| 今回は、日本のヒルティとも言われる、法哲学者・三谷隆正の遺著『幸福論』です。 三谷さんの師匠は、新渡戸稲造、内村鑑三です。 ゆえに、この本には、武士道の精神と、福音的音色が混ざり合った幸福論が説かれています。 三谷さんを師としたのは、政治学者の丸山眞男さん、精神科医の神谷美恵子さんです。 幸福論という、人間の普遍的なテーマを、一緒に深めていければと思います。 |
サマリー
このエピソードでは、三谷隆正が提唱する幸福論について、自己内在論と自己超越論の2つの視点から探究されます。幸福は主観的な感覚だけでなく、他者を包み込むものであるべきだという主張が展開されており、最終的には人生の目的が個人を超えた悲願でなければならないことが強調されています。三谷隆正は幸福論を通じて、人生の目的を探求し、自身を超越することの重要性を説いています。他者を発見し、自己を捧げることで真の幸福に至るという考えが示されています。
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じゃあ、ちょっと行きますか?
行きましょうか。
自己内在論の概念
ねえ、これ第2章幸福とは何かっていうところね。
自己内在論と自己超越論っていう2つが書かれてあるんですよ。
はい。自己内在論と超越論。
そう。で、まず自己内在論から入っていきますね。
はい。
自己内在論とかちょっと読んでみます。
はい。
アリストテレスはまた、快あるいは喜びを幸福の一つに数えた。
ちょっと飛ばします。
しかし、快不快は要するに主観的な問題である。
したがって、幸福のあり場所を快不快にかからしめるのは、幸福の本質を主観的なもの、自己内在的なものにすることである。
って言ってるんですね。
うんうんうんうんうん。
なるほどね。
うん。
はい。心よりの快か。快と喜び。
うん。
うーん。
なんかこう、直感的にとか、イメージそれに近いものも、普通に幸福って語られるときにありそうですもんね。
ありそうですよね。
主観的なね。
ねえ。
はいはい。
だけども、そこにはその落とし穴があるんだっていうことが言いたいんですね、これ。
うーん。
で、これこの後何て言ってるかって言うと、
はい。
いやー、難しくなってきたよ。
超個的っていうのは、個人を超えた。
そうそうそうそう。
うん。
うん。
うん。
やっぱり宮沢賢治が言ってる、世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえないって言ったのと、同じようなことを言ってるんですよね。
うーん。
うんうん。
主観的なものっていうのはそうなんだが、その自分が幸福を感じればそれでいいということに閉じてしまうと。
うん。
うんうんうん。
そこには他者が欠落しているから、本来幸福っていうのはもっと他者包括的なもの、他者が入ったようなものが個人を超えたようなものが入らなければならないであろうと。
うんうん。
だから幸福の本質っていうのは自己の内在的なものではなくて、自己の超一的なものでなければならないんですよと。
うーん。
うん。
なるほどな。これは三谷さん側のオリジナルな主張っていうよりは、結構こういう研究もある、当時からあった?
どうなんでしょうね。どうなんでしょうね。
うーん。それともやっぱり自己内在論がずっと続いてたのですか、この幸福論っていう。
どうなんでしょう。自己内在論、自己超越論っていうことを、幸福論の中で言ってるのはこれ三谷さんが自分でつけてるんじゃないかな。
ああ、なるほどね。
アリストテレスたちを非難してるわけじゃなくて、ソグラデス・プラトン・アリストテレスたちの幸福論っていうのを、
三谷さんの言う自己内在論として、世の中の多くの人が解釈してしまっているというところに問題提起したいんだと思うんですね。
うーん。
作者の意図とまた違うところで読んでるってことなんですか、解釈。
えーっと。
アリストテレスとかはそういうつもりで書いてないのに。
そうそうそうそう。
うーん。
ほら、やっぱりアリストテレスも感想的な性が大事だって言って、やっぱりそういう感想、迷走みたいなものとかをすごく大事にされるから、
そういうことって個人の内面の世界に入っていき、徳の感性って書いてあったけど、そういう自分を高く深めていくとか、自分を悟りの境地に持っていくっていう、
そのすごく社会と切り離された感じになってしまっていってるというのを問題だろうってことを言ってるんだと思うんですよね。
うーん。
そう。
そっか。
自己超越論の探求
そうなってくると、じゃあ自己超越論。
そうそうなんです。
そうなんですよ。
自己超越論とかちょっと読んでいきますね。
はい。
これらの生活をして喜びあふれしむる者は、我らの思うところすべてなることではない。
そういう形式的自由ではない。
そうでなくて、実質的に、我の思うところ、皆真理にかない、我の成すところ、皆人生の目的にそぐうことにある。
