1. ポイエティークRADIO
  2. 第百九十一回 『夜明けのすべ..

映画の話をしました。

00:01
はい、こんにちは。ポイエティークRADIOです。お相手は、私柿内正午と奥さんです。どうぞよろしくお願いします。
寒いですね。すごいね。なんかさぁ、ガッて。ガッて。なんか毎年さぁ、あるよね、この。三冠四温ね。三冠四温ってこの時期なの?もっと三月とかに入ってるから?もうこの時期から?
ちょっと早いよね。ちょっと早いよね。でもなんかさぁ、もうそろそろ暖かくなってきて嬉しいなって思ったらさぁ、寒さに突き落とされるみたいなことをさぁ。
毎年新鮮につらいね。うん。1ヶ月くらいそういう時期が続くからね。今年はね、1月からちょっとプロレスを見続けてるじゃないですか。
でさぁ、あの、解説者がさぁ、あーもうこれは気持ちが切れちゃったかもしれないとか言うじゃん。あれね、よくわかる。
最近だとさぁ、海のショーターはさぁ、とにかくハウスオブトーチャー戦でさぁ、周りの人たちがこうどんどん乱入していくのをさぁ、バッタバッタ投げ倒してさぁ、大きい綿でさぁ、こうひっくり返して、歓声を一瞬に浴びるところがさぁ、要するにさぁ、ちょっと暖かくなってきたかななんだよ。
でもその後背後からプッシュアップバーとかでさぁ、後頭部を殴られるとさぁ、もうそこから一気に冷え込むわけだよね。で、雨とか降り出しちゃうわけ。みたいなさぁ、感じでさぁ、プロレスラーってすごいなって。
あそこから気持ちをね、持ち直すことができるっていうのは相当なことだよなぁっていうのを今日ね、この前の北海道北エールのね、ニックネームS・デビット・フィンデースを見ながら思ってたよ。
簡単さっていうのをね、そこから立ち上がるっていうのはすごい大変なことなんだよな。
3巻仕様の7日間の間、ずっとアドレナリン出すことはできないから、私たちには難しいね。
そうなんですけどね。
今日は映画の話をしようと思ってるんですけど、一回ちょっとごめん。余談を話すわ。
あのね、気持ちが切れちゃうと言うとさ、去年の僕すごかったじゃない?
去年の僕っていうのは、今目の前にいるあなたにとっての僕ではなくて、文筆などをされている書きないしょうごさんがね、すごかったじゃないですか。
やたら大阪とか福岡とかさ、あちこち行ってさ、名古屋とかさ、ちゃんとしゃべったりさ、PPしゃべったりしてきてさ、とにかくあちこち行ってたね。
肉体のキャッパーで言うとさ、ギリギリのところまで追い込んだ感じあるじゃないですか。
03:00
ほぼ1週間、アメリカから北海道から九州からいろんなところで勉強して、プロレスと比べるまでもなくさ、そもそも3ヶ月か4ヶ月に1回の移動で疲れちゃうような人間なわけですよ。
なのにさ、去年は頑張ったじゃん。でもさ、去年は大枠1年を通してアドレナリの年だったなって思うの。
今年はつってもね、春は毎年つらいから、毎年つらいから今年はもうダメかもしれないつっても、そもそも去年だって動き出したの6月ぐらいからだから、実は変わんないんだけど、今の僕はダメかもしれんってちょっと思ってるところがあって、すごい気持ちが弱ってる。
去年で思いつきちゃったかも。
今年はとはいえ、沖縄に青木さんとね、青木新平さんと美奈子さんと一緒に行ってきて、あれはすごい楽しかったんだけど、アドレナリは出ないんだよね。
もともと僕らが旬になって喋りに行くっていうよりは、僕らもゲストとしてお邪魔して、ある日のお客さんとしてみんなでお喋りさせてもらうっていう回だったのもあるし、とにかくぽけーっとね、こうしてしまったところがあってさ、それはしてしまったっていうか、死に行ったからね。
一番はしゃいだのはね、高橋さんのある日のテンションの、高橋さんの息子さんと一緒に遊んでるときが一番アドレナリが出るぐらいの感じでしたけどさ、
とにかくね、やるぞっていう感じがないの、今。
闘魂がない。
闘魂がないって言いながらさ、1月に沖縄行ってさ、来週末さ、もう今週末か、録音的には。
先に告知しといたらいいんじゃない?
あのね、ちょっと待って、一回調べていい?正式の名称さ。
大丈夫、あのね、さっきツイートしたばっかりだから、たぶんすぐ出るんですけど、
だから、とにかく僕はもうストロングスタイルじゃないの、今年は。
今年はストロングスタイルじゃないと言いながら、もう1月と3月にすでにイベントを。
1月沖縄に行きましたけど、3月。3月ってもう今週末のね、3月の1日、うそ、2日、3日の土日に岐阜に行きます。
岐阜駅の、岐阜駅の校内にアクティブGっていう、まあその駅ビルみたいなのがあるんですけど、そこの2階と3階の会場で、岐阜駅本野市っていうイベントが開催されます。
岐阜駅でこういう、なんかね、岐阜もそうだし、全国からいろんな古本屋さんが出展するような本野祭りなんですけど、
06:04
この岐阜エリアでこういう本のイベントが開催されるのは初めての試みらしいんですよ。
で、なんか結構その文振りとかも名古屋とかないんだよね、実は。
だから東海地方でそういうイベントがそもそもあんまりないよっていう中で、
さらにですね、これはツレズレ社っていう岐阜の本屋さんと、名古屋のいつもお世話になっているオンリーディングさんが企画している祭りなんですけど、
一緒にね、このオンリーディングの黒田さんたちがインディペンデントパブリッシングマーケットっていうのを、
この本野市の本屋さんたちが集まるお祭りと同時開催でもう一個お祭りをやってくれるっていうので、
こっちはね、名前の通りというかインディペンデントなパブリッシングをしている人たちがマーケットする場所なんですけど、
そこにちょっと誘ってもらってね、行ってくるんですけど、
こういう方がマジで東海地方で代わりに読む人、友田さん、機械書房の岸並さん、などなどいろんな方々が出るという、
ちょっとした文振りみたいな。文振りよりも他の本屋さんもあるからね、
本野お祭りという意味ではかなり大きな規模のギフの、初めてのギフでの本屋さんイベントというのに土日参加します。
ギフ駅で午前11時から17時までの両日開催で、
2日土曜日に関しては2階でやっている古本屋さんたちの一番の方は19時まで開催なので、
僕は5時まで売って、売れたお金をすべて19時までの2時間でその下の古本屋を買って帰るということをするつもりなので、
僕がたくさん買えるようにぜひね、ギフの方は買いに来てくださいというのと、
ギフ駅は実はアクセスが良くて、名古屋駅からJRで多分20分30分で着くんじゃないかなって思うので、
新幹線で名古屋までピュッと行って、JRでちょっとねギフ駅まで行けばすぐですので、
僕は名古屋が地元で、名古屋の高校だったり通ってましたけど、ギフから通っている人いたからね、同級生で。
だから全然そのくらいの近さなので、来れますよ、土日で。
来ててぜひね、ちょっと遊びに来てくれたら嬉しいなというふうに思っていますので、
よかったらどうぞと。
友情無料なの?
