1. ポイエティークRADIO
  2. 第六十四回 「二人のデカメロ..

2021年9月15日にON READINGで完結を迎えた「二人のデカメロン」。ポイエティークRADIO ではその前半をお届け。ルチャ・リブロの青木夫妻の新刊『山學ノオト2(二〇二〇)』(H.A.B)のお話から始まっていきます。オムラヂで配信される後半もお楽しみに!

00:04
はい、こんばんは。
こんばんは。
どうしましょうか。
じゃあ一応、あのこれ。
違うか。
どっちなんだろうか。
今日は特にジングルはいらないですね。このまま始めちゃいましょうか。
そうですね。
はい。
ジングル持ってんですか?
持ってないです。
持ってないですよね。
はい。
まあいいでしょう。
はい。
えーと、
あ、青木さんです。
えーと、青木と言います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい。
ルチャリンブローというのを、人文系施設図書館ルチャリンブローというのを自宅を、東吉野村という奈良県の山村でですね、自宅を開いてやっております。
そういうものです。
はい。
で、えー、はい、じゃあ始めます。
はい、柿内正午と申します。よろしくお願いします。
おはようございます。
おはようございます。
えーと、僕は会社員で、でしてね、会社っていう、あの、わかりますかね、ちょっと変でこな組織みたいなのがあるんですけど、そこに属して日々生活をしているものです。
で、えーと、フルストの失われた時を求めてっていう長い小説を読みながら書いていた読書日記を、
えーと、この、今回出る山田くんのことと同じHABさんから出していただいてっていう応援で、えー、おしゃべりに参りました。
はい、えーと、今絶賛出てる文学界にね。
あ、そうですね。
えー、もう文学界っていう世界の中で一番、今、輝いている。
すごい敵を作りそうになりましたね。
僕だってもう、この表紙の中で知ってる人はだって、坂口強兵か掛け合い将軍かですもんね。
うわー、怖いなー。
あ、ヨナハさんですというか。
まあ、この文学界のこの、今月に出た文学界がフルストの特集なんですけど、
フルストを読む生活特集といったら過言ではないだろうという形になっておりますので、もしよろしければ皆さんはぜひぜひチェックしてみてください。
早速先に宣伝しちゃうっていう。
先にしといた方がいいんですよ。
まあ、その方がいい。
まあ、皆さんも後になると疲れますからね。
集中力を一番持っているときに大事なこと。
そうなんですよ。
なので、えーと、皆さんにももう、あの、お手元にあるのかな。
ハブの冊子っていう冊子が、ちっちゃな冊子があると思うんですけど、
それは、あの、ハブさんというですね、えー、出版社さんですね。
で、なんて言ったらいいんだろう。
ハブさんって出版社なんですけど、
本屋さん。
本屋さんでもあるんで、そのハブさんで本を買ったり、あとはバックナンバーはハブの冊子単体で買えるんですけど、
そういうような感じでですね、ハブの冊子っていうのに我々寄稿してるんですね。
03:05
で、そのハブの冊子というのをご縁にして、2人は出会ったということではあるんですが、
その山岳ノートって僕らが出させていただいている、今回2なんですけど、
山岳ノートも、えーと、あれですね、ハブの冊子で連載中を、連載中でございますということですね。
はい。
で、日記っていうのかな、ちょっとこれ僕、日記とあまり実は縁がないっていうか、昔からそんな日記を読む習慣もなければ書く習慣もなくて、
っていう人間でして、で、なんでそのハブの冊子で日記を書いているかというと、
僕の記憶が確かなのが、書いてくれって言われたからなんですよね。
だから、なんでそもそも松井さんがそういうふうにね、日記がいいと言ってくれたのかちょっと分からないんですけど、
日記を書いてくれと言われたので、書いてみたよ。
で、その1が山岳ノートっていうやつで、2019年の日々を綴っているんですけど、
だからね、2019年のやつはね、山岳ノート1のやつは結構手探りで、
そうですね。エッセイの割合も多いし。
そうそうそう。そうなんですよ。
それはその、山岳日誌っていう名前で、ハブの冊子では連載してて、
で、その、だからなんていうんだろうな、なんかどうやって書いたらいいか分からなかったんですよね。
で、ブログって僕続かない人間で、続いてるのはオムライスラジオっていうインターネットラジオをやってるんですけど、
オムラジだけ続いてて、オムラジは週1回大体60分配信して、7年目とかで。
すごいですよね。
そうなんですよ。だから続くものと続かないものの差が激しいっていう。
だからこの日記もあと何年どんどん続いていくわけじゃないですか。
そうだといいんですけど。ただこれは僕なりに、これもあれなんですけど、日記を書こうと思うと書けないって僕は思ったんですね。
で、じゃあこれどうやって書いてるかっていうと、ツイッターでつぶやくっていう。
で、ツイッターでつぶやいたものを締め切り前に急いで編集するっていう。
そういうことで日誌っていうか日記を書いてますね。
だからプルストーでも生活は、この前もそんな話したかもしれないけど。
そうですね。この話前だいぶしたので飛ばしましょうか。
オムラジの過去回読むと日記についてどう書いてるかっていう話はガッツリしてたと思うので、
06:02
今日はちょっと新しい話をします。
ありがとうございます。
2冊目で山岳ノート2っていうタイトルで、今日がここで買うのが一番早く買える新刊なんですけど、
2と言いつつ日記なので、別に1から読まないといけないものでもなく、2からでも十分面白い本だなと。
もともと山本の松井さんから事前にデータでいただいていたので、
それを読みながら今皆様の椅子に勝手に置いた読書メモを書きながら読んでいってたんですけど、
まずめちゃくちゃいい本だなって思いました。
嬉しい。
まず今日初めてものとしての良さを知ったので、そこはまたこれからなんですけど、
やっぱりそれこそ先ほど青木さんがご自分で申し上げていたみたいに、
1の頃ってやっぱりまだちょっと試行錯誤というか、
その試行錯誤っぽさが無理やり夏休みの終盤に急いで仕上げるという感がちょっと強かった。
これは2の中でも言及があって、こっちもそろそろ締め切りだから全部書かなきゃみたいなことを書いてはいるんですけど、
でもやっぱり1の頃の方がそういうちょっとその日記でどう面白いものを書けるんだみたいなところを、
本人も含めてあんまりわからないまま書いていた感じがあるなと思っていて、
だからこそエッセイの部分で研究ノートみたいな形で結構たくさんのエッセイを1には書かれていたじゃないですか。
あれも含めてはすごい面白かったんですけど、
2は既に日記の部分で研究をされているなというふうに読んで、
エッセイがその分少なくて今回3、4本くらいですよね。
4本か。
僕とあとうちの奥さんが2本。
2本ずつ読んでます。
4本。
エッセイとしてはかなりさらっとしているんですけど、
エッセイに書かれている内容を実は日記の中で生活の中で既に停止されていることだったりするんですよ。
僕このメモを書きながらこんなこと考えられるなみたいなことをいろいろメモしていたんですけど、
答え合わせのようにその後にくるお二人のエッセイを読むと同じようなことがちゃんと形にまとまって書かれていたりするんです。
