1. ポイエティークRADIO
  2. 第二百三十一回 猫がきた
2024-12-02 58:39

第二百三十一回 猫がきた

『演じられた近代』(兵藤裕己著、岩波書店)から『猫を愛でる近代』(貝原伴寛、名古屋大学出版会)へ。

サマリー

このエピソードでは、柿内正午氏とその奥様が文学フリマ東京39の開催について話し、参加できなかった理由やビッグサイトでのイベントの魅力を振り返ります。また、近年の推し活とその現象について考察し、人気に対する複雑な感情にも触れています。このエピソードでは、新しく家に迎えた保護猫についての話が展開され、猫との日常や飼うための準備、猫への期待と不安についての心情が語られます。このエピソードでは、啓蒙主義時代における猫への考え方の変化や、猫とサロン文化との関わりが取り上げられています。猫が社会に受け入れられ、愛される存在になった背景を詳細に探求し、特にモンクリフ氏による猫に関する著作についても触れます。このエピソードでは、猫の肖像画とその歴史的背景について語られ、レディギエール公爵富士の肖像画が焦点となります。また、猫の社会的地位の変化やサロン文化における猫の役割についても触れられています。猫が家に来たことによる新たな日常や感情の変化について語られています。

文学フリマ東京39の開催
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と奥さんです。どうぞよろしくお願いします。
ということで、今日またね、家の中の新しいところで、引きこもりスペースがあってね、そこで撮っているので、
なんか音の感じとして、案外こっちの方がいいんじゃないかという感じも、仮説としてはあるので、一度やってみたいというふうに思います。
はい、今日は12月1日、日曜日。文学フリマ東京39の開催日。ビッグサイトはさぞ、歌詞、聖経であることでしょう。
ということでね、我々は、今年は参加していないと。
ええ、文化系トークラジオライフの番外編で、
おすすめ文学フリマ東京のおすすめ本という番組のMCを務めていながら、
私は今回、文振りに行っていないという感じですけれども。
なんてことだ。なんてことだって感じだよね。
なんかさ、僕さ、ライフの文振り会出た時さ、まあ行かないんですけどねって言った回が、
実はもう1、2回あんだよね。
ああ、てか仕事で行けなかったからやったよね。
普通にゲストでやられてね。
だからまあ、もう有識者ではないな。
まあ今回MCだからね。有識者とはまた別の感じではありますけど。
結構わかんなくなっちゃったから、教えてくださいという形だったんだけど。
まあでも、あれは絶対非常に面白くて。
文振り以外でも買える本もね、いくつか紹介しているはずなので、
これからもでもね、聞いていただいて楽しめるんじゃないかなというふうに思いますし、
まあ文振り自体はね、結構気になる本自体はすごいあったから、
行けるもんだったら行きたかった。
推し活とその現象
あ、でもさ、これ面白くてさ、
ライフのさ、文学フリマ東京会を取った時点では結構行こうかなって思ってたの。
なんかあんまりまだ自分が欲しいタイプの本がそんなにたくさんあるわけじゃないけど、
まあでもやっぱり文振りが、
節目としてね、ビッグサイトでどんな感じなのか見に行っておこうかなーみたいな気持ちでいたんだけど、
その後さ、この1週間前くらいが怒涛の、なんていうの?
あるんだよ。
告知ラッシュがね。
告知ラッシュが。で、もうあれもこれも出る。
みたいなのが出てきた途端でさ、
これは祭りじゃんって。
なんかもうその時点で、
なんかもう僕が行かなくても文振りは大丈夫なんだっていう気持ちになっちゃって、
なんかすごい行きたくなったの。
それまでは正直中はちょっと義務感とか、
ライフでも言ったし、これまでもお世話になっているし、
見届けねばならないみたいな気持ちで行ったんだけど、
なんかね、
真そこ行きたくなった途端に、
行かなくてもいいかもって思っちゃった。
みたいなね。
結構それが、
なんか不思議な体験、
不思議な経験やなって思った。
歴史と記録の重要性
これがあれ?カエル化現象ってやつ?
違うと思う。
違うよね。
逆だもんね。
全然違うと思う。
逆だもんね。
押してたバンド売れてきたら冷める、急に冷める現象。
あー、押してたバンドがね、冷める現象。
売れたら冷める現象ね。
あれ何なんだろうね。
うーん、でも、なんか…
全然関係ない話していい?
