タスクシュートオンラインセミナー
おはようございます。グッドモーニングボイスです。12月18日月曜日7時39分です。
ぐっと寒くなりました。昨日、一昨日がまた異常に暖かかったので、特に一昨日が異常に暖かかったので、
答えるなあ、これ。つまり土日暖かくて月曜寒いとですね、月曜から早朝にできねばならないので、これ気ぃついわって感じになりますね。
お知らせがありまして、12月30日に倉園さんと
タスクシュート
Xグッドバイブス で、1 ゼロで先送りを0にする、という、まあタイトルです。
まあオンラインセミナーですね。15時から3時間、やります。で、まあこれは割と長丁場なので、
えっと、まあ年末ですね、ええ
これを2023年をもってややちょっとですね、自分の中ではタスクシュートと、グッドバイブスの総決算みたいな
位置づけもありますので よろしければぜひ聞いていただければと思います
これ第1回が大変好評だったので タスクシュートとバイブスね
私の方の趣旨としては グッドバイブスでタスクシュートしようねと
何ならタスク管理でも それでなくてもいいんだけど
とにかくグッドバイブスでやりましょうと これ聞いている方はですね
何らかの形でライフハック系のことに 興味あると思いますし
私のことをですね 知っていただけているということは
ビジネス書やブログなどを通じてのことだろうと 思うんですよね
今日はちょっとそういう話を ボロボロっとしようと思っているんですけど
私をご存知の方が本とかブログを通じるということはですね
おそらく
ライフハック系でしかないだろうと
全然関係ないことも書いたりはしますけれども
多分とても少ないのでやっぱり
本は出せませんからね 私が例えばこう
なんだろうなぁ ベートーベンが好きですみたいな
好きなんだけど ベートーベン論 一回も書いたことない
ベートーベンという言葉は 書いたことがあるかもしれんみたいな
そのレベルなんで 多分本読んでる方とベートーベンは
関係ないと思うので
ベートーベンとグッドバイブスとかのほうがね
実はいいんじゃないかと思うときも ないわけではないんですけどね
そんな感じでやります
12月30日ね 31じゃないですからね
あと あ そうだ これはアーカイブ配信もしますんで
もうちょっとしたら そっちのほうもちょっと強調して
PRしていきたいと思ってます
東京ライフハック研究会
で 来年1月ですね
えー 1月?
1月だったっけ?
来年の そうそう 1月の20日に
まもなく告知が上がると思いますが
東京ライフハック研究会に あ もうライフハックですよね
これはね 虎剣に山崎隆明さんをお招きして
ゲストで まあ エフタさんもお招きしてですね
私 北さん エフタさん 山崎さんの4社で
カナエダンをする カナエダンじゃないよね
4社で対談をするという その前に
虎剣なので ライトニングトークもあり
しかも これは自由参加なので 参加もできます
かつ 私がちょっと前座で
20数分ほどしゃべらせていただくという
やり方でやりたいと思う
これ 1月20日 土曜日です
で オンラインでもリアルでもやるという ハイブリッドで
まあ これ結構ね 無理のあるやり方なんだけど
ちょっとでも それをやろうということで
あの 大型モニターもある会場を 新宿のほうに押さえましたので
あの ぜひ こちらに入ってみてくださいね
こちらも ほぼ同額
もう このところ この私の主催するセミナーは3000円で
私だけが主催するわけじゃないですけどね 虎剣は
まあ やりますので
こちら ぜひ ご参加いただくとですね
あの 心理師の方と 懇親会で 飯を食いながら
お悩み相談もできるという
勝手なこと言ってますけど
山崎さんに許可も得ずですね
あの まあ お得な会だと 私は
私だったら これが3000円って
めちゃくちゃ安いと思ってしまうので
ぜひ あの ご参加いただくと
1月年明けですね
まあ 年明け早々 悩みがあったりもするかもしれませんから
えーと まあ 私が思うにですね
この感じの心理師さんに
えーと 直接 悩みが聞けて
えー 食事代プラス3000円って
まず無理だと思っているって
普通だったら絶対ない
あの カウンセラーに あのレベルの人に
やっぱ 話聞きとなると
まあ ワンオンワンじゃないとはいえですね
でも もうちょっとかかるんで
はい これはお得かなと思います
しかも 自分でライトニング投稿も出られちゃうという
まあ 出たいかどうかは別として
あの そういうものがありますんで
こちらは ぜひお勧めしたいかなと思ってます
えーと しかも こちらは
あの エフタさんもいらっしゃるんで
まあ 告知云々次第なんですけど
割といっぱいになる可能性も
オンライン会場 あんまり申し訳ないんですけど
席 広いところじゃないんでね
もう オフライン会場
もうですね 懲りたんですよ
でかいところを押さえておいて
割と来そうだとこう思ってですね
全然いらっしゃらないと
非常にこう 会場が虚しいものになってしまうんで
しかも 冬の会場は広いとですね
温まるのにも時間かかるんで
いろいろとこう 主催側は気を守るんですよね
温まらないわけですよ
あの 50人の箱に5人とかだった場合
閑散として寒いというのは
特にこう 比較的こう
お高めじゃない会場を押さえたりすると
まさにそういう
ことが起こるんで
割とお高めでもね
寒かったりするんで
最初はね
あの これは割と箱は小さめなので
オンラインは割といくらでも
あの聞くことできますけどね
オフラインは本当 大きくはない会場ですので
ぜひ告知上がったら
お早めにお願いできるといいと思います
はい そんなこんなで
900回を超えてるんですね
これね