本当に今回はルチャー・リブローの中で青木さんたちお二人が生活をして、
その生活の中で浮かんできた問いに対して一つ仮の答えをエッセイという形で示していくという、
本当に物事を考えるというのはかっこつけてよし今から考えるぞみたいなものではなくて、
普段生活している中でポッと出てくるものに対して、
09:03
じゃあこれってどういうことなのかなというのを形にしていくという作業なんだなというのがすごい分かるというか、
日常がそのまま学びにもなっている、制作にもなっているみたいなルチャー・リブローのあり方が、
すごいこの本という形で体現されているなと思って、
これまでで一番生活と学びの矛盾ない同居の仕方みたいなものが現れている本だなと思いました。
ありがとうございます。
本当に自分で言われながら面白いと思いました。
前のは本当にツイッターの継ぎ接ぎ感があって、
荒削り感とか、
それは外見の部分と合わせて良かったかなと思うんですけど、
今回はちょっと角を取ったり、角を出したりという言い方をしているんですけど、
ちょっと人為的なことがあるかもしれないんだけど、
ちゃんとどんな生活をしていて、生活の中でどんなことを考えていて、
読者の人というのをもうちょっと意識する余裕ができた。
それこそ1の頃は普通に日記として書かれていたけれども、
日記と一口に言っても、自分だけが読み返すための書く日記と、
人に読まれること前提の日記って多分ちょっと性質が違っていて、
読まれる前提の日記になってきているって感じなんですよね。
多分そうなんじゃないかなと思いますね。
だから読みやすい。
いい意味で読みやすいかなとも思いますね。
本当にこの本めちゃくちゃいいなと思っていて、
ここに1個イベントで話すって強調している唯一のページがあるんですけど、
8月8日の内容大事って書いてある。
イベントで話すって書いてある。
28ページなんですけど、読んでいいですか。
8月8日土曜日の日記なんですけど、
本を読むより話を聞いた方が早いと思っている人がいるかもしれないが、
間違いだと思う。話を聞いて分かることと、
本を読んで分かることの深度は明らかに異なる。
ただ人生は有限なので、どの程度分かりたいかによって
使い分ければいいと思う。という風に書いてあって、
今日のイベントでまずこれだなという。
このトークが山岳ノートにまつわるトークから始まりはするけれども、
12:00
山岳ノートというか本に関しては特に何一つ語り尽くすことはできないんだと
というところが、まず今日の僕が伝えたいことかな。
これってすごい、単純に本買ってくださいねみたいな
アキンの精神で言っているわけではなくて、
青木さんってもともとポッドキャストから始められているじゃないですか。
そうですね、本を書くよりも前に。
やっぱり語ることと書くことというのが一応別の政策のものとしてある。
このトーク自体も読む生活、書く生活、しゃべる生活と書かれているけれども、
その三つの読む、書く、しゃべるって
それぞれ独立した行為のようでいって相関関係にもあるんだけど、
でもやっぱりそれぞれに出てくる結果って全然違うよねみたいなところを
やっぱり青木さんの場合は5本の形とポッドキャストというところで
両方往復しながらやっていっているんだろうなっていうのが
やっぱりもう一個大事なところかなというような感じがしています。
なんかちょっとそれに対して正面からの答えじゃないかもしれないんですけど、
僕この日記を、日記っていうのかな、日記か。
8月8日のこれ書いた理由っていうか、
今なんか思い出したんですけど、
YouTubeで1.5倍速にして何かを知識を得る。
それを学びだと思ってんじゃねえぞっていうのが、
それはね、一言で言うとそういうことなんですけど、
それはなんかちょっと自分なりに言いたいというか、
とはいえやっぱり例えば、
ご自宅でお母さんおばあちゃんの介護をしているとか、
そういう方とかね、あとはお子さんがいるとか、
でもやっぱりこういうのを知りたい。
その気持ちっていうか、その知識欲であったり、
仕事で必要なのかもしれないし、
そういうものを一問大人に
そんなことしなくていいだろうと言うわけでは決してないんですけど、
っていう思いと、でもなんか、
いやそんな本、本なんて遅いじゃん。
本で知識を得るなんて遅いじゃん。スピードとしてっていう。
YouTubeでいいじゃん。
で、考えてる奴がいたら、
いや違う、そこだけです。
仮想の敵がどんどん立ち上がってくる。
15:02
そいつに対して言いたいんですよね。
だからそれは全然違うもんだから。
で、いいよと。YouTubeで1.5倍速で、
僕もありますよ。
僕もだから、産村に暮らしてとか言ってると、
あ、さぞね、悠々寺的なんですねと。
暮らしの手帳とか載ったんですけど、
それ見たりして、いいわね、いい生活ねとか言われるけど、
僕もね、サラリーマンで、
ちゃんと働いてってやってる。
働き者ですよね。
そういう場だと、やっぱり研修を受けなきゃいけないので、
それを1.5倍で見ますよ。
おめでとう研修振り返りとか書いてますけど、
そういうものと、本であったり小説でもいいんですけど、
で、時間をかけて、やっぱり学ぶってあったり、
本を読んでその世界を味わうっていうものは全然違うだろうっていうのを
言いたかったという。
それが背景になりますね。
そういうことだったんですね。
8月8日は。
すごいバッチリなところを選んでくれて。
特に僕最初いただいたデータで、タブレットで読んでたんですよ。
僕はあんまり電子書籍に対して、
そんなに自分から積極的に読まないんですけど、
面白かったのが、タブレットで見てると、
やっぱりデータなので、書かれてることが情報として受け取るんですよね。
で、本を情報として受け取るって思うと、
結構効率いい方がいいに決まってるんですよ。
なんですけど、そもそもこういうフィジカルで、形で本で出てくると、
やっぱり単なる情報じゃないんだよな、本っていうのはっていうのを、
改めて思うというか、
ハブの冊子で読んでたときと、ディスプレイで読んでるときと、
多分この本の形で読むときと全然感じ方が変わってくるだろうな、
というふうに思っていて、
すごい単純な話で、やっぱり声というツールと、
ディスプレイというツールと、紙というツールって、
それぞれ全然違った体を持っているので、
それぞれに違った印象だったり、違った効果を自分の方が受けるのって、
なんかよく考えたら当たり前のことなんだな、みたいな感じは、
すごい納得したんですよね。
僕はすごい、優位物論的に本が好きなんだな、
物の形として本が好きなんだな、
今この展示でやられているものも含めて、
見ながら改めて思いましたけど、
四角くて、分厚くて、いいよね、というか。
物質とか物体というのを持っている力ってすごく大きくて、
18:01
情報って基本的に発信者のものだと思うんですよ。
だからすごく届きやすい。
届きやすいってどういうことかというと、
発信者の意図が、意図のもとに届きやすい。
ある意味誤解が少ない。
だけど物質になったときに、誤解というか読解の幅がすごくある。
だからそれぞれの受け取り方ができるんじゃないかなと思って。
だから本屋さんに行くと、
ディスプレイで仕方がないけど、
ウェブショップでこんな本売ってます?