今新宿に行ったらさ、
新宿駅のメトロの丸の内線か何か出たとこの掲示板って、
ずっとあの推しに対してのメッセージボードになってたよね。
あー、はいはい。
あのー、誕生日とかね、来日ありがとうみたいなやつね。
この妙に可愛い男の子の看板がね、
何故か気になって、
俺まで大体なんかその韓国アイドルとかでさ、
まあなんか普通に見てたんだけど、
なんかすっごいその時だけこの子なんだろうって気になって、
そうそうそう、引き返して見に行ったら、
貞本文雄だった。
もうあなたが無意識下で見つけられるようになってしまった。
もうエーステのキャストはね、メイクしてなくてもね、
分かるわ。
メイクしてなくても語弊があるな。
天後の格好してなくてもね、分かるようになっちゃった。
貞本文雄だった。
可愛い男の子を俺になったんだね。
だからおおーって思ったよ。
なるほど。
っていう話とかね。
でもだからその何、近年の推し活っていうのはさ、
売れたらさ、寂しくなるみたいなのとさ、
またちょっと理想が違うわけじゃん。
むしろさ、売れたいわけじゃん。
なんか面白いよなって思うんだよね。
逆だしね、多分なんかその選挙と一緒、
間違ってる選挙感と一緒で、
キチウマに乗るみたいなところじゃん。
憂いに押されてる子を押せば幸せになれるみたいなさ。
あ、そこまで行くんだ。
それはそうなんだ。
ちょっと後追いで。
なるほどね。
そのグループをなんか気になって、
でもその中で誰って決まってない時に、
とりあえず決めてみようみたいなのから入る。
なんかそのいきなりドキュンって打ち抜かれるんじゃなくて、
っていう時に、とりあえずパイが大きそうなところに行ってみて、
間違かったら多段狩りされていくみたいな。
なるほど、そういうのもあるのか。
あると思うけど。
なるほどね。
それは面白いね。
なんかDDTだったらとりあえず逆見押しの手で行くか、みたいなさ。
はいはいはい。
まあでもね、最初はあるよね、そういうのはね、きっとね。
やっぱり憂いに押されているかどうかってさ、結構大事だもんね。
単純に目に付き合わせるからね。
あとやっぱりほら、友達でさ、ワンピースのサンジが好きな子がいて不眠だったというかさ、
明らかにサンジがさ、麦わらの一味の中で霊偶されておる。
作者に押されてない感じがあって、みたいなさ、話を聞いてたりすると、
お前が生み出したんだろうが、って言ってた。
言ってた。
お前が愛さなくてどうするんだよ、代わりに俺が愛するんだよ、って言いながら、なんでだよ、って言ってた。
とかさ、そういうことになっちゃうから、最初からその子、みたいなのがあるのかね。
約束されている。
でもそれはあるよね。
うーん、それはね、それで済むんだったらそうしとけばいいんじゃないですか?って思う私は。
そうしたくても、もう次はそうするぞ、もう全力で供給型の方に流されていくぞって思っていても、
気づくと、なんか、お花畑とかいらない。
花がぽつぽつ咲いているようなところに来ちゃって、また私はこの外れの方に、みたいな。
これがまた面白いのがさ、それでさ、実際、後世にまで残るのはさ、なんか違うものだったりするんだよね。
それが面白いなって思う。
僕はリアルタイムあんまり知らないからあれだけど、大人になってビックリして、大人になってインターネットを見ててビックリするのが、
例えばね、これ0時だからあれだけど、電気グループってこんなに人気者だったんだっていうさ、例えばね、ことになるんだけどさ、
なんかその言語が上手なオタクが少々人数でもいると、後世にまで聞かれ継がれるというかさ、その参照するものがあるから、なんか聞かれ続けるみたいなさ、のあるじゃん?
その電気グループと同時代でもっと売れてたさ、電気グループってひでなく売れてたミュージシャンっていくらでもいると思うんだけど、今、咄嗟に出てこないわけ、たぶん。
まぁ、ちょっと世代じゃないからあれだけど、とかさ、なんかそういうのでさ、こう、その…
なんか平山住がさ、まさにね、再発見されるとか?
あ、そうそうそうそう、でも平山住とかさ、まさにさ、お前らそんなに多分聞いてなかったやろ、みたいなさ、数の人たちがさ、言及するじゃん?
多分聞いてたんだけど、その人たちは。みたいなこととかさ、あるじゃん?
うん。
面白いなって思うんですよね。
うん。
だからなんかその、目に見えて言語化されるものとさ、その、その、マス的な意味でのさ、売れはまた全然別なんだよなっていう気がします。
あ、でもなんかそのリアルタイム性的に、リアルタイムの熱狂にかまけすぎて、言語化を怠った結果、本当に当時すごかったんだよっていうのが、なんか、こう幻扱いされるのあるじゃん?
そうそうそう、ある。
なんか、それは悔しいから言語化しとこうぜっていう。
そうそうそう。
思うし、なんか、そうだから文字が失う、文字の記録が失われる、だからその雑誌、で、要はなんかその、なんていうの、論じようとした時に、データ化できないのが辛い。
だからツイッターとかだと、もうなんかそのデータ参照できない。
うん、そうなんだよね。
そう、そういうところで論じられる時に、その客観的に引けないから、なんか、そうだから、なんていうの、シーサーブログとかなくなったのって結構痛いんだよね。
いや結構痛いよね、本当に。まとまったテキストとして残しておくっていうのは非常に、で、しかもそれがあると再発見されるんだよね。
最近僕が読んでた本でさ、それでもなぜトランプは支持されるのかっていう、そのアメリカの政治諏訪誌を追った本と、あと江戸の憲法構想っていうね、江戸時代からそもそも憲法っていうものが考えられていた。
そのこう、ある意味こう、君主制に近い江戸時代ってさえ、すでにその立憲制みたいなものの模索がなされていたんだって話があるんだけど、
まず最初の本のそれでもなぜトランプは支持されたのかに関しては、独立以前のアメリカまで遡って、そこに対してのアメリカにおける保守思想とは何かっていうのを紐解いていく話なの。
科学とかそのあたりの思想家の。で、正直それは日本においては特に忘れ去られた思想家たちなわけ。政治思想っていうのはロックから始まってさ、アメリカの革命も含めそのあたりの啓蒙主義あたりのところに遡ることする。
アメリカ大陸で生まれた哲学って基本的にこう、軽視される。ガチ。みたいなところで、そうじゃなくって、アメリカに独自の保守って何なの?みたいなところを考えるみたいなことをしてたりとかさ。
あの江戸の憲法構想だと、その徳川幕府に対してアプローチでその、こういう女はどうですかっていう草案を上げる、その爆心だったり、逆にその反の人たちが自分たちのプレゼンスを高めるためにこういうのはどうだっていうので、
