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ポイエティーク
ポイエティーク
こんにちは、ポイエティークRADIOです。お相手は、私、柿内正午と、本日は特別ゲストでこの方です。
岸波龍です。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
毎回、ゲストを呼ぶときに気をつけていることとして、ゲストの紹介をちゃんとしない。
友田さんのときもそうですし、松井さんのときもそうです。
それこそ、型書きベースで話しちゃうと、名前の知られた人が来ないと立派じゃないとか、変な風になるじゃないですか。
そうじゃなくて、ここで喋ったことが面白いか面白くないかだけが、大事じゃんみたいなスタンスでいきたいなと思っているので、
あんまり何をしている人というのは最低限にするんですけど、
一応、岸波さんは、何で始まったか忘れちゃいましたけど、お友達で、
もともと僕が知ったのは、このASK FOR SADNESSという図印を作られていて、
これを手に取ったときに、めちゃくちゃいい本じゃんって思っていたところから、
今日この場にも来ていただいたんですけど、要するに何だろうな、
詩の話をしたいなと。
先に僕が詩についてどう思っているかというのをちょっと話しておくと、
ずっとわからないんですよ、詩の楽しみ方が。
詩の楽しみ方のわからなさの原因として、すごいジャズっぽいですよ、僕の中で。
詩の専門書店がジャズ喫茶に見えるというか、
めちゃくちゃなんとなくかっこいいなって思っていて、
なんとなくそこにツーっぽくなれたらかっこいいなって憧れはあるんだけれども、
結局どう楽しんでいいかわかんないかな。
なんとなく雰囲気いいじゃんって舌かぶることはできるんだけど、
なかなかそれ以上になれなかったりとか、
あと逆に詩についてわかった風な口を聞くと馬鹿にされるんじゃないかみたいな、ちょっと怖さが。
ありますよね、なんとなくある気がします。
ジャズ喫茶とかでそれこそビル・エバンスみたいな話をしたら、
お前まだそこかよ、モグリかみたいなことを言われちゃうんじゃないかとか、
そういうことを考えちゃうと、なかなかどこから入ればいいんだろうとか、
どういう風にすればいいんだろうというのがわからなかったんですけど、
ちなみにアスクコサドネスっていう本を読んだときに、ちょっとわかった気がしたというか、
この本もちょっと変な本でというか、
僕としてはプルストを読む生活っていう、
僕が書いた日記とスタンスとして親しみを感じる部分があって、
詩の評論というわけでもないんだけど、
単純な詩にまつわるエッセイというわけでもなくて、
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かといって、詩と言っても良いような気もするし、
でもやっぱりエッセイのような気もするしみたいな、
ある意味ジャンル分けが結構難しい本だなと思っていて、
その上で、僕のプルストを読む生活って本が難しいことはともかくとして、
本読むのがめっちゃ楽しいじゃんっていう素朴な話をずっとしているとすると、
結構この静岡さんの本も、
詩を同じ読みで、
ソーセージというかスタースで読めるのに、
詩だけそういう風に読めないので、
ちょっと言っちゃないぐらいのことを結構、
そうだよなって思えるような、
結構僕はこれを読んでから、
詩や単歌やそういった静岡先輩に対しての
心理的パズルがちょっと下がった。
怖いジャズおじさんばっかりじゃないんだなみたいな、
気持ちに慣れたのが結構嬉しかったので、
ひしなみさんにどういう風に詩を読んでいるのかとか、
それこそ詩以外の本と何が違うのか、
何しか違わないのかみたいなところを、
今日は聞けたらなと、楽しみにしています。
なんかちょっと今思ってて、
詩に対して、その本もあるけど、
詩に対してハードルを別に上げて、
読んでいないというのは確かにそうだと思います。
やっぱり、もっと気楽に詩なんか読んでもいいんじゃないのかな、
というのがまずあったので、
そこの辺はやっぱり考えていたことですよね。
元からですか、その詩に対して。
いや、もともとは、
詩をやったきっかけは、
大学4年間文学部の国文学科だったんですけど、
それで詩を専攻してたんで、
本当はもともとは勉強みたいな感じでやってましたよね。
でもその時に楽しかったかって言ったら、
そんなに楽しくなくて、
だからそんなに、
やっぱりその時は詩よりも小説とかの方が
面白いんじゃないかなと思った時期があって。
それ、もともと大学の詩専攻にしたのって、
それまでもともと詩が好きだったんですか。
いや、小説が良かったんですけど、
定員がいっぱいだったんですよ。
それでダメだったんですよ。
興味ないのに詩をやられることになったんです、本当に。
へー、そうなんだ。
そうなんですよ。
ある意味定員の都合で、
都合でもうそっち行けないみたいなこと言われて、
じゃあいいですよって、
そこまでの小説自体も詳しくなってなかったので、
本当に、もっと言っちゃうと、
今こうやってすごい小説とか文学について、
こうやっていろいろやってるっていうか、
ツイッターでもそうじゃないですか。
やってるとは思いますけど、
その大学とか入った時は別に全然、
たまたまノートの連載の方のエッセイにも書いたんですけど、
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本当は歴史とかそっちやろうかなと思ってたんですけど、
たまたまセンター試験の先生が現代文良かったんですよ。
それでちょっと勘違いしちゃって、
それぐらいで入ったから、本当に。
なるほど。
だから小説でも別に詩でもいいかみたいな、
本当それぐらいの感じで入りましたよ。
これちょうどいいのかもしれないですね。
ある意味死亡したわけでもないけど詩を勉強してみて、
勉強してみたときそれ自体が楽しかったかわからないけど、
ある意味そこで少人みたいなことができはしてみたいな。
確かに気張らずに済みますもんね、最初がそういう。
そうですね。それもかなりあったんですよね。
なるほどな。
大学の時って結構本読んでました?