あの シーズン2とかに
しようかなとか
最近思い始めたんですけど
旋回を機械
あれってもうなんか主催側の自己満足以外の
何物でもないですよね
シーズン2とかいって
あの これ誰かをディスってるわけじゃないですけど
僕がやりがちなことなんで
パート2とか言うんだけど
全然なんかそこで切る意味は別になかったっていうですね
切りたくなるんですよね
なんか一心するみたいな気持ちになりなりっていうことですね
で あの最近その何度も言ったけどね
何ですかね
いろいろと冬自宅も進んできて
またこう一新されるわけじゃないですか
この人間は勝手に年号とかね切って
1月で一新するとかするんですけど
まあ大体それほどの意味はない気が
気もするんですよね
一新だけした気になるんだけど
別に何かが一新されたわけではないという
私昔あの古典の先生かなに
これすごいあのいい加減な話をして聞いてるけどね
気がするなと思ったのが
元号というものを切り替わり
僕ちょうど中学に入った頃に平成になったんで
本当にぴたりそのぐらいだったんですよ
で あのこれが小さな意味ではないんだぞっていうことで
盛んにその先生は言ってたわけですよ
面白い先生でいい先生だったんですけどね
つまり大化の改新の話とかっこつけて
そういう話をしてたんですね
古典の先生
でもあれはクーデターがあった後で
元号が変わったわけじゃないですか
それは小さな意味じゃないでしょうね
クーデターがあったんだから
だけれども平成の時は別にクーデターがあったから
元号が変わったわけじゃなかったわけですよ
もちろん人心というものが
その元号の変化に左右されるってのはわかる
それはまあそうなんでしょうけど
これは話が逆ですよね
元号を変えたから
みんなの気持ちが変わったってのが平成
昭和から平成じゃないですか
そうじゃなくて
政変が起きたら
もうみんなの気持ちは変わらざるを得ないじゃないですか
それは大事なんだから
その後で元号変わったわけですよね
気持ち変わってから元号変わるのと
元号変わってから気持ち変わるのはいわゆる
趣旨が逆なんじゃないかと思ったことがありますね
中学2年だったかなあれはな
2年ですね
あの先生
2年違う3年かな
3年かもしかすると高1ですね
何かの分岐点に平成がかぶっているのかもしれないですね
何かの分岐点に平成がかぶっているのかもしれないですね
何かの分岐点に平成がかぶっているのかもしれないですね
中3か高1だった気がしますね
実に実に変わった先生で
私のいた学校変わった先生しかいなかったんで
あの全て記憶には極めて鮮明なんですけど
まあでもあんまりいい思いではなくて
いい学校だったと思うけど
行くべき学校ではなかったという
非常にこうねじれた気分が私は中高にはあります
もう友達も非常にやっぱ興味深くていいやつも多かったから
もう友達も非常にやっぱ興味深くていいやつも多かったから
あそこでは自分はこう
なんていうのかな
精一杯になってしまう何事も
あまりにも自分がバカっぽく感じられて
あそこじゃダメだなって感じがしますね
やっぱりそういうのってあります
まあそれはまあまあ
所詮は今となっては
40年近く昔の話
30年35年か
年は取りたくないってやつですね
えーと
今日お話ししたいのはですね
そういう話ではなくて
寒いなやっぱりな
あのー
あのーとですね
昨日
昨日ですね
昨日たまたま
昨日一昨日と
いろいろと
まあイベント等があって
考えることが多かったわけですね
まあイベントでやっぱ考えるよね
打ち合わせとかね
人と話すからですよね
これはね
でえーと
昨日はそうそう
J.Matsuzakiさんと
ミートアップというのをやってたんですね
タスクシュートの認定トレーナーの方
4人で主催するミートアップ
えー第
100日チャレンジ第6期のイベントなんですけど
この中でまあ
えー当然よく上がるご質問として
あのーやりたくない仕事があるんだと
いった話ですね
でそのやりたくないというのも理由って
まあ様々ですけれども
えーと
この話はなかなかこう
私なんかがあまり意識しない系の話でしてね
まああるだろうなとは当然思うんだけど
えーと
ちょうどあれですよ
グッドバイブスの倉園圭さんを
よくおっしゃるのが真逆で
えーと
これから提出する
えー仕事の成果を手に取るものは
悪人であるということが確定しているケース
まあそれが確定しているケースというのが
私の仕事にはないんだけど
あの例えば私が本を書くとするじゃないですか
悪人の定義と真実の確認
それによってこう
原稿を受け取る編集人が
編集者さんが悪人であるという場合ね
この人に対してはもう
軽蔑か憎しみしか湧かない
こういう仕事を会社ではしなければいけないのは
どうしたらいいのかみたいなお話
これはですね
えーと
まあいろんなアプローチを考えられるんだけど
とりあえずまず
えーとその方は面前に僕の場合
今回はいらっしゃらなかったんで
あのそういう
えーと
まあ質問を受けた場合の話をしてたわけで
ですね
こうなってくると
あのその人は本当に悪人なのか問題というのは
当然あるわけですが
まあここその時は確認が取れないわけですね
あの質問はあるけど
質問者はその場にいないってやつだって
で
えーとこの想定って僕には非常に
えー不可解なところがある
想定なんですよね
まずその直属の上司
なのかどうかは大事問題なんだけど
まあ直属の上司だとして
悪人であるっていうのは
これは何なんだろうなっていうね
嫌いであるっていうのは
まあ分からなくはないんですよ
上司のこと嫌いってのはね
嫌いイコール悪人とは限らないわけじゃないですか
悪人という風におっしゃっているのは
悪人っていう風におっしゃってたと思うんですけどね
