哲学的な問いと依存
今回も哲学雑談会になっております。 まず一つ目の話ですが
これよく勘違いされることだと思うんですけど、クラキモハイチタ宗教でこういうこと言われてましたけど 答えは
自分の中にあるとか心の中にあるみたいなことをよく言いますよね 魂の中にあるとか
まあ西洋哲学でもこういうことは言われている わけですけど、ただですね
これ答えが 見つかるとかいうことを言いたくて哲学者はそうやって
自分の中にあるって言ってるわけじゃなくて 自分に問い続けることしかできないという意味なんですね
答えを求めようとしたら外でも見るけれども自分の中を 探索していくしかないということであって
決して答えがある保証なんてないわけですよ しかも
哲学者はそれを教えてくれない でもですよ
大抵の人は
答えを求めてますよね
だって何か目標に向かって 走ってる人って
その目標に向かう工程が大事だと 思わないじゃないですか
目標にたどり着くことに意味があると感じるわけであって それじゃないと目標って言わないだろうし
それと同じことなんですよ でも本気で
その 生きる意味とかその
自分らしさとか 本気で答えを求めてる人って
普遍的なものを求めてると思うんですよね 絶対的なものであったり
これって 別に外を探そうが
自分の宇宙を見ていこうが
答えなんてなくて あとはもう宗教にすがるしかないわけですよね
甘えの概念
絶対的なものがあると保証してくれる 宗教にすがるしかないと思うんですよ
だとすれば自分の 宇宙を見つめようって
言われて その理屈自体はあってるんだけど
多分に勘違いする要素ってあるってことですね では本題に参りたいと思いますが
枕木は人に依存するって 悪いことだと見なされる場合が多いけども
依存するのなんて誰でも起きてしまうことだし
依存するところが少なからずないと 生きていけないと思ってますし
でも依存って難しいんですよね 物理的な依存もあればその
今ね依存という言葉自体が いろんなもの包括してしまう難しい概念だなって言おうとしたけど
ちょっと言葉自体をね 追求するのって
あんまり意味ないと思ってて
よく哲学的な議論であるんですよ
ある時は 例えば前回話した
蚊とか蠅はなぜ殺しちゃいけないのかみたいな これをその具体例として蚊とか蠅って
言ってるだけだと認識してる 人たちもいれば
同じ人間でもその 蚊とか蠅について
みたいなこれその例えのそれ自体を その言葉の定義を
定義付けするっていうか その本質的な意味を探そうとしたり
なんかその時都合よくやってるけども
それっておかしなことだとしか思わないんですね 例えばそれを聞いてる身からすれば
前回は言葉について追求してない 今回は例えとして捉えてるんだって
何をやりたいのかよくわかんなくなりますしね だから今回はそれは避けたいんですが
依存ですね ただいろんな概念を補括するのは間違いなくて
というかまぁ 常日頃
依存ってやっぱりしてるもんだと思うんですよ人間 ちょっと今すぐ思いつかないけど
気づかないのうちに依存ってしてるわけですよ これただ依存全くしなくなった時点で気づくけど
依存してる間は気づかないけど でも自分は人に甘えてなんか生きてないと思ってはいるかもしれないけど
少なからず依存してると思うんですよ
甘えっていうことで言うと まあ実証的な意味で言うと目上の人に
寄りかかったり など人の助けを愛に受け入れるとしまう
甘えってだから 依存甘えだと捉えるとあまり良くはないですよね
ただそういう時があっても別にいいと思うし
なんかそれって単なる潜入家だなぁってね 気づくんですよね
甘えはいけないっていうのは 別にいいことだと思わないけどもやって生きてるのは人間なんだよなぁと
思うわけですね まあでも甘えが
良い悪いって言おうとそれを実際に 考えてる通りに実践できる
人間なんてほとんどいないんですよね 気づいたら甘えてしまうだろうし
ああそれでね その
依存甘えだと考えるとその 甘えることを時には大事だと言うと
いうことってあると思いませんか例えば 弱みを
一層にどんどん見せていきなさいとか そんな虚勢張ってないで
時には弱みを見せる 世の間柄にならなきゃ本当の友達とは言えないよとか
そういうこと言いますよね あくらけは矛盾にしか思えなかったです
人にそんな寄りかかるって生きるのってどうかと思うけど 弱みって見せなきゃいけないのってずっと思ってました
そうしないと深い関わりに関係性になれないのかってね ずっと疑問でしたね
日本の教育における水分補給
まあでも一応そういう考え方もあるわけであって あとさっき言ったよねくらけは
依存くらけはできないんだけど人に だから人を信頼してないのかな
結果的に依存できるって健全な状態だと思うんですよ じゃないと心がすぐ折れてしまうだろうし
やっぱりねどっかしら人に寄りかかって 人っていう字もそうじゃないですか
人と人が寄りかかってるような状態なわけですよ精神的にも
あとまあその甘え 依存っていうことで言うとですね
くらけは真っ先に思いつくのが まあ日本っていうものですよね
例えば授業中に 水を飲んではいけないってこれ日本だけだなって気づいたとき驚きました
アメリカなんていうのは 日本でもねまあ水飲んでいい学校もあるみたいだけど
アメリカなんかは そんな水飲むなんて水分取るなんて当たり前だし
他の国もそうだろうしアメリカに関してはお菓子食べたりしてもいいわけですよ
やっぱりね水飲んじゃいけないってどう考えても理にかなってないですよ 意味がないんだからそんなことをしたって
ブレーダーとかジュース持ってくるやついるんじゃないかとか 別にジュース持ってきたっていいだろうしそんなな
で学校の授業以外のね 会議中だってだって水分飲みますよね
普通に人間生活してたら大人なれば
至る所で水分取るじゃないですかどんな大事な場面であったって どうですかね
クラッキーも疑問に思うまでは全くなんともなかったけど 疑問に始めたらもう絶対授業中に水分取ってはいけないって異常事態ですから
日本人のこの奴隷
のようにこうやって生徒を扱ったり 生徒自身も奴隷根性を身につけさせられて
まあすると甘えなんて概念は
なくなりますよね さっきからお話しているとおりある程度はなきゃいけないと思うんですよ
生徒が先生に甘えすぎるのもどうかと思うけど これで苦しんでる人多いと思いますからいじめ
事件にもこれを発揮するわけですよこういうところ 先生に甘えられる先生を甘え
先生に甘えてもいいって思えるそういう存在であることも必要だと思うんですよ それはなさすぎなわけですよね日本では
水飲むだけでも 甘いになってしまうんだからそれは
というかその甘えを許さないわけですよね 少しも甘えを許さないわけですよ
いやでも家庭とかでも 甘えってのを
悪だと見すぎだと思うんだよな 自分で高い声を乗り越えなさいとか
苦手なものを無くしなさいとか 苦手なものを避けるのは甘えだとか
学校の部活なんかもまちなくそうですよね 必要以上に甘えてものを排除してるわけですよ
意味もなく まあ不合理な日本人だからしょうないんだけど
過剰すぎるんですよね まあでも全体主義な国民性だからこそ
まあそれゆえのものでもあるとも思うから いい悪いだけのことではないと思うんだけど
そうならざるを得ないとしか言いようない部分もあるかもしれないけど それじゃあしたっけ