大学の時は読んでたんですけど、
というよりも入って勉強について文学部なんだけど、
知識がなさすぎてついていけなくて、
それで夏休みか何か使って、
2ヶ月外出ずに本読んでずっと読み続けるとか、
そういうことをしましたね。
1日本当何冊も小説を読むとか。
いいですね。すごい正しい学生ですよね。
そこはそういう感じだったんですかね。
僕なんかそれこそ大学時代で全然本読まなくて、
多分社会人になってから読んでいます。
学生時代とか年に20冊読めばいいとぐらいの、
全然本読んでなくて、
何故か社会人になってから読みだしているので、
ある意味学生時代あるあるで読んでそうな、
それこそ時間あるときにがっつり読めなきゃいけないような本とか、
あんまり読んでいないんですよね。
今それこそ岸上さんがやられている夏目漱石とか、
多分夢中夜ぐらいしか読んでいなかったです。
夢中夜のときに何か読んだんですか。
何か読んだけど忘れちゃった。
まあ何でもいいですけど、
そんなところだったから、
割とそのソジェの部分とかでも、
結構しっかりと話されていると、
結構そういう文芸系の小説も含めて、
かなりお詳しいというか、
みたいなところも持っていたので。
でもそうですね、昔から。
でも本当に今は持っていて、読んでいると思うけど、
年齢関係ないなと思っていて。
それはマジでそうですね。
いつからでも本は読めるし、
もっと言っては創作もそうだと思うんですけど、
そういうのは本当に気にしていないですね。
今ノートでやられている、
何だっけ。
35歳から。
絵画教室。
あれすごい面白いなと思って。
でもあれもいいですよね。
多分文体とかも、
ある意味ちょっと自動筆記っぽいというか、
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坂口強兵の誤差がありつつも、
あの描き方って多分すごい、
それこそ自分のこれまで何食べてきたかが、
すごいよく出るじゃないですか。
ある意味いろんな経験してきたりとか、
ある程度何か固まりそうな時期にあえて、
新しいちゃんとその制作の一歩踏み出していこうみたいな時に、
すごい、
ある意味ちょっとラフに見える文体も含めて、
すごい軽いことが救いになるというか、
あれがガッツリ重ための制作論とか創作論になっちゃうと、
結構こうなんていうんだろう。
やっぱりこういう人じゃないとやれないのか。
しちゃうんじゃないかなって。
それこそこのアスクロサドネスと同じような励まされ方というか、
無理に背伸びしなくていいんだというか、
自分の思い出とか自分の感覚に脱線しながら、
物を作ったり物を読んでけばいいかなみたいなのは、
結構共通しているスタンスなのかな。
そうですね。
ちょっと似てるかなというところもあります。
一番多分このアスクロサドネスみたいな、
これらしいですけど、
エッセイの時はある意味自分がかなり足しやすい、
っていうのはあると思うんですよね。
なんか自分の中で軽重じゃないですけど、
今日はその詩の話ベースでっていうので読んではいるんですけど、
いろいろやられてるじゃないですか。
それこそ最近だと絵描かれたりとか。
絵描いてますね。
ランニングもそうだし、料理もそうだし。
短歌もそうだし。
短歌もそうだし、エッセイもそうだしっていうところで、
あんまりそこに消えられる気じゃなくて、
どれが一番とかってあんまり区別されてない。
そうですね。
たぶん、何やっていくんですか、この後ってたまに聞かれることあるんですけど、
短歌ですかとか言われますけど、
そんなにあんまり気にしてないけど、
でも今日記ブログを書いてて、
毎日続けるのが一番大変なのは日記だなと思ってて、
意外と日記のこの前に続けるのが一番ちゃんとやらなきゃなと思ってますけどね。
他のことはたぶん続くんじゃないかなぐらい。
そういう感じでやってますね。
面白いですね。
たぶんそうなんですね。
スタンスとして、
僕も結構雑職でいろんなことをやってみたくなったりやってみたんですけど、
なんで僕はそこに詞が入らなかったんだろうなって。
そうか。
たぶんそこが一番僕の中で不思議に思う。
書いてると昔からなかったですよね。
ランニングしないのはちょっと分からないですよ。
僕は昔から体育嫌いだったから。
体育の授業の呪いをどう解いていけば、
体を動かすのって別に楽しいことだなっていうのを言い聞かせるかみたいなところで、
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ある意味それは分かりやすい。
体育の授業は嫌いだったから、
その体育の授業で受けた呪いをどんどん排除していけば、
自分の体を動かすことに楽しみを見出せるだろうっていうある程度の見通しが立っているんですけど、
シーカに関して、全般に関しては、
憧れすらあるんですよ。
でも逆に憧れでよくないのかな?
うまく読めないんですよね。
結構でも多いと思うんですよ。
詩とかエッセイとか、
小説とかエッセイとか結構たくさん読んでる人でも、
ちょっと微妙にシーカとクラスターが違うっていうのも違うけど、
なんかちょっとこうなんだろうって。
多分岸上さんのスタンスを見てたぶんそうじゃないだろうね。
でもあれどうなんですか?人文書とか普通に読んでるじゃないですか。
哲学とかそっちを書けないさんは。
だからなんだろう、
それ自分が見てるそっちと似てるのかな?
なんかそうですよね。
哲学書を見たいなとか思うんだけど、
そこまで深く行ってないので、
でも読みたいなと思うんですけど、なかなかなみたいな。
ちょっと似てるかなと思いますけどね。
それはそうかもしれない。
あとは例えばだけど、
画集とか写真集とか、
そういうのを読むのとも近いかなと思ってて、
詩をちょっとその写真、
最近ちょっと思うのは、
詩を写真集とか画集みたいに自分は読んでるのかもしれないなっていうのはちょっと思いますけどね。
それ面白いですね。
それこそ僕このアスクサートネスで一番グッときたのって、
多分、
章で言うと、
これか、ある詩人への番歌かな、三章の詩の話の時に、
ある意味なんていうのかな、
本格ミステリーとかも、
実はトリックとか理論っていうものが聖地であるっていうことだけじゃなくて、
割と雰囲気が大事じゃんみたいな。
詩っていうのも同じように、
割と雰囲気というか、そこで出てくるイメージみたいなものは、
楽しければよくないみたいなことが確か書かれていて、
割とそれに、
それこそだから画集みたいに読めばいいんだみたいなのは、
結構ハッとしたんですよね。
そうかと。
音楽と似てるみたいなのはそういうとこなのかなというか、
読んでる間に喚起されたイメージがかっこよかったり楽しかったりするみたいなのは、
一個、
確かに楽しみ方というか、
読むというより眺めるみたいな感じに近い感じなのかなと思って、
ちょっと読み方が自分の中で変わったというか、
楽しみ方が分かったりしたんですよ。
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結構小説とか読んでても、
視覚情報というか何というか、
結構イメージって明確に立ち上がってきます?