いろんなこう草案を書いてるの、憲法。でもそれ書いてるから残ってるんだよね。で、保守思想に関してもそこにそういう形で、それこそ南北戦争だったりに際して何か劇文だったり抗議文のような形できちんと何か文章として残しているからこそ、後から発見されて、当時のそのリアクションとしては負けてるわけ、全部。
なんだけど、今改めてそれを今の文脈に置き直して読み返してみると、別様の可能性みたいなものが見えてくるし、アメリカの保守思想に関してそれが今まさに顕在化している。200年ぐらい経って、敗者の思想がもう一回現代化してきている。で、その後は脈々とずっとこう、あった。
複量としてあったものであるみたいなことを書かれていくわけだよ。こういうのはやっぱりさ、残っているからさ、そうやってわかるけど、なんかね、歳逸してしまうタイプのテキストで、それをちゃんと見ていくっていうのは難しい。まあリアルタイムだからってなるけどね、難しいとこもあるから、なんかやっぱりね、なんか書いて残すっていうのは大事だなっていう気がしますよ。
そもそも歴史自体はさ、勝者は書き残したものが歴史というのが、そもそも歴史の定義というか、書かれなかったものは歴史になれないっていうのは、もう私学の最初の最初でやること。だから一時資料っていうのは基本的に文字ベースだから、文字を持たない文明っていうのの研究が難しいっていうのもそこにあるし、
なんだけど、文字が残っていて、後々解釈が変わることはあるんだよね。だからその勝者の歴史としてあったものが解釈が変わった結果、違う読まれ方をするし、
その読み替えの時に、全然今までピックアップされてこなかった資料がすごい取り沙汰されるみたいな。それはだいたい埋出馬だったりしたりも、
でもその鎌倉幕府の年号が変わったりとかさ、いろいろあるわけじゃん。それがさ、実際歴史修正なのか改ざんなのかはさ、もうわかんないわけじゃん。
でもその時、技術や知見を持って、や、なんかやっぱりそっちが正しいのかなってなったら、教科書が書き換わるっていう話で、でもどっちにしろ残らないと土俵に立てないんだよね。
というのがありますね。
ありますよ。
というわけで、私たちの残すほどかはわからない、この1年のプロレスを見てきたおしゃべりが文字になり、物質になり。
今ね、僕らはいないけど文振りでね、ノイズノイズノイズボリューム3としてね、プロレス初心者の1年弱だっけ?タイトル忘れちゃったけど、とりあえずそのね、この1年間プロレスを見ての話をまとめたやつが私と奥さんの合作として載っておりますので、
ぜひね、あの2作目、2号には2.5次元演劇論で載せていたりとかして、大変用意だしですので、チェックしてみてくださいと。
多分ね、通販もやるし、またいろんなとこに置かれるんじゃないかなと思いますので、ぜひぜひという感じでございます。
はい、そうなんだよ。でもね、やっぱりそのさ、いま言ったように文字に残すのは大事だし、だからこそなんで今日今回文振り出てねえんだろうなってちょっと反省もするんだけど、
でもそのね、文字に残してね、置いたものがね、文字に残らないところだったりするのが難しいよね。
このね、いま読んでる岩波のさ、演じられた近代っていう本があるんだけどさ、これはその、こう、
近代演劇というものから、その舞台表現からその日本人の近代の身体っていうのはどんなものだったのかっていうのを見ていくわけよ。
だから盆踊りから始まるんだよね。で、その盆踊りのそもそもその世名抜き音階って言われるようなもの、
だからその日本人がそれまで持っていたリズム感とか、音の感、絵の感覚みたいなものがどのように近代において改良されていったのか、もしくは逆に西洋近代的なものがローカライズされていったのかっていうのを追っていく
本なんだけどさ、例えば演劇とかはもう劇表とかさ、その当時のチラシとかから創造して書いていくわけだよね。
その中からいかにしてこう変わっていくのかって。例えばこれが面白いのは、節回しとして、美文体、七五調のすごい調子がいい感じで書いていく劇から、
リアリズムになっていった時にその七五調がだんだん変わっていく。 あの七五調じゃなくてもっとその三文形式で、あの、
なんていうのかな、その七五調のリズムから離れていくような、こう、
リズムになっていくんだけど、でもそれも結局なんか四拍子のリズムとして編成され直していって、結局非常に日本人的なリズムとしてそこに、
潜在してしまっているんだみたいな話とかが結構出てくるんですよ。 非常にね、面白くてね。
こういう本とかね、ちょっと読んで面白いなって思ってるんですけれども、なんかそういう、なんていうの、
音とか感覚みたいなものとかをさ、文章から改めてさ、想像し直してみるってさ、なんか、
すごいことをするよね。 って思うんだよ。
で、確かに、劇局の面白さはそこなんだなって思った。 その人が読む、こいつは春から笑みがいいわい、みたいなのをさ、
なぜこれが気持ちよく感じるのかみたいなところから考えていくっていうね、非常に面白いよね、っていうふうに思いますよ。
猫の到着と初めての印象
ということで、なぜ文風にいけなかったのかっていう話になかなかたどり着かないですけど、 今もう、あれかな、寝ちゃったかな。
さっきまでね、起きてたんだけど。 やっぱりさすがにこの狭い部屋でさ、密着してさ、急に喋りだすと怖いよね。
さっきからね、そこのね、お盆の上に乗ってね、ずっとこっちで見てたんだけど、そのまま引っ込んだと。
ということで、あの、猫が来ましたよ。 この家にね。
保護猫、佐藤親に手を挙げてね。 まだトライアルだから2週間。
予想見てっていう感じですけど。 2週間はね、このポッドキャストがつまんないからみたいな理由でね、断られる可能性がある。
それはないと思うけど、ポッドキャストの私たちのテンションが何か異変があったら、そっとしといてください。
そうだね。トライアルでダメだったのかなっていうね、かもしれませんけど。
まあでも本当に非常に良い子でね。 まだ今日それんちだけど、全く物応じせず、うろちょろしててね。
なんかすごい、よくお喋り。 すごい、なんか言ってる。ずっとなんか言ってる。
ずっとなんか言ってるから、ちょっとこの近くで録音してたら、なんかその声が入るんじゃないかっていうね、期待もあってね、ここで録音してるんだけど。
さっき結構遊んだからね。 そう結構遊んだからね。
そしてやっぱり僕らがずっと喋ってるのも異様だよね。 うるさいんじゃない?