それだけでも並びによって本屋さんの、
スタンスであったりっていうのはもちろんわかるわけだけど、
それは物質としてどう置かれてるかとかによって、
本屋さんが何を言いたいのかとか、
逆に何を言いたくないのかとか、
っていうのが全身でわかるっていうのはすごく大きくて。
ここにも書いてるかな。
この本の帯に、
僕たちの日常を取り戻したいんだけど、
そもそも日常ってどんなんだったんだろうっていう。
それもこの日記の中の文章でもあるんですけど、
日常とか生活っていう。
僕らは山村に暮らして、
自宅を図書館として開いて、
一番感じるのは、
これも仕方がないことだけど、
一泊二日キャンプに行くってことと、
山村に暮らすことって全然違うんだなっていう。
全然違うってのは別にキャンプはダメで、
山村に暮らすことはいいとか、
そんな簡単な話じゃなくて、
でもやっぱり違う。
それはやっぱり時間だなっていう。
さっきの話で言うと、
本屋さんのウェブショップを見てるっていうのと、
ウェブショップを2時間見てるっていうと、
本屋さんに2時間いる人がね、
そういうのだったら全然受けてるパワーが全然違くて、
それがいつ受けたものが、
いつ自分から出るかっていうのは分からなくて、
何らかの時にあれってこれだとか、
何らかの時にどのタイミングか分からないけど、
何らかの時にバッと出てくるっていうのは、
そもそも読解の幅が広い物体を見てたり触れたりしてると、
蓄積が、蓄積って情報の量になっちゃうんですけど、
量だけじゃなくて質としても全然違ったものが蓄積されてて、
やっぱりそれって生きる力にもなるし、
21:05
やっぱりそれがあるのかないのかと、
全然生活の豊かさが全然違うっていうのは、
やっぱり情報の質と量の豊かさが、
実際に会う、会って話す、
こういう物体に囲まれるっていうことを通じて、
担保されてるんだなっていうのに、
特にコロナ禍になって感じることではありますね。
それこそコロナ禍だと酸素に身を置くっていうことが、
非常に大きいんだって書き方をされてたと思うんですけど、
それすごい大事なことというか、
今日のこのイベントの前に僕らは、
お互いのポッドキャストで8回分、
すでに8時間分をしゃべったんですけど、
オンラインのおしゃべりの中でも、
割と有限性みたいなことをキーワードにお話をしてたんですけど、
青木さんのお話の中で有限性ってめちゃくちゃポイントだと思っていて、
具体的に物であったり体として対峙してない物に対してって、
非常に原理主義的になりやすいんですよね。
実際に生身であったり物として接してると、
実際に自分の体の限界っていうのがあるので、
割と程々とか程度の問題にしやすいんです。
現実問題って実際どうなんだっけってところを考えるには、
やっぱり自分の身を晒してるってことが非常に大事で、
例えばさっきのYouTubeの要約だけで本読まないやつって、
今いないじゃないですか、この場合。
その仮想的っていうものを作ると、
僕らはいくらでも可烈にその人のことをお聞きできちゃうんですよ。
いないのに。
でもそれって今すごい起きがちなことというか、
家になるべくいなきゃいけないんだよなって思ってる時に、
すごい起きがちな、原理主義的な攻撃性を持ちやすい時期なんだろうなって感じもあって、
例えば今みたいに皆さんの前でおしゃべりしてる時とかで、
別にそういう人たちではないしはそういう人たちだとしても、
一応こうやってお話聞いてくれてるしなみたいなところで、
敵じゃないっていうことにまず気づけたりするじゃないですか。
そうなると特にそこからあいつはわからないとか、
あいつのああいうところが信じられないみたいなところで、
自分の中でどんどん仮想の自分とは反対する原理みたいなものを、
無理に大きくしないで済むっていうところが、
やっぱり実際生身でその場にいるとか、
自分の体の範囲内で物を考えるみたいなところがすごい大事なんだろうなっていうのを、
やっぱり青木さんのお話とか5本読んでると、
24:02
改めて思い出せる部分かなって感じがするんですよね。
やっぱり体が弱いっていうのかな。
やっぱりそこは励内さんと僕らの共通点というかところで、
文学会の中でも大坂さんとお話されてたけど、
やっぱり体だけじゃないんですけどねっていう話までしてたけど、
弱さっていうのをなんでしょうね。
今まではやっぱり体が弱くても思想が強い人がいたっていう話があって、
ニーチェとかだったらめっちゃ体弱いのに超人みたいなのを言っちゃうみたいな。
「言ってることめっちゃ待ったじゃん。」
阿部:「そうそうそう。そういう人もいるんだけど、
やっぱりそういう意味では体が弱いから思想も弱いっていうのかな、
分からないですけど、そこの体に寄り添った思想っていうのを作っていく必要が、
思想とか言葉を作っていく必要があるよねっていうところがね。
その弱さに寄り添うっていうのは原理的にならないっていうところなのかなと思うので。
「格好つけきれないんですよね。
どれだけ立派なことを言ってもやりきれないまま疲れちゃったりとか、
頭痛くて今日は無理とか、
なんかそういうの普通にあるんだよなっていう前提に立つと、
あんまり立派なことを言いっぱなしにできないんですよね。」
阿部:「いやー、僕格好つけれない、
まあ分かんない、母から見たらお前十分格好つけてるわって思われてるかもしれないですけど、
主観的な格好つけれないっていうのは、
僕いつバナナの皮に踏んで滑るか、いつ滑るか分からないって思ってる。
だから格好つけてたら、格好つけてるやつが転んだ。
そういうことで格好悪いじゃないですか。
だからそういう意味では格好つけなのかな。
阿部:「転んだとしてもダサいことにならない程度に自分から最初からコントロールしてる。
そういう格好つけなのかもしれないですけどね。
格好つけ問題は結構難しいですよね。
特に日記みたいな形で書いてると、毎日格好良いわけじゃないじゃないですか。
毎日の格好良くなさをどこまで書かないかとか、
あえてどこまで誇張するかとかって結構、
秋さんは結構シンプルに。
どうですか?