どっちかというと、
視覚的に見えるタイプではあるかもしれないですね。
なんかそうなんですよね。
多分僕が文字を文字通りにしか読まないというか、
なんかそういうこと書いてましたもんね。
文字の形としてしか見えないから、
読んだ時に、
何か思い浮かべることはあるんですよ。
結構多分その読み方の方向が、
回路がそんなにまだ開けてないのかなと思うんですけど。
だから、
結構詩を読む時には、
書かれてることからその情景を思い浮かべるみたいなことを、
ちょっと意識してやってみようみたいなことは思ってて、
それをするとちょっとだけ、
ちょっとだけなんか、
写真集ぐらいには読めるようになってきた。
なんか詩ですごい思うのは、
詩が分かる分からない問題っていうのはまず、
なんかあるなっていうのもありますよね。
この最初に本にも書いてたんですけど、
分からないっていうよりはちょっと、
自分の場合は少なくとも感じ取ってるみたいな書き方をしましたけど、
でもなんかその、
最近すごい思うのは、
なんか詩を分かる分からないって実はなんか、
2種類あるんじゃないかなって最近思ってて。
なんか、
1つはすごい単純なんですけど、
小説みたいな物語ではない、
今の詩にあってで、
短歌、千流、
俳句ですよね、
みたいな定型がなくて、
言葉でやる文芸としてはかなり自由な、
だと思うんです。
それも、で、
そこ、そういうやっぱり、
その詩の自由さみたいなのでは分からないっていうのがまず、
それ、みんな思うとこなんじゃないかなと思うんですけど、
それが1つなんですけど、
それって結構、
読者次第でそれどうにかなると思うんですよ。
なんか、こっち側っていうか、
読み方1つ楽しめば、
それどうにかなるんで、
実はそんなに問題じゃないというか、
量さえ読んでいけば、
問題じゃない分からなさ、
なんだけど、
どっちかというともう1つ分からない、
その1つの方が、
どうなんだろうと思ったのは、
単純に、
昔より今、現代詩が難しくなってんじゃないかなと思うんですよ。
書かれてるものがなんか読んでて、
なんか、
そこを最近思いますよね。
なんか、
素朴に読める詩が少ない、
っていうのを最近の、
現代詩を読んでて、
自分が思うことですね。
なるほど。
そっか。
だから、現代詩っぽいものから入ろうとすると、
結構、
ある意味それこそなんだろうな、
あまり哲学誌と読んだことがないような人が、
18:00
ゆえもん書を読まずにドゥルーズを読み始める、
なんか、
豪作あるかもしれないってことですよね。
なんか、そういうのはちょっと感じてて、
なんか、
すっごいむ、
なんか、昔の、
先人がもっと、
素朴に詩を書くって難しいと思うんですよね。
うんうん。
だから、
そこで、
だからこそ今そういう素朴なのに書いてる、
あの面白いの書いてる人いたら、
面白いだろうなと思うんですけど、
そこはちょっと思うかな。
なるほど。
それは、
確かに、
ちょっと心当たりが。
うーん。
それこそ最近あの大阪の緑地公園の
ブラックバードブックスさんで、
この、
ああ、はいはい。
田口伊能さんの
ハイドンの朝って、
はい。
詩集を単純に想定がかわいいからっていうだけで買ったんですけど、
はい。
初めて、
読めたんですよ。
はい。
最後まで。
別になんかその詩集において
経緯っていうものがなじむかは微妙なんですけど、
はい。
なんか大体詩集でいつもちょっとパラパラ読んで、
ふーんって言って、
なんか全部目を通すことがあんまりなかったんですけど、
これはなんかちゃんと、
それがちゃんとなのかもわかんないけど、
頭から後ろまで、
なんかこう、
楽しく読み通すことができて、
結構なんかそれは一つ、
なんかそれこそあんまり難しくなかったから、
はい。
なというか。
自分もちょうど2日ぐらい前に読みましたよ。
うん。
2日ぐらい前に読んで、
やっぱり田口のなんかはそうですね、
うん。
わかりやすいんだけど、
面白いみたいな、
そうです。
ところがありますからね。
割とそれこそパンチライン、
最初のところから、
私たちはみんな音楽なのでって言い切られたところで、
僕はかなり大喜びして、
はいはいはい。
こういうよくわかんないダンジョン大好きだなと思って、
なのでって言われちゃったよとか思いながらはしゃいでたんですけど。
いいんですよね、本当に。
そう。
これは、
わかってるかわかんないか確かに感じられた感じ。
はい。
この詩集のエッセイでも田口の猛将文で書いてますけど、
やっぱり重要だなって思いますね。
すごい重要な詩人。
うん。
でもそれこそ多分、
読み消したいみたいなところもそうだし、
今はちょっと難しくなりすぎてるとかもそうなんですけど、
それこそこの田口の廃盤の朝に関して言うと、
これその帯見ると12年ぶりだって書かれてるじゃないですか。
はいはい。
すごいバカみたいな話なんですけど、
この詩集ってめちゃくちゃ本当大きくて、
ちょっとしか書いてなくて、
120ページとかの薄い本じゃないですか。
これに12年かかんだっていうところが、
なんかある意味衝撃で。
うーん。
それこそ僕は古人もそう思うと、
長い方が偉いみたいな。
すごいバカみたいなちょっと感覚があるから。
たぶん詩に対してのわからなさの一つに、
こんな短いのに、
なんですごいんだろうみたいな。
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すごい、だからめちゃくちゃバカみたいな感覚なんですけど、
たくさん書いてある方が、
それこそ鈍器本の方が偉そうなのに、
詩の方がちょっとしか書いてないのに、
より偉そうな感じがするとか、
よりすごそうな感じがするとか、
それこそだから3年かけて書いた700ページの本よりも、
なんかこの12年書いて書いて120ページもすごいみたいなことに対して、
すごいこう、ただ単に定量的な意味で、
納得いかなさがあるのかもしれないとちょっと思ったんですよね。
物質としての量としてはないですかね。
量だけで見るとこれだけみたいになっちゃうから、
それこそ学生外の定食は味よりどか盛りにしてくれるかどうかが大事みたいな、
ぐらいのことなのかもしれないけど。
この短さなんだみたいなところに、
多分僕はちょっと戸惑いを超えている。
でも多分その短さみたいなのすごい大事ですよね。
多分詩を語る上で。
そうですよね。
絶対なんか、特にどうなんだろうな、
短詩とかも今ちょっと興味あるんですけどね。
なんかもうちょっと面白くできるんじゃないかなとか最近思いますけどね。
そのなんか短い面白さみたいな、
小さくて軽いものがもっと評価されてみたいなことは、
おそらくシーカーをやっている人がどうしても思うところなんですよね。
そこが面白いんだね。
それを本にするっていうのが難しいっていうのはすごい思います。
そうですよね。
だってそれこそなんかある意味ウェブライターみたいに文字単価だけでいったら
すごいことになっちゃいますよね。
そうなんですよ。
でもね、シーカーを続けるのはね、やる自体はあれなんですけど、
本にするっていうことが難しくて、それで食って食ってのが非常に難しい。
それがすごいどうにかならないのかなってすごい思うんですよね。
僕はどっちかというとある意味経済的な論理にかまけてないというか、
食えてないからこそ偉いんだみたいなのは思うところではあるので、
なんか食えてないから違うみたいなのはあまり思わないんですけど、
とはいえやっぱりなんかこう、そうなんですよね。
短くて、短いほうがいいわけじゃないですけど、
この長さで作れちゃうっていうのはどういうことなんだろうみたいな。
結構考えちゃうんですよね。
何回も読めってことなんですかね。
