう。
それと似てるようなこともありる。
親がこの子はこういう子だと育てれば、
そうなっていくようなところもあるんで。
あとは何だろうな。
不思議ですよね。
比較して自分を知る。
こうだと思い込むということもあり得る。
結果論と本能
だけど一覧性創生児の場合、
自分を見てるような状態ですよね。
自分を見て自分を知るみたいな。
比較してるわけじゃないよな。
めちゃくちゃ客観的には見れるでしょうね。
自分の良いとこ悪いところが。
では次の話ですが、
今回も雑談会になっておりますんでね。
結果の原因を求めるって、
結構あるじゃないですか。
結果の原因を求めるって、
本能的だと思ってるんですよ。
なぜかというと他の鳥とかだって、
餌を与えた時にやった行動をとる。
これ迷信行動って言いますけど、
人間でいう厳格義ですね。
ってことはもう本能的にやってるわけですよ、動物は。
ホニ類だけじゃなくて鳥類だって。
相当深い部分で刻まれてるってことですね、こうやって原因を求める。
でも思うんですけど、
人間は後ろ向きにしか物事を理解できないわけですよ。
未来から過去に時間が流れてるという認識をしてしまうんですね。
実際はどっちに流れてるかは置いといて、
そういう理解の仕方が正しいし、
そういう考え方も無意識にしてしまうわけですけど、
つまりその時間の流れからすると、
未来に原因があるわけですね。
もちろん認識の話なんだけど、
今の現代の自分が過去の自分を見て、
自分を見て、
良い悪かったっていう、つまり結果論なんですよ、結果論。
もう一度話に戻りますけど、
本能的に原因を探してしまう。
そういう原因と結果という関係性を作ってしまう。
全ての物事の原因を探さずにはいられない。
クラキが言ってる行動の理由を後付けでつけてるなんかも、
全ての行動は自分が意識してると思ってるわけですよ。
これで何かチップが埋め込められてるように、
気づかないうちに体が動いてたら怖いですよ、逆に。
腕が勝手に動くとか。
だから後付けではある。
自分が意識してるような感覚。
意識して行動に作用してるような感覚で生きてるわけですけど。
こういう考える人って別にクラキだけではないんですね。
素直に言えば過去に原因があって、
未来に結果がある。
やっぱりこれが自然な形な気はしますよね。
やっぱり過去から未来に時間は流れてると現代人は思ってるからですけど。
私、風邪ひいた原因は何かって、
考えるときはやっぱり過去の自分に原因を求めるんだけど、
でも実際生活してて、何か失敗したときとか風邪ひいたときとか、
それでぐらいなんですよね。
基本は未来の自分が結果論で過去の結果を判断して、
だから結果が自分の現在の認識次第で変わってしまうわけですね。
これ本能的にやってるわけですよ。
まとめると結果論は本能だということですね。
感情の一瞬と持続
もっと言ってしまうとたられば言うのも本能。
過去に過去のことで囚われたり、こうすればよかった。
そう言って後悔する以前に、
そもそも過去に意味悪かったと判断してること自体が本能だと言ってしまっていいということですよ。
でもなるべく過去に囚われないようにはしていきたいですよね。
最後の話ですが、感情って面白いもので、
クラキュラは感情って一瞬出てるようなもので、
本来察知できるはずがないような気がするんですよ、クラキュラ。
川の流れも一時も変わらないのと同じで。
だからこそ仏教で瞑想とかして自分の心を相当集中して瞑想中、
自分の心を捉えようとするわけですよね。
それじゃないと雑念だらけで、一瞬のこの動きを捉えるって難しいわけですよ。
だからずっといろんな感情が出てきていて、
人間の認識としては、グラデーションあってもあんまり変わってないイメージだけど、
一時として感情が整えることはないわけであって、と思うんですよね。
だから自分が今怒ってるなぁと認識した頃にはもう、
それは過去の自分の心を見てる状態にしか過ぎないわけです。
ただですよ、自分のこれって一瞬の頃の動きだなって思うことってあると思うんですよ。
一瞬この匂いを嗅いで、一瞬だけ何か想起されるなぁとか。
でも怒りの感情ってずっと続いてるな気がしますよね。
なんですよね、同じ感情なんだけど、同じ自分の心なんだけど。
絶対そんな感情は続くわけないのに、怒りは続いてるな感じる。
そもそも自分が集中してるかどうか確認してる時って絶対集中できないんですよ。
だから食事中、自分はこの味を味わってるかなっていう、
いわゆる認知の認知みたいなことをすると絶対味わえないんですよ。
もう経験でみます、これは。
100%味わえてないんですね。味なんか察知できないんですよ。
自分がちゃんとこれの性格高いものを食べてるんだからこれ、味わえてるかなって考えちゃ絶対ダメなんですよ。
集中してる時も同じなんですよ。自分は集中してるかなーなんて考えちゃいけないし、
瞑想中はちゃんと脱炎できないかなーなんて考えたら、それが脱炎だし。
そういう意味では感情を見ようとしたら、もうその時点で見れないわけですね。
なのに関わらず怒りの感情ってずっと出てるような感じしますよね。
っていうだけの話なんだけど、でも何でしょうね、
集中してるか確認してても集中できればいいんですけど、判断しようないんですよね。
いくら飴たりにしたところで。
聞いてみたら、目つき、体、姿勢とかの状態で集中できてるか、ある程度判断できるかもしれないけど。
だから瞑想中姿勢崩れたらお坊さんは叩かれるじゃないですか。
周りから見ると、ある程度経験積んでる人は人が集中してるかも見えるかもしれないけど、
自分では絶対一生わからないことですね、本当に集中できてるかどうか。
過去の自分を振り返って何となく集中できてたんじゃないかっていうことしかわからない。
つまり、感情も、怒りの感情が続いてたっていうのは、別に怒りの感情を見てるわけじゃないんですよね。
多分こうであろうという推測。怒りの感情で出てたらあれであろうという推測しかできないんですね。
それではしたっけ。
番組フォローよろしくお願いします。
22:52

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