友情無料というか、駅の構内だからね。
普通になんかやって、なんで?
駅ベルでブッサンテみたいなのがあったりするので、ああいうイメージだと思いますので、ぜひぜひということでございます。
ということで、今年はね、ストロングスタイルではないにせよ1月沖縄、3月岐阜、5月は抽選が当たればぶんふり東京という形で、
なんかいろいろと、やってるやんっていう話かもしれませんけど、
09:00
でも、やってるやんっていう話かもしれないんだけど、やっぱりなんか、なんていうの?
慣れ?ってあるよね。
ちょっとこなれてきちゃってるところがある。こういうイベントごとに。
あんまり良くない。なんか結構1回1回が、前日眠れないぐらいワクワクしてたんだよ、去年までは。
今回大呼ばれというかさ、場を主催の人が整えてくれてるところに行く。
まあね、普通に3か月払っていくからね。
お客さんなんだよね。
全然違うんだけどね。
違うんだけど、でもなんかそういう、なんていうの?
すごいこう、そういうのじゃない。
なんか、全部楽しんだけどね。楽しんだけどちょっと、なんていうのかな?
日日常じゃなくなってきたかな。
即売会出るの自体はね、さすがに経験値が溜まったよね。
日日常というより日常の延長になってきてる感じがあるから、
別にそれはそれでいいんじゃないの?っていう話なんだけど。
っていうことなんじゃないかってさ、ちょっと思ってる。
今回はね、新婚もないからね。
アドレナリンなしでやれるようになったっていう考えはあるかも。
アドレナリン出すことじゃないって体が覚えたから、アドレナリンなしでやらなきゃいけないっていうことだね。
でもさ、実はこの録音とかもそうなわけだよな。
アドレナリン出したときの録音ってあんまり面白くないんだよね、後から聞き直すと。
後から聞き直すと、これ2人とも全然盛り上がってねえなってお互いに思ってるときの方が結構いいこと言ってたりするんだよ。
面白いなと思って、それが。
なんか、5月のブンフレではさ、ルチャー・リブロの青木さんと一緒に本作ろうっていう話を今してて、
青木さんと一緒にもう15、6回録音してるおしゃべりの記憶があるから、
その中からこれとこれにしようかってピックアップしたやつを文字起こしして本にしようと思ってるんだけど、
青木さんが直近のでいいかって言って直近のにしてくれたんだけど、
僕としては青木さんとのベストパートはやっぱり初期の頃のがなんだよ。
その頃が一番自分の中でアドレナリンが出てたから盛り上がってるっていうつもりでいて、
最近の手癖でちょっと戦っちゃって、戦いじゃないんだけど、なんかやっちゃってる感じがするというか、
なんかもう、あの、
開始5分優勢だった方が負けるんだろうなみたいな。
そう、なんかちょっとこうね、あの、あれ、あの、
あ、海野翔太この辺でそろそろ金的を食らうんだろうなみたいなさ、
なんかそういう気持ちになっているところがあって、
なんかちょっとこれで本当にいいんだろうかと思ってたの。
だけど文字起こしってさ、文字起こしって面白くてさ、
なんかもともと今だとAIソフトでさ、大体その割と参加者ごとで分けてくれるんだよ。
12:00
で、まあ5時とか多いからそこを直しながら文章にしていくんだけど、
文章にし直してみてね、読み直しながら文章として整えていくと、
結構面白いんだよね、自分で読んでても。
で、なんか聞いてるとあんま面白くない、やっぱり。
で、なんかこう、あんまり自分がワクワクしてないなって思うんだけど、
それを文字にして直してみると結構ね、面白いこと言ってたりしてて、
だからなんか、ああ、そういうもんなのかもしれないなっていう。
なんか抑揚とかスピードとか動きの強さとかで面白いとか刺激物になっているものと、
その内容というか文章化した時の面白さっていうのは全然別の話だよね。
そう、全然違うんだよね。
だからなんか落ち着いてる時の方が文章としての面白さ、
っていうか意味内容としての面白さっていうのはちゃんとあるのかもしれないなって思って、
喋るってのはやっぱりパフォーマンスだからさ。
で、そのパフォーマンスの方に僕がこれまでなんかやった感を自分で感じてたけど、
実はそれってあんまり意味ないかもなみたいなことを、
意味ないとは言わないけど、なんかそうじゃない感じになってきたのかもなっていうのを思ったりするんですよね。
文章化すると質が変わるっていうのだとさ、
芝居の感想を私はつぶやくじゃん。
でもやっぱりつぶやいてて、芝居は良かったけど脚本は合わなかったなっていう時、
やっぱりどうしても脚本は情報だからさ、整理できるんだよね。
整理していくと、やっぱりなんかちょっと時代背景とか分かったら納得するのかもしれないけど、
モヤモヤするなーみたいなところがどんどん解像度が上がっていって、
その前の芝居だからさ、もちろん役者のパフォーマンスが先にあって、
その中で脚本が引っかかるっていう。
そのね、役者のパフォーマンスをどんどん忘れていっちゃうのがね、良くないなって思う。
だから、脚本は合わなかったけど、あのシーンのあのアクトは良かったなっていうことをね。
積極的に言語化しないと、言語化しやすさが違うわけじゃない。
文字情報を文字情報で表明するのとさ、言語外の表現をさ、自分が覚えておくために言葉にするっていうのはないのが違うからさ、
もうその苦手な方をやってやりすぎることないから、なるべくアクトを褒める。
で、結果的に後からさ、見返した時に良いものを見たんだな、私は良いものを見たんだって思うから、
15:08
ちょっとあんまりね、脚本についてバコの隅につくのはやめようって。
それはかなり重要な話だよね。
あのさ、友田さんと、代わりに読む人のね、今度岐阜駅でもご一緒する、代わりに読む人の友田敦さんとかで、
数学のもともと研究されてたりしてさ、
友田敦さんだけじゃないけど、理系の人たちがさ、よくさ、ツイッターとかでさ、言うこととしてさ、
さっきもあなたも言ったさ、解像度を上げるとか解像度が高いみたいな言い方にもやもやしてて、
どこにもやもやするかっていうと、それはつまり解像度を上げると他の何かが下がってるはずなの。
だと。
だから解像度を上げたるっていうのが必ずしも何かが良くなることと限らずに、
別の質の何かを犠牲にして、
その数値のさ、このパラメータが変わっていることだから、
なんかその解像度変調にすごいこうもやもや、そういうことを言ってるわけじゃないというのはわかるけど、
でもそういうことなんじゃない、
なんかを結局見逃してるっていうのは意味ではあるんじゃないかみたいな話を結構いろんな人がしてて面白いなと思うんだけど、
要するにやっぱり言語にするときって言語にパラメータが振られすぎるから、
非言語的なものについては見えにくくなっちゃった、感受性が下がるんだよねその分。
だからやっぱりその音楽レビューとかディスクレビューで歌詞カードの話ばっかりするとかっていうのも、