そう、何回も読めるっていうのが多分すごい大事。
なんか、そうだな、自分は何回も読むんですけど、
詩の側面、何て言ったらいいんだろうな、
知ってわかんないものっていうのともう一つちょっとあると思うのが、
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人生の築きみたいな、そういう側面って知ってあると思ってて、
本来、暗くて見えてないところに言葉で光が出て、
それで照射するというか、それで見えるようにするっていう部分が多分詩にはあって、
それをするには文字数がそんなにないほうがやりやすいっていうのは正直あるかなっていうのは思いますけどね。
知って好きな詩とかだとそらんじられたりするものですか。
それはあるじゃないですか。単歌とか、ほんとね、ちょっとした単語ですごい人だとほんとに。
今日もちょっとツイッターとか見て思ったけど、階段って一つ聞いたらそこからの単歌を思い出されるみたいな人はいると思います。
その域になってくる。そこを抜き出す、プルストでも引用するじゃないですか。
引用って面白いですけど、やっぱり単歌とか詩でズバッと音で出せるっていうのはあれですよね。
シーカーの特徴ですよね。
そうですね。それこそ大陸系の小説とか読んでると、やっぱりかっこいい詩で詩をそらんじるじゃないですか。
英雄たちが戦場に行く前とか失恋した後とかに、すごいホメロースとかそらんじてかっこいいなって思うんですけど。
そういうことなのかなというか、僕もそれこそ本は引用はするけれども、一言一句全部覚えてるわけじゃん。やっぱりなくて。
でもシーカーの場合、それこそ単歌とかそれこそですけど、文字が少ないから一文字で間違えたら終わりじゃないですか。
全然違ったものになっちゃうんですよ。それをちゃんと一言一句記憶する。結構一個違いなのかなと。
今話しててなんでね。ぼんやり。
そうですね。この短さ問題みたいなのも考える余地がありそうな。
そうですね。
手は確かにいるけど、難しいというか、そうですね。
それこそ逆に、きしなみさんがツイッターでオススメされてて、何冊か詩集があったんですけど、
オバマグーグルとかは上から下まで文字がびっしり書いてあるので、それでちょっと安心したんですけど。
詩集って上とか下とかにすごい余白があるみたいなので、たぶんそこで僕は白いみたいな。
これがなかったから安心したんですけど、かといって別に読めるわけではなかったなと。
結局むしろ、読めるのはそれを書いたんですとか、
もう一冊これは面白かった、松下とかは、ある意味僕がちょっと苦手意識の余白が多い感じなんだけれども、
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割と面白く読めるかなと。
だからやっぱり、人文書と一緒でいろいろ読んでみて、
自分なりの楽しみ方を探っていくところから始めてみたいなと思っています。
なんか、詩を読みたいってなった時に、書評とか紹介している本とか、
詩の場合それすらもちょっと難しく書かれていることが多いですからね。
それも結構。
あと難しいのは、詩以下の入門書みたいなのをめちゃくちゃやたり読むんですよ。
何だっけ、最近福音家書店がひどいことも結構僕が指をカチンと鳴らしたらどうなるかとか、
あとそれこそ現代詩系の入門書とかも読んで、読むと面白いんですけど、
でも書いてそれが邪魔なのかなと。
結構理屈っぽいこと書かれている本とか読むと、
どっちかなんですよ。ある詩に対しての割と厳密な構造から書いてある評論を読むと、
僕の場合そっちの方がわかりやすいから、なるほどなって思って原文を読むんだけど、
結局それは読んでもその批評のことしか思い出すための措置じゃなかったりとか、
逆に感じ取ったものだけでいいんだよみたいなことを言われると、
それはそれで気が楽になるんだけど、
でも自分で読んだ時も結局その評論で書かれていた感じ方しかできなかったりとかね。
だからやっぱり入門書をしすぎないで、一気に読んじゃって、
そこで自分が楽しめるか楽しめないかで相互にぶつかっていっていいんじゃないかなみたいなことをようやく気づきだした。
でもそうですね、そういう感じで読んでいるのかな。
それこそ学生時代に詩の勉強をされている時とかに気づきじゃないですけど、
学んだことというか、こういうふうに詩については接していくべきなんだというか、
そういうのってあったりするんですか。
接していくべきって言ってもね、ほんとに、
詩だからか、誠読の大事さというか、やっぱりちょっと単語とかの間違いとかをしちゃいけないんだとか、
そういうのはすごい、学問として読むと本当にそうじゃないですか。文章の意味とか。
でも本当にそればっかり気にしていたので、読むのが楽しいか楽しくないかで言うと、
そこでやっぱり楽しくなくなる部分はちょっと感じたんですよ、やっててね。
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面白かった一方で、そういう記憶が割とあるから。
誠読の大事さも分かるけど、ちょっとそこに別に行動しすぎないで楽しんでもいいんじゃないっていうのが。
もともと詩やってたけど戻ってきた理由が、単純にプライベートが忙しくなって仕事とか家庭もそうですけど、
単純に長い本読めないなみたいな、そういうのがあって。
純駆動の池袋だと思うんだけど、それでいろいろもうちょっと軽く読めるのないかなと思ってて、
それで詩のコーナー行って、詩なら読めるかもなと思って、久々に読んでみるかぐらいな感じでしたからね。
最近の詩だと何がいいのかなと思って、調べたら中原忠也賞が結構最近の詩人の登竜門じゃないかな、
芥川賞的なものだみたいなのを読んで、じゃあ読んでみるかと思って読んだら面白いなと思って、
そうやってっていうのがありました。
それはありますよね。僕もだってめちゃくちゃ忙しい時とかにたまに読むんですよ、
中原忠也さんの詩集とかもちょっとずつ助かりますもんね。
読んだぞっていう気持ちも慣れるし、そんなに重たさもないし。
詩ってそんなに怖くないよというか、軽く読めるよみたいなのは、それこそ文字数が少ないっていう理由ではあるんじゃないですか。
でもその一方でやっぱり、さっきの難しい現代詩とかもそうだけども、文字数が少ないからといって、
すごいパッと見で楽しめるものじゃないものとかも多かったりするから、
前もちょっと推定で話されてたんですけど、僕の中でどうしても、
やゆとしてのポエム問題があるとか、詩人といえば光雄みたいな、
おばあちゃん家のトイレのひめくりかねだでありやつみたいな、呪いがちょっとあるなって気がしてて、
僕もそれこそ自分が演劇とかやってる時とかに、セリフでちょっと臭いセリフが出てくると、
その時にポエムが来たりとか、お笑みとか扱いを受けたりして、
多分その時期、一回それこそ悪口としてのポエムに対しての距離の取り方とか、
なるべくその自意識というものをみっともなく出すことをしないようにしようみたいなところで、
ある意味間違ったポエム感じゃないけど、みたいなものを結構植え付けられてるんじゃないのかなと思ってて、
かといってそうじゃなくて、自分をちゃんとなくしてるようなものがあって、
もう一方にあるのが、それこそトイレにも安心してかけられるみたいな、
三尾みたいな、間三尾みたいなことっていうところの、
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なんか割とそういうすごい不当に狭められた詩のイメージが、
多分僕の中で、自分で思っているより多分でかい気がしてて、
だからその詩が軽く簡単に読めるぞって思うのは結構一つの喜びなんだけど、
微妙に三尾がちらつくんですよ。これと三尾の何が違い?