その定義が難しいなっていう話だったんですよ
うん
嫌いなのか
えーと
いわゆる悪なのか
ですよね
でマグドバイブスは悪というものを
ほぼ想定していないんですけどね
私はそのタスクシュートでも別に悪って想定してないんで
タスクシュートで悪とか想定できないですよね
だからこう
嫌いまでは分かるんだけど
悪はどうするかなーっていう話になるんですよね
えーと
ここで僕が思い出すのは
桃太郎なんですよ
桃太郎では鬼ヶ島に鬼退治に行くのは
理由がないんですよねあれね
いきなり鬼ヶ島に鬼退治に行くのは
ここに鬼退治に行くことになってるわけですよ
悪い鬼がいる
ここに悪いというのが出てくるんだけど
この悪いは嫌いって意味ではないんですよね
桃太郎は別に鬼が嫌い
鬼を嫌ってるという話が
あそこには出てこないんですよ
桃太郎から見ると
えーとというかあれは村人が定義してるんだけど
鬼は悪人で
悪人じゃないんだな
鬼だからね
うん
これなんですよね
でこの話はやっぱり
正しさしかないなって感じがするんですよ
で私はこのようなケースでは
えー直接のアプローチを取るのは
えーまあでもやっぱり
そうだなその人が目の前にいるかどうかが重要な問題ですね
これ私はその昨日の
えーと
100人チャレンジミートアップで
直接受けた質問ではないんですね
直接受けた質問はもう少し
えーとふわっとしてたんですよ
もう少し抽象度の高いご質問だったんですね
それに対して私が思い出した
えーと
えーといくつかの話の中で
この悪人問題という質問を
かつて受けたことがあるというのを思い出したんですよ
あの雰囲気はよく似てた
雰囲気はよく似てたから
えーと
無関係では全くないと思うんですけど
ただ直接のご質問には
そういうことではなく
それに答えたのも僕ではなかったから
えーと僕は違う質問に答えてるうちに
この件がよぎったので
よぎったというか連想されたんですよ
そこから質問がこう連鎖するように
なって膨らんでいったんですけれども
だからこれは何かにこう
響いたんだなって思ったんですよ
そういう
参加してない人にはね
鬼ヶ島に鬼退治の話と幼児的な心理
この話をいくらしても
いまいち具体的にイメージがつかめないと思うんですけども
そういうことがあったということですね
で問題なのは
簡単なんですよ
やりたくない仕事がある
なぜならその仕事をやると悪人が喜ぶからであると
でしかも直接自分はそれを喜ばせることになってしまうからである
でこういうことなんですね
でこれは
でこれはご質問者に
誰かが目の前にいないと
本当のところ答えたことにならない質問だなと思ったんです
プライベートな質問だなと
まず悪人とはどういう意味なのかってのを
やっぱりこう
何らかの形でもう少し明らかにしなければならないので
あとはその
えーと
その方の心理状態ってのもすごくありますからね
えー非常に調子が悪いとか
家族関係がもううまくいってないというケースと
あるいは
たある意味
単にって言ってはいけないですね
そういうケースもありますよね
もっとちょっと違って
孤独でうつうつとしているというケースとでは
この悪人の定義は大きく変わる可能性が
まあ大きくは変わらないけど
はっきりと違う意味を持つ可能性があるんですよ
きっと
だからその辺のことも一応考慮に入れなければならないので
一般論として答えるのは難しいケースだなっていう風に
えーとその質問については思ったんですね
これこの辺がよく似てたんです
その割ともうちょっと
抽象度の高いご質問だったんで
もうちょっと抽象度高く答えるしかないんだけれども
でもこれって結局そういう話が関係してるなと
仕事やりたくないという件では同じでしたからね
ある仕事ってことですよ
あのあらゆる仕事ではないですよ
ある仕事をやりたくないケース
まあやらないという選択肢も
ケースによってはないわけではないと思うんですよ
ついついあのこの仕事術とかタスク管理では
出てきた仕事は全部やるんですよ
やるみたいなところがあって
まあそれは当然基本的な姿勢としてはそうなんだけど
まあでもですね
ある種の仕事はやらないというのも
えーと選択肢としてはありだなっていう
それもやっぱケースバイケースだとは思うんですね
そういうのって微妙なポイントを含んでくるんで
ので自分としてはですね
まあどう答えるかって
やっぱりこう本当はワンオンワンである必要があろうと
少なくとも少ない人数の中でなければ
答えにくいというか
答えようがないところもあるなっていう話でしたので
ここで今考えてるわけですよ
でねここでは質問者さんは目の前にいないし
えーと当然ワンオンワンでもなんでもなく
僕しかいないんですけど
喋ってるの僕だけなんですけど
このただ鬼ヶ島に鬼退治は
僕の中では一つ必ず出てくるポイントなんですよね
つまり鬼はいるのかという問題がここにあるんですよ
実はね
えーと桃太郎を喜ぶのはどう考えてもやっぱり
幼児なんですね
で幼児は完全懲悪を好む
でこの場合なぜそうなるかというと
完全懲悪っていうのはなんで
要するに見とこうもんですけど
えーと善を進めて悪を懲らしめるという
この懲らすっていう発想ね
つまり非常に幼児っぽい長寿が正しさというものが
そこに強い勢いを持っているはずなんですよ
でこの時にポイントになるのは
この悪人は親であろうと考えられるわけですね
この辺からすごいプライベートになってくるわけです
だから本人の顔面の前にいるかどうかが大事なわけです
悪人はおそらく親であろうと考えられる
じゃないとですね
そんなにストレートに懲らしめるって発想にならないと思うんですよね
さっき途中で申し上げた
平太郎は根拠を持ってなかった
