1. 千利休生誕5百年記念作品「茶聖あり」
  2. 第3話 自由都市・堺で磨いた..
2022-06-02 07:55

第3話 自由都市・堺で磨いたセンス【千利休生誕500年 第1部】

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国内有数の商業都市だった堺は周囲に環濠(かんごう)をめぐらし、「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる有力商人らの合議で自治が進められた。「茶道教養講座 千利休」の著書がある八尾嘉男さんは、同寺が会合衆の拠点だったことから「利休は堺の有力層だったと推測できる」とする。

 

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政治や武家に通じ、今に至る茶道を体制した
千利休の生誕500年を迎えます。
多方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引き付ける利休。
その魅力に迫るシリーズ「茶聖あり千利休生誕500年」を
菅俊介のナレーションでお届けします。
第1部は利休にまつわる謎を紐解いていきます。
第3話 自由都市 堺で磨いたセンス
作家の山本健一さんが直樹賞を受賞した作品
「利休にたずねよ」では、大阪堺の松下の主、
34歳の千利休を千野義郎という名前で次のように描いている。
欲しい王を飽きなう千野義郎の家はその少し南の今市町にあった。
大きな問丸で実験間口の広い店に大勢の方向人が住み込んで働いている。
そして利休については、
家業の欲しい王の飽きないもなやがし業も至って順調でと紹介されている。
天下一の詐人、利休。
その名が広く知れ渡るのは52歳の時、
織田信長から茶会を取りしきる茶道に取り立てられてからだ。
なおなした晩年に対し前半生を伝える資料は極めて少ない。
利休はいかなる前半生を送ったのか。
堺市堺区にある阿口神社に14歳当時の利休の名が登場する文章が伝わっている。
天文4年、1535年。
神社にあった寺院、念仏寺の修理料を負担した地元商人ら114人が名を連ねた寄進者の名簿。
念仏寺、追寺修理料差し踏みに義郎殿千、
の記載がある。利休の名が初めて出てくる資料とされる。
堺理省の森にある堺市立歴史文化にぎわいプラザの柳井一学芸員は、
土地のうじ紙を祀る境内の修復に名前があること自体、
すでに利休が人肌の地位にあったと考えられる、と見ている。
国内有数の商業都市だった堺は周囲に官房を設け、
江郷州と呼ばれる有力商人らの合議で自治が進められた。
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茶道教養講座、千利休の著書がある八尾義夫さんは、
念仏寺が江郷州の拠点だったことから、利休は堺の有力層だったと推測できる、とする。
40、50代になると商人利休は、
堺の有力層だったと推測できる、とする。
40、50代になると商人利休は、
堺の支配層と良好な関係を築き、事業を安定させたようだ。
A6年間と呼ばれる1558年から1570年の頃、
当時、基内の実質的な支配者だった三好長吉の一族、
三好総尉から受けた茶道具のメキキ依頼に対する利休の
詳しいことはお目にかかってから申し上げましょう、という返信が残る。
三好氏の後に支配者となった織田信長からは、
越前責めにあたり鉄砲玉千個が届いた。
その婚紙に喜んでいる、との礼状が届いている。
しかし、利休が家を継いだ頃の財政事情は厳しかったとの見方もある。
十九歳の時に父を亡くし、表千家に伝わる緑帯木石では、
至近難で祖父の七回帰を出せず、苔にむす墓に泣いた、との逸話が残されている。
浦千家の一般財団法人が運営する京都市上行区にある茶道資料館の顧問、
筒井博一さんは、利休の若き日のエピソードに注目する。
天文十三年、千五百四十四年、二十三歳の利休が開いた茶会だ。
用いた茶器は、当時の日常雑器である珠光茶碗だった。
大豪商なら、高価な博来の道具で寛大するはずだ。
筒井さんは、茶道具は財力がものを言う、道具ではなく手工で勝負した、と分析している。
若き日は名物に手が届かなかったからこそ、和美茶を深めた、との見方だ。
若き日の苦労が飽きないや、茶の道を極める原動力になったのかも知れない。
堺では十五世紀後半から県民戦亡益が始まり、公益の町として栄え始めた。
財を成した商人は、屋敷裏に次々と蔵を建てたと言う。
こうした商人の中から、町の自治を担うエゴー集が生まれた。
繁栄を極めた堺の町は、慶長二十年、千六百十五年の大阪夏之陣の前哨戦で焼き尽くされる。
06:06
焼け落ちた屋敷などに生まる形で、当時の茶器などが多く出土している。
一方、多くの資料は消失したとされ、それが離宮関連の資料が少ない一員とされている。
お届けしたのは産経ポッドキャスト、茶聖有、千利休生誕五百年の第3話。
自由都市堺で磨いたセンスでした。
第4話は、切腹せず九州に逃げたと異説唱える研究者もをお伝えします。
謎の多い離宮の最後を様々な証言から紐解きます。
ナレーターは菅俊介でした。
なお産経ニュースでは文章、写真やグラフィックでお楽しみいただけます。
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ナレーターは菅俊介でした。
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