浄土教の基本コンセプト
はい、それで哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はちょっと法然のファンになるぐらいちょっとすごい話だったんですけれども、今回はその法然が出会った浄土宗、その中身を見ていくというところでした。
そうですね、これはちょっと細かいんだけれども、浄土宗は日本で法然が開いた宗派で、出会ったのは浄土教ですね、教えの法ですね。
ああ、出会ったのは浄土教で、それを広めたのが浄土宗ですね。
そうなんです。
大事大事。
そうなんです。なので今日は浄土教の話なので、法然が開いた浄土宗の話よりは、そもそも20年、前回のストーリー、修行をしてもしても、ストーリーというか求める答えに取り付けなかった法然さんが、これだってなった浄土教ですね。
ああ、じゃあオリジナルの方の話なんだね。そこ分かってなかったわ、そこも。
そっちがなんで、そんなふうに法然が思ったのかとか、そもそも浄土教というのはどんな教えなのかというのを、前回はもちろんお伝えできなかったので、
次回以降、新乱とか一変の、まさに日本の浄土宗がどう発展していたかっていう話をする前に、オリジナルの方の話をしていきたいなというふうに思ったのかと。
なるほど、わかりました。
もちろん浄土教というのは大乗仏教の一つなんだよね。
敬語文とか、いろんなものがある中での浄土教という話なんですけど、
当然大乗仏教の一つなので、自分が仏になろうとか、人を救おうみたいな話っていうのはあるんですよね。
当然修行をもちろんするんだけれども、いわゆるこの世、人間の世ではね、
よくシャバとか江戸みたいな、穢れた海底層の江戸みたいな話を言うと思うんですけど。
シャバって仏教よくなったんだ、シャバも。
シャバってね、そうそう仏教よくなった。シャバに出るとかっていうシャバは、人間の世界のことなんですよね。
なるほど、なるほど。
そこで修行を積むのも結構難しい。
人間だったらいろんな煩悩もあるし、迷いもあるし、世の中に色んな四苦八苦、いろんな苦しみもあるだろうと。
なので浄土教の場合でいくと、基本的なコンセプトとしては、
阿弥陀仏って仏様がいて、彼が極楽浄土っていうところにいるんです。
極楽浄土って阿弥陀仏がいる場所のことなんだよね。
そうなんだ。
僕らって極楽浄土以降天国みたいな風に思っちゃうと思うんだけど、
まさに浄土っていうのもまずあって、極楽っていうのは固有名詞で、阿弥陀仏がいる浄土のことを極楽っていうんだよね。
そうなんだ。
意外とそこから僕もちゃんと知らなかったんで、なるほどって思ったんですけど。
なんとか駅みたいな話だよね。浄土っていうのはなんとか駅で、
もりおか駅っていうのは極楽浄土みたいな感じなんだ。
まさにまさにそういうことです。だから浄土自体はいっぱいあるのよ。
でも阿弥陀仏がおられる極楽っていうところはまさに一つであって。
6個ある世界のうち、悟った人たちが生きる世界のところではあるんだ、浄土っていうのは。
仏の世界のさらに一つっていう感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
阿弥陀仏はそこにみんな来なさいよと、極楽浄土に来てそこで修行をしなさいよっていう風に言うんだよね。
人間の世、まさに江戸とかシャバって言われるところじゃなくて、
極楽浄土でみんな修行をすれば仏によりなりやすいでしょっていうような話で、
そうやって阿弥陀仏が言ってくれてるんだから、
よし、あやかって自分も極楽浄土に行くぞと。
そこに行って修行をして仏になるぞっていうのが実は浄土教の根本のストーリーなんだよね。
わー面白いね。そっかそっか。
人間に悟ったから行けるじゃなくて、悟るための場を提供しますよって話なんだ、これ。
大本はそうなんだよね。
僕らが言ってるよ、阿弥陀仏を唱えればすぐに悟れますとか、
離脱できますとか、まだちょっと隔たりというか違いがあるんだよね。
悟りの扉じゃなくて極楽浄土への扉みたいな話なんだね。
そうそうそうそう。
へー、はいはい。
阿弥陀仏の説話と教え
そういった話がある中で、
阿弥陀仏って誰というか、なんでそんなことしてくれるのみたいな。
確かに。