裁く前提と法治の重要性
根拠は村人が言ってるからなんだけど
非常にそれをドストレートに受けて
鬼ヶ島の鬼は本当に悪さをしてるのかとか
村人との対立の戦いはどうだとか
一切そこにはないんですよね
そんなものは要らない世界なわけですよ
本来我々はそれが相当独善的な人でも
ここのところ問うじゃないですか
今もそうだけどその昔からですね
もう少し近代以前の
近代以前の人たちが
近世的な世界でも
おさばきってやつはですね
それなりに証拠集めとかを頑張ってたわけですよ
ケースによっては江戸時代でも膨大な書類をチェックすると
今のあれですよ
東京知見特措部がよくやってる
箱何箱も持ってくるのと基本は同じで
あの中で証拠じゃないものの方が多いわけですから
どうでもいいような書類とかもいっぱいあるわけですよ
めっちゃ大変な仕事ですよね
でも江戸城でそういうことをやってたわけですよ
近世でも
つまり
何にもなくですね
鬼ヶ島に鬼がいるから退治しようっていうことになるってのは
よっぽど原始的な世界であって
つまりそれだけよっぽど原始的な世界というのが
僕らの心にある部分としてはですね
よっぽど幼児的な心理情緒というものが
やっぱそこにあるという風に考えるのが自然ですよね
実際に大人になって会社に行って
この上司は悪人ですっていうこと
悪人ですですからね
この上司は悪人ですっていうことを言って
この上司が嫌いですではないですから
この上司は悪人ですというためには
相当な
それこそ東京知見並みに必要になってしまうんですよ
実際にはね
そんなことないだろうって思われるかもしれないけど
そうのはずなんですよ
客観的にそれを定義しようとすると
そういうことが起こるわけですね
この話は倉園さんも時々されます
ただグッドバイブスの文脈とは
少し違うところだなとは私は思うんですね
グッドバイブスでは
裁かないことになっているから
これはそういう意味で
裁く前提ですからね
裁くためには
ただ裁くとなってくると
こいつは悪そうだよねでは済まされないってことです
かっちりとそれが悪いっていう風に定義するのは
あれですよ
大日本帝国憲法下でも
極めて面倒な手続き
法治としてはですね
面倒だからそこを無理やり省くようなことが
起こるわけじゃないですか
アマカス事件みたいなやつね
そうするとアマカスさんみたいな人でも
大陸に行かなきゃならなくなったり
結局は
結局のところ金庫系ぐらいにはなるわけですよね
めちゃくちゃ甘いですけれども
でもそうなるわけですよ
だから近代以降ではですね
あの気に入らないからやっつけるというのは
基本許されないわけですね
で
気に入らないからやっつけるというのは
許されないけれども
気に入らないからやっつけるという情緒は
僕らの中に残っている
でこの気に入らないからやっつけたいという情緒が
残っているというケースで
これを
親の不在と投影
いわゆる社会人の世界の中でもうごめくとすると
それはやっぱり投影だと考えるのかどうなわけですね
客観的に見て冷静に見て悪人であるという風に
考えているというか
結論を出しているというよりは
そういうケースが全くないとは思わないけど
でもそれは一人ではできないと
客観というからには
これを全部一人の頭の中
心の中でやったということはですね
やっぱりそこにあるのは投影
対象への投影の中であるということですよね
とかの投影っていう風に考えるのが自然だろうなと思います
その場合に親対象はかなりの場合
ただ親対象は関与しているとは限らないので
やっぱりご本人にもう少しお話を聞く
ここで警長ってものが出てくるんじゃないかなとは思いますね
いわゆるテクニックとしての警長って言われるんだけども
これはテクニックというよりは必然の手続きだろうと
ここでだって
いやいや親は良いとやらいいからだよなってなってとかそういった状況ですよね
関係でしたってこともあり得るわけだから 聞かないわけにいかない
あるいは親はいなかったです これは重要なポイントですよね
その鬼はいるのってことですよ
いないものは討伐できないでしょって 言われるかもしれませんが
いないからこそ討伐したくなるという 問題があります
だって2歳児なのに親はいない お前どこ行ったんだってことなんですよ
まさにいないからこそ討伐されるべき 理由ができるわけですよね
いないかいるかがはっきりわからない人を 置いてっちゃいけないわけですよ 原則的に
ただこの置いていくの中には 置いていきたいわけではなかったけど
置いていくことになってしまったという ケースもないわけじゃないんで
いっぱいあるのでそういうケースが いよいよそこから話がややこしくなっていくわけですよね
例えば異常に痛ましい話ではありますけれども 戦時中の戦争小児っていう話あるわけじゃないですか
親を恨むということは当然
起こりうるわけだけれども 親を恨むとなったときにですね
その親は空襲に遭いましたって話になった場合 この恨みって残ってしまいますよね
こういう問題ってのがつまり不在論ってところで 非常に重要になってくるわけですよ
この内因と外因って言いますよね いわゆる社会モデルと個人モデルでもいいんですけど
心理モデルと社会モデルかな
臨床側はよくこの件を言われる
おそらくグッドバイブスでも言われることはあるでしょうし
私なんかも最近は言われることになるだろうと
僕も顔色をおかかおほんで 既にレビューイって言われましたね
言われたわけですけれども
搾取するのは搾取する人間が悪いのであって
される人間が対応しなければならない問題ではないと
客観的に搾取されているなら
それはそういうことは確実にそうでしょうか
あのあれですよ
旧インド帝国 インドではないけどね
ムガル?