うるさいんだと思う。だから引っ込んじゃいましたけど。
またね、出てきてくれたらいいですねというところでありまして。
猫が来たぞっていうソワソワをお届けしようっていうつもりで話し出したら、案外普通に喋り出してしまったっていう。
意外とね、ポッドキャスター始まったら、それはそれ、これはこれって感じだった。
猫との生活と準備
それはそれで安心だけどね。ここからずっと猫好きベロベロポッドキャスターになっちゃうところだったよ。
嫌だ。嫌だよ。
ずっと声悪くてね、1週間。
その、ソライアル申し込んでからさ、ケージ用意したりさ、なんかお菓子とか猫砂とか用意したりさ、
いろいろあれこれやってさ、ずっと何かしら調べてさ、すごいソワソワしてさ、
変な夢ばっかり見るしさ、もうなんか声悪くなっちゃうなって思って、
こんなに楽しみと不安とが悩まれになってぐちゃぐちゃになっていることってこれまであっただろうかって思って。
なんか、あなたと一緒に暮らそうっていう時も、あなたと席入れようっていう時も、別にここまでじゃなかったなって。
やっぱり人間はさ、言えばわかるから。猫はね。
成人、大人だしね。
大人だしね。
ある程度。
まあ猫もね、性病だからも、なんつーの、ね。
その赤穂と猫どっちがはちゃめちゃかって言ったら多分赤穂だと思うんだけど、
レベル感としてさ、自立して歩行できる人間とさ、猫だとさ、猫の方がさ、
こう、わからなさがあるからね。
あとやっぱ18世紀のパリの社交会以来さ、猫っていうのはずっとさ、
その頃当時はね、そのサロンのご婦人方をメロメロにする存在としていたわけ。
だから大体そこら辺で、そのサロンで回ってくるさ、
その屍版の小説とか、まあどんぐりみたいなことよね。
パリの社交会でだけ回ってた屍版の詩とか、小説においては、
もう、麗しきご婦人が猫にドッコんで、
そのサロンの男どもをみんな嫉妬させているよ、みたいな話ばっかり出てくるわけ。
で、なんか我々人間側もね、ずっと猫にばっかり首たけになって、
お互いの人間おろそかにしか寝ないのではないかとかさ、
そういうことまで心配してたわけ。
あまりに今のところ、なんていうの、人懐っこすぎて、猫なのに。
なんかあんだけかまってくれるとね、人間側も結構あっさりと平常心に戻れるもんだなって思ってるわ。
ちょっとこれから、しばらくは時間をかけて、
みんな落ち着いてもらえたらいいなと思うけれども、
すごい勢いでお互い落ち着いている感もありつつ、
ちょっとね、まだね、おトイレとかご飯とかね、
さっきご飯食べてたからだけだって、
ちょっとそういうのは気をつけて見ていきながらって感じではありますけど、
なんか来るまでの、なんか、
いやもうグルグルみたいなテンションから、
今すごいなんか粛々と、
やるべきお世話をやるだけですよ、みたいな気持ちになっていて、
案外やるなって思っているところですが。
猫に関する文学と歴史
まあ割といろいろできる準備はしてたから。
そうだね。
しかも結構なんかその用意したさ、ベッドとかさ、
使ってくれてるからね。
適応力がすごい。
すごい、もう全部、爪とぎとかも使ってくれてるし、
おもちゃも一応全部使ってくれてるし。
すごいよ、本当に。
あとはこの一週間に一度すごい勢いで、
猿が盲然としゃべり続けてるみたいなところに、
この気候にね、
記載に慣れてもらえれば、今でね。
まあ非常にずっと猫の話をするつもりだったんだけど、
なんか序盤に全然違う本の話は。
あれなんですが、一応無理矢理繋げるとね、
今僕は猫が来るまで具合悪いと思って、
ずっとKindle Unlimitedで、
なんか猫の飼い方、猫の気持ちみたいなのを延々と読み続けてたの。
で、その中で読んでた参考書の一つがね、これ。
信頼のブランド、名古屋大学出版会から出ております。
猫をめでる近代。
啓蒙時代のペットとメディアという本を読んでおりまして、
貝原智博さんという方が書いている。
まだね、お若い研究者の方なんですよ。
貝原さんと初の探聴なんじゃない?
ぐらいの、さすがにそれは嘘?
多分そうなんだよ。
1992年生まれ。
フランスの文化とかを研究されている方でね。
でね、猫をめでる近代という本を読みながら猫を待ってたわけ。
で、今まだ三分の一ぐらいしか読んでないんだけど、
だいたい僕は読んでいる本の三分の一ぐらいを読んでいる時とか一番上手に喋れるから、
喋ると、これはね面白いんですよ。
ねえ。
嘘くせえ。
感情史からアプローチしているんです。
猫というものと人間というものがどのように関係を結んできたか。
そしてその関係が今のように猫をベロベロに甘やかすとか、
もうメロンチャーみたいなタイプの需要に
どのような形でなっていったかっていうのを書いている本なんですね。
で、その感情史っていうのをどうやったら掘り起こせるか。
当時の感情っていうものは言葉になってないわけ。
それどうするかっていう時に書簡だったり、その当時の裁判文書だったり、
まあその絵画だよね。絵に描かれた猫だったり、物語の中から
どのように猫が表彰されていたか。
猫というのがどのようなイメージで思い描かれていて、
それを当時どういうような需要のされかとされ得るというような
想定がそこにあったのかっていうものを紐解いていくことで、
当時の猫と人間との関係の在り方っていうのを掘り起こしていくっていう本なんですよ。
まあ面白くない?
で、ちなみに猫が、この猫をめでる近代というタイトルの通りさ、
猫は近代においてようやく愛されるようになっていったっていう話がされるの。
どういうことだと思います?