っていうのが疑問として出てくるかなと思うので、その辺も含めてお伝えしていくんですけれども、
阿弥陀仏も元々は実は人間でしたみたいな話があるんですよ。
これも基本的には伝説上の話ではあるんですけれども、
遥か過去の時代のインドのどことの国王様、
インドって国がいっぱい分かれていたから、
要は王様と言ってもいっぱいいるわけなんだよね。
国王様が仏に出会いまして、
この仏のこの上で教えっていうのを自分も理解したいもんだと、
取りたいもんだというふうに思ったらしいんですよね。
まさに国も王位もして修行をしますと。
ほうぞうさんっていう名前の修行時代の人で、
ほうぞうさんが修行をして修行をして修行し続けた結果、
成り着いたのが阿弥陀仏です。
というような感じなんですよ。
仏になったら阿弥陀仏という名前になりましたみたいな話なんだけど、
当然ただただ修行してもなれないんで、
仏さんにね、自分が出会って感銘を受けた仏さんに聞くわけですよ。
私に詳しい教えをいただければ、
必ず仏国土、まさに仏の国を作って、
実現して自分だけじゃなくて、
いろんな人たちを成仏仏にならしめましょう。
だから教えてくださいっていうふうに言うんだよね。
そこまで言うんだったら教えてさせてあげましょうということで、
仏さんが仏国土ってこういうものなんだよっていうのを、
まさにありありと見せてあげるんだよね。
だからもうある種百聞は一見にしかずで、
仏国土ってこれだからお前はこれを作りなさいみたいな、
そういうものを見せた上で、
例え話としてね、
海の水っていうのは、
一人の人間には測ることは基本的にはできないと、
そのぐらい広大なものなんだけれども、
長い時間続ければ、
必ずや海の底まで測り尽くして、
水がなくなった後に出てくるお宝を見つけることができるんだと。
修行っていうのはそれと一緒で、
人が一心に仏の国を作りたいとか、
仏を開きたいっていうふうに努力をし続けて、
それをやり続けるんだったら、
必ず実現できるでしょうっていうようなと言うんだよね。
本当に人間の努力っていうのが、
そのぐらい大きいことでも成し遂げられますと言われて、
なるほど確かにと、
自分は修行をし続ければ、
仏国土を作るんだと、
そのために自分は修行をし続けるんだ、
ということを本当にやり続けるんだよね。
やり続けるってどんぐらいよって話なんですけれども、
教えとして使えてるところには、
5行の間考え抜いて修行し続けましたと。
大乗仏教の時に、
3行頑張ったら仏になれるって話をしたの覚えてる?
あ、なんかあこうぎみたいな話なかったっけ?
そう、3あこうぎ。
それと一緒?
5あこうぎです。
はーすごいね。
めちゃくちゃやばいね。
やっぱりでしょ。
羽衣で天竜の羽衣で山2個分ぐらい行っちゃうみたいな。
山1個シュッて、
しかも100年に1回天竜が降りてきて、
その羽衣でシュッて山を撫でて、
山がなくなるっていうのが1あこうぎなんだけど。
通常の人は3山分が、
これ5山分考え抜いてるって話?
そうそうそう。
なるほどなるほど。
5山分考え抜いて修行し続けたって話なんだよね。
はいはいはい。
兄貴は大正仏教の時に、
仏になれるって言っても、
3あこうぎって言ったら、
もうそれ詐欺じゃんって思うんだけど、
やってるのよ、このホウゾウさんは。
5あこうぎ文。
今だって西暦2023年ですけど。
考えちゃダメなんだよ、そういうことを。
仏教の世界でそういうこと考えちゃダメなんですよ。
この同じ次元で考えてること自体がダメだって話。
だからお前は悟れないんだぞと。
もちろんね、僕らからしたらお話なんだけれども、
やっぱりそのぐらいある種、
尊い修行をした方がおられると。
そのぐらい考え尽くして考え尽くして、
修行を重ねて仏になったのが三宅さんだって話なんですよね。
わーでもいい話だね。
普通だってさ、
3あこうぎね。
考えれば悟れるって言われてるのに、
5あこうぎにかかってるわけだから、
普通よりちょっとダメな人じゃん、むしろ。
切ないわけじゃん。
そういうのがいいよね。
だからこの阿弥陀仏になって、
他の人もみたいな。
すごい良いストーリーな感じもするね。
だから天才が、
1あこうぎで俺は悟ったとかじゃなくて、
5あこうぎでそうやってる人なんだから、
みたいな話なんだよね。