一人の己の死位のなることが、彼を幸福にするのでなくて、
彼の生活の実質的内容が、人生の意義目的を全うし、真理にかなうものであることが、
彼の一生を幸福にするのである。
と言ってるんです。
じゅんさん、解説聞きたい。
難しい。
音を聞きながら理解していくのが難しいですね。
今回一番難しいかも。
そうだよね。
もう一回ちょっと読むとね。
我らの生活をして喜びあふれしむるものは、
これすごい文体いいじゃないですか。
私たちの生活を喜びにあふれさせてくれるものは、我らの思うところ全てなることではない。
それは、自分の思うところが全てかなうことではない。
そういうものではない。
そうじゃなくて、実質的に、我々の思うところをみんな真理にかない、
我々の成すところをみんな人生の目的にそぐうことにあるんだと。
ひとりおのれの死のなることが、自分の思い通りにいくことが幸福にするのではなくて、
君の生活の内容そのものが、人生の意義目的にかなうものであるかどうかなんだ。
ってことを言ってるんです。
人生の意義に、自分の生活か。
直感で聞いた感じですよ。
これもまだ個人を超えてないように聞こえちゃうんだけど、そういうことじゃないんだ。
例えば僕が人生でこういう人生を歩みたい。
自分の日々の生活がそれに沿っているかどうか。
すごく個人的な感じもしてるんですけど。
そうなんですよ。
ちょっとそれはまた違う。
要は三谷さんの書いてる意図とは違うのかな。
いや、その通りなんですよ。その通り。
続きにしたがって、
我らが幸福をとらえんがために、まず第一に必要なことは、
人生の意義目的を明らかにし、
いかなる生活が真理にかなう生活であるかを了解することである。
そもそも人生の目的は何であるか。
ってことになってくるんですよ。
この真理にかなう生活とはどういうことか。
人生の目的にかなうとはどういうことか。
この真理にかなう人生の目的というものは、
人生の目的は己の超えたる悲願になければならぬ。
ってことを言ってくるんですよ。
面白くなってきたね。
そういうことなんですよ。
そこが個人を超えるんだ。
そういうことなんですよ。
人生の目的ってことを突き詰めて考えていくと。
悲願に?己の悲願って言いました?
そう。己を超えたる悲願になければならぬって。
かっこいいじゃないですか。
たまらんねえ。
たまらんねえ、ほんとに。
たまらんねえ。
ほうほうほうほう。
いやー、だって人生の目的か。
これもまた難しいテーマじゃないですか。
難しいテーマですよ。
面白くなってきましたね。
うん。
そうか。
こういうところにアプローチしていくんですか、ここから。
そうなんですよ。
だってさ、人間ってもう別に何も目的なくポンって生まれてきて。
目的なくっていうか、気づけば生まれていて。
そこに人生ってものが勝手に始まるじゃないですか。
それに目的とは何かってことを考えていくってことですよね。
そういうことです。
これはすごいですね。
どこまでいっても幸福をどう感じるかは主観的な問題には変わりないんだと思うんですよ。
でも何に幸福を感じるかということは、随分とその人の認識のあり方で変わりますよね。
認識の深まりとともに、幸福というものが深まっていくと思うんですよ。
すごく多様的になってくるじゃないですか。
で、ミタニさんがここで提示しているのは、
真に幸福たれうるものっていうのは、自分の生活そのものが真理にかなっているかどうか。
人生の目的にかなっているかどうかなんだっていうことを言っていて。
じゃあその真理にかなう生き方、人生の目的ということは何なのかってことで、論理展開が起きていくんです。
そうか、さっきの主観で言ってた快意とか喜びみたいなのは、それで言うとすごくもっと切な的な感じですよね。
そうですね。
その瞬間の心地よさとか喜びみたいな話なんだけど。
結局我々もさ、今までこれだけ生きてくるとさ、自分の過去にある苦難がありましたと。
これこの章だって第3章からもうこれ苦難の人生を扱うから。
その苦難だったことということがあって、今の自分があるということになってきたときに、
その苦難は今振り返ると大変ありがたい幸福的なものだったかもしれないって今は思いますよね。
よくある話ですね、それ。
その瞬間はいわゆる不幸に思えたかもしれない。
振り返ったときにあの経験があってよかったって話ってありますもんね。
そうなんですよ。
苦難と幸福の関係
だからあの苦難というものは、自分の人生の目的に対しては必要不可欠だったんだ。
だからあの苦難も実は自分の人生の目的にかなっているんだって。
かなった生き方を実はしてるんだと。
ということになってきますね。
そっかそっか。
さっきの前段の主観で捉えようとすると、その苦難はもうただの幸福じゃない出来事になっちゃうんですよね、多分ね。
その瞬間喜びがないから。
でもその考え方としてそういう証拠的に、超越論?