これと三尾の違いは何かっていうのを、
そうですね、でも明確にね、意外と弾けるんじゃないかなと思ってて、
一つは、一つはというか、松山松下一子氏にも書いてあると思うんですけど、
自分の読み方以外のところですけど、気持ちとか無視すれば、
今純文学、例えば小説だと純文学ってやっぱ、
文芸誌、古代文芸誌に載っているのが純文学っていう括りになっているじゃないですか、
そういうので単純に、現代詩って言い方もね、またちょっとあれなんですけど、
現代詩自体は単純に現代詩手帳とか、
有理以外に載っているような詩っていう括りをしちゃうことによって、
ある意味その路上のポエムとか、そういうのとはまた違うっていう、
単純に判断することは一つできるかなと思ってて、
割とそれぐらいで考えてて、自分の場合は。
確かにそれは良いですね。
素朴にある意味小説と一緒で、
小説もある意味素人の小説って読めたもんじゃなかったりすることが多いので、
一個その文芸誌の章っていうものが権威としてあって、
そこを通過してきたら間違いないだろうね。
ある意味作読機関としてやるわけじゃないですか。
はいはい、そうですね。
詩も同じで、ある意味その章というもので、
よく通ってきたものであれば、ある程度クオリティは確保されてるだろうみたいなことなんですかね。
現代筆手帳の方向とかってすごいんですよ。
700とか800とかなんですよ、月間で。
そういう中で通ってきてるからすごいんですよね。
単純にすごい質高いんですよ。
読んでたら思うんですけど、こんなのほんとすぐ刺繍になるだろうなみたいな人もいっぱいいて。
そういうのを見てると、やっぱり分かってくるっちゃ分かってくるんですよね。
そういうので、単純に分けることも可能だと思うんですけど、
ただその、やっぱね、そのポエム、素朴な、素朴っていうかなんていうんですか、
J-POP的っていうんですかね、なんていうんですかね。
そうですね。
っていうのもそうですね、そこは。
でも一見そう見えちゃうようなものも確かありますからね。
そうなんですよね。
ありますね。
なんかそれこそ、僕が今さっきあげた田口さんとか下さんとかの本を読んでると、
それこそJ-POP的なというか、水飴みたいにベタついた知識みたいなものと、
ものすごい対極にあるというか、全然そういうのじゃないじゃんっていう感じはすぐ分かるし、
だからそういうのは結構安心して読めるというか、
むしろ僕は小説でもそういうベタついたのがあんまり好きじゃないから、
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割とむしろこっちのほうが安心して読めるところがあるんですけど、
だからどうしてもやっぱりそういうたまにウッみたいなのに出くわしたときに、
やっぱりちょっとかすかにやっぱりみたいな気持ちになっちゃったりとかするのが、
多分結構ある意味僕にとっての運動に対する体育の重要的なものがあるのかなというところをずっと思ってて。
でもそれでもう分けれてるっていうのは、結構詩が読めてるっていうことでもあるような気もしますけどね。
それはもう違うんだっていうのは。小説もそうだけど。
それこそでも小説の信念賞においては、めちゃくちゃそれ大きいじゃないですか。
小説で自分の話ししようとするなんていうか、書き手である自分と、
そこの作中主体である語り手みたいなものを混同するような作品っていうのは、
そもそも箸にも棒にも引っかからないっていうのが、一番大きな大前提としてあって、
その上で今のトレンドみたいなのが大体出てくる。
僕の好きな竹内悠長とかの頃でいうと、それこそ語り手の位置というか、
そういったものがどこにあるのか、その当時の認証の問題として結構語られるようなところとか、
ある意味その章におけるトレンドみたいなのがあるわけじゃないですか。
僕もあまり文芸章もそんなに詳しくないから、今何がトレンドになっているかとかよくわからないですけど、
源太子の章においてもそういうのってあるんですか。
例えば今は語り手の認証が厚いとか、ある意味それこそジェンダー意識の察しみたいなところに厚さがあるとか、
ある意味章にそれぞれの章のカラーもあるけど、それ以上に文学全体のトレンドってある。
今の源太子のところですね。
詩においてもそういう特徴、今。
あるでしょうね。でもやっぱり分かりやすい詩は本当に少ないと思います。
どうですか。
投稿とかで、ちょっと最近面白い詩が出てきたりもいるんですけど、
でも基本的にはやっぱりちょっと難しくなっているなというのがそこなんですよね。
すごく面白いものはそっちに行っている人は少ないなと思う。
ただ逆に、去年、今年か、今年の源太子って女子院でいいでしょうか、の人で短詩で受賞した人がいて、
そういうことをやっている人もいますけど、だいたいちょっと長くなってきて、
あとやっぱりトレンドっていうのかな、小説みたいな感じの詩みたいなのも流行りとしてあるのかなっていう。
そこはね、なんとも言えないとこだけどな。
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さっきもちょっと僕聞き流したんですけど、短詩っていうのは単品の詩ってことですか。
短い詩です。
なるほど。
短い詩、あと長編詩、長いありますし。
そういうことか。
なるほど、面白いな。
難しくなっちゃっている原因って、やっぱりそれこそトレンドが繊維化していっちゃうからとかってことですか。
言葉だけ難しいんだったら、そっちのほうが簡単だからじゃないですか。
やっぱり素朴なものを難しく書かないっていうのは難しいですからね、単純に。
高度な芸術ないと無理なんで、それこそ昔は草の神兵とかそうですけど。
高度な、吉野ひろし自分好きなんで読みますけど、やっぱり簡単だけどやってることはものすごく高度だなと思うんで。
言葉だけで難しいのは、逆に言うと難しくないという逆説みたいになっちゃいますけど。
そう、そう、わかりますよ。
一見そうです。簡単に書くのは難しいのかしらと思うから。
小説もある意味そうですもんね。
ある意味下手な小説ほどめちゃくちゃレトリックにこだわるというか、
すごい突拍子もない比喩とか使いたがり。
村上春樹みたいになっちゃうみたいな。
そうそう、みんな村上春樹みたいなところはあるなと思うんで。
そっか、単純に、単純にあれなのか。
僕のそもそもの好みとして素朴な小説が好きだから、素朴な詩を怖がらずにどんどん読んでいくっていうのが。
そうですね。だからそうすると現代詩よりもちょっと近代詩とか言ってもいいんじゃないかなっていう話になってきちゃうんですけどね。
そうですね。
あとこの囚人がいいんじゃないみたいな。
そうか。
ことになっていくのかなとか。
しかしたらそっちなのかな。
なんかそれこそ僕は現代詩奏とか小説だとベケットとかすごい好きなので、わけわかんないの好きなんですよ。
だからわけわかんないの好きだったら詩もわけわかんないのが好きなんじゃないかと思ってたんですけど、
詩でわけがわかんないとちょっと落ち込むんですよね。
小説のわけわかんなさが結構テンション上がって、このわけわかんなさは面白がれるんだ俺だけじゃねみたいな気持ち読めるんですけど、
詩のわけわかんなさ、そのわけわかんなさを面白がれるところの手前で、マジでわかんなくてつまづいて見て。