今あなたが言ったその脚本について、結局言語にしようとすると言語とくっつきやすい脚本についての話になってしまって、
どうしてもそこで終わっちゃうというか、そっちが大きくなっていっちゃう。
で、非言語のものが塗りつぶされていってしまうみたいな事態はさ、割とあるわけじゃない。
僕は結構最初の頃の僕の日記を書いている理由として、
日記に書こうとするとちゃんとした言語編長の感想を書こうとするとだるいから、
良かったしか書かなくなったり、見たしか書かなくなったりするんだけど、
それによって言語に振りすぎない。
言語化しすぎないで、非言語的なものの方を残しておく予定を作るために、
ラフな場を作っていくみたいなことをやってたなっていう気もしてて、
だから割と今のね、あなたのそのお芝居の感想を書こうとすれば、
いつの間にかどんどん脚本の話になっていっちゃうみたいな話は、
すごいそうなんだよねっていう気持ちで。
だからそのiPhoneとかでさ、写真を撮る時にさ、
ここにフォーカスを当てたいとするとさ、すごいキュッて合うじゃん。
で、キュッて合うってことはさ、
フォーカスを当ててないところがさ、すごい甘くなることによってさ、
コントラスト、フォーカスのコントラストが効いて、
それっぽい写真が撮れるわけじゃん。
そういうことが起きちゃうんだよね。
18:02
そう、なんかもう自投自になっちゃうんだよね。
で、その言語化を頑張ったところに記憶のフォーカスが当たっちゃうから、
そのフォーカスを当てたいところと覚えておきたいところは別なのに、
当たりやすいところに当てちゃって、
それによってもっと覚えておきたいところがあるのに、
なんか気に食わなかったところばっかり覚えてるみたいなの、
嫌だなーっていうことよね。
だからやっぱり言語って元々言ったら記憶のための道具なわけじゃない。
それは別にノートにメモ取らなくて、
もう頭の中で文字というか言葉にした時点で、
その形で定着するように圧縮されてるわけだよね、情報。
記憶の情報がさ。
それに対していかに抗っていくかっていうのはさ、
プルストの失われた時を求めてもさ、そういう小説なわけですよ。
やたら長いのには理由があってさ、
やたら長いところで長々とだらだらと描写されているものは全て美しいんだよ。
非言語的なものを描写しようとすると長くならざるを得ない。
だけどその失われた時を求めての語り手が総括して、
だから社交界とはこういうものだとか、人生とはこのようなものだみたいなことを
言おうとした途端にすごい情報が圧縮されるの。
それはそれでかっこよく格言を見えたことを引用したいときには便利なんだけど、
そこには実は愚痴っぽいこと、悲観的なことしか残ってないわけ。
だからプルストを読むときに社交界の悪口しか出てこないの。
ある意味その観念的なところでは。
だけどそのプルスト自身が描写して見ている社交界の雰囲気とか空気とかその夜の感じっていうのは
何かやっぱり美しさがあるんだよね。
だけどそれを語り手自身が言語として認知するところにはあんまり美しさが出てこない。
このギャップを描いてるっていうところだけでもやっぱりプルストはすごいなって思うわけですよ。
しかもそれを言語化しようとするとパッと出てくるのは文句だけかもしれないけど、
実際認知しているその非言語的なものっていうのは何かそれぞれのものかを持っているんだっていうことを
言語だけで小説という形で組み上げていくってことをしようとしているわけだから。
あの物量には実はすごい必然性があるわけだよねっていうようなこととかね。
いろいろこう思うわけですけれども。
だから本当は今日はミヤゴスのね、
ミヤゴスターのタイ・ウエスト監督のパールとね、Xを見てすごい良かったからその話をしようと思うんだけど、
その前に先週ダンジョン飯の話に集中することでしそびれた夜明けのすべての話もちょっとしておくと、
21:07
やっぱりね、三宅翔監督の最新作でね、今映画館でかかってますけど、
夜明けのすべての良さっていうのはさ、まさしくさ、
今の話で言うとさ、非言語的なところというかなんていうの、
描写でしか良さを伝えられない瞬間に満ち満ちてるわけだよね。
それだけ言いたかった。
いや本当に素晴らしかったな、あれは。
今日はちょっと主題としてはパールの話をメインにしたいと思うけれども。
小説原作でさ、原作小説読んでないくて、
なんか多分原作が好きで映画見に行った人は、
なんかちょっと好きなシーンが入ってなかったのは残念だけどめっちゃ良かったみたいなことを言ってる人は見かけたんだけど、
その言葉ってさ、描写されたものなわけじゃないもとは。
でもどれくらいつまんでるかわかんないけど、
おそらく小説において、良いシーンなところを言葉を使わずに良いシーンにアダプテーションしているんだろうなっていう感じがしてて。
夜明けのすべてはすごい良かった。
正直、けいこはあなたほど感じて、
けいこ目を澄ませてね、あれも大傑作ですね。
なんか良かったけど、
それこそ言語化できないというか、
あんまりはしゃぎできなかったところがあって、
夜明けのすべてはすごいわかった。
私にもわかるぞって思った。
題材のシビアさに対して絵がすごい優しくて、
でもそれはぼちゃぼちゃやってこうよみたいなそういうことではなくて、
みんな直接的に助けてくれないけど、
すごい緩やかに連帯しているっていうののさ、
描き方がさ、めっちゃ丁寧だよね。
そうなんだよね。
実はみんな割と自分の負った傷から立ち直れないでちょっとうずくまっている時間。
24:04
おのおの過ごしているだけとも言えるんだよね。
だけどその一人一人がそのうずくまっている時間が、
そのまま誰かがうずくまっている時間の、
少し気持ちを楽にする助けになるかもしれないっていうぐらいのことを描いていくわけじゃない。
基本的に大事なところで絶対に全身がほぼ入るような、
引きのショットで撮るんだよね。
やっぱりそれがカメラの距離の撮り方がそのまま映画のスタンスになっているというかさ、
そんなに踏み込まない。
だけど踏み込まないっていうのは冷静にただ距離を撮ってるっていうことじゃなくて、
何かしらそこで何か悪くないことが起きるだろうことを信じて待ち構えているスタンスなわけじゃない。
そのカメラの置き方自体がさ。
だからもうここから撮るんだっていうことだけで泣けちゃうんだよ。
あと何ていうのかな。
絶対に最初の冒頭のあたりのこういう話なんだよっていうのを開示していくところでさ、
割とヘビーな話であることは分かっていくんだけどさ、
早々にここの人たちの周りにいる人たちはこの人たちのこと絶対に傷つけないんだっていうことをさ、
すごい説明的でない形でさ、
でも安心させてくれるんだよね。
特に劇映画において我々はさ、
何か嫌なことが起こるというか意地悪なことが起こったり大変なことが起こって追い詰められていくみたいな不穏さにさ、
物語的な不穏さに慣れすぎてるじゃない。
だからちょっとしたことでやっぱり不安になるんだよね。