知ってますかね。
かっこいいんだろうか。
でもスマートだなってそれこそ思いました。
生活の臭みみたいな部分が割と上手に消してるというか、
それこそ職場でムカついたとか、
そういうことは書かない感じがあるなと思って。
そうか。
職場でね。
確かに職場のことは全然書いてないんですけど、
27:03
職場でムカつくことっていうのはあるっちゃあるし、ないっちゃないんですけど、
一つは就労支援っていう仕事をしてるんで、
結構個人情報的に、
すごいセンシティブなので、
なかなか書き方がわからないっていうところは、
一つはね。
なるほど。
ありますね。
これも前に、
二人のデカメロンの第何やらとか教えてたけど、
マスクさんのお便りで、
書かないことってありますか?みたいな。
ありますよね。
僕、書かないことめちゃくちゃ多いんですよ。
めちゃくちゃ多くて、
じゃあどういうことを書いてるのかなと思ったら、
書けることを書いてる。
だから、なんていうのかな。
そうかそうか。
あえて選択してるというよりも、
書きたいことはたくさんあるんだけど、
いろんな問題により、
自分の技術的な問題もあるんだけど、
書けないっていう。
それで書けることを書いているっていうところですね。
なるほど。
面白いですね。
僕は文字の方をカッコつけないで済むんですよ。
だいたい全部書けちゃうんですよ。
こうやってしゃべってると、
今もカッコつけてるじゃないですか。
足組んでるし。
お前ふざけんなよ。
足ちゃんと揃えてろよ。
カッコつけてるじゃないですか。
しゃべってるとカッコつけちゃうみたいなのを
自覚してるからこそ、
文字だとなるべくそのカッコよさを
台無しにしてやろうと思ってるんですよ。
逆に文字でたまにカッコよいこと書けちゃうと、
こうやってしゃべってる時の
頭があまり良くなさそうな感じが
滲み出ればちょうどバランスとれるみたいなところで
お互いに自分のカッコつけを
声と文字と両方で
別々の方向で足を引っ張り合ってる感じがするんですよね。
感じがするっていうのは
自分でたぶんそういうことなんじゃないかなと。
分析すると。
そうです。
ちょうどたぶん1週間くらい前の日記に
おねしょうしたっていう話を書いたんですけど
あれ結構自分の中で
日記だったらこれ書けちゃうんだと思ったんですけど
今ちょっと言う時ためらったんですよ。
そうね。
やっぱこれなんですよ。
今言えちゃったから
すでにまた1個なんか僕の中でハード下がっちゃいましたけど
おねしょうの話は日記には書けるけど
しゃべれないっていう
しゃべっちゃってるから
特に何の説得力もないんですけど
そういう自分の中で
訳があったのかな
感じはするんですよね。
いやーそれは確かになー
どうだろう
そうかー
やっぱり書く時って
自分の中で
編集者というか
自分の中の読者と
自分の中の編集者と
30:00
自分の中の書き手とかいるわけじゃないですか。
書き手としては何でも書いちゃうから
おねしょうのこと書くんですよ。
編集の人がちょっとそれどうかなーみたいなことを言うんですけど
読者はなんか割と読めるぞみたいなことを
言ったってなった時に
言ったれって言う
その言ったれってなる瞬間の
自分の中の内なる編集者の
それどうかなーっていうのを
ぶっちぎる時の快感みたいなのを
僕は書く時に結構意識している感じです。
へー
すごい
いや僕だからそこはもう
僕の編集者は相当厳しいっすね
いやだからそういうことだと思うんですよ
だから青木さんはそこの
もともとそのお仕事の
事情だったりもあるから
一概にその
青木さんだけのって話じゃないかもしれないけど
いろんなとこに
気を使わなければいけない編集者の
権限が結構でかいんだろうなっていう
そうですね
やっぱり読んでても
そうですね
それはすごく
そうそうそう
思うし
だからこういう
なんていうの
トークイベントとか
の方が
あの野郎とかっつって
言っちゃうみたいな
でも
あの野郎そんなにない
まぁあるかもな
わかんないけど
そんなにはない
そんなにないと思うんですよ
そうですね
でそれは
僕がやっぱり
なんていうの
文章がそんなにやっぱり
自分の気持ちとか
考えを表す
本出した人間が言うことじゃないけど
メディアじゃないんですよね
バチッと
そんなに来ないっていうか
はいはいはい
それだったら
ラジオとか
トーク
イベントであったり
っていう方が
自分の感覚と
バチッと来てる
はいはいはい
とこはありますね
だけどまぁ
だけどまぁというか
本書くっていうのは
最近ちょっと楽しいかもしれないって
本で文章書くのも
面白いなって
思ってはいますけど
僕はやっぱり文章の方が
これも一緒かもしれないけど
なんていうかな
うーん
言えちゃうって言えちゃうのかな
でもほんとはもうちょっと
いや
あのー
こうなんだけど
でも
さっきの話みたいに
YouTube1.5倍で見やがって
だけどやっぱり
いろんな事情もあるよね
っていうのを
もうちょっと
自分の
実感
実感に近い形で書きたいんですよ
でもだから
技術的な問題だと思うんですよ
技術的な問題で
その技術がないっていう
どうなんでしょうね
それこそ
何だろう
物の考え方って
言語だけじゃないじゃないですか
なんていうのかな
頭の中で
何か考えてるぞって時って
頭の中に
わかりやすく
文字がずっと流れてるとか
言葉がずっと流れてるわけじゃないじゃないですか
もっとなんか
いろんなものが
混線してるというか
なんかこう
イメージ的なものだったりとか
33:00
音だったりとか
なんかこんな感じ
みたいなものだったり
っていうのは
割とごちゃごちゃしてるので
それを
言葉っていう
単線のところに
落とし込むって時には
何かしら
失われるものってあるので
やっぱり喋るもの
喋る時の
あり方と
文字になった時の
あり方も
やっぱりちょっと違っていて
僕はそこで
文字の方が