考えていくと、そっか捉え方が変わるのか。
面白いですよね。
これなかなか難しい次元ですけどね、これ。
ですよね。
だって後になってからそう感じるだけであって、その最中はそうは思えないでしょっていう。
そうですよね。
ことになるじゃないですか。
はい。
非常に難しいんだけども。
でもどうですかね、なんか、
自分の人生の中でそういう苦難こそが自分を作ってくれるという経験を少しずつ繰り返し繰り返し、
この苦難との向き合い方とか、苦難との距離の取り方とか、
まあそれこそ超越的な運に自分を捉えるみたいなこととか、そういう目をやっぱり鍛えていけると、
苦難との向き合い方というか、なんだろうな、向き合い方みたいなものは変わってきそうではあるじゃないですか。
はい。
ねえ。
その瞬間今起きてるかもしれないけど、その苦難。
その時の捉え方はやっぱり変わっていくことはあり得ますよね。
そうですよね。
苦難の最中にむしろ、どう意味を見出すか、何を頼りに意味を見出せるのかっていう問いも結構大事だと思ってて、
そういうのの頼りになるのが、やっぱりこういう本だったりするのかなという気はしますよね。
これ前書きで三谷さんが書いてた話ともつながりますよね。
何だろう、不幸、他社から見たら不幸かもしれないっていう話もあったし、
まさにこれ書いてる時がその病気、本当死ぬ直前なわけで、そういう話ともワーラップしてくる。
すごい耳を傾ける価値がある。
ことだなと思って。
ヴィクトル・フランクルの夜の霧とかもなかなかに壮絶な体験じゃないですか。
あの極限状態の中にも人生の意味を見出していっているっていうこと自体が、すごく人間の可能性を明かししてくれてますよね。
やっぱりね、あそこまでいけるんだっていうね。
いやー、そっか。
だから、なんかそうなんだよな。
僕もこれを読みながら、自分のこの快不快とか、幸せだなって思うことはあっていいし、できたら最高だと思ってるんだけど、
そういう感じれない時にどうするのかってことの方がやっぱり大事で、
そっちもとても大事で、
そういう時にこういう自分が真理にかなっている、自分の目的にかなっているんだこれはって、
なんかこう取られたら素敵だし、
人生の目的の探求
まあそもそも自分の目的や真理とは何なんだろうかってことに探求すざるを得なくなってきますよね。
確かにね。人生って別に快と喜びだけじゃないから、
だからこそこういう哲学が生まれてくるんだなって聞いてて思いました。
ずっとそうだったらね、いらないもんね。
そうだね。
幸福について考える人が。
楽しいことしようぜってね。
そうじゃない局面が人生にあるから、
その時の捉え方みたいなことを先人の人たちがいろいろ考えてくれて、
僕らは今それに触れることで、もしかしたらクランの局面を乗り越えられるかもしれなかったり。
うーん。
そうか。
で、この人生の目的みたいなことを考えていくときに、
キリスト教の話とか仏教とか出てきそうな感じもしますもんね。
どういうことなんですよ。
これね、人生の目的のところをちょっと読んでみていいですか?
はい、聞いてみたい。
命の目的はまた命でなければならぬ。
人生の目的は知識ではない。
芸術でもない。
もちろん富でもない。
人生の目的は事業や業績ではない。
それらは命の結実であって、その目的ではない。
目的は生成発達として命あふれるものでなければならぬ。
それ自体が命の主体たるものでなければならぬ。
人生の目的を命の主体たる生きる人格者以外に求めるのは根本的に間違っている。
幸福の秘訣は、己を越えて命あふれるある人格的他者を発見し、
これを捉え、これに己を捧ぎきることである。
彼のうちに己を没して、己無きに至ることである。
その没画的献身が、人を真に生かし、
彼をして、真に命満ちあふれしめる。
ということを言ってるんですよ。
自己超越の重要性
おお。
まず1行目からなんかすっごい大事にそうなこと言ってましたよね。
命の目的はまた命でなければならぬ。
うん。
おお。
これどっから行きましょうか。すごい。
そういうことだよね。
なんか聞きたいこといっぱいあったな。
そうだよね。
うーん。
うん。
ちょっと純三的解釈聞いてみたいかもしれないです。
うんうんうんうん。
そうだね。
いやこれね、本当はちょっとこの場所を読むつもりなかったんですよ実はね。
うん。
ここから結構キリスト教的なものが入っていってしまうんですね。
うん。
で、ちょっとね一気に第5章飛んで、
これね、同じことを別の角度で考えているところがあるんですよ。
おお。
こっちの方が現代受け取りやすいだろうなと思って、
今日もこの後の章結構飛ばしちゃうんですよ。
うんうん。
飛ばしちゃうんだが、せっかく読んだんで、
ここにでもこの三谷さんの伝えたい核はここにあるんだとは思ってるんですよ。