ゆるキャンの劇場版がいい例だよ。僕はだから絶対りんちゃん死ぬと思ってたからあれ見てる間。
でもそれが嫌すぎてずっと嫌だって思っていたみたい。
でも最後まで優しいことに安心して最後の方はボロボロ泣いてるんだけど、
でもそれってさ、絶対に嫌な思いさせられるってこっちは怖がってたらさらせられなくてよかったっていう最悪の。
結構意味わかんなかったもん私はあなたのその情緒が。
だってゆるキャンだよみたいな。
でもやっぱりゆるキャンでさえ信じられなかったんだけど、
27:02
夜明けのすべては結構信じられたんだよね。
だからあれがすごいなと思って。
夜明けのすべてはすごい文章劇だったね。
そうそうそう。
傾向以上に。
文章劇って結局、実は一番ドラマがあるところが一番自分からは語らない人物の視点に立ってみたときにおおってなるじゃん。
名文化されてないところでじっくり考えたときにすごくない?この話って私はなっちゃいました。
あなたがそのさ、ちょっとネタバレになるからすごいぼやかしてるけどさ、
その主人公の2人、若い2人の話なんだけど、
その若い2人がある程度様子が変わっていくわけだよね。
変わっていくときにいろんなそれを見守っていたり、ちょっとどうか支えている大人たちがいるわけだけど、
その2人が勝手に前を向いていくというか、勝手に何か変わっていくことによって誰よりも照らされていたのは、
実はその身を持っていたり支えていたりした側として後継にしりどいている大人たちの方なんだよなっていうか、
やっぱりあの映画によってすごかったのは、大人の終盤での2人いるんだけどね、優しく支えている傷ついた大人がさ、
この子はもう大丈夫なんだって思ったときにすごい顔をするんだよ。
そこでさ、その場ではよくわからないまま泣いちゃうの。見てる間は。
でもあれはなんだったかわからないけどすごかったってなる。それは本当に言語化されないままのすごさなんだけど、
それについてあなたがさ、これはきっとこういうのがあってっていうのを、
直接は物語られない大人の目線で原作を読むわけではなくて映像から読み取れることから書き直していったわけじゃない感想として。
だから直接的にあの大人たち2人に救いの手が差し伸べられたわけではないけれども、
その勝手にその遠くで起こった何かを反射して受け取ったである2人の姿にすかし見えた過去の誰かの面影みたいなものに
一つ救われるというか何か光を見れたんだなこの2人はっていう見方をだったんだって思って。
30:12
そこでだから改めて言葉にされることによってこっちはもうボロボロ泣いちゃうわけだけど、
でも何がすごいって最初から受け取ってんだよねそれを。
最初から受け取っていたものをあなたみたいな形で言葉にし直した時にもあんまり損なわれないというんだよ。
こういうことだったのかっていうふうにはなるけどそれがこうなんていうのかな。
別に分かってなくても伝わってるんだよねっていうことにやっぱりすごい演技だった。
でその凄さはなんかその感受性が豊かとか感覚がすごいって話じゃないわけ。
映画ってそもそもチームプレーンだからさ一人がそう思っていたその感覚だけで感覚が最後まで残るわけがないんだよ。
だからめちゃくちゃロジカルな映画としては映画としてはものすごい理屈っぽく作ってて。
ある意味その日本語という言語は使っていないけど映画の文法には非常にロジカルにのっとってる映画で。
映画の言語表現としてちゃんと理屈が通っているからこそこっちはそれを受け取った時にそのままわかるし
それをその翻訳しても文字列に翻訳した時にもそれは翻訳でしかなくて
何かそこで小さくしているわけでもないし大きくしてるわけでもないんだよね。
同じ言語活動だからイコールになるんだよ。
その映像をリプレイできるんだったら言葉にすることによって意味が縮小することはないはずっていうところがやっぱりすごいなと思ってね、という話です。
ここから無理矢理パールの話にするんですけど、その絵は絵分けのすべてのこのシーンはすごいけど何がすごかったのかっていうのが直接的には語られないけど何か食らっちゃうっていうさので
今話そうとしているパールとエックスは風切りはエックスが先で後からパールが前日誕として公開されていて私はパールから見てるからもう見え方が全然違うんだよね。
33:00
エックスに出てくるスラッシャー物なのでそのスラッシャー2人が過去に過去60年前どういう人物だったのかっていうのを後から前日誕としてパールが風切りされてるから
その中で私はパールがどういう人か分かった状態でエックスでスラッシャーとして出てくるパールを見るともう何だろう、事件がね、次々人が死ぬわけだよスラッシャーだからさ
13日の金曜日とかね
そうめちゃめちゃ13日の金曜日だった
あとテキサスチェーンソーのような
幽霊とかお化けが登場的なことが起こるわけじゃなくてなんかやばい殺人鬼がどんどんこう人を血ますに上げていくっていうタイプの映画ですね
もうパールを見た時点ではパールがすごい困難な状況でもう信じられるものがこれを信じるしかしょうがないみたいな追い込まれた状態でさ
最初から最後までそうなんだけどパールは
まあそのまま終わる
まずエックスでパールが出てくることによって
とりあえずパールは生きていると思うし
その信じてたものに裏切られなかったっていうだけでもうハッピーなんだよね
完全にスラッシャーの方に感情移入して見ちゃうから
すごいのはそのスラッシャーになっているパールとエックスの主人公であるマックスリーを同じ役者がやっている
もう完全に継承の物語なんですねっていうことがその前日誕から見ることによってしかも前日誕でその自分
パールの母の話まで出てくるからもう三代の継承の話なんだっていうことが
あの順番で時系列順で見るともうすごい明確なんだよね
だから風切り順で見たらさめっちゃ後出しで大事なこと言うじゃん
しかならないし全然わかんない全然わかんないのかなってエックスだけ見ても
だからそれは気になるのは時系列で見るともうわかってるから
36:00
エックスに出てくるあるシーンがすごい美しいシーンに見えるけど
単体のスラッシャー映画として見たら何が始まったのって
ならざるを得ないと思っていて
だからあなたはさエックスから見てるじゃん
の時にその夜明けのすべてのような語られないけど何か凄みがあるシーンで一回目は受け取るように
エックスのあのシーンを見たときによくわかんないけどなんかすごいのかもってなるのかしらって
僕の話からすると僕はエックスを見てエックスは正直そんなにね面白いけど評価してなかったの
映画としては60点ぐらいこの点数の付け方っていうのは
個人としての好みと映画の出来不出来を全部加味した上で60点ぐらいだなって思ってて
パールは100点なの
だからなんかねマジでエックスがもうちょっと面白かったらパール劇場で見れたのになぐらいに思ってるんだけど
だからエックスはそんなに好きじゃない
割と好きじゃないだよ面白いけど好きじゃないの映画としてもともと最初見た時はね