ちょっと名前はあれですけれども
あれは絶対イギリスの搾取に問題がありますよね
インド側で対処しなければならないことでは本当はない
補正の反乱でしたっけ
非常にひどいですよね
あれでよく戦前の日本を避難できるなんて思えるほどのことぐらいのことはやってますよね
大英帝国も
大日本帝国のこと言えないだろうって感じがするんですけど
大英帝国のこと言えないだろうって感じがするぐらいのことはやってますが
要するにああいう話であればそうでしょうね
搾取する方が悪いで総出で通ると思うんだけど
問題は会社とかにいる場合
仮にそうだとしてもですね
やっぱり
搾取されていると仮にしても
その人は凶悪
むしろあれなんですよ
だから心理師とか心理カウンセリングって
緊急性を要する部分があると思うんですね
えーと
会社の体制とかコンプライアンスを
直すって話になったら
凶悪っていうわけにはいかないと思うんですよ
だけれども
いやもう本当に
辛いんですってなると
凶悪の話になっちゃうじゃないですか
一歩間違うとね
でそうなった時には
とりあえず心理の方に手を当てるしかないだろう
ってところがあると思うんですね
つまり心理に手を当てないにしても
個人の側の方で
なんか対処しなければ
ならないでしょうって感じがするんですよ
搾取され
搾取でなくてもいいんですけど
パワハラで辛いでもなんでもいいのですが
そういう風にこう組織に問題があるんですと
仮にそうだとしてもですね
例えばそれで
いや美味しいものをじゃあ食べに行けば
美味しいものでも食べに行くとか
温泉に入るとかいう話だったとしても
やっぱ個人が対処してるじゃないですか
心理的な対処とは言い切れなくてもですね
そういうところは逃げ出して
転職すればいいんですっていう
有名なのもありますが
これだって個人が対処してるじゃないですか
会社を正しては決していないですよね
つまりそれが理不尽だとしてもですね
そしてそれをカウンセリング的に
つまり自分の方のフィルタリングの修正みたいな
あるいは修正浄土体験みたいな
つまりカウンセリング的な
心の問題にしないとしても
あなたの心には全く問題がないから
逃げればいいんですとしてもですね
結局逃げるコストは個人の側が払ってます
よね
つまり僕はこれはですね
対象喪失と鬱
緊急性を要するならば
こうなるしかないと思うんですよ
こうしないで組織の方に手を入れていくってことになってくると
そもそもそれは可能だろうかっていう問題が一つはあるし
もう一つは時間がどっちにしてもかかる
これを瞬時にやるとか
今晩のうちにやるとかは無理だと思うんですよね
これを理不尽だと言っても
こだわるっていうところに不在論があるんですよ
それは個人が動かなくて全くいいはずだと
温泉に行かなくても美味しいものを食べなくても
転職しなくてもカウンセリングはもちろん受けずと
とにかく個人の側が正しいんだから
会社が変わるべきだっていう風に
何にも個人がしなくても
会社は変わってはくれないじゃないですか
その会社がブラック企業だった場合は
特にですね変わってはくれないと思うんですよ
変わってくれないから
ブラックなのにね
ブラックなわけだから
そんなに簡単には変わってくれないと思うんですよね
この時にどっちにしても
個人は何らかの形で動かなければならない
その状態がでも許せないっていう
その真理が辛いわけですよ
僕が思う一番
動きたくないのに動かなければ
どっちにしてもならないから
これと不在論は
僕の中では非常によく似た構図を持ってると思うんですよね
親がいないブラン
でも親は空襲で死んだ
どうしようもない
ですよね
でも恨みの気持ちはあるっていうケースですよね
そういうケースはあるんです
でこの場合
恨むことは理不尽だと言っても
恨んでる人が
幼い子供だった場合
どうにもならないですよね
その時恨みの気持ちがあったという話は
つまり不在というのは
不在が恨みになるというのはですね
どうにもならないですよ
相手はいないわけだ
これが途中で言った
鬼がいなかった場合の鬼退治はどうなるんだろう
絶対に許せない
でもいないっていうものを許せないって言っても
ある意味どうにもならない
確かにそれをいなくしたような
世の中の在り方とかですね
空襲ってそうですよね
世の中の在り方です
その親がいなくなってしまうという
社会の在り方に問題があるんだと
あるいは即座に代わりの
ちゃんと愛情に見して
親代わりの親が出てくるべきだとしてもですね
現には出てこなかったとか
いなかったという事実が
残ってしまうと
これは理不尽なんだけど
こだわるっていう部分なんですよ
こだわってみても
どれほど個人がこだわってみても
それを解消する術そのものはない
なぜなら不在のものを作り出すことは
不在であることを取り消すことはできないからですね
ここに不在というものの極度に面倒で
厄介な理不尽さがあるんですよ