無料受経と浄土教の広まり
この阿弥陀仏の教えってのは、
じゃあどう広まってるかっていうと、
無料受経っていうお経があるらしく、
無料受経。
お経ね、
いわゆる法華経とか、
華厳経とか同じ感じ。
無料受っていう。
テーマとなってるお経っていう話なんだけど、
その中ではお釈迦様が、
阿弥陀仏っていうのがいらっしゃってね、
みたいな感じで浄土系の教えを語るよ、
そういう天才をとってるんだって話なんだよね。
阿弥陀仏っていうのは既に悟りを開いていて、
極楽浄土におられます。
しかもそれからさらに10あこうぎの時間がとってるっていう風に
言うらしいんだよね。
だからもう本当に何千年とかっていう話じゃないよ、
とこもない昔から、
そういう阿弥陀仏の存在をしていて、
僕らにある種慈悲の心を抜けてくださってるのと、
っていうような教えがあって、
それをある種無料受経ってお経で学んでいくんだっていう話なんだよね。
仏陀と浄土教のロジック
当然歴史上で言うと非フィクションなわけよ。
当然お釈迦様は別にこんな話はしないだろうし、
阿弥陀仏についても語ってはいませんと本当はね。
なるほど。
私事とかじゃなくて、
仏教の歴史的な話から言ってもフィクションだったんだね。
ただそういう風な話があるとか、
そういうお経とか経典が大事にされているっていうことはもちろん事実。
これが科学的に嘘だとかじゃなくて、
宗教上の真実がここにあるだろうという方が、
学びが深まるんじゃないかなというふうに思う感じなんですよね。
なるほどね。
確かに仏陀が一体行ってないっていうのはちょっと野望だって話だね。
こういう立場からすると。
そんな風に阿弥陀仏とあと宝像さんという人が修行し尽くして、
本当にやり尽くした結果ができたのがこの浄土教の教えなわけなんだけれども、
それはどうやって浄土教ってまさに法念がしての教えにまとまっていくかって話なんだけれども、
当然仏さんが言った通り、一人の人間がやり尽くしてやり尽くして、
海の水もいっぱいいっぱい数えていけば、それは水も数え尽くせましょうと。
仏の修行も1行2行3行3行儀、あるいは5話講義でもいいんですけど、
このぐらい長い間一心に仏になりたいといえば、それは育てましょうよと。
でもそんな風にできないのが人間であって、だからみんな挫折をしていくわけだよね。
だからこそ、阿弥陀仏に僕らがすがる理由ってのもあるんだっていう話で、
実際この阿弥陀仏さんっていうのは、自分が悟りを開いたとか修行をしている間に、
自分がこういうことを成し遂げない限りは、悟りを開いたとは言わないとか、
自分自身の悟りを開かずに置いときましょうっていう目標を立てるんだよね。
それが本願って言うんだけど、これが48個あります。
多いな。
例えば一番目で言われているのが、もしも私が仏になろうというときに、
自分の仏国、まさに極楽って浄土において、
やはり悪い存在、人間よりも劣った存在としてのガキとか畜生とか、
あとは地獄っていう、そういう劣った世界の生き物たちっていうのが、
もし自分の国にいるとしたら、
それっていうのは自分の修行が足りない、
そういう人たちがまだ仏になっていないっていうことは、
自分の教えが足りないっていうことだから、
自分自身の正しい悟りっていうのも完成させずに置こう、
みたいなことを言ってるんだよね。
自分が仏になっちゃうと、結局仏と他の生き物って分かれちゃう。
しかもそれが仏になったときに、
自分は本当にそれを開いていい存在かというと、
そうではないっていうふうに言うんだよね。
わー、すごいね。自分厳しいというか。
やっぱり自分があればOKなんじゃなくて、
他の存在も含めて仏にしていくぞと。
そうやって初めて自分も仏になれるんだっていうのが、
阿弥陀仏さん、法僧さんの修行の根本にあるんだよね。
なんか悟りの完成とかって言ってるのが大乗仏教っぽいよね。
自分が悟ればOKとかじゃなくて、
なんか悟りレベルみたいなものがあって、
ある程度悟りの境地には達してるんだけれども、
まだそっちの世界にはいかないで、
ちゃんとこういうシャバというか人間界だったり、
このガキ畜生地獄みたいな、
そういうことのコネクトは残しておこうみたいな話なんだよね。
そのとおりです。
なんで52段階とかだっけ?