どこまでもわからないからね。
そうそう。
あ、こんだけわかんないんだと思って落ち込んじゃうみたいなところが。
いや、ありますよ全然。
読んでて、なんでこんなわけわかんなく書くんだろうって。
ちょっとわかりやすくしてくれたらいいなぐらいの思うぐらい本当に難しいですよね。
そうなんです。
いいんだろうなーって思うけど。
そうですね。
それこそベケットのわかんなさとかは、ベケットの思想みたいなのがわかってるから、
ある意味その、何だろうな、
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その、戯曲においてもそれこそ首だけしか出さないで、首から下全部壺に入ったりとか、
諸々そういう不自由さというか、具体的な身体的な拘束みたいなものだったり、
語彙も含めてそういう極限の貧困みたいな中で、いかに人が思考だったりできるのかみたいなことが問題意識としてあるから、
そのベケットの小説っていうのは基本的に、
ものすごい貧しいところからものすごい難解なことを言おうとする結果、
何もわかんなくなるっていう、
なんかわかんなくなる、なさのわかんなくなる、
前提になっているアプローチとか作奏編がなんとなくわかるから、読めるんですよ。
でもなんか、品はそれこそ短いからのもあるし、
その詩人の背景みたいなのはあんまり語らないじゃないですか。
詩人のリキペディアって産業で終わるじゃないですか。
そうですね。見えないからよりね。
だからより一層その作品だけとして純粋に見たときに、
そこからどれだけのものを、その難解さから本当に読み取れるものがあるのかみたいなところが、
結構難しいなと思うんですよ。
その、だからやっぱりその評論とかもね、
最近、ほんと小説にかけて少ないですから、
現代史の日本国内の詩人の情報はやっぱり少ない、
ものすごい少なくて、やっぱり作品しか読むことができないっていうのはあると思う。
昔の詩人とはそこが違うんで。
だからほんと作品だけで難しいんだけど、
とにかくその難しさが面白くなるレベルまで持っていくのが、
たぶんすごい難しくて。
だからそういうことをやってるのはやっぱり、
これも中原忠也賞を取ってますけど、
カニエナハさんとかね、やっぱりその技術、
技術で見せてくるみたいな。
そういうのが、たぶんわかんないんですけどね。
わかんないんですけど。
そういう人もいますけどね、そういう。
わかんないこと、それ自体が悪いことだと絶対そんなことはなくて、
わかんないからこそいろいろ考えたり、立ち止まったりできるじゃないですか。
さらっとそのまま飛ばしていけちゃうようなものって、ある意味読んでますよね。
しょうがないとは言わないけど、詩だけですらない。
あんまり楽しさすらいで動くしない感じがしちゃって、
わけわかんないのも好きだなと思いつつも。
そうなんですよね、たぶん詩のわかんなさと向き合うとき、
詩のわかんなさを楽しむための、
なんか、とっかかりがある。
ある意味だから、今の詩のトレンドとして、
例えば今は動詞をこういうふうに使うのがトレンドなんだみたいなことを把握していれば、
その段階になっていっちゃう感じがわかるとか。
あればなんかこう、僕なんかはこう、
割とドヤ顔で語りたくなっちゃうところがあるのかと思うんですけど、
たぶん詩はあんまりそこまでそういうのないのかな。
詩はないのかな、どうなんだろうな。
45:07
そうだな。
難しいとこですね。ここは本当に、
詩を語ることの難しさみたいなのは、
そこら辺はあるんですよね。
それこそ岸上さんが本を読んでても、
ぶっちゃけ語るもんじゃねえんだというか。
どちらかというと、岸上さんは結構料理とか、
手で物を作ったりするのがお好きなのとかも、
ある意味それ、制作してる間の喜びとか、
感情の打ち替わりって、
本来的に言語化できないものじゃないですか。
キッチンに立ってる間の動き方とかっていうのは。
動作として描写することはできるかもしれないけど、
実際そこで起きてる感覚とかを全部全部言語化するのって、
本来無理なはずで、
割とそういう深い深いに近いところというか、
身体感覚に近いところで、
なるべく言語以前のところで感じるしか、
知ってやりようがないのかもしれないなっていうのは、
薄々なんとなく、それこそ絵画教室とかの、
エッセイとか読んでても思うんですよ。
割とその、ある意味中小的な、
人文書的なものが片方にあるとすると、
もう片方に身体感覚みたいなものが両極にあって、
割と言語化できない部分に、
極まで言語で近づいていったものが、
割と詩の世界なのかなって。
ある意味人文とか小説って結構言語の世界なんで、
言葉で語りやすいんですよ。
言葉で書かれてる言葉の構築物だから、
それをもう一回言葉で分解していくの結構簡単なんだけど、
割と詩は言葉で書かれてるから騙されやすいけど、
実はもうそれ以上分解できないんじゃないかっていうのが、
それ以上展開できないんじゃないかっていうのが、
もしかしたらあるのかもしれない。
でもそうなるとブルースリーじゃないですけど、
もう感じるしかないっていう話に、
確かになっちゃうよなって。
乱暴ですかね。
いや、あのー、ちょっと面白いなって思うのは、
あのー、面白いなって思うのは、
かけがえさん演劇とかのやつとか、
松原俊太郎が多分、
あったでしょ。
演劇と小説が、
間に詩を持ってきてるみたいな感覚。
確かに。
あれもね、ちょっとすごい気になってるところで、
そのね、そのキワまでいってるっていうときに、
さらにそっちにいってる演劇はどうなんだろうね、
ちょっと思いましたけどね。
そうですね。
でも演劇はそれこそ、
なんかすげえ素朴な話、音読前提なんですよ。
このポッドキャストとかもそうですけど、
声に出して喋ってるときに伝わる言葉ってやっぱり文言とは違うから、
なんだろうな。
48:00
だからその、なんていうのかな。
演劇の、ちょっと一昔前のアングル演劇とかだと、
それこそアポリアとか、
言いたがりますけど、
それカタカナ語を急に出されても分かんないじゃないですか。
だからそこでどういうふうにそれを交互に移し変えていくのかみたいな。
てかその、
俳優の身体っていうものから無理なく出てくる音に変換するみたいなところが、
一個あるから、
具体的に誰かの身体を介して、
音として出てくる言葉っていうのが前提になってくるから、
劇局っていうのが分かりやすいんですよ、やはり。
身体前提にしてるから、書かれた言葉が。
そこを身体前提にしないで、
書いてもいいじゃんっていうことをやったのが、
松原さんの山々とかの含めてのやり方だと思って。
僕はなんかそれは、
それで一つ面白いんだけど、
あんまり面白くないなと思ってて。
でももしかしたら確かにそれが詩を読むときの一個のヒントになるかもしれないって思うのは、
詩もだから僕は今、
ある意味どっちかっていうと身体的なものかもしれないって言いつつも、
文字しかないじゃないですか。
だからある意味それこそ松原さんの劇局みたいな、
上手前提としない劇局みたいなスタンスで読むと、
結構詩の、
僕の中では詩の使いの可能性って広がりそうだなって今ちょっと、
だんだん思い始めてきました。
詩って結構音読します?