これは幼児でなくても
大人であっても
解決しきれないから
抑鬱的になるというのがあれです
いわゆる精神分析的な考え方なのかなって感じがします
なんでここを精神分析的って言ったかというと
対処方法と個人の動き
今のいわゆる精神快適な
なんて言うんですかね
要するに抗精神薬
この場合抗鬱剤になるんだけど
薬理療法ではこういう考え方しないから
不在だから人が鬱になるかどうかなんて
分からないというふうに考える
不在というのは人の不在が多いですけど
ケースによっては対象の不在一般を精神分析では指すから
理念とか理想とかそういうものも含みます
だから会社というものにこれほど期待したのに
会社は期待に全く応えてくれないという理由によって
これは不在論の中に入ってくるんですね
対象の不在あるいは対象喪失ですよね
によって鬱になると
その時に何が起こるかというと
怒りが燃えますよね
なんで会社というものはそういう理念を
あるいは若者がね
社会人になった時に乱々と燃えていくのに
全然それに対応して
こうしてくれるような存在ではない
ないってのはないってことですよね
そのようなものはなかったってことですよ
すごく詩的な例を出しますと
うちの祖父がですね
じいちゃんが満州に行ったんですね
これは好んで行ったのではないんだろうと思うんですけれども
東北の人間なんでよくありがちな話ですね
満州に行って
でもうちのおじいちゃんは天皇陛下大好きだったんで
もうあらゆる意味で信じて行っていたわけです
ただ特に満州で何をしたってわけではないみたいですけど
訓練に明け暮れていて
終わったら帰ってきたみたいな
なんかね記憶が曖昧な人なんで
どのくらいその話が真実味があるのかわからないけど
ほぼ何をしていたのか分からないんですけど
何をしていたわけでないってのは確かみたいなんですよね
いつもこうソ連が来るというふうに言われていて
ソ連に対峙するために
それで対峙できるとはとても思えないんだけど
銃剣ですよね
銃剣持って突撃するっていう訓練をずっと繰り返してるけど
これで俺は一度も負けたことがないというのが自慢なんですよ
そういうおじいちゃん
だけども実際にソ連が来たって時になった時には
もう引き上げるってことになる
ここで対象喪失が起きたわけですね
対象喪失による絶望と抑鬱
なんでだってことになるわけですよ
国に帰ってきてみると
天皇陛下は神様ではなかったですって話になって
ものすごい喪失感が起きて
即座に蒸発してしまったんですね
これがつまり対象喪失なんですね
これに対してどう考えるかっていうのは
様々だと思うんです
幸福罪っていうのは何か合ってない感じが
この場合はするんだけれども
とても正気とは思えない行動は取ってるわけですよ
だって奥さんと子供がまだ幼いのにですね
唐突に蒸発して山守りが始まったわけですよ
うちのおじいちゃんは
どこに行ったかも分かんないと
どうやら山伏の女性と一緒に
祈ってたらしいんですけれども
冗談みたいな話に聞こえると思うんですけど
大真面目にやってたはずなんですよ
うちのおじいちゃんのことだから
まず間違いなくそういうことを大真面目にやりそうな人なんでね
対象喪失っていうことはほぼ確実にあると思うんですね
巨大な対象ですよね
大日本帝国という対象を失ったわけですね
この話僕は何度も言ってたんですけど
何度も聞かされてるんですね
東北の人だし
なんつうんですかね
要するにローカルな世界に生きている
木こりの息子だったのかな
そういうことなんで
その後寺の住職になっていくんですけれども
要するに対象喪失の後に起きたことが
うちのおじいちゃんには全部起きてるんですよ
それが僕は精神分析読んでいて
なるほどなって思うんですよ
そこで
そこに書いてある通りなんですよね
物作業って言うんだけれども
うちのおじいちゃんがやったのは
壮大な物作業が人生の
事実上人生を覆ってるんですよね
物作業が人生を覆ってる
最後は物作業を完遂するんですよね
うちのおじいちゃんは
多分完遂した感じの人なんです
鬱ではなくなってる
でも多分一時は鬱を通り越しているような人だったと思うんですよね
完全に正気を欠いていたような時代が
多分あれはね
神がかりってされるんですよ
昔の定義で言うと
何かが見えちゃってるわけです
それは対象創出に対する
怒りと悲しみと絶望による理由が
ほぼ全部なんだけど
失望なんだろうけど
極めて大な失望ですね
こういうものが不在にはついてもある
何しろそれはないわけだから
ないものに恨みの気持ちを抱いても
自分に対する理不尽さしか残らないんだけども
でもどうにもならない
ないからね
ないものは何かをしてくれるわけではない
あるんだったら
その人がいたり
組織があったりするなら
私もなんだけど
なくなってしまうと
どうしようもないですよね
警告はないわけですからすでに
だからそういうことで
個人が対処するしか