悟りの段階があるっていう話もあったと思うんですけど。
あったよね。
そうそう。
なのでやっぱりそのね、
もちろん悟った縁が階段を上がっていくとか、
極め尽くすっていう意味では、
ちゃんと残しておくぞっていう話なんだよね。
ただね、実はこの第1話目の根幹なんですけど、
自分の仏の話をしているので、
正直僕ら人類にはぶっちゃけ関係ないんだよね、これ。
あー、なるほど。
そっか、そんな広い感じではないのか。
そう。
自分の国にいる存在は救うけど、
当然このシャバ世界と極楽アミダブさんの世界ってのは違う世界だから、
その教えっていうのは、
教えというか救いっていうのは僕らの方にはまだ届いてないんだよね。
そう。
で、じゃあどうしようと思っていろいろ見ていくと48個のうちにですね、
阿弥陀仏と人間の救い
実は3つだけ明確に僕ら人間も、
このシャバ世界の人間を対象とするっていう本願があるんですよ。
へー、はいはいはい。
アミダブさん本当にありがとうみたいな感じなんですけど、
この3つは何番目かっていうのも全部わかってて、
それが18,19,20番目だっていう風に言われてるんですよね。
ふんふんふん。
で、この18番目っていうのは結構大事。
特に神願がこれを重視したっていう風に言われていて、
その内容っていうのはですね、
この私が細けになろう、
まさに悟りを完成しようという時に、
十方の人々、
本当にあらゆる世界、
物国だけじゃなくて人間の世界を含む人々がですね、
心を尽くして信じ願ってですね、
我が極楽堂に生まれたいと。
そういう風に願うとして、
少なくとも10回念仏をしたとしましょうと。
それでその極楽堂に来れないようなら、
私は正しい悟りを完成させないでおこうと。
ただし、親を殺すとかね、仏を傷つけるとか、
そういう罪を犯したものは除いておきます。
みたいなのが18番目なんだよね。
念仏10回でいいんですよ。
うわー、数まで書いてくれてるんだ。
そう。少なくとも10回念仏したとしようって書いてるんだよね。
ふんふんふん。
後半は犯罪防止みたいな感じで、
親殺すとかどうやらみたいな話もあったりとか、
それでもね、ちゃんと深く信じれば救われるのが
阿弥陀仏様だ、浄土教だみたいな教えもあるはあるんだけど、
それはさておいてね。
少なくともここに来て10回念仏すれば
極楽堂に行けるんだ、というようなことを
阿弥陀仏様、その5行、5話講義もね、
本当に修行を尽くして尽くして仏になった人が
私を約束してくれてるんだ、という話が出てくるんだよね。
なるほど。はいはいはい。
ここをある種論拠にして、
ほら、阿弥陀仏様、こう言ってるじゃないかと。
だから、自分で自分の人生何十年という
そんな短いことで頑張るんじゃなくて、
その阿弥陀仏様があげようという
その救いの手を取ればいいじゃないかと。
というのが、まさに前回お伝えした法念さんが
自力では無理だと。
修行すれども、そもそも悟りの道筋すら見えない
という中で、たどり着いたやっぱり教え
というような感じなんですよね。
すごいね、これは。いい言葉だね。
やっぱり前回もお伝えした通り、
当時のお寺で行くと、
自分が偉くなるとか、天皇とか貴族とか
ある種政治に関わっていって、世の中を動かすみたいな
そういうのが良いみたいな話もあったわけなんだよね。
当時は当然、やっぱり誰かに救われるというよりは
自分がこれだけ偉いんだとか
自分がこれだけ自分の力で仏に近づいたのだとか
そういう風に言えた方が知恵はほやされるじゃん。
まあ、そうだよね。
まさに俺だからこれだけすごいみたいな
そういうのが褒められているのは想像がつくんだけれども
確かにだし、1アコーリーとか
阿弥陀仏への信仰と救いの道
3アコーリーが必要なんだよね。
大乗仏教的にはそうだね。
それが、俺は例えば1アコーリーで済むんだぜみたいな
多分そういう話になってくるってことだよね。
自分の力で辿り着くのが、俺は早いぜみたいな話が言えるんだよね。
神秘体験したぜみたいなさ。
むしろ自分は補けなんだぜみたいな方が
まある種遠飛ばれるわけなんだけど
でもさ、やっぱりそっちに考えたら
当然、一生かけてもそういう神秘体験に出られない人とか
そもそも修行ができない民衆みたいな人とか
または本音みたいに修行をすれどもすれども
一体何を信じられるかわからないみたいな
そういう人って当然いるわけだよね。
そういう時に自分はやっぱり救われないんだとか