音読はしないですね。
本当に読むっていう、
声に出して読むってことはしないですね。
自分の場合は。
でもそれこそ朗読なんかいくらでも本当にありますから。
詩って言うとね、そのイメージもありますよね。
それもあるかも。
でもだから多分その本当に具体的に声に出して読むか読まないかっていうような、
めちゃくちゃ素朴なところじゃないところで、
その言語以前の感覚に訴えかけていく装置として、
文字を使っていくみたいな、
文字意識があるんじゃなかろうかみたいなところから、
詩を読んでいくと、
掴めそうな気が、今勝手にしてるんですけど、どうだろうね。
そこ行っちゃうと自分の場合は絵に近いんですよね。
そこで戻って行っちゃうんですけどね。
絵とか写真とか眺めてるのと、
かなり詩近いんだよな。
説明するの難しいんですけどね。
それは面白いかも。
僕そのこそ技曲読むときとかも、
結構聴覚重視なんですよ。
音として入っていたときに、
これがどう響くのか結構気にしちゃうんですけど、
上演前提にされてしちゃうと。
でもある意味だから音じゃないかもっていうか、
どっちかというと視覚とか、
そういう方向に寄せていったほうが、
面白いかもっていうのは。
ジップファイルみたいですね。
短い詩を圧縮された言葉から回答していくと、
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いろんな映像が出てくる。
本屋でパラパラしてるみたいなのが楽しいのが詩集なんですよね。
小説だとじっくり読まなきゃいけないとかあるじゃないですか。
でも画集とかってパラパラって言うといいなみたいな。
詩もね、本当詩はパラパラって読むといいの、
自分に合うの合わないって結構わかるじゃないですか。
ほんとそんな感じっちゃそんな感じだし。
だから、これは言い方どうなのかなと思うんだけど、
アートだと思ってるっていうかなんですかね。
でもそういうことですよね。
それこそ美術館とかで絵見る時とかに、
わざわざその絵に対してわかるわかんないとか言わないっすよね。
そうそう、そんな感じもちょっとあるんですよね正直ね。
ある意味そこに描かれてるものが、キリスト教の背景知識が持ってれば
ここのモチーフがどうなのかっていうことは言うことはできるかもしれないけど、
ぶっちゃけそれと絵見ることってちょっと別じゃんというか、
絵見る時って別にそこの色が面白いなとか変な顔してるなとかっていうので楽しめる。
それで十分絵楽しめてるじゃないですか。
そのぐらいでいいんじゃねっていうのは大前提としてはある。
自分ではそれでいいんですけど。
自分ではそれでいいんだけど、多分なんかこうやって詩面白いから
もっと読んだらいいんじゃないみたいなことを思ってるのは多分ね、
自分が本屋やりたいとかって気持ちがあって、本屋将来的にやりたいから
そこをやっていかないとなっていうのは正直あるからなーっていうのがありますよね。
それはその本屋で詩歌研本をやりたい。
詩歌、さっき言ったみたいに現代詩手帳とかユニーカーとかいっぱいいい詩人いますから、
それはやっぱり出版社通してじゃなくて自分で作ったりしてる人いっぱいいるんで、
そこで仕入れて売りたいなっていうことをやってみたいなと思ってて。
発表の場を持っておくっていう。
そうそう、それもありますけどね。
ただ好きでいるだけで、いやそれはいい歌でよかったんだけど、
そういうのもやりたいなっていうのがあって、こういう本作ったりとか。
今の活動みたいなのもそういうとこありますよね。
でもそういうとこ繋がってくるのかなと。
自分でやってるっていうのも含めて。
自分でやってる、詩とかも自分で書いてみるのが一番早いのかもしれないですね。
そうじゃないですか、それはすごい思いますよね。
料理とかもそうだし、写真集とか詩もそうだけど、
自分でただ漫然と絵として見るんじゃなくて、
筆使いとかその画材ってどうやって扱うんだっけみたいなところに多少イメージが持てるだけで全然違うじゃないですか。
僕全然運動しないくせになぜかこの野球に例えたがるんですけど、
野球やったことない人が野球中堅見ても何も面白くないんだけど、
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多分あれは自分でバッと振ったことがある人とか、
自分の方に飛んでくるボールの速さっていうのを体感として知ってる人から見ると、
すげえことやってるわけじゃないですか、きっと。
みたいなところで、やっぱり何がすごいかを理解するためには、
やっぱり自分で実際にその制作にどんなことが起きてるのかみたいなことを
分かってないとできないのかな、みたいなことは思って。
詩は短いからこそ、書いてみよう的にこれまでならなかったんですよね、きっと。
短いから。
短いから何かできる気がしちゃって、このぐらいの文字数だったら書ける気がしちゃって、
試したことがないから、何か。
やってみると違うかなっていうのが出てくるかもしれないですね。
そうですね。
ちょっとそれやってみようかな。
何かやってみると気づくこと、絵とかもそうなんですけど、
もうやれば買わざるを得ないから、パステルとか買って折れたりすると、
この色で同じ画材なのに、同じ所の商品なのに崩れやすいのと崩れにくいのとかあるんですよ。
それでやり方が違ったりとか、粉の感じが違うんですよね。
じゃあこっちだったらどうなんだろうと思って、ただ色だけじゃないですよね。
そういうのはやってみないと分かんなかったなっていうのはすごい思いましたよね。
同じ黒でもこんな違うんだ、みたいな。
擦った感じも違うし、紙も紙質とかもほんと違くて。
それはやってみて良かったなと思いました。
そうですね。
やらないと別に紙を何に使ってんだろうとか、
それこそ同じ色だってどこの画材を使ってんだろうとか、あんまり興味が湧かないですよね。
湧かないですよね。
そもそもイメージしないですよね。
黒だとしか、紙だとしか分かりません。
全然違うん、ほんと違うんだなっていうのはやってみて分かるし、
それで良いものができるかどうかとかそこは別にほっといて、
とりあえずやってみると分かることが出たと思います。
それはそうだな。
僕もだからそれこそこのポッドキャストもとにかく自分でやってみようみたいな一環でやってるので、
意外と喋るの難しいなとか。
難しいですよね。
人の話聞くの難しいなとか。
っていうのもやらないと分かんないというか、
それこそラジオとか色んなの聞いててこいつ下手くそだなとか思ってたんですけど、
最近も何聞いてて自分よりはマシだなって。
そういう見方が変わるみたいな。
やっぱりそれは自分が自らやってみる。
久々に詩も書かれてるんですか?