結局ある意味ではなくなってくる部分があるわけですね
この時に僕らは
人との関係を
一つ思うところがあると思うんですよ
ある意味では
あのある意味ではですね
同じじゃないんだけど
考えた結果
幼児と同じ状態に戻るしかない
っていう部分があると思うんです
それが僕はのエリクソンが言った
基本的信頼ってやつだと思うんですよね
何でもいいんですよ
愛でもいいんです
名前でもいいんです
でもみんな同じことを言う
なぜなら
0歳児が不信感を持ってても
役に立たないからなんですね
だけれども
ことが同じような事態になってしまった時
つまり
不在の対象を恨むなどという状態になってしまった時には
私たちは
すごく幼児っぽくなってるわけだから
ここで取り戻せるものはあるとすると
基本的信頼しかないと思うんですね
この場合の基本的信頼が
すっごい理不尽に聞こえるはずなんですよ
現実を信頼しようって話
とにかく
で先日というか
昨日ですね
そのミートアップで
ジェイマスザキさんが
最後にちょっと答え
の答えになった
答えがそのまんまだったんですよ
行動の結果を問わないようにしたって言ったんですよね
彼がね
それは起死念慮の後の話なんですね
彼の
彼がドイツに行って
要するに対象喪失ですよね
えっと
ジェイマスザキ株式会社は
絶対にうまくいくと思ってたのに
事実上崩壊したと
対象を喪失したわけです
その場合の対象というのは
自分が作った会社なんだけど
会社のその成功への何かみたいなものなんだけれども
その対象に賭けていたから彼は
でドイツまで行ったわけですからね
ドイツに行くことと関係が直接あるのか
わかんないんだけど
とにかくそれで行ったわけです
その対象が崩壊したと
要するになくなったわけですよね
で絶望すると
ここまでは同じなんですよ
対象喪失の流れと
でなくなったことに恨むわけですよね
人は
でもなくなったものについて
なくなったことについて
自分の力量なのか何なのかを
いくら考えても
無駄な面はあるわけです
ないわけだからですね
完全にそれは規模こそ小さいけど
帝国と同じなわけですよ
で対象を失うと
その時に彼が行き着いた最終的なところが
今の段階なんだけど
今の段階での最終的なポイントが
行動の結果は問わないんだと
これはつまり赤ちゃんに変えるってことですよね
赤ちゃんは行動の結果を問えないんだけど
この差が大きいんですけどね
でも彼はそういう風に
するようにしたという
話だったわけです
なぜなら行動の結果というのが
行動遺憾によることができないからだ
っていう話なんですよ
これはつまり
その失望した時の状況ですよね
彼としてはありとあらゆる手を打ったけれども
事実上
ジェーマンスズキ株式会社崩壊に近い状態に入ったと
で打てる手が何にもなくなってしまったんだ
ということ
それってつまり赤ちゃんの状態じゃないです
打てる手は何にもないと
何かをやったところで無駄だったと言うんですね
で
そのままだと事実上死んじゃうので
身体は死ななくても心理は死んでしまうので
つまりそれが深い絶望ってやつで抑鬱なんですよ
でここで
いや原因を問うても本当のことは分からないから
薬を飲みましょうっていうのが抗鬱剤です
でこれもケースによっては当然必須になるわけです
あまりにもどうしようもなく絶望してる時に
基本的信頼への回帰
この絶望するっていう脳の機場
ある程度ブレーキかけないといけないんですよ
ブレーキかけないことにはどうにもならないので
どうにもならないことで悩んでることは確かなんでね
だからどうにもならない状態というものに
ブレーキをかけるっていう必要が出てくるわけですよ
どうにもならない状態に対して
どうにもならないんだって考えることに意味はないので
ここが逆説的になるんだと思うんですよね
絶対逆説的になると思うんですよ
ここはしょうがない話ですよ
どうにもならないのをどうにかしようとするのは無理ですよ
どうにかしようとしなければ理不尽だって思わないわけだから
やっぱりどうにかしようとしてるわけですよ
どこかで
でもそれは無駄なんだと思ってるから絶望するわけですよね
無力感に苛まれる
カウンセラーはこれをとえどいつかで浴びちゃうわけですよね
ずっとこういう話を聞かされてる
何を言ってもこの人には通じないという風にして
同一化されていく
そしてカウンセラーも一緒に鬱になっていく
ここを通り過ぎる必要があるみたいな話があるんですよ
ここを通り過ぎる必要があるみたいな話があるんですよ
精神分析では出てくるんだけど
これやってると危険極まりないので
精神分析の人も精神分析を受けるという形を取るんですよね
形式的には
この話の最後の行き着くところが
基本的信頼に戻っていく
つまりただ今度は大人になったんで
基本的信頼はそうするしかないから
結局そうなんだけど
現実の共同幻想と人間の現実
考えて基本的信頼に戻るということになる