まだこの
頭の中にある
もやもやの形に
近いものが
作れる
感じが
するみたいな
自分の
頭の状態と
その
道具の使い方の
差なのか
青木さんそれこそ
喋りというか
声の方が
まずはまとめ
なんかそれこそ
前の
先に喋ってみてから
それを文字起こしする
みたいな
書き方をする
みたいなことを
おっしゃってました
それでも
失敗したんで
やめましたね
やめたんで
やめましたね
いろいろ
試行錯誤はして
多分
僕は
その文章に
しちゃうと
これ
またね
あの
文学界の
話になっちゃいますけど
多分
穂坂さんとの
話でも
してたけど
どうしたって
プルーと
プルーその
失われたときを
求めて
10巻くらい
すんごい長いんですよね
いわなみだと
14巻
14巻
でも
始まりがあったら
終わりがあるじゃないですか
そうなんですよ
だから僕
そこが苦手なんだと思うんですよ
文章にするっていうのは
始まりがあって
終わりが
必ずあるでしょ
うんうん
でも
言葉だったら
いやー
まあね
終わらない
なるほど
それちょっと
納得できました
なんだろう
やっぱり
文字にすると
その結論を出さなきゃ
いけないじゃないですか
僕らって両方とも
AかBかって言われたら
Aはこうだよね
Bはこういうとこあるよね
Cっていうのも
実はあったりするよね
そこで
なんか
どれでもないのもあるよね
みたいなことを
ずっと言い続けてるじゃないですか
だから
それって文字にすると
こいつ結局
何言いたいんだって
なっちゃう
みたいなところが
強くなっちゃうから
何かしら極端
何かしら分かりづらい
Aというものがあって
Bというものがあります
実はCというもの
あるかもしれませんね
みたいな形で
綺麗に
まとめて
綺麗に
まとめなきゃいけない
そこが
嫌なことなんですよね
そうなんですよ
なんか
そんな気がしますね
文章を書くっていう
技術的な問題も
去ることながら
ちょっとやっぱり
終わらせたくない
着地させたくない
みたいな
だって
生活って
終わりないじゃん
そうですね
それでも
日記っていいですよね
終わらなくていいから
それはそうかもしれないですよ
エッセイが
今回ちょっと
少なめで
ちょっと
少なめで
ちょっと
エッセイが
今回ちょっと
少なめで
その分の
この方の
風通しの良さみたいな
繋がっているのかな
と思ったし
逆に
その分
少ない
エッセイが
一個一個
めちゃくちゃいいんですよね
やっぱり
それは
日記に書かれていたことを
ちゃんと受けているから
っていうところで
日記なんだけど
やっぱりちゃんと
開かれている感じがするんですよ
なんか
一個の結論っていうよりは
それこそ
この一番
36:00
端末にある
エッセイとか
青木さんの
話と
ある意味
自分語りと
寅さん語りとか
一緒になっているわけです
そこすごい
ちょうどいいというか
そのパーソナルな部分と
社会的な部分と
っていうのが
混ぜ一体となっていて
ある意味
すごい
ヘンテコな文章じゃ
ヘンテコな文章なんですけど
なんかそれ
すごい
日記っていうものを
一つある意味
まとまった
もうちょっと
作品寄りにしていくと
こういうエッセイになっていくんだな
っていう風に
結構納得した感じ
なんですよね
うん
そっか
ありがとうございます
いろいろ
すごいたくさん
書いてくれているので
これだけ読んでも
多分何もわからないので
ページがちょっと書いてあるので
ありがたい
ダラスノートの本を読みながら
このページでこんなことを
考えたんだな
みたいな
ものになっていくと
僕ちょっと気になったのは
144ページ
素人と修復は違うっていう
これ何だっけな
これ何だろう
144ページ
144ページ
あっ
はぁはぁ
はいはいはいはい
これ僕読んでみましょうか
9月5日の
素人が口出すなんて
ほんと良くない
言葉を発する時のマナーには
気をつけつつ
素人が堂々と思っていることを
言える世界に
あと関係ないけど
ビジネス界隈でされがちな
不合だけの会話が苦手
ここほんと関係ないですよ
そういう会話なら
チャットとかLINEスタンプ
十分じゃん
でも全然関係ないように見えて
結構関係あるなと思っていて
素人と修復は違うって
書いたのは
素人って言っても
みんなちゃんと物考えてるし
普通に一生懸命生きてんだよ
っていうのは
普通に当たり前のことじゃないですか
なんだけれども
焦れるんですよ
怖いことに
仕事とかがしてると
例えば自分のマネージャーとか
バイトもして
人を管理する
立場になると
とにかく
構成的で
あってほしくないんですよね
不合だけの会話にしてほしいんですよ
企画に沿って
このお約束ごとの中だけで動いてね
そうじゃないと
もうちょっと面倒見きれないから
って瞬間って
素人が口出すなっていうときって
割とその
管理者目線なんですよね
俺が管理しやすいように
変なこと言わないでね
ちゃんと
この決められたルールに
のっとって
円滑にこの場が回るように
おとなしくしててねって
意味だと思うんですよ
それに対してやっぱり
僕も
特に何の専門家でもない素人なので
こうやって好き勝手ちゃちゃ喋りますけど
そういう
とはいえ
一人一人全然
思惑が違って
39:01
一個にまとまるわけない
組織の中で
まとまるわけないじゃん
っていう
気持ちはやっぱり
一個持ってて
結構ここも
また結論出さずに
ふわふわしますけど
両方分かるんですよ
一人一人かけがえのない個人である
そこに対して
自分が個人として
その組織に対して
どう役に立ちたいか
どういう価値を
提示していきたいか
っていう
ものもやっぱり
一人一人全然違う
それで
すごくかけねなしに
全員が全員
素晴らしいのと
いうのと
もう一個
監督側から
ただの
言われたことだけ
やっていてくれ
っていう
気持ちと
っていうところで
やっぱり引き裂かれ
ガチなんですよね