詩はね、今日ちょっと書いてあげてましたけど、
書いてたけど、詩は他に面白いのあるなと思って。
なるほどなるほど。
単純に詩大好きなんで、
自分でやらなくてもいいかっていうのが正直あったんで、
ちょっと他のことやってたんですけど、
でも詩もやってこうかなと思ってます。
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ちょっとニットみたいな感じで短歌やってましたけど、
そんな短歌が詩に移ってもいいかなって思ってますけど、
ちょっと分かんないです。
なるほどね。
それはあるかもしれない。
僕も小説すごい好きだから、
自分で小説書こうと思ってるというか、
小説を書かなくてもある意味書き手の凄さだったりとか、
そこでどれだけ高度なことが行われてるか分かるからこそ、
自分でやれる気がしなくて最初からやらないようなところがあるなと。
それに近いです。
やるのをやってみて、やり続けるのが大変だなと思うんですけど、
やり続けるのやり方をむしろ構築するというか、
そっちのほうが重要だなと思うんですよね。
やること自体より、
日記続けずにルールを自分の中で作ることがすごい大切だなと思いました。
僕もそうですし、きなみさんも、
普段は普通に仕事というか、
勤め人じゃないですか、
ある意味自分でコントロールできない部分で、
時間と体力が削られることも少なくないのかで、
ルーティンとして制作であったり創作であったり続けていくのって、
まずそれだけで結構大仕事ですね。
これは本当そうですね。
でもだからといって専業が偉いかというと、そうともあまり思ってないというか、
割と今のこの状況の中で、どうやったら楽しく続けていけるかなみたいな、
多分関心としては大きいと思いますね。
自分の場合はあまりプロとかアマチュアの協会自体も全然気にしてないんで、
面白いものを作っていればその人も見たいと思ってるし、
そういうぐらいの感じだと思いますけどね。
プロはプロでもちろん大変だし、どっちもあるんでしょうけどね。
それこそどんどん出版に関しては、最初の部数とかもそうですけど、
大分その大きいところの大きさが先細りしちゃってるというか、
体力なくなっていっちゃう分、
小さく個人でやってるものがそんなに不利にならないというか、
具体感出そうとも出せるような状況って何だろうなみたいな。
大体たぶん1時間くらいですけど。
これで1時間?本当ですね。すごいですね。
見た瞬間に時計チェックしてるんですね。
俺今あったら脳チェックしてる。
一応ちゃんとチェックしてます。
ここまでの話を踏まえても踏まえなくてもいいんですけど、
1:00:00
具体的なおすすめの刺繍とか指針とかもしあったら教えてください。
おすすめの刺繍。
今日ね、おすすめの刺繍というか刺繍のエッセイですよね。
そういうのもいいですね。
これがすごい最近いいなって思ったのが、
この一編の死に出会った話。
鴨川出版。
さっき寝取りさっきあったんですよ。
ありましたよね。
ピッポさんって方が、一人一人に、
有名どこなんですけどね。
はいはいはい。
そうそうたるんですよ。
そうそうたるメンバーがいて。
一つの死に出会った話って本当それだけなんですけど、
本当それですよね。
そのインタビュー集なんですけど、
そうそうたるメンバーが本当に普通に
死楽しいよねって呼んでるインタビューで面白いですよ。
だからまさに自分のやってることにかなり近いですね。
これは本当に近いと思います。
これとやっぱり去年出たあんたのどが渇いた。
三崎書店か。
ありましたね。
黄色い本。
まさにこの二冊が去年というか近いんじゃないかなってやってることが。
なるほど。
実際面白かったんで。
やっぱ同じ感覚の人はいるんだなって思って。
ちょっと読んでみて。
これは面白いかなって思ってます。
確かにそうなんですよね。
結局何でもかんでも楽しそうな姿見るのが一番実は取り早いですよね。
そうなんですよ。
みんな楽しそうに読んでるなっていうのが。
あとすごいなんか詩が日常にあるなってすごい思います。
ちょっとした時に生活してる時にこの詩で思い出すんだって書いてあったりして。
それが自分の場合もそうですけど急にふと思い出すんですよね。
それがあってその時に気づくというかね。
あれ?って思って読み返すとやっぱいい詩だなって感じで。
本当そういうことですかね。
それは結構そうなんですよね。
音楽とかでも聞いた時ピンとこなくても妙にずっと鼻歌で歌ってるなって気づいた時に
あれ?俺この曲好きなのかみたいになるみたいな。
本当そんな好きじゃないと思ってたと思うけど口談というのがありましたよね。
そういうのに近いかもしれないですね。
読んでみます。
非常に詩が身近になるっていうかね。
それはこの本読んだと思いましたね。
1:03:00
読んでみます。
なかなかいい話も多いですね。
前週お自転車に積んで帰った子供時代の話とかね。
そういうこと言ってる人がいてめちゃめちゃいいじゃんと。
いいですよ。
かわいい夫かな。
ナオコーラさんのエッセイでそういう話が出てきて。
夫さんの方が寝る前にだいたい詩集を読んでて。
たまに気が向くと気に入った一節を読み聞かせてくれて。
それが割と毎日日課としてよくいい感じがあったの。
そういう良率テンションを上げるために音楽をかけるぐらいの感じで楽しめると。
短いから細いみたいなのをパッと読めて。
そういう時に思い出せるフレーズが来るみたいなのもあるんじゃないかなと。
面白い。
チェックしておきます。
とりあえず一旦このぐらいかな。
ちょっと最後の方のアナウンスがどれだけ入っちゃってるかちょっと不安ですけど。
公演のアナウンサーじゃないですか。
確かに入ってましたね。
でもそれが入ってたら面白いなと。
というわけで早稲田大学近くの富山公演からお送りしました。
お相手は私関係ない松本と岸並龍でした。
ありがとうございます。