仏になれないんだ。
ましてや末法のようで、頑張っても
お釈迦様の意向というのがなくなって
仏になれる人はいないと言われてるじゃないかみたいな
絶望の中でふと
神の仏に任せればいいのだっていう
そういう救いの、まさに蜘蛛の糸だよね
降りてくるわけですよと
自力じゃなくて足り気だみたいなのは
まさにコペルニクス的展開みたいな話なんだけど
立ち感がガラッと変わるわけなんだよね
だからこそ本音は前回言った通り
山を降りることでも抵抗はなかっただろうし
ある種公開処刑みたいなさ
いろんな他の宗教派に言われようとも
自分でできる人はもう頑張りなさいなと
それができないし、本当に自分は無理だから
阿弥陀仏という仏様にすがって暮らしておるのですと
ある種そういうふうには本当に純粋な態度というかね
そういうスタンスを得たんだろうと思うんだよね
そうだね、それが
ただ人から聞いたじゃなくて実感も伴い
よほどしかも勉強もしてるし
腹落ちしたという意味では
突き詰めたからこその救いというか諦めだよね
というストーリーのほうが本当にかっこいいなというか
個人的にはすごい憧れる部分もあるんですけど
そういった意味でね、ある種
阿弥陀仏ってのはどういう人でどういう存在で
阿弥陀仏さんの奉還の18番目に
伝仏を唱えれば
浄土教のロジック
僕らみたいな釈迦世界の人間も救われるぞと
ある種、そういうことが書いてあるぞというところが
論拠なんだという話まではしたと思うんですけどね
まあでもこれで明太子明太子でもいいんですけれども
そういうわけでもいかないのが結構信仰の悩ましい話で
そうなんだ
これで終わったらその次に話そうとしている
神話とか一編ってのは要らなくなってたわけだよね
浄土宗最高みたいな
要らないよね、現時点でもう最高だと思う
ここまで来たらね、じゃあ10個言えばいいんですね
っていう話なんだけれども
僕に言うと、復興年が革新するに至って
広めていった浄土宗
何度言ったのかって話なんですよね
10回も多いよみたいな話かな
3回にしてよみたいな話かな
まさにそれもあるんだけれども
あるのか
10回は言おうよ
でもね、言ってていいよみたいな話もあるのよ実は
もう数の問題じゃない気がするけどね、10回だから
そうそう、だからまさに数じゃないのよ
じゃあ何が問題かっていうと
そこにね、三心っていう三つの心っていうものが出てくるんですよね
そういう風に言われてるっていうのが
僕の本に書いた
僕が読んだ本に書いた
新蘭と一編っていう本に書かれた問題なんですけど
もちろんね、他にもいろんな軸はあるとは思うんだけど
この三心、三つの心っていう軸で
切った時にめっちゃこうはっきり
何が問題かとか
新蘭と一編何が違ったのかって結構見えてきてるなって思ったんですよね
はいはいはい
ちょっとね、三心と何かっていう話は次回以降ちゃんとしてくるんですけれども
たぶんさっきさ
18個目の本があってお伝えした時に
10回念仏しましょうっていう
その前に心を尽くして
信じて願ってみたいな話を言ってるんですよね
ちょっとこれも言い訳
ちょっと僕は言い訳っぽくはしてるんだけれども
要は一心にっていう問題が出てきますと
三心とか一心っていう話が出てくるんだけど
一心はどっちかというと普段僕らが使う話
言葉で
本当に嘘を偽りなくとか
フュアに仏になりたいとか
阿弥陀様に縋って
私は極楽浄土に行きたいというふうに
果たして人間は願えますでしょうかという話なんだよね
なるほど
ただ言えばいいってもんじゃない
っていうのも言われちゃってるのか
だから10回念仏すればいいんだけど
その10回っていうのも本当に心の奥底から
阿弥陀様救ってくださいと
私は極楽浄土に行って
そういうふうにしたいのですという
心から言える阿弥陀仏って
ラム阿弥陀仏って
どんなもんじゃいっていうふうなことが出てくるわけなんだよね
三心と一心
確かにセンサーが欲しいね
そうそう
そもそもそんなふうに思える人は
救われてるっていうか
自力で救われてる人じゃないみたいな
法念の話を聞くと
それとも難しいと法念は分かってるから
たどり着いた部分もあるって話だよね
そうそう
法念さんみたいな幼少期から才能を見込まれて
20年間も修行してさ
あらゆる浄土を読んだ人
だからそんだけ純粋な気持ちで
ラム阿弥陀仏って言えたんでしょうけれども
そこ逆だと思うけど
どういうこと?