エックスの話はちょっと軽くネタバレをするけれどもあれはね史上最高齢のスラッシャー
っていうのが振れ込みで出てきてたのもともとはね
でももともとそれもなかったのかもしれない
誰にどんな酷い目にあるのかっていうのが誰が殺人鬼なのかも
最初はそもそも伏せられてたかもしれないけど
とにかくそのやばい年寄りに若者たちが始末に挙げられていくっていう話なんだよエックスはね
でそれだけ見るとそのエックス自体の作りとして
70年代ぐらいのだからポール・トーマス・アンダーソンのブギーナイツっていう映画があるんだけど
それと同じポルノ産業を撮ってるんだけど
その頃のポルノっていうのは映画館でかかってるわけだよ
だから日本でも日活ロマンポルノの系譜とかあるけれども
あの当時ホラーとポルノは無名でも撮れたの
金がなくても撮れるから
金がなくても元気があれば撮れる
元気と度胸があれば撮れるから
雑に言えばね
それによってのし上がっていった人たちっていうのはすごいたくさんいるわけだよ
例えば侍美とかね
その人たちのホラーとポルノの両方が持っている
その何もないところがのし上がるって時に
でもじゃあそこで搾取されてたのは誰なのっていう話が
割とこれはパールにまで通定するものとしてあるわけね
39:00
エックスの時点でもあるのは
あれはそもそももろ13日の金曜日はテキサスチェーンソーやシャイニングや
あらゆるその当時の70年代80年代ぐらいの
ホラー映画スラッシャー映画の引用に満ちている
実はオリジナルのシーンがあんまりない
ほぼ継ぎはぎ
だからちょっとごめんね
今はプロレスの話を一回例えるけど
分かんない人はここから聞き流してください
海野翔太のマイクパフォーマンスみたいな
海野翔太のマイクパフォーマンスは
オマージュと引用に満ちてるじゃん
人の名台詞を散りばめて喋る
お勉強はよくできるんですねと思うんだけど
お前の言葉で喋れよっていう気持ちになる
新しい面がそこから生まれないんだよ
だからXは映画が好きなオタクって
映画撮りがちだよねみたいな
俺ここまで元ネタわかるよみたいなところに
何か見出しがちよねみたいな
はいはいポプテポプテみたいな
そういう気持ちになるところがあって
Xの時点では武部先生の映画みたいな感じだった
とはいえその中で
若い女の子たちを搾取するような形で
ホラーやポルノというものが
映画の一つ栄養源として
それがさらに映画産業の養分になっていて
その構造自体を引用やオマージュに満ちている
その世界がある意味過去をもう一度搾取し直すことによって
散脱し直してサンプリングして作るっていうやり方で
ある人の批評性を作ろうとしているんだろうなっていうことまでは
Xの時点でも言えなくはないと
そうなった時に実はその映画っていうものの中から
一番疎外されていたのって誰なのかっていうと
田舎に住んでる年寄りなんだよ確かに
それはそもそもカメラの中にすら出てこないから
全く無視されたその存在が
その作集構造自体に牙を剥くっていう話として見ると
何かしら言える批評的な何かが言えるかもしれないっていう
雰囲気には満ちているわけXは
だけど悪いこととして結局その年寄り側が
若さに固執するような振る舞いを見せることによって
結局ある意味老人たちも映画になっていっちゃうんだよね
映画を告発するような仕立てを
ふんだんに盛り込んでいるXは
とはいえ最終的にでもやっぱりそういう
お年寄りもみんな映画に出た
映画になりたいでしょみたいな方で
もう一回反省とか自己批判に行くかと思いきや
もう一回自分たちの理屈に戻していってしまって
結局その頃見たことがあるような映画になっちゃう
っていう映画だと思ってたわけ
要するにだから
作詞構造自体を作詞的な手法で描いていく
42:03
それをさらにそれまで作詞の対象人もならなかった
音響も受けなかった外部から何か取り入れたファクターによって
それを今一度再生産するっていう
なんかねもっと面白くなりそうというか
もっと何か批評性に富んだ作品になりそうな予感に満ちているけれども
それがうまくいかない話になっちゃってる感じがあって
多分見ればわかるからあえて言わないけど
あなたが言ってた問題のシーンっていうのは
僕が見た時には結構笑ったの
めっちゃ爆笑して
ようやく意外性のある何か出てきたって思いつつ
これ嫌いだなって思った
っていうのは要するにそこが唯一
こっちとしてはある意味何か
そこが抜けた瞬間で
うわこれは考えてなかったらウケるわってなるんだけど
でも結局それって
冷静になるのその瞬間に
でもこれって結局既存の映画の
ポルノとホラーに象徴されるような
映画産業自体の持つ作詞構造であったり
何か下痺た眼差し
野獣魔根性覗き魔としての好奇心みたいなもの
に奉仕する映画というものへの
これまでどちらかというとギリギリのところで
そこに対して
批評的なスタンスであり得ていたこの映画が
ここでガラッと
結局これまでの既存の映画に変わってしまった瞬間でもある
というか
これまでのその頃の映画が持っていた下品さを
もうろ悪的に示していく
パフォーマンスとして
やってるわけじゃなくて
マジで露骨に趣味が悪いんだ
っていう映画になった瞬間でもあったんだよ
Xだけ見ると
だから結局そっちに戻るんだったら
わざわざこれ今やる人って何かあったみたいな
お行儀のいい引用
よくできた大学2年生のレジュメみたいな映画だな
みたいな気持ちになってたわけ
こっちとしては
だからあんまり不運だったんですよね
っていう感じXに関して
それを聞くと
パールから見た私はより嬉しくなる
そういう批評的な意味でもパールは
映画に出てたんだなって思う
そうなの
だから今の僕が言った苦々しさが
割とパールを見ると印象が一気に反転するの
だからあなたと
正直Xは見なくて
どうだろう
パールが先に一緒にパールを見て
でXはあなたが見てたから
Xを見てパールが良かったのが
かすんじゃうというか
なんかがっかりしたくないんだけど
どうって聞いたら
45:01
どっちでもいいと思う
もともとパールは僕が先に
ユーネックスのポイントで見て
あまりに良くて
ちょっとこれポイントで見るとね
3日とかで消えちゃうから
いいからパール見ようって言ったあなたに
半分無理やりパールを見せて
あなたにすごい刺さって
嬉しかったから
僕はでもこの記憶を持ってXを見たら
どうなるのかなって
もともとちょっと思ってたから
でもあなたと一緒に
そんなにせっかく刺さってくれたのに
そもそも私がホラーそんなに得意じゃないからね
っていうのもあって
どうしようかなって言ってたんだけど
見返すと
なんかもう全部ね
微妙だったと思ったところが
全部意味が変わるんだよ
ひでえ話だな
ひでえ話だよ
そう
ひでえ話だと思うあれは
だからちょっと
僕多いと思うのXが
そういう意味で苦手になった人たちって
なんか
なんかねパールは
なんかそういう意味で
パールからは主演のミヤゴスがさ