だからやっぱり
この素人が
口出すなって
言われる
言いたくなる瞬間も
分かれば
それを言われた時に
カチンと来るっていう
感覚も分かれば
っていうところで
すごい
二つあって
ここで
素人と主婦が
違うって書いたのは
それこそ
例えば
テイクニュースとかも
含めて
なんでそんなこと
信じちゃうんだろうとか
愚かな大衆というのは
なんでこんなに
嘘に
染まってしまうんだろう
みたいなこと
考える時って
まるでその人のこと
なんだろうな
ある意味
素人考えで
変な方向に進むから
そういうことで
騙されちゃうんだ
みたいな
方向に考えがちですけど
素人であることと
愚かであることは
全然別のこと
だからね
っていうところを
なんか
言いたくなったんですよね
うん
どんどん
言い切ると
関係ないとこ行っちゃいます
いやいや
そうだよね
そうなんです
素人
そうね
だから
どうなんでしょうか
僕らは
特に
崖内さんなんかは
街一番の
そうですね
街一番の素人
ということを
好きリスペクトで
名乗ってますね
名乗っていて
僕も
素人っていうか
なんていうのかな
ちょっとかっこよく言っちゃうと
ディレッタンディズムっていう
かっこいい
かっこいいでしょ
うん
アマチュアリズムとかも
アマチュアリズムって
なんかちょっと
潔白
青年潔白みたいな
プロとアマチュアみたいな
感じで
言われちゃうんで
ちょっと違うんですけど
ディレッタンディズムとか
どこが発祥なのか
イタリアとかで
よく聞くんですけど
その
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人
素人主義っていうか
その時の素人って
あえてプロ的ではなくて
会社員っていうのを
名乗っているっていうのが
素人っていうのと
重なってくるのかな
と思うんですけど
複合的な要素持ってるっていう のを
我々は素人っていうのを
呼んでいて
僕も
その素人さって
すごく大事
だなと
今の尺から
今の社会の中でもどうしても専門家と言われる人たちの発言がすごく強くなってしまう
専門知っていうのはすごく大事だと思うんですけど
42:02
専門家っていうのと専門知っていうのはちょっと分けて考えないといけないのかなと思うところはありますね
素人考えっていうときにそれも何種類かあって
素人であれ一から考えることは全部尊いんだっていう危険なとこがある
自分は素人だから詳しいところまではわからないけれども
誰かが一生懸命研究した結果蓄積された専門知というものがあるらしい
それに対して全部は理解できていないけれども
何となく触りの部分だけでも触れてみた結果
おそらくここにはこういう世界が広がっているだろうっていう予測の上に
自分なりに考えることって全然違うことなんですよね
やっぱりそこで素人と一口に言っても愚かであること
ないしは何も考えてないこと
もしくは考えた方がろくでもないことになるような考え方っていうものと
そうではないあり方とって分けて考えられると思っていて
どうしても今素人っていうと
そういう簡単に愚かな方向に走りがちなイメージがつけられている
僕はすごい不当なことだなと思っていて
もの考える素人って割といろんなものを考えているし
むしろ専門知を作り出してくれている専門家ではないからこそ
他の部門と横断しながら思っても見なかった発想だったり
世界観っていうのを作れる可能性を持ってもいるんだよみたいな
そういうような感覚がすごくあるんですよね
僕今ふと思いついた関係ない愚痴
素人って言うのもいいんですけど
たまにTwitterとかやってると通りすがりのとかって言うんですよ
通りすがりの
あれうかつくんだよな
今あんまりよくわかってない
通りすがりのなんとかですとか言って
僕感覚ですよ
石投げてピュピュってピンポン出しみたいな感じなんですよ
ちょっとなっていう感覚があるんですけど
往来が増えていくといたずら心を持ってしまう人もいる
嫌ですよ
嫌ですよ
そんなこととかですね
いろいろ嬉しいですね
ちょっとどうしようかな
1時間くらい
もう1時間経ってない
1時間くらい2人でお話しして
質疑応答みたいなのがあればいただいて
なければそのまま話し続けるということで
45:00
お願いできればなと思っています
でもほっとくとずっと喋っちゃいますね
こういうの作ってくれたらずっと喋れるよね
嬉しいな
これだけで終わっちゃいそうな気もする
それはそれでどうなんですか
この話になると取り留めもないから
あまり取り留めもないし面白くなかったら
軌道修正しようと思うんですけど
途中で切ります
管理の話
今会社でどういう位置なんですか
会社でどういう位置かというと
管理するような仕事を
あんまりモゴモゴしますけど
管理するような仕事をしています
だから言うならばブルシットジョブに近い仕事
そうなんですね
そうなのかなと思って
ブルシットジョブの話は後でしたいなと思ってるんですけど
僕は管理職なんですけど
事業所のマネージャーという感じで
これ山岳ノートの2を見てみると
最後のほうが
ラスト3ヶ月くらい
急に鈴木敏夫のジブリ汗まみれを
急に聞き出すっていう
これ何ですかね
これ僕の特徴かなと思ってるんですけど
自分が必要だと思うと
それを集中して摂取し出すっていう
だから前半は寅さんをずっと見てる
ずっと寅さんを見てるんですよ
後半は鈴木敏夫のジブリ汗まみれというラジオを
永遠に聞くということを言っていて
さっきの管理する側から見たら
管理されるほう
管理する対象は
規格化されてたほうがしやすいよね
ということだと思うんですけど
これは管理の規模にもよるかもしれないんですけど
僕はその管理の仕方ができないなと思ったんです
じゃあどんな管理がいいのかな
もしかしたら管理って言葉が合わないかもしれない
マネジメントとか
違う言葉のほうがいいのかな
なった時に急に鈴木敏夫