結構自己内在論ではなくて自己超越論でなければならないと。
でその自己超越というのは、
自分以外の何を頼りにするかってなった時に変なものを頼りにしたらまずいでしょ。
うん。
全体主義みたいな形になったりした時に、
そこに自分の命を預けるものではないところに預けてしまうのは危ういと。
なった時に何を頼るのかとなった時に、
命あふれるある人格的他者っていう風に言ってるんだけれども、
うん。
これが三谷さんにとっては神になっていくということになるんですよね。
ああそういうこと。
うん。
人格的他者っていうのはあまりなじみのない言葉ですね。
うん。
これ人格的って使ってるのはね、
その、
次の章が、
人格的超過者と非人格的超過者って書いてあるんですよ。
ほうほうほう。
だからその人格進化、
なんていうの、非人格進化って話をしてるんですよね。
うん。
っていう問題に入っていって、
あんまり興味ないんだと思うんですよ。
神について現代我々はあんまり興味がないだろうから。
うん。
でもすごく実はこれ大事な話なんですよ、三谷さんにとっては。
うんうんうん。
キリスト教っていうのは人格心があるじゃないですか。
うん。
で、
命の献身
神というものはやっぱり人格がなければならないって。
なんでかっつったら自分が困った時に、
何か頼りになるのはやっぱり命あるものだろうっていう。
キリスト教中の神が、
人の形をして現れてきてくれたってことに、
とっても大きな意味を見出してるから。
うーん。
うーん。
だから三谷さんここからね、
その、
やっぱり変なものに捧げてはならないから、
この部分を丁寧に丁寧に解説していってくれるんです。
へー。
よねー。
そっか。
うん。
それはもはやデビュー作で書いてたような、
ちょっと神学っぽい話にもなってくるんですか?
なってくる。
なってくると思う。
うーん。
うーん。
それは、
神とは何かみたいな話なんですか?
うん。
そんな違うんですか?
あっそういうんですか。
そういうことですそういうこと。
そのね、
なんだろうな。
いや分かりやすく言うと、
自分以外の、
命あるものに、
使えていこうではないかって、
まあそういうことだと思うんですよ。
うーん。
相当じゃないですか、
それはって。
うーん。
なんだけど、
三谷さんはね、
なんだろうな、
まあ、
僕の今の言い方に、
どう捉えるかなんだけども、
三谷さんは、
その、
量的なものではなくて、
量的って言ってるのは、
その、
すべての命っていう、
意味での、
じゃなくて、
そこに質的な意味も、
込めて言ってるんですよね。
うん。
うん。
うん。
だからその、
命を超えた命みたいな、
おお。
ことになってくるんですよ。
命を超えた命。
そう。
だから我々は、
自分以外を含めた、
まあ自分も含めたなんだけどな、
自分を含めた、
生きとし生けるものに、
捧げつつ、
生きとし生けるものを、
生かしめている命に、
捧げるんだっていう、
うーん。
そういう感じですよね。
うーん。
うーん。
うん。
それが没画的献身って言ってたのは、
まさにそういうこと。
そうなんですよ。
言ってるんですか。
うん。
これあのー、
事故内在論のところは、
括弧して、
主画的幸福論って書いてあるんですよ。
主がね、
私、
主が私だってことですね。
はい。
理工的ってことを言ってるんでしょうね。
はい。
で、事故超越論のところは、
没画的幸福論って言ってるんですね。
はあ。
事故を没するって。
はあ。
事故をそのー、
生きとし生けるものを、
生かしめる命に、
没するんだって、
捧げ切るんだって。
うーん。
これが武士道的なんですよ、でも。
うんうんうんうんうん。
武士道ってそういうことだから。
うーん。
そっか。
うん。
今、
朗読してるのを聞いてるから、
人生の目的とは何かってことを考えたときに、
今、じゅんさんが読んでくれた話って、
僕の中ではちょっとこう、
一気に飛んだなって感覚はあるんだけど、
これは、
結構なんだろう、
緻密に書かれてるんですか、本の中では。
はいはいはい。
それね、ちょっとね、
もう一回最後にちょっと、
扱ってもいいですか。
なるほど、ぜひ。
はい。
うん。
うん。
OK。
いいね。
じゃあ、ちょっとここまでのところを、
これね、一気に第5章まで飛んじゃって、
はい。
第5章をまた別の切り口からちょっと、
同じことを考えていってるように僕は思えて、
うん。
それちょっと、で、そっちのほうが分かりやすい気がしてるんですよね。
うん。
なので、ちょっとそっち行ってもいいですか。
もちろんです。
はい。
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