近代はネズミ、よくてネズミ捕りだよね。
そうなんです。本当にその通りなんですよ。
あの、この第一部っていうのがね、猫の大虐殺を読み直すっていうところから始まるんだけど、
猫は大虐殺されてたの。
なんかいろんなところで、祭りの余興で瀕人くべられたりとかさ、
なんか親方がムカつくから見せしめにするとかさ、
ひどい扱いを受けているわけ。
で、それが笑い話として残ってるの。
で、なぜこれが笑えたのかっていう風なアプローチでこれまで先行研究では書かれてきた。
で、それは猫という表象が親方の女性関係との見立てであってみたいな話とかで研究してたんだけど、
そうじゃなくない?っていうわけ。この本の中では。
そうじゃなくてむしろ考えるべきは、
なぜこの頃笑い話だったものが今私たちにとってはむしろゾッとする話になっているのかっていうところを
紐解いていきましょうっていうアプローチから始まって。
中世、近世までの間は猫は毛皮だったり薬草と一緒に染じられて薬になってたりしたわけ。
当時の猫の在り方っていうのはおそらく今公園にいる鳩に近いんじゃないかみたいなことが書かれたりするわけだよね。
どこにでもいたしみたいなところでね。
でもそういった話がいろいろなされていく中で、
元々ネズミ捕りとして使われていて、
一番初めに猫が小有名詩として詩に出てくるのが中世ぐらいなんだって。
修道詩が自分で鉄錆で書いた茶本もあんまり残ってないような詩が一個残ってて、
そこでネズミ捕りの名人パン川パンっていうのが出てきて、
これは猫好きな人たちが非常に有名な猫を称えた最古の詩として有名って書いてあるんだけど、
マジかよって思ってるんだけどその辺知らないから。
猫界に珍山物だから。ご存知のみたいな感じで出てくるんだけど、
これを今も猫好きな人たちはそういった猫を称える最古の詩って言うけど、
冷静にこれの地面だけ撮っていくとネズミ捕りが上手いとしか書いてない。
もちろんそこに名前を付けて詩にしてる時点でそこに愛情はあったんだろうけど、
それをさぞラフリーでしょ可愛いでしょみたいなことで、
みんなと共有可能な価値観になってたかっていうとはなかなか疑問だぞ。
そうじゃネズミ捕りのやっぱり名人としての。
猫に対する見方の変遷
そっち勝手とよく走る馬とかと同じ感じの相棒。
セキトバみたいなことだったんじゃないかっていう。
みたいな話が出てくるの。
あとはルソーは猫も好きだったみたいなこと言うんだけど、
ルソーの実際の文章の中では猫について本当にほとんど研究がないんだけど、
なぜか差し得でルソーが猫のお膝に乗せてる写真、版画とかが出回って、
ルソーは猫好きで、ルソーは自由を愛してたから、
ルソーは奴隷根性のある犬なんかよりも猫の方が好きだったみたいな流言が出回る。
印象操作。
だけどルソーの日記を読むと普通に犬も好きなの。
そういう話とかがいろいろエピソード出てきながら話が進んでいくんだけど、
今僕が読んでいるところまででいくと、
これ全部で4部だてで、
一部が野蛮の発明っていって、
猫が猫というものを乱暴に扱うということが、
なぜ野蛮なことになっていったのか。
つまり近代においてだんだんと理性的なあり方っていうのは、
猫をいじめるのが野蛮なんじゃないかっていうあり方に
発想が変わっていったって話がされるんだけど、
それは非常に単純な話ではなくて、
制度が変わる。医療制度が変わっていった。
王様のもとに技術だったり知識が集約されていく中で、
もともとは都定制度的なあり方が相対化されることによって、
それまでなんかよくわかんないけどこうなんだよって経験則で話していたことを、
もう少し合理主義的に体系化していった結果、
猫を薬にする必要なくねとか、
そういう話がなされるようになっていったみたいな話が野蛮の第1部ではされて、
第2部では猫好きというものがどのように生まれていったのかっていう話。
サロン文化の影響
第3部において猫というものが世俗化するというか、
人間社会にどうなれていったのかっていう話がされて、
最後にまた大枠として猫への感情っていうのがどのように形成されていったのかっていう話がされていくんだけど、
第2部の愛好家の目覚めまで読んだのね。
第2部の愛好家の目覚めが非常に面白くて、
猫はサロン文化によってめでられるような体種になっていったんだって話がされる。
パリのルイ14世紀くらいからあるサロン文化、
プルストの19世紀まで連綿と続く18世紀、19世紀のサロン文化っていうのは非常に面白いんだよね。
そして文章を残していた人たちはどういう人だったかっていうと、おじさんたちなわけですよ。
古典、つまりラテン語に精通していて、
あらゆる古典を紐解いて自分なりに功績を垂れることができる学者肌のおじさんたちが牛耳っていたわけ。
そこに女性が公に何か文章を刊行するみたいなこと自体ありえない世界だったわけだよ。
そこにサロンっていうのができた。
サロンは女性が基本的にホストになるんだよね。
それこそホステス的な扱いを受けることもあったけれども、
やっぱりその場の主人であるってことと、
さらに男女婚後での釈放の場っていうのはサロンっていうのが初めて出てくる。
そこにおいてラテン語で学者肌で喋るおじさんっていうのはコミュニケーションが取れない人になるわけだよ。
だからそこでサロンにおいては古典の知識ではなくて、もっと別の価値観っていうのが何が必要になるわけ。
そこで何が必要とされたかっていうと、感情の機微に通じていること。
もしくはすごい素直な感情表現。
その素直さっていうもの自体が美徳になるわけ。
ただその場でおしゃべりすることが上手で、
そこで恋バナとかするときに、人の心の機微とかそういうものによってやる。
知識だけあるやつよりも、そういう気の利いた何かを入れる。
情感のこもった恋バナできるやつが優勝する。
だからインフルエンサーですよね。
みたいな人たちが出てくると。
そういう人たちが内輪で陣を回す。文振りだよ。
サロンはツイッターで。そこで交換される文振りなんだけど。
そこで女性たちが猫に猫の主観で書く詩とかをいろいろ書くわけ。
そういうのがだんだん男の人の編集長とかにAアンケート書いて匿名で雑誌に載ったりするわけ。