確かにバケモンみたいな二人を抱えてますからね
宮崎駿と高畑勲という
本当にコントロール不能なものを
どうマネジメントするか
それをずっとやってきたじゃないですか
これはここだなって思ったんですよね
だから事業所の中でも
管理できない人って
ちょっと厄介じゃないですか
48:01
だけどその人の得意な部分を出してもらったり
その人が自由に動いても
後片付けは自分が得意だとかね
そうしたらもしかしたら
ものすごいパワーを持つのかもしれないと思って
考え方を変えたらすぐには変わらないから
鈴木敏夫成分を
なんとか浴びるようにして
接種してですね
コントロール不能なものとどう向き合うか
鈴木敏夫氏の場合は
宮崎駿高畑勲を使って
ある意味ね
使って商売しなきゃいけない
っていうことなので
それをコントロールするっていうこととは違うんだな
管理することとコントロールすることっていうのは
全然違うことですよね
っていうのでね
集中的に鈴木敏夫から学んでるっていうのも入っております
どんどんその話と続くのか分かんないですけど
でもそれ難しくて
鈴木敏夫的マネジメントって
対宮崎駿対高畑勲じゃないですか
それだとジブリの他のアニメーターは
誰がどうメントを見てるんだかみたいなところが
結構やっぱり見えないと思っていて
桜田ファミリアって誰が作りましたかっていうと
大工さんなんですよ
結構ここのリアリティ大事だと思っていて
どんな名建築も建築家だけじゃないんですよね
やっぱりそこを実際にものとして実現するには
それぞれのある意味だから
クレジットされない職人さんたちの
実際のそれこそ手作業というか
土着の地があるわけじゃないですか
そこってすごい簡単に忘れがちなんですよね
今の話も宮崎駿をお抱えの
数々のアニメーターのことを
一旦ないことにしたとき
一旦宮崎駿という一個人に集約しちゃったじゃないですか
その時点で結構
マネジメントの罠にかかってる感じなんですよね
宮崎駿に対しては気持ちよく扇動できたかもしれないけど
その後扇動された後の
宮崎駿が従っている個人に対しては
じゃあどうなってるんですか
僕汗まみれに聞いてないので
もしかしたらそういう話もあるのかもしれないですけど
なんかちょっと分かんないなって思うんですよね
たぶんね
僕が最初に希望の話っていうのは
たぶんそういうことで
確かに宮崎駿は一人でアニメ作ってるわけでもないし
ただだからどうなんでしょうね
実際に手を動かしている人たちを
そうやってもうはや
宮崎駿がどうマネジメントしてるかみたいな
そうなんですよね
そうするとどうなのかな
確かに分からないところがありますね
51:02
でもなんか
やっぱり
ストームできないものを排除しがちな世の中
そうですそうです
それが体調不良もそうだし
あとはなんか
急に沸き上がる
怒りみたいなものも
そうかもしれないんですけど
悲しみもそうだし
急に沸き上がる
喜びみたいなものも
電車の中で急にね
あーとかやってたら
あの人大丈夫とか言われちゃうわけじゃないですか
それ言われちゃう世の中って
喜んでいいじゃないですか電車の中で
喜んで何が悪いの
自分の中の制御不能なものを
制御しすぎる
しすぎてるんじゃないかなっていう
誰に言われたわけでもないのに
もうちょっと制御
だから
会社の後に
バッティングセンター行って
やるのかもしれないですけど
もうちょっと
いい出し方というか
面白い出し方ないかな
というのは思ってますね
他人をコントロールできるかできないか以前に
自分のことをコントロールできると結構信じきっちゃってる部分が
あるのが
まず一番
見直すところなのかもしれないなっていうのは
割合こう
二人とも手を返して言ってることな気がしますね
そうなんですよね
だから実際の宮崎駿的な人
どうするかっていう話もそうだし
自分の中にやっぱり宮崎駿的な部分っていうのが
多分あるはずなんだけど
みんな
だけどそれ出さない方が
生きて社会生活が送りやすかったりするのかもしれないけど
でもその辺を出さないと
なんかつまんないなっていう
いまい自分の中の宮崎駿と言っちゃったんだけど
そういうものをきちっと出せる場所があると
いいなっていうところですね
僕は小村寺っていうのはそういう場所なのかなと思ってて
いるなという
ここかな
なるほど
そうなんです
あとはすごい気になるのは
たくさんあるんだよね
暴力の脱臭は本当にゼカっていう
これはたぶん共産党が暴力的であるというイメージが
いまはない若者が産んでるみたいなことが
たぶん日記の中に書かれて
そんなこと書いてたんだ
ちょうど最近そういうニュースがあったじゃないですか
共産党って暴力的なものじゃないかっていう気もするんですよ
54:04
そもそもなんていうのかな
さっきの電車の中でうれしいときにお声出すとかも
暴力なわけじゃないですか
他の周りの人を脅かすことなんだけども
そもそもそういう人がどうしても持ってしまう乱暴さとか
危うさみたいなものを
全部を全部ないことにするみたいなので
本当にヘルシーなんだっけみたいなのが
ちょっとわかんなくなってきてるんですよね最近
どれだけ上品に済ましたかをしてても
それこそ疲れたら足音大きくなるし
お燃焼とかもするしみたいなところになってくる
やっぱり自分でコントロールしきれないものって
自分の中にもあるはずで
それを全部を全部コントロールできるものっていう
さっきまでのある意味マークシート的な人間感
これで正解を全部出し続けられるんだみたいな
素朴な人間感だと
なんか息苦しくないかなみたいな
別にその暴力最高だぜみたいなことを
言うつもりもないんですけど
そうは言っても
誰しも何か加害性を持ってしまうとか
傷つけてしまうっていうところを
ないことにはできないはずなんですよ
例えば今日とかも
もしかしたら僕らのこの話の中で
YouTube1.5倍速で見ている方が
今深く傷ついているかもしれない