ただちゃんは理不尽だろうと
親がいなかろうと基本的信頼することしかできないから
基本的に信頼にするんだけど
今度は選択の余地が一見ある中で
実際はないんだけどね
実際はないんだということを認識することで
基本的信頼に戻るんですね
これができるようになると
行動の結果は問わずに済むので
ここでものすごく納得がいかないと
もしれないんですけれども
相手がいるかいないかとか
相手が報酬をくれるかくれないかとか
この行動に意味があるかないかというのを
最終的には問わないで
行動するということになります
ただ実際にはね
私たちはかつての習慣もあれば
頭でこりっこに動き回りたいという頭は
残っているから
多分結果問いますよね
例えば今度のセミナーにしても
一生懸命告知すれば
もっと来てくれるんじゃないかとか
考えはしますけれども
でもそうならなかったとしても
もう絶望するほどには
結果について肯定はしない
ということなんですよ
だからこういうことをやっていると
悪い奴に騙される
だからここでも悪いが出てくるんですね
悪い奴に騙されるんじゃないかとか
鬼の利益になってしまうんじゃないかとか
いうことはあるのかもしれないんだけど
結局それについて
真剣にどこまでも考えたからといって
自分が
合理的な行動を取れるとは限らない
そういう人間であるからこそ
ありもしない対象がなくなった
なくなったんだから
合理的に言うならば
諦めるのが早いじゃないですか
でも人間はそうはできてないから
抑鬱的になってしまう
つまり対象喪失が起きる
対象喪失ってのは
心の中の出来事ですからね
対象ですからね
対象って外側にはないから
対象なんですよ
こう難しいんですよね
大日本帝国あったじゃんって
言われるかもしれませんが
この辺はもう
吉本貴昭さん的な発想です
共同幻想の一種なんですよ
これは共同幻想というものを
馬鹿にするって話では全くないです
共同幻想というのは
お金に価値があるというのは
共同幻想ですから
共同幻想の現実を作り出すのが
人間の現実なんですよ
だけれども
対象喪失と心の中での嘆き
いきなりこれなくなることは
残念ながらあるんですよ
戦前のドイツみたいにですね
マルクの価値が消滅するみたいな
そういうことは起こるんですよね
共同幻想
まあまあ
稀にだと思うんだけど
でもそれなりの頻度で起きちゃう
だから消滅するんですよ
でこれに対して
対象喪失が起きちゃうんですよ
でもそれは心の中で起きてることなんです
対象喪失そのものは
あのマルクの価値は
実際になくなってるんだけど
現実に
でも衝撃を受けてる方は心なんですよ
そしてそれは
基本的信頼と甘え
親がいないという子供の嘆きなんですよね
でもここが厄介なんですよね
でも現実は
基本的に
信頼しておかないと生きていけない
だから結局のところ
基本的信頼ってのは
ちょっと宗教っぽい雰囲気を帯びてこざるを得ないんですよ
甘えも同じですよね
河合駿さんも書いてますし
土井さんもそういう感じで書いてますけど
甘えというのは
最終的には宗教的な雰囲気を帯びてくるんですよ
で日本人は多分観音様に甘えるっていうのも
最終的な答えの一つみたいにしてるところがあるんですよ
観音様に甘えるってのは
明らかに現実が頼りにならない時の発想だと思うんですよ
やっぱり現実に十分頼りになる親がいて
お金があって
そのお金の価値も担保されていて
会社に行けば会社も信頼ができてっていう状態であれば
多分人は観音様には頼らない
だけどもそういう話になってくるということはですね
心理的な問題と情緒的な話
甘えというのは宗教的な雰囲気を帯びてくる時というのは
多分なんかやばいことは起きたりするんですよ
少なくともそういう目に一度や二度は合っているから
そういう話になる
でも結局この話は最終的には
情緒的なというか心理的なというか
精神的なというか感情的な話なんですよ
だって昔
多分昔なんですよ
親にこういう目にあったことにまだこだわってますというのは
もはや事実との関係性ではないですよね
感情の問題気持ちの問題ですよ
でもそれはないがしろにはできないし
無限にもできないし
どうしようもないものだとは言えない
ただこれを知的に情緒が問題にしているんだと
捉える意味はあると思うんですよ
そして基本的信頼というものは
最初は腹落ちはせずに
腹落ちできないかもしれないし
納得もいかないかもしれないけど
とりあえず頭では分かっているという状態に
これはちょっとグッドファイブで
生物的ではないかも分からないですけど
私の考えですけどね
頭では分かっているという状態を
それは薄っぺらいかもしれないけど
繰り返し意識しておいて
それに行動を沿わせるっていうのが
大事かなと思うんですよね
それが最終的には
修正浄土体験と言われてるものを生むんじゃないかと
結局そこにはちょっと宗教色っていうのは
出てくるかなという感じはします