だんだんそこの雑誌に猫と猫の間のラブレターみたいな詩を書いてると、
そこに変化が読者投稿で来たりする。
だんだんイケてるインフルエンサーたちが、
今は自分たちの細やかな感情表現を託すものとして、
猫のありきり界隈がある。
猫ってイケてるのかもしれない。
これまでずっと外でほっといたら家庭にネズミ食べてくれるけど、
うんちとか臭いし食糧庫荒らしてくるから、
ほどほどに乱暴に扱ってないと寄せなかった猫だと思ってたけど、
猫ってもしかしたらイケてるのかもみたいな価値観がだんだん積み上がっていく。
みたいな話とかが出てきて、
だんだんサロンの文化において、
知識とか権威とかではなくて優美さとか繊細さみたいなものが
一つステータスになるっていう時に、
モンクリフの著作
そのステータスの表現する一つのシンボルとして
猫っていうものが立ち上がってきたんじゃないかっていう話がされてて、
まあ面白いわけ。
啓蒙失踪というものと並走してサロンもできてくるんだけど、
啓蒙主義的な合理主義の精神には反するわけだよね。
そこでも論争があるわけ。
ネズミを取るのが猫の有用性であり、実用性であり、
働かない猫なんてありえないから、
猫をよりよく働かせるために程よく血を肥やしていた方が
体力がついてネズミを取るよみたいなことを言う人もいれば、
いや腹を空かせて、なるべく過酷な状況においてないと
長田農耕ではネズミ取ろうとなんか思わないじゃんみたいな
タイプの人もいて、いろいろあったりするみたいな中で、
だんだんと猫を可愛がる文化っていうのが優勢になっていくみたいな話がされて、
面白いんだよ。
中で出てくるね、このモンクリフっていう人が、
この人は元々結構下の階級から出てきたんだけど、
王室にも投与されるぐらいにのし上がっていくみたいな成り上がりなんだけど、
このモンクリフって人がね。
この人が猫っていう本を書く。
猫っていう本は変な本。
歴史書の題材で注釈とかめっちゃついてる。
なんだけど、それで過去のエジプトから何かずっと、
過去から今までの猫に関するあらゆる技術を全部オーラ的に描くっていう、
マジで猫の通しだ。
これは結構その当時あったギャグ、
取るに足らないものを王業に、
歴史書、学術書のように書くっていうギャグが一個サロンの中であって、
それとして書かれてるんだけど、
異様なのはギャグとして書くんだったら注釈いらないの。
どういうことかっていうと、
本来ラテン語の文献はラテン語の字の文で引用しちゃえばいい。
みんなわかるんだから学術書を読む人なんだけど、
本文はめちゃくちゃ平位に書かれてる。
それで注釈のところで本格的なラテン語の引用とかされてるみたいな作りになってる。
これによって要するに、
一般向けの学術書というか、
みんなが読める。
主要な読者として猫が大好きな奥様方を一つのターゲットとしつつ、
これはしっかりした歴史書っぽくないですか、ギャグっすよみたいな、
男性の間のめくばせもちゃんとしてるっていう、
非常にその当時の文章におけるジェンダー規範において、
それを拡覧するような書き方をしてる。
両方に対して書いてる。
それによって、
男性は男性で、
こんな猫ごときにこんなにめっちゃ書いてて、
すげーっすね面白いっすわって言って、
抵抗んでるねーみたいな。
結構でも本格的、
歴史書としてもかなりやってるかもみたいなことを言いつつ、
でもなんか実際のところ、
これすごい女子供が読むものになってない?みたいな。
だからそういうのわかっちゃうんだよねみたいな感じで、
相手にされないみたいなところもありつつ、
逆にすごい奥様方が、
なんかこの人本当に猫が好きなんだみたいな感じで、
共感するみたいなところで、
二枚舌外交みたいなことをするわけ。
でもこれが面白くて、
この本がそういう作りになってるから、
後世から見るとよくわかんない。
今となって猫中心主義者っていう意味が、
はびこっている現代の目から見ると、
やっぱ猫って大人気だったんだーって。
その当時の奥様方の見方っていうもののほうばっかり強くなっちゃうけど、
当時から見ると、
その二枚舌であることが非常に重要だった。
で、さらにこれは面白いのが、
二枚舌の時に言ってるのは、
異京都の皆さんはずっと猫を可愛がっていました。
イスラム教徒もそうだし、
エジプトの王族もそうでした。
それに比べて、
我々ヨーロッパ人って何て野蛮なんでしょう、
っていう書き方を前半してるわけ、
歴史を紐解く中では。
でもこれって結構恐ろしいことで、
啓蒙主義家において、
キリスト教によって気に付けずに、
むしろ異京都っていう正しくないものを、
文献に巧妙に引用して、
この引用の仕方も面白くて、
ヨーロッパの研究書の中で、
無知もおまいなアジア人どもは、
猫なんかをこんなに可愛がって、
バカみたいですよねって書かれてる文献から、
引用しながら、
すごい良いように引用して、
アジアでは猫のために、
このような快適な環境を用意しており、
素晴らしいっていう書き方になってるの。
この本によればそんなに素晴らしいことを
してるらしいですよ、
みたいな書き方になってて、
非常にその読み替えが、
ダメなタイプの引用してるんだけど、
ダメなタイプの読んで、
全部をポジティブに書いて、
猫最高!
異教徒の人たちの方が正しいんじゃないか、
みたいなのを書いてて、
だけど、
それは結構、
実は啓蒙主義の初期の段階っていうのは、
西洋の自分たちの在り方っていうのを、
ちゃんと相対化する態度っていうのが、
出来上がっていたんだと思う。
だけどその後に、
植民地主義みたいなところで、
なに?
そう、今君の話をしてるよ。
ものがね、
大きくなっていった中で、
だんだんと、
一面化していってしまうんだっていうか、
その西洋中心主義的になってしまうんだってところで、
西洋中心主義を相対化するような、
啓蒙主義の在り方っていうものの方が、
霊明期にあったんだよって話をしているわけ。
これは非常にね、
おもしろい話だなって思ってね。
机の上にね、乗ってきたね。
下って。
すごい書かれてる。
すごい書かれてる、あなたが。
すごい僕が調子よく本の話をしている。
なんかちょっと、
ちょっと嫌な顔してるよ。
嫌って顔されて。
まだネギの匂いする?