純粋な気持ちでっていうところが
別に勉強したから言えるわけじゃないでしょう
やり尽くして挫折をしたから
浄土教すごいっていうふうに
心の底から言えたわけだよね
そういう意味ね
元々の新人深さみたいな
人間体系みたいなものもあったんだろうと思うんだけど
浄土教に対して
ラム阿弥陀仏っていう
その心持ちの話をしてるって話ね
その心持ちの話
心持ちに至るまでは
修行とか説明さとか
いろんなものがあったでしょうよと
あった時にさ
嫌なことがあった時に
畜生とか草とかって言う代わりに
ラム阿弥陀仏って言って
徳を高めてるんですみたいな話がしたと思うんですよ
あとは少しでも積み重ねて
復讐に近づいていこうみたいなね
言えばいいって言ったからみたいな話なんだけど
でもこの文脈だと
それって無意味だよとか無条理やっちゃダメみたいな
復讐してないじゃんみたいな
あれって意味なかったのかなみたいな
話に思ったわけなんですよね
つまりここまで来ると何が問題かっていうと
自分の力で
心の底まで仏を信じ切るってことができるか
もっと言うと
自分の心というものを
自分がどうにかできますかっていう問題になってくるんだよね
ちょっと仏教っぽいね
なるほど
先ほどセンサーが欲しいって言ったけど
私は本当に仏を信じ尽くしております
って言った人の言葉が
それって本当ってどこまでも疑えちゃうじゃない
そうだよね
証明なんかするのは難しいと思う
できないし、自分の中にも
僕らみたいに日々仕事をしてとかご飯を食べてとか
快楽、お酒も飲みたいしとか
そういうふうに生きてる人が
今日一回本当に仏を信じて念仏しておこうかな
なんてできないわけよね
そういうような話で
思った時にさて
僕らどうしましょうかという方向で発展していくのが
まさに信念と発展なんだよね
だから法念さんと
法念さんが言う通り生あみだ仏を唱えて
あみだ仏にすがればよいと
すがるにしても自分の心を
どういうふうに扱うべきなんだ
っていうのが問題になってきます
なるほど
法念が優秀すぎたんだね
ちゃんと信じて唱えればいけるよって
自分の心の扱い
信じるレベルが
一般人には想像がつかないレベル
そうそう
それこそ前回も言った通り
誤った教えとかある種
あみだ仏にすがればいいんだみたいな教えを弟子が言っちゃうとか
思っちゃうよね
基本思っちゃうじゃない
それを法念さんぐらいちゃんともともとの本とかも読んで
こういうことなんだと言えばいいけど
そこまで勉強する人ばかりじゃないわけよ
ハヤトみたいにとりあえず唱えとけってなっちゃうよね
そうそう
言ってばいいじゃんみたいな話になっちゃうんで
そこに対して実は
信蘭の方はなんだかんだ
自分の基本的には絶対たりきだから
自分の計らいはないんだけれども
でもやっぱり仏にすがるという気持ちは大事だみたいな話で
仏の方はいやいいんだみたいな
そうなんだ
三心とか考えなきゃいけない
念別こそが大事なんだっていうのも
ハヤトはそれもロジックがあるんだよね
ロジックがあるし持ちながら言ったのが1点なんだよね
わー面白そうだね全然違うこと言ってるんだ
そうなんです
そういうのがあって浄土宗面白いってなっちゃうんだけど僕も
なるほど
ここまで浄土宗は最強な感じでしたけれども
やっぱりそういう
現場に広がるにつれて
ちょっと違うというか
改善点みたいなのが出てくるわけなんだ
そうなんです
やっぱり法念がすごくエポックメイキングというか
浄土宗を日本に広めたというのは間違いないんだけれども
もともとあった地獄の浄土教
みたいな話がやっぱり元にはあるし
それを広めるにあたって
ちょっと引っかかるなとかどうなんというのが
引き詰めていった信蘭とか一片みたいな
人がいたからこそ
第一感にとりこれだけ今の世においても
何千万人という人が浄土宗というか
どこに膨らえるみたいな話があったのであろうという感じなんだよね
これは力強いね
私
意外というか全然知らなかったのが
法念が作ったと思ってたんだけど
オリジナルがあるんだね
こうやって
そうなんです
地獄での浄土教の広まりとか
前道さんという人がいたらしいんだけど