脚本とかプロデューサーの位置にも入っていて
作品のコミットがより強くなっているんだよ
だからそれも良くて
要するにタイウェストっていう男性監督が
スラッシャーで作った
映画のめちゃくちゃギークっぽいXっていう
映画の意味を読み換えてしまうパールっていうものを
その主演女優が
ミヤゴスという一人の俳優が
入り込むことによって
ある意味その読み換え
意味を全て反転させ得るものを作ってしまったっていう
意味合いでも
すごいある意味取られる側であった人間が
ファイナルガールが
前の映画の意味から
全てごっそり読み換えさせてしまう
ものを作るっていう
それ自体がかなり美しい構図
すごいよね
でさ
だからすげーなって思ってね
いやパールはマジで良くて
ちょっといいですか
はいどうぞ
僕はXから見て
Xの時点でそんなに魅力的な映画じゃないからこそ
パールを見たところがあるの
どういうことかというと
テキサス戦争とか
13日の金曜日とかも僕好きなんですけど
好きだから
フレディオリジンとか
レザーフェイスの誕生秘話とか見てないの
あとジョーカーは見たけど
ジョーカーは別にその
直接的に他のバットマンのオリジンじゃない
じゃない
でもあれもあんまりだから
これは後で
てか一回話すけど
要するに
悪役のオリジン
っていうのは
大抵つまらんのよ
あのねプロレスもさ
ヒールってのは一番ロジカルじゃん
でね
48:00
ロジカルの方がいい悪もいるんだけど
何かその
特に西洋的なタブララサ的な
生まれた時はみんな真っ白で
何が書き込まれたかによって
その人の人格が決まっていくみたいな
発想でいくとさ
要するにもう
悪になっていく様ってさ
めっちゃロジカルに囲ったので
いくらでも書けるわけ
要するにこんなかわいそうな目にあって
こんな時代背景があって
こういう生産者があってとか
っていうところから
彼の中に狂気や闇というものが
彼や彼女の中に
狂気や闇というものが
生まれてしまったんだ
っていう書き方になっていくわけ
だよね
スターウォーズとかもそうじゃん
最初あんなかわいいさ
クリクリの子だったのに
それがああなっちゃうのはなぜかみたいな
書かれ方になっていく
みたいな
とにかくそういう
まず共感できる人物としてあったものが
だんだん追い込まれていって
かわいそうな目になっていくとか
別にそんなに悪い人じゃなかったはずなのに
何か
社会と折り合いがつかない何かがあって
それが何かのきっかけで
大きくなって
闇に染まっていってしまうみたいな
エピソードになると
つまんない
時代の被害者みたいな
そうそうそうそう
ものに
ひいる場合
消化されると
すごいなんかがっかりする
そうなの
だからやっぱりさ
僕はもともとどちらかというと
普段の性質としては
わりと社会構成主義だったり
構造主義的なものと
親和性が高いわけ
だから
大体の人の振る舞いっていうのは
その社会構造というものによって
ほぼほぼ決まっていると思っているよ
思っているんだけど
映画における悪っていうのは
そんなちまちました話に
収まってていいわけがないんだよ
だけど大体の映画そうなっちゃう
それが嫌なの
だからジョーカーは
わりと嫌なのはそこなの
ジョーカーだからめちゃくちゃ
なんかそれこそ
言語で語れちゃうじゃん
でもそんなことで
全員人が悪くなるんだったら
もう悪のカリスマ
いくらでもいいんじゃん
じゃあなぜこの人が
じゃあなぜわざわざこの人だけが
悪のカリスマになり得たのか
っていうところ
何の説明にもなってないじゃん
っていうのが
毎回不満なの
だから基本的に
そういうの嫌いになる
パールがそういう話だったら
まず嫌いになるんだよ
でパールのいいところは
もうパールは最初からパールなんだよ
だから最初から
もう
なんていうの
我々の倫理観からしたら
絶対に脳を突きつけなければいけない
存在として
ずっと出てくるわけ
それなのに
1918年を背景にして
とはいえ実質の映画の
サンプリング元としては
20年代30年代ぐらい
大園の魔法使いとか
そのぐらいの頃の
作品がメインで入ってるけど
20年40年ぐらいかな
映画の引用に満ちた
キラビア感のね
てかめちゃくちゃ可愛らしいさ
画面の中で
51:00
パールはね
徐々にね
うっかり魅力的に見えるシーンが多いんだよ
でうっかり魅力的に見えたり
うっかり同情できそうだったり
うっかり共感できそうな
瞬間映画に満ちてる
なんだけど
もう映画の始めから
この人に共感してはいけませんよ
っていうのは
もう周到に準備されてる
でもそれが怖いの
だからこれまでの映画はだいたい
なんかかわいそうな目にあって
どんどんこう
怪物になっていっちゃうね
ってなるんだけど
もう見始めた時から
あっ怪物は最初から怪物だったんだ
って思わされてたはずなのに
この怪物でさえ人間に見える瞬間が
いくらでもある
ってなって
要するに
本当にどちらかというと
観客の側に
うちなる怪物性を
こうざわめかせる映画なんだよ
そのなんかその
あーなんか
このこんな社会状況で
こんな時代に生まれていたら
僕もまたジョーカーになっていたかもしれないな
みたいな
そういう話じゃない
なんかもう
あっなんか
絶対にこの人に
絶対共感してはいけないはずの
このモンスターにさえ
映画というものは
何か
共感させ得る
ものを持っているんだっていう
そのこと自体が一番怖い
っていう映画なわけですよ
で実際あれを見ると
パールのことを
好きになっちゃうから
だからXを見るときの
見方が全然違うのは
まさにそこなわけだよね
Xだけで見たらそこで
あのその
パールは
共感できる存在としては
あまり描かれていないというか
そのどちらが
冷たく乾いた笑いを漏らすか
普通にうわーって顔しかめるか
するしかない存在として
もともとあの映画
撮られているわけだよ
だけど
そうじゃないものとして
もうこう
準備されているわけだよね
だけどそれを
ベタベタ同情的に
描くわけでもなくて
最終的なんか結局
終始一貫して
いやでも化け物は化け物ですから
この人は化け物ですからね
っていう
突き放したスタンスは
突き放したスタンスである
だよ
このね絶妙なバランスがね
このオリジンを取るものとして
素晴らしいというか
要するにオリジンを取ることによって
よりそう
そのキャラクターの複雑さだったり
その大きさだったり
そのロジックに
落とし込めない大きさだったり
そこしれなさみたいな
割り切れなさみたいなものが
大きくなるんだよね
パールを見ると
だからその悪になりました
悪い人になりました
っていう落ちに向かっていく話じゃない
むしろその結局
こいつは何なんだろう
っていう謎が膨らんでいく
映画なんだよパールは
それがね
素晴らしかった
いやそう
そうね
54:01
うん
なんか
愛が重い化け物
そうそうそうそう
なんだよねっていうところでさ
なんだろう
私はさ
うん
割と嫌われますこの一生が好きなんだけどさ
映画版?