あ、もう行っちゃうなって。
っていうね、
形の本になってて、
なんかね、
そんな猫について考えていくと、
その、なんていうの、
啓蒙主義時代の霊明期の頃の、
実はその西洋というものを相対化するだけの理性の中で、
透かし見えてくるし、
なんか当時の合理主義的な在り方、
いっぺんとじゃなくて、
実はやっぱりそれを相対化する場として
サロンというのが機能していて、
そこでそのきめ細やかな感情の交換みたいなものに
価値を置く在り方っていうのが
どのように原稿化されていったのか。
もしくはその男性的、女性的みたいなジェンダー規範というものを
拡覧するような文章っていうのが
猫の一つの結成点だと思う。
こんな風に出来上がっていったんだよみたいな話がされてて。
まあ面白い本なんですよ。
僕が好きそうでしょ。
面白いよ。
猫の絵の描かれ方とかが面白くて。
初めて猫と一緒に肖像画を描いたご夫人みたいなのが出てくるんだけど、
あのね、その人の猫の肖像画っていうのは
まだ描かれていなかったとき
猫の肖像画の不安
犬、子犬を参考にして猫を描いてたところから始まっている。
すごい不安になるんだよこの絵。
そう、この絵不安になるよね。
なんかね、全然可愛くないんだよ。
人面猫みたいな。
そう、人面猫みたいになっているの。
で、その猫の肖像画っていうのは
この絵不安になるよね。
なんかね、全然可愛くないんだよ。
人面猫みたいな。
そう、人面猫みたいになっているの。
膝の上に猫を置いていくこの
レディギエール公爵富士の肖像画が出てくるんだけど
この猫の絵が画期的なのがどこなのかみたいな話がされてて
あのね、猫の
生きている猫で肖像画を撮ると
猫は絶対に
そっぽ向いている。
こうやって。
肖像画を描く人の方をモデルは見ているんだけど
猫は画面の外のどっかに
気を取られているっていう描かれ方をするんだけど
レディギエール夫人の絵だったりっていうのは
なんかね、片手でこう抱かれて
画面を一緒に主人と一緒に眼差しを共有していたりすると
で、こんなことは猫はありえない。
で、これは多分子犬?
この当時の流行ってた子犬の肖像画を
トレースして猫に育て替えているだけなんじゃないかってことを書いてて
で、その証拠にこのね
皇室夫人の肖像画っていうのは
猫の死後に描かれているんだみたいな
制作面を考える
だからその犬であるもともとあった絵のスタイルを
踏襲してこういう風に描いていたところから
生きている猫をモデルにすることで
こういう風に変わっていきましたみたいなこととかを
書いてたりするわけ
で、それがどのようにその版画として複製画として
資生に売られていったかとか
雑誌に載った場合は雑誌の中で
どのように見出しがついていたかみたいなところで
猫と一緒に肖像画に映ることとか
猫のためにお墓を建てることとか
っていうことに対してどのような好奇な面があって
どのようにそれを
当時の猫好きは控えめに表明しながら
だんだんと世に通っていったのかみたいなことが
非常に精緻に描かれているんだよ
僕は今非常にラフに喋ってるから
結構間違ってるところも多そうなんだけど
とにかくそういうね、作りになっていて
これは読むとね
非常に面白いですよ
猫が好きという気持ちを
歴史の中で一度相対化していくっていうことができる
できてるかな
面白い本なんですよね
サロン文化と猫の地位
面白さと相対化できるかどうかは
別物じゃないかな
まあね
でもそのサロンなんかの感覚的なところは
それまでずっと中世、近世と猫に対して
もしくは全てのものに対して
押し付けられていた実用主義みたいな
あり方に対して
ずっと猫を肯定するときには
猫好きの人たちもみんな
ネズミ取りますからって言ってたから
でもサロン文化になって急に
なんかこの猫は
知的な感じがする
私たちのお喋りのこと分かってるみたい
とか
なんかオス猫の人たちの
あしらえ方がまるで私たちみたいじゃない
みたいなタイプの
そこに
知的な感じでそこにいてくれることが
実用性として
堂々と打ち出されるようになっていくわけ
これだから僕たちがよく言うさ
赤耳的な価値観の
がサロン文化から生まれてくるわけだよね
ネズミを取らないと
実用的じゃないっていう
その論法じゃなくて
猫だって役に立つんですよって
ネズミじゃなくて猫はそこに
知的な感じで佇んでいる
それが猫のいいところ
っていうので
堂々と
共有可能な
価値のあり方として表明できるようになっていく
それはなぜかといったら
サロンの文化において
知識だったり合理性みたいなものじゃなくて
感情の機微っていうものを優先する
和法っていうものが
そこに
成立していったからなんだって話がされていて
これを読みながら
すっげえプルースと読み返したくなって
確かにそこまで説明されると
わかるね
めっちゃプルースと読み返したくなるな
って
猫との日常
なるほどね
っていうね
5本でございます
もう来ないからさ
来ないから思い切って
一生懸命喋ろうと思って
一生懸命喋りだした途端に来て
ミヤミヤに泣いて
あなたのことを嗅いで
あなたの気をそらして帰っていくっていう
実に猫らしい風前を
早速見せてくれましたが
さっきのミヤは入ったかしらね
どうだろう
早速に入ったかな
これからはね
トライアルがうまくいけば
再来週
以降もね
こういう感じで
3匹目の
第3の
第3の初和射が
第3の初和射がね
参加したりしなかったりするんじゃないかな
本源がいるかもしれない
いう感じで楽しみにしていただければと思います
一応トライアルが終わるまではね
名前は仮のままにしてます
妖妙のままで
今後どうなるかという感じではございますけれども
名前ね
何にしようね
長らくね
過ごしていきたいですね
全然
全然参考にしないけど
いやしない
ルドンだからほぼ
うちはね
全部
芸術家の名前をつけてるから
それか最古のネズミ取り
パンガーパン
ネズミ取らないそうだよ
絶対ネズミ取らない
やっぱりルドンじゃない
アントニー・ガウディ
カメ
カメがアントニー・ガウディで
八丁味噌が
ヒエロニムスボスで
八丁味噌
八年ぐらい
もっとか
10年もの
そんな経ってない
結婚してから
だったら8年とか9年とか
八丁味噌
ヒエロニムスボスが食べると減っちゃうから
もうそろそろ無くなっちゃうんだけど
だいぶ無くなっちゃったボス
八丁味噌が
ブライアンイーノ
関与植物ブライアンイーノ
時代も土地もバラバラだから
何でもいいんだけど