僕も見てるんですけど
そういうところも含めて
全部を全部
それって結局どんどんアンタッチャブルなものを
増やしていくことにしかならないじゃないですか
それでいいんだっけみたいな
あとやっぱり
ある程度災厄というのは結局盛んなほうがいいよな
みじまる話じゃないですけど
そういうところも含めて
クリーンなイメージって
本当にそれだけなんだっけみたいなのが
ちょうどタイムリーだったら気になる
そうですね
書いてあるのは12月6日の日記で
内田先生の町場の天皇論っていうのを
アミノ・ヨシヒコの異形の王権っていうのを
読んでたのかな
資本主義とは別の原理っていうのを
探し求めるときに
共産党アレルギーが少ない20、30代に
改めてマラクスが生まれているように
イデオルギーではなく
リソース、資源としての天皇を
社会に位置づけ直すことは可能だろうか
って書いてるんですね
共産党アレルギーっていうのは少ないっていう
今のマラクス同会は
共産主義とは関係ないところで
やっぱりポール・ラファルグって
無雇用主で来たのかな
マラクスの娘さんのところに来た人が
怠けるの最高みたいな本を書いてる人がいるんですけど
57:02
その人がマラクス主義って
共産主義界隈では言われてるらしいじゃん
みたいなことを聞くと
それがマラクス主義なんて
俺はマラクス主義じゃねえな
みたいなことを答えたというエピソードがあったりするんですけど
やっぱりそこで
これまでどれだけマラクスに生まれてなかったかっていう話
そこは素朴にそういう話でもあるんだろうなっていうのを
近年のマラクスブームってあるかもしれないですけど
見てると思いますね
マラクスブームがあるなと思っていて
うちの指導教官と話をしてた時に
デモって言ってたの
デモってどういうことかというと
三島対全共闘の
これ見たことある人います?
今Amazonプライムで見れますので
ぜひ!
大変面白い
東大生頭いいんだなって思いますよね
東大生は頭いい
三島由紀夫も頭いいんだなって
三島めちゃくちゃ頭いい
東大生何言ってるか全然わかんないのに
三島由紀夫ちゃんと答えるじゃないですか
確かに
あれすげえなって思いますよね
当時の文脈っていうのもあるんだろうし
三島って学習院から東大行って
学習院の集積か
三島由紀夫の小説自体は
僕はもう
僕もあんまり好きじゃないです
っていう感じだったので
三島かよ!とか言って
ナルシストめ!とか言って
思ってたんですけど
僕は意外でしたね
意外
紳士的というか
誠実な感じがあったんですけど
つまりこの時代
1969年かな
69年という時代を知っていると
今のマルクスとブームとか
まだ時代の波を作ったとは言えないんじゃないか
とは言ってましたけど
とはいえ
斉藤公平さんとか
斉藤さんも30代前半ぐらいだと思うんですけど
マルクス研究者とか
本が60万部とか70万部とか
人生の資本版とか
読まれている状況なので
マルクスブームが来ているんだろうなと
言っていいかなと思うんですけど
やっぱり格差ですよね
今のマルクスが
なぜ読まれているかというと
やっぱり不当に
格差が広がっていて
お金がないと
いい大学も行けないし
全て経済的な状況で
社会の
道筋が決まってしまう
こういう社会っておかしいよね
1:00:00
何がおかしいのって言ったら
今の社会システムがおかしいよ
マルクスがずっと前から言っていたよ
というマルクスの読まれ方だと思うので
次の段階として
今この社会をどうやって変えていくんだとか
自分はどう行動していったらいいんだ
みたいなのは
まだやっぱり
いろんな人がポロポロ言っているんだけど
いや暴力っしょ
とは言っていないわけですから
前までは
言っていたんですよね
暴力革命でしょ
でも共産党が
共産党の一つのグループというか
セクトといわれるグループが
そういうことを言っていて
このセクト間の
グループ間の争いが
大きくなっちゃったので
そんなんじゃないよ
最初は良かったんですよね
最初の頃にあった暴力というか実力を知って
この体からのぶつかり合いだったわけじゃないですか
それこそ全共産党の中でも
そういう話が出てきますけど
やっぱり自分のこの体で
他の他者とどう対峙するのかという
説実な問いが
始めあったはずなんですけど
それこそ
ちょっと今日はしつこいですけど
途中からだんだん
YouTubeを1.5倍速で見るやつらみたいな
仮想敵がどんどん膨らんできて
抽象的な敵になっちゃったから
そこで内側的な
悪いことにどんどんなっていっちゃう
みたいなところで
割とだから暴力ってものを考えるときって
割と最初に具体的な
打たれると痛い
嫌だとかっていう
すげえ素朴な
その身体感覚から始まっているはずなのに
それを思想として喋り出した瞬間に
どんどん変な効果が大きくなっちゃって
独自分解しちゃうみたいな
割とそこの反省を
あるからこそそういったことがなされていかない
っていうのは健全なことだと思うんですけど
でもじゃあ
その頃そういう内側的な形で
肥大化していった
加害性とか暴力性って
今はなくなって
平和の世の中になっているかと言うと
実はむしろ
ゲバゴを持たないで住むからこそ
みんな誰しもやっているんじゃないかな
みたいなところもあったりして
割とそこの今の方が
暴力的でないスマートな時代なんだっけ
みたいなところも
ちょっと疑問ではあるかな
ってことにしますよね
そう思います
暴力とは何か
ちょっと物騒な感じになってきたので
一回休憩しますね
そうですね
はい
じゃあ
ポイエティックラジオ
はい
じゃあ一旦ポイエティックラジオ群の
2人のでカメラはここまでとします
はい
1分、2分休憩します
そうですね
ありがとうございました
ありがとうございました
はい
01:03:10

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