うーん
というかその作品
そう実は原作を読んでないんですけど
映画は
普通にあの監督の映画を
一時期好きで
だからその
そういうお年頃の時にちょうど見てたから
フィットしてた
多分今見るとそんなになるんだけど
ドラマもあるし舞台もあるのかな
ドラマも見て
ドラマはドラマで面白かった
で舞台が結構好きだった私は
で全部割と設定ちょこちょこ違うから
多分原作読んだらまた全然違うんだろうなっていうのはあるんだけど
でもやっぱり一貫してその
あのそのさ最後のさなんだっけあの不良がさ
神父さんに
多分そこも設定がいろいろなんだけど
要するにその松子が神様に見えた
だから神の愛は人間には重すぎるから
到底わからないんだって
だから僕は逃げちゃったんだっていう話をさ
最後にするっていうのは多分共通だと思うんだけど
パールと松子は割と近いタイプの化け物で
松子はさその
わかるなんだろうその
生命倫理においてはパールほど
圧倒的な欠如があるわけじゃない
ただなんかその
愛と狂気が
てか
純愛を
捨てられないからどんどん狂気が深まっていくみたいなさ
ところはキャラクター造形としてちょっと似ている
でまぁパールの方がより好きだけど
なんかそのそこパールのそこが好きだと
Xのその
パールとね
パールに寄り添うね彼のね
関係性がね
60年後もね
あるっていうこと自体がもうすごい嬉しいっていう
でその最初に話したXのあるシーン
もうすごい
こう
なんだろう
やったーってなるね
んだよね
っていうのでだから
いや本当にXだけ見ても
57:03
よくわかんないってなるよねそれはあれは
めちゃくちゃだよね
だからある意味Xは割とその
てかね両方ね幼稚さ
の映画だと思っているんだけど
Xの幼稚さっていうのは男の子の幼稚さの映画な感じがするんだよ
なんか
それこそおっぱいと血がたくさん出てきたらいいんでしょうみたいな
雑さで言うとね
であとそれこそ何か大人びた人生君があるとするといい子なんかいないんだぐらい
そういう底の浅い男の子感の全能性幼稚な全能感みたいなものの
映画だと思うんだけど
パールは同じような幼稚性を描いているんだけどそこに全能感が皆無なんだよね
要するになんかね
あの
なんていうの
世界と自分自我との区別がまだつかない頃の
あの
雑フロイト話すると
精神医学のさ
あの話でさ
すごい雑に言うとさ
そもそも子供の頃っていうのは
その肌によって
肌の外と中との区別があんまりついてないから
全部自分だと思って
世界と自分との間の区別が何もない状態で
すでにフワフワプカプカ
いるんだけど
なんか自分で動かせる部分と動かせない部分があることにだんだん気づいていくと
要するになんか今おっぱいが欲しいのに
なんかおっぱいが出てくるときと出てこないときがある
みたいなことに気づいた途端に
急に世界が不快なものになっていく
要するに自分じゃないものが上がっていくって
その時なんだ
自他の境界ができてくるっていうのは
自分にとって
全部自分だと思っていたところから
自分じゃないものがある
欲しいタイミングで来ないことがあるってことに
気づいたときに
生まれるフラストデーションが
自我の始めの
ところにあるんだみたいなさ
話がしていくわけじゃないですか
フロイト派の人々はね
すごい雑だけど
でなんか
これはパールの
宮古州のすごいところなんだけど
年齢がよくわかんないんだよね
すっごい子供にも見えるし
すっごい大人にも見えるんだけど
そのねパールがやばくなるときは
常にめっちゃ子供に見える
なんかうまくいかないときの
やだやだ気の感触みたいな顔になるんだよ
あれがすごくて
毎回毎回世界に拒絶された顔すんの
1:00:05
でなんかね
それがすごくて
要するにまだ自我がない
すっごい自分勝手なある意味
キャラクター造形のはずなんだけど
自我がないというか
なんかね自他の区別の境界線が
すごい曖昧なキャラクターとして
撮られていて
だからそのパールにおいて
パールはね最後の20分がすごいんだけど
あるシーンでパールのバストショットでずっと
長々と独白をするシーンがあって
そのシーンにおけるその
なんていうの
こう
情色さっていうのはやっぱりなんかね
その
自他の境界を何度も危うく踏み
外しかけるようにも見えるんだよね
それこそあそこでパールが話してることって
その群像劇のすべての人の立ち位置に
毎回立って
全部わかってるの
私だけが
願いが叶わないんじゃなくて
みんなどこかで挫折してる
それが仕方ないことなのもわかるし
なんか
私が非難できるわけじゃないみたいなことを
ちゃんとわかって喋ってることそのものが
その
全部自分だと思っているというか
他人も自分だと思っている
っていう感じの
なんかその
なんだろう
境界が曖昧って言っちゃえば簡単だけど
っていうのを
あの動きのないシーンの独白だけで
やるっていうのがすごいよね
だからやっぱりさっき言ったような
観客の側が飲み込まれていく気持ちになるっていうのは
やっぱりそこなんだと思うんだよね
そもそもあのシーンってさ
ある人が
別の人にね
この話をしたいんだけど
練習に付き合ってあげるみたいな
だから私を彼だと思って喋って
今ここにいない人に向けた言葉を
今いる私で代わりに練習してごらんって言われて
その独白をするんだけど
もう本当にその彼に向かって喋ってるじゃん
でもずっとさパールの
話しかけてるショットだけで
相手の様子がほとんど映らなくて
でもその時は
見てるか見てないか分かんない顔で喋ってるんだよね
もうなんなら相手の子は
こいつやばいって気づいて
席を外してるんじゃないかと思うぐらいなんだけど
1:03:03
ちゃんと目を合わせて話すから
まだいるのかなみたいな
その前が絶妙で
もうなんか完全に
本当に喋りたい相手が
目の前に見えてるっていう
喋り方をするのがすごいなと
何よりエンドロールがすごい
いやすごいよね
このエンドロールがすごい
しかもあれが別にケレミとかだけのためのものではなくて
ちゃんと意味のあるエンドロールになっているじゃない
すごい有弁だよね
あそこだけでも見てほしいもん
パールに関して言えば
それほど直接的なスラッシャー描写もそんなに多くない
だからホラー苦手な人でも見れると言い切るのは
ちょっと厳しいかもしれないけど
視覚的なグロが苦手なだけですっていう人だったら
全然見れると思うから
いやパールはマジでね
あれは去年のフギルなのかな
去年見れたら去年のベストだったと思う
あれはすっごい良かった
Xも私はゴアが結構苦手
あと物理法則に縛られないものが苦手だから
スラッシャーは正直そんなに
ジャンプスケア?びっくり要素がなければ割と平気なんだけど
ジャンプスケアはないし
ここで絶対来るなっていうの
絶対こういうことが起きるっていうのを
3秒前には見せてくれてるから
一箇所だけは大きい音がしてびっくりするみたいなところはあるけど
基本的にはそういうなんかもうびっくり要素で
ホラーだというみたいな感じではないし
遺体描写もそんなに多くない
Xの方がちょっとドギツメではあるけど
パールの方が直接的なところはかなり少ないかな
その瞬間見なくても特に問題ない
Xは人を選ぶし
別にそこまで無理して見ることのものではないと
やっぱり引き続き思うけど
パールに関してはちょっと無理してでも見た方がいいぐらいに思っちゃう
パールを見て
そのエンドロールのパールの気持ちがね
受け取ってもらえたか
知りたくなったらXを見たらいいと思う
これは実は3部作でね