ルドンか
テオヤンセンか
エンデンもかわいい
エンデンかわいい
時間泥棒をさ
時間泥棒のさ
っていう言葉の
配置の仕方自体が
サロン的なわけじゃん
そうだね
モモの場合は
現代的な
捉え方で
時間泥棒って聞くと
猫こそ時間泥棒
本当にそうだね
全部ついちゃった
でもあれは仮面の話だ
仮面が出てくる話なんだよ
そうだね
仮面を差し置いてって
まあいいんじゃないでしょうか
考えることに
どうしようってなるからね
何がいいかな
マルセルプルースト
やっぱりあとは
サロン文化といえば
マルセルもあれだよね
このあたりをね
タムネに呼び続けて
どれが一番反応しそうか
みたいなのでもいいけどね
お食い染めみたいな感じ
お食い染めって
何だっけ
気持ち勝わせて
何個か並べて
どれを取って
ワーキングするみたいな
文庫本並べといてさ
どの文庫本に
全部本あるから
っていうのでもいいかもしれない
という感じですか
ということで
このそわそわしてる気持ちが伝わるような
猫になったでしょうか
意外と平常通りだったね
そうだね
猫を寝てる近代を読みながら
猫について考え
そわそわとね
まずはこのトライアルを
無事過ごしてくれると
いいなという
感じでございますが
何か言い残したことありますか
特にないかな
来週
12月14日
土曜日
名古屋東山公園の
オンリーディングさんで
おなじみ
青木新平さんとのトークイベント
その日がトライアル最終日
きっちり2週間だった
もし様子によっては
早上がったりするだろうから
なので
当時の猫の話ばっかりします
嘘です
青木さんがアメリカ本出したりしてるので
アメリカ保守思想の話は
興味があるから
今回は変わること変わらないこと
みたいなタイトルにしておりまして
お互い青木さんも転職をされたり
劇堂の1年だったので
そのあたりの
お話をしつつ
何が変わって何が変わらないのか
みたいなところで
お話をとらさんの話
おなじみの感じでお話できればな
と思っておりますので
ぜひ
自分家に猫を迎えすると
途端に
猫にめっちゃ興味が出てきた
これまでは
SNS中に流れてきても
はぁはぁ
かわいいねみたいな感じだったんだけど
今は一個一個に
カボス館長の話
カボス館長の話
自分家の猫の写真とか
自慢しに来てください
サイン書かせるんじゃなくて
見せてくる
うちの猫です
かわいいですね
全然似てないね
猫のいに顔絵付きサイン書いてます
という感じですね
それが年代差
文振りには出ませんけれども
リーディングには行けますので
今日僕が文振りで書いた本
全部仕入れてくれたので
総量
総量
しばらく猫をめでる近代
放送しますよ
今日はうまく喋れない
読んで途中
一番喋るんだけど
まとまったように
読み終わった時に
猫をめでる近代と演じられた近代
こっちは国民と自治体のパフォーマンス
また近代を連れてる
やっぱり近代って面白いですね
近代も面白いし
近代以前も面白いんだけど
そこは明確に書けて分かれてないんですよ
これ以前ってまた全然
こんなに違うんだ
何が違ってしまってるのか
一番分かりやすいのは近代
近代において
猫もネズミを取るので
実用的ですよ
っていうのが
実用的ですよっていう文章が
たくさん残ってるってことは
当時こう潰してたことしか思われてなかった
あとその
何か有用性を示さないと正当化されない
ような存在だったみたいなことが
透けて見えていくわけで
そういうようなテキスト解釈が
一番スリリングであるわけですよね
ってところが僕は非常に面白い
そこは非常に面白いし
アメリカが面白いのは
近代は悲しくない
そこが悲しくない
悲しくない
だからそのあとの
2つを日本と
日本とアメリカと
引いてみていくのが
今の入りの
6年以下でもブームかなと
思います
そうなんですよ
もう3日後だ
爆竹も
この後、年内で2本のイベントがあって、
私たちが行くのも。
で、あなたイベント行くことになるでしょ。
この年末もさ、なんか多分。
年末どうしようね。
どうしようね。
D.D.T…
あ、そう。D.D.T行きたい。
23日28日とか。
そうそう。でも人差し言葉早めにしないとね。
ね。
考えてどうしようかなとか言ってる間にすごい時間が経ちつつ。
そう。
だって今日の工業とか売り切れてる?
マジかして。やべえじゃん。やべえじゃん。
盛り上がってて。
やべえじゃん。
やっぱ年末年始はプロレスの季節なんですね。
全力で頑張る人がいるじゃないですか。
もうちょっとね。
来年もね。1.4は行くと。
1.4が来ますから。
1.5はちょっと。
はい。映像で見ます。
解説が欲しい。
楽しみだな。
猫の来訪と日常の変化
そう。でも今年も大変だったな。
プロレス…
あ、そうか。辞書お疲れ様でした。
あ、もう1本あるけど。
もう1本あるけど、もうほぼ終わりました辞書が。
ほぼ終わりました辞書が。
やったー。
やったー。
お疲れ様でした。ほんとに。
シェイ。
打ち上げしようかな。
打ち上げしよう。マジでそれは。
むしろそれは僕があなたに奢らないと。
いや、いいよ。
生活を圧迫していったから。
うん。それはそうだけど、いいよ。
まあ、うん。でもまあ、仕事抜けたのはあなただったから。
うん。
辞書はしばらく。
あ、でも結構のどめたさげてみると楽しかったなって思う。実は。
うん。だから証拠でもなくあるかもしれないし。
いや、そう。てかね、近代のこと考えてみると、
日本においては近代文学ってさっき言った通りなんですよ。
そりゃそうだな。
で、この近代文学っていうのは、要するに言語一致的なものっていうものを考えていくと、
まあ、面白いね。
私が発見とか。
そうそう。空大工人ね。
非常に面白い。で、その文学から見ていくと、
今の小説っていうのをどう見るべきかみたいなのもまたちょっと面白くて。
やっぱりね、僕はそういう、そこの小説感。
まあ、もうちょっとスケール、幅のある。
そうそう。
時代感の幅のある小説。
だから、現代小説をずっと読んでて思ったのは、
なんと僕はもっと昔のというか近代からの小説を見てて、
気に入らないといけないと思う。
で、それは結構ね、自分の中で大きく良かったなって思ってるところなんで。
折れなくなったらやんちゃうね。
ねえ、ちょっと下ろしてあげる。
はい。
なんか大変そうだから、この辺が終わりにしましょう。
はい。
はい、プレイティングクラスをお会いしていただきありがとうございました。
58:39

コメント

スクロール