継続とこだわりの違い
今回も単なる持論の話になってしまいはするんですけど、ただ強く言いたいことでもあって
今日改めて思ったんだけど、やっぱり世間の人、ちょっと都合が良すぎなんじゃないかと思って
それが人間なんだけど、人間が何かを続けた場合、やっぱり継続は力なりって言うし
それって大事だよねって褒めますよね。でも何かにこだわってやってる人
こだわりすぎだよって言いますよね。で、このさっき言った継続していることとこだわっていること
何が違うかっていうと
結局周りが見て、それを心良く思うかどうかの違いなんですよ。そこで
その表現が変わるだけなんですよ。周りが見てて、この人は継続してるなって言ったり、こだわってるなって言ったり
で、次ですけど
じゃあ何か変化させた場合
あ、挑戦して偉いねって言いますよね。でもね
継続することもできず、しょっちゅう何か辞めてしまう人
あんたは
何にも続かなくてダメだねって言いますよね。でもさっきと同じように
周りから見てね、これは継続、あ、じゃなくて臨機応変で
とか
ニューズが利く人だったとか
変化し続けるとか 自己変革し続けられる
成長をね
望む偉い人だっていうこともあれば 変な巻物だということで、これなんかは
これなんかも 周りの人が
よく見えてたら 善者の方だし
悪く見えたら、あるいは嫌いな人だったら好者の方の印象を持ってそうやって捉えるわけですよ
こんなの人間の単なる解釈でしかなくて 誰が何と言おうと
人間の行動で続けるか変化させるかのどっちかでしかないんですよ
だとするとですよ、人間って日々 いろんなことをね
途中で投げ出してり
諦めたりしちゃってる。どんなに継続してる人でも
ほとんどのことはそうやってやってる とも言えるし
どんなにね 普通な人、融通が効く人
成長しようと変化し続ける人であっても ほとんどのことは
こだわって続けてる
もうマンネリ化しようとそんなことにも気づかず
惰性で続けてる とも言えるわけですよ。例えば歯磨きなんかそうですよね
でもこれがね、惰性だとかこだわってるとか言わないでしょ
要はだから気づいてないわけですよ
変化しないでね、それにこだわってるってこと
いちいちそんな風に捉えないでしょ
人間が都合よく切り取って この人は
自己変革と社会の解釈
この活動を継続して偉いとか言ってるだけであって 一人の人物
の中でもね 無数にも変化させていることあるいはこだわっている
ことがあるんですよ それを都合よく他の人が
この人はこだわってるとか この人は続けて偉いとかこの人は
マンネリ化してるとかこの人は 自己変革して偉いとか
人気多変とかこだわってるとか 都合よくそうやって捉えてるだけなんですよ
どんなに何かをね続けることができているように見えても その人だって普段ね
いろんなこと変化させてるだろうし
ちなみに すごいこだわりが強いクラキ
でもね いろんなことそれは日々変化させますよ だって
だって周りのね気温とかね 体調とか
クラキが変わっている人の
情緒 自分の情緒
いろんなことが変わりますから 睡眠時間が取れたり取れていなかったり
食べるものが変わったり 見る景色が変わったり まあクラキでもあまり変わんないけど
だから変化させられれば
終えないこともあるわけですね でもこれに対しては本当に気になるんだけど
何をもって変化してるかっていうのも なかなか難しいところで
実は自分の中では変化してないと思っても それを変化させないことによってもっと大きな変化が起きてるかもしれないわけです
あるいは何かを変化させないことによって 変化させることによって変化しないっていうことが
実は周りで起きてるかもしれないし 今回ね特に言いたいことは
だからみんなこぞってねこの人はすごいねすごいね 長く続けられて諦めないですごいねって
特に諦めない人認めますよね世間の人は まあこれは日本人以外もそうなんじゃないかな
まあでも日本人はその傾向にあるかな でもそんなの一つの捉え方でしかなくて
みんなによく映ってるだけであって 悪く捉えば
一つのことにこだわって あるいはもっと他の
他に住めばもっと成長できたかもしれないのに そこに座り続けた
とも言えますよね 逆に
事故変革して何かやってるように見えても 周りからそう見えてるだけであって
単に日しやすく寒やすい性格でいろんなことやってたら結果的に 体制したとも言えますよね
あとは何か一つのことを続けてる ことによって体制したっていうふうに見えるかもしれないけど
実はいろんなことを実は変化させてて 周りから続けてるように見えるだけで
いろんな変化の結果 その成功につながったかもしれないですよね
まあ都合よく世間の人はね なんだか褒めたり懸したりしてるなってな
いうことを今回はお伝えしたかったです それではしたっけ