今年マキシーンっていう別の映画がやるそうなので
1:06:00
でもパールってハードルが上がってるから
正直またがっかりするんじゃないかなって気持ちはありつつも
でもちょっと次は2人で劇場に見に行きたいですね
どうなることかしらっていう感じだけどね
本当にパールよかった
独学のシーンは本当に
あなたが言ってたけどさ
ライティングも完璧なんだよ
役者の演技だけじゃやっぱりないんだよね
ここでこの2つをひっかくすんのはマジで最悪なんだけど
夜明けのすべての野鳥ノート
ノートに主人公の一人が目を落とすときに
窓から差してくる光で横顔
下を向いてるその顔に斜めに光が入って
すごい美しいシーンがあるんだよ
三宅翔監督の作品において
なんかすごい具体的にいいことが
いい知らせがあるわけでもないし
何かがいい方向に向かうわけでもないんだけど
ちょっとだけ気持ちが上向いたよっていうときに
出されるその日の光と女の子の組み合わせ
あと今回で言うと
プラネタリウムのシーンの横顔もすごいそういう感じで
要するにあれは俳優っていうのがいくらどれだけいい演技しても
やっぱりそれだけじゃなくて
映画であるからには光と影のあり方っていうのがすごく大きいんだけど
パールの長いセリフを喋るときの光の移ろい方っていうのは
マジですごいんだよ
ちょっとあなたが言ってることを僕が言っちゃうけどさ
コピーライト私ですけど
あのシーンにおいて照明と表情の変わり方の組み合わせによって
パールの顔が色々に見えると
ほんのり小さな女の子のようにも見えるし
妻のようにも見えるし
老婆のようにさえ見える
全くだからカメラ動いていない
バストショットの長回しのシーンで
役者の顔と光とだけで
ここまでくるくる印象の変わるシーンが撮れるっていうことの
一つのものなわけじゃないですか
いやパールはマジ
宮越ってあれでアカデミー賞取ってないのかな
だからそこがそれぐらいの凄さがちゃんとあってさ
1:09:00
でなんていうの
Xをアットから見るとさ
コロナもいつかシネマになるっていう話をする
そのギークがさ
それを自でやるというか
それを意識的にやってる
ホラーとかジャンルムービーではなくて
これがシネマなんだっていうのを
ある意味誇り高く宣言する映画になっているからね
私は記事とか読んでないからだけど
Xの撮影準備として
パールを掘り下げた方
宮越が二役やってるから
両方を掘り下げるために
基本的にスラッシャーっていうのは
過去がそんなに語られないまま退場していくじゃない
そこが薄くならないように
パールがどういう人なのか考えてみようっていう
課題としてパールを書き始めたら
すごい大作になったから
パールも撮るかってなったみたいな
点末らしいみたいなことを言ってたけど
明らかにXの時点でパールの設定
かなり入ってきてる
びっくりしたここまでなんだって思った
普通に二次創作
Xってパールの二次創作なんじゃん
パールありきの映画に最初からなってたんだなっていう
それこそクランプでいうところの
カードキャプター桜が出てない世の中に
翼だけ先に連載してるみたいなレベルの感じなんで
あなたの見方は非常に良かったなって思ったよ
おかげさまで
おかげで僕もXをどちらかというと好ましいものとして見える
あと最初にスラッシャーとして見るときって
スラッシャーに趣味の良さ求めてないわけだよね
ある季節であればあるほど良いから
っていうのもあってね
でも今日の話で
あなたはホラーとかゾンビとかを見るときに
この社会が壊れていくのを見れるのがワクワクするっていうことを言うじゃない
それこそ行動主義的な
言うて人はそんなに逸脱できないというか
もうある程度パターン決まってる
スペシャルなことなんかないっていうことを
ぶち壊してくれるものとして映画が好きなんだねっていうのが
よくわかった
本当にそうなんだ
だからXの話の方はここからよりネタバレ的な話をするけれども
1:12:00
Xにおいて一番カタルシスがあるのは
あの映画ギープの
いやこれはただのポルノじゃなくて
もう一つのシネマなんだみたいなことを言う
あの監督がすごい
とはいえその頭でかしなことを言いながらも
自分の彼女に録音手伝わせてたら
その彼女も私も映画に出るって言ったときに
いやそれは違うな
君はほら彼女たちは違うからみたいなことを言い出して
もうその結果結果的に自分で
自分でその彼女が撮られるところを
自分で撮影しなきゃいけない羽目になるところが
あの映画における一番既存秩序が破壊される瞬間
だからあそこが最高だった
そこを踏まえていくとだからあのシーンも確かにそんなに
悪いシーンではないような気もするような気もするけど
なんかやっぱりなんかちょっと
なんかその逆行してる感もあるというか
あの監督のなよなよした男の子の
その持っている保守的な
ロマンチックラブイデオロギー的なものというか
保守的なセックス感に
なんかちょっとこう
対しての位置づけがすごい難しかったので
Xだけで見るとね
それがなんかもやもやするところでもあったんだけど
なんかやっぱりああいうのが見たいんよな
そういう強固な構造を持っている理論が
身も蓋もない破壊に見舞われて
おしまいになってしまうところがやっぱり見たいんだよな
っていう風に思いますね
パールは最初からずっと特にその
そういう大きな秩序というものに対しては
あんまり根着してないのか
具体的なその制約というか
保守的な窮屈さにはあるんだけどね
それこそ大学の時に
そのユダヤ迫害死みたいなところをちょっとやってて
でもどっちかっていうと
そのホロコーストというか
そのユダヤ人迫害だけがさ
やっぱりヒューチャーされがちなんだけど
同性愛者も障害者も
同じような扱いを受けていて
その中で同性愛者に対する迫害の中で
でも話が出てくるのって男性だけなんだよね
女性はそもそも
教会キッチン子供の3つの子が
それ以前にレズビアンというものの社会的存在
以前に立ちはだかっているから
1:15:01
迫害されるほど存在感がないっていう
もうその前に潰されてるっていうのが
すごいわかりやすく出てたじゃない
そこで
最後の最後に子供の話も一瞬だけ出てくるんだよね
っていうので
なんかなんだろう
ちゃんとそこを踏まえてる話なんだよ
やっぱりっていうのは
そうなんだよ
だから舞台設定としては
Xよりも60年前の話なはずなんだけど
よりちゃんとラディカルな映画になってるのは
パールなんだよ
そういうところでも
いいですね
キッチンが面白かったら
きっとトリロジーセットみたいなのが円盤に出てるだろうから
それは買っちゃうだろうなっていうぐらい
それが特に面白くなかったらパールだけ買うと思うけど
今のところ二作とも
樋口先生がオルタナティブポスターをやってるので
できれば特装版とかがあったらね
一瞬でなくなるんですけど
出してくれたらいいな
本当によかった
たぶんパンフも大島イデアさんじゃない
デザインはおそらくちゃんと調べてないんだけど
めっちゃ可愛かったパールのパンフ
当時見ていれば
本当に悔やまれるよ
大変おすすめです
ヤンデレイチャーラブ最高
Xは私にとってそういう映画になったけど
たぶんXだけ見てもそうならない
という感じでございました
ということで
今週末はギフでお会いできたら嬉しいですということで
ファイティングラジオ
お相手は私が着ないしょうこと奥さんでした
どうもありがとうございました
01:17:56

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