そういうような中国の偉いお坊さん
話とかはもちろんそれ自体は
日本にも伝わってるんだよね
そこそこ中国で浄土教が
生まれた背景みたいなのも
そっちはそっちであるんだろうしね
そうだね
今回そこまでは調べてきてないというか
分かってないんだけれども
やっぱり日本にも教えは伝わってきたんだけれども
広まるというのは法念を
待って広まったというか
法念という人の
貢献は大きかったんだろうという話なんだよね
一応形としてはそうではない
空海が第一教を学んで密教を
日本に伝えたみたいな話
たぶん構造は一緒だよね
神言宗を開いたというのと
近い感じだね
伝えた内容というものがあまり
拡散力みたいなのが
強すぎたんだね
浄土宗か
やっぱり世の中的にも
貴族が力を失って
武士が台頭してきて
一般人もいる中で
一般民衆の期待としては
僕らでも救われるものがあったわけなんだよね
第1巻の時にもおっしゃるストーリー
末法の世で世の中も荒れ果ててという時に
何かにすがりたい
救われたい
基盤というか
安心感を持ちたいというのがすごく強かったと思う
前回の方のストーリー
9歳の時に
お父さんが亡くなってしまった時に
父親は新人部下だったんだよね
片手打ちの
カルマじゃなくて
出家して自分の幸せを願ってくれる
新人部下の
ベースはある程度の
全員じゃないですよ
共通認識としてはあったんだろうね
仏教が多かったんだと思うんだけど
あとは
悟るとか
仏の国に行く手段とか
こういう話が出てくる
ベースとしての信仰心もあった上で
仏教は
平安時代300年くらい
民衆に浸透していただろうから
浸透した上で
今の時代に合う仏教とか
そういう話だよね
そこは切実なんだね
お金持ちになるには長財布みたいな話があったけど
似たような切実さがあったのかもしれないよね
そうそう
どうしてもお金持ちになりたいとか
お金持ちになるのがいいことだみたいな世の中において
お金持ちにこの学校で勉強してもらえますよとか
個人的なスクールがありますよみたいな話があった時に
そこに入るお金がないといけません
そういう話があるわけじゃん
そういう意味では
浄土宗って教え自体が
すごく開いたものだと思うし
まさに法念自体はね
前回ストーリーとしてお伝えしたんだけれども
まさにそれで生きる法念
開かれた
いろんな人と交流したのもそうだし
自分の立場とか楽なりとかってのもとらわれずに
本当にそれをやり尽くした人生において
そういうところもすごくマッチしてたんだろうなと思うんだよね
そんな感じで
浄土宗と浄土教
今回アミダブツさんとから浄土教
というのは何かという話をさせたんですけれども
次回は診断があります
浄土新宗ですね
じゃあもうあれなんだね
法念の浄土宗っていうのはほぼ浄土教とイコールの概念でいいんだね
そうだね
もちろん深く言えばいろいろあるし
法念の伝えた浄土宗と何かみたいなのは
当然それこそ
このラジオで1回分
4回ぐらい取り上げとしても尽くさないぐらいのものあるんだと思うんだけど
ある程度僕らの思想的には
浄土宗の発展
一旦この概念を抑えておいて
この浄土宗はどう発展したかっていうのを
伝えたほうが面白いんじゃないかなと思っている感じですね
なるほど
分解しましたし
今日の話でここはゴールな気がしたんだけど
なんでゴールじゃなくて診断といっぺんみたいな人が
出てきたのかっていうところまで
教えてもらったんで
その内容みたいな話はね
そうですねまさに思想的なというか
やっぱそこまで考えてるんだねみたいなところは
感じられるかなと思うので
次回への導入
今回も少し長い導入編みたいな感じになっちゃっていいんですけれども
次回以降そういった部分も含めて
楽しんでいただけたら嬉しいなと思う感じでございます
分かりました
ちょっとずつ日本で一番多い浄土新宿に近づいてきているというところも含めて
これがどう向かっていくのかと
楽しみにしていきたいと思います
では次回も引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました