1. 千利休生誕5百年記念作品「茶聖あり」
  2. 第4話 「切腹せず、九州に逃..
2022-06-16 08:19

第4話 「切腹せず、九州に逃げた」異説唱える研究者も【千利休生誕500年 第2部】

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「利休は切腹しておらず、追放されて九州に逃げ延びていた」。茶の湯の歴史に詳しい文教大の中村修也教授は、こう主張する。研究者にとって「利休が京で切腹したのは自明のこと」(中村さん)だった。根拠を示すため、利休が切腹したとされる1591(天正19)年2月28日前後の史料を探った。意外な事実に気づく。同時代の史料の多くは、利休の切腹をあまり明確に書いていないのだ。

 

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https://www.sankei.com/tag/topic/life_109/

                                              

                                               

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政治や武家に通じ今に至る茶道を体制した
千利休の生誕500年を迎えます。
他方面の活躍と謎の多い生涯で現代人をも引き付ける利休。
その魅力に迫るシリーズ「茶聖あり千利休生誕500年」を
菅俊介のナレーションでお届けします。
第1部は利休にまつわる謎をひも解いていきます。
第4話 切腹せず九州に逃げた
異説唱える研究者も
現代に通じる茶の道を開き
政治や武家、商人に多大な影響を及ぼした茶聖千利休。
豊臣秀吉の激霖に触れたなど諸説ありながら
切腹という壮絶な最後を迎えたと
400年以上にわたり伝えられてきた。
この通説に疑義を唱える研究者がいる。
茶の湯の歴史に詳しい文京大学の中村周也教授は
利休は切腹しておらず追放されて九州に逃げ延びていた
と言われる。景気は九年前中村教授が
利休が切腹した場所は京都か堺か
という質問を受けたことだ。中村教授が言うには
研究者にとって利休が京で切腹したのは明らかなことだった。
根拠を示すため利休が切腹したとされる
天章十九年1591年2月28日前後の資料を探った。
そこで中村教授は意外な事実に気づく。
この時代の資料の多くは利休の切腹を
あまり明確に書いていないのだ。
豊臣秀吉と近しい句下の嘉修寺晴豊は
2月26日の日記に次のように書いている。
総益は癖事があって蓄電した。
これは利休は癖事があって行方をくらませたという意味だ。
伊達正宗の歌詞の書上にも
総益が追放され行方知れずとなったなどの記述があるだけだ。
一方北の釈迦日記の2月29日の記述には
天下一の茶の勇者が墜落したマイス
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すなわち僧侶の処行をしたため成敗された。
利休の首と木像が呪落台の前の大橋に掛けられたとある。
ただ宮廷歌人として活躍した西の当院時吉の日記
時吉記にはこの前日の出来事として
大和で盗みを働いたマイスが落虫で処刑されたと記されている。
北の釈迦日記は秀吉の部下からの伝言を記述したものであり
中村教授は利休の木像が張り付けにされた話と
大和のマイスが京都で残首された話を
混同した可能性があると指摘している。
こうした根拠を積み上げ平成27年に新説を発表した。
広く知られている通説は利休の子孫たちによって書かれた
利休の伝記千利休諭書書による
貴州徳川家に召し掛かえられた表千家四代の行進捜査が
利休自陣の事情などを尋ねられ
1653年に貴州徳川家に提出したものである。
そこには利休は茶の支度をして剣士役を待ち
一礼して後に切腹したなどと
具体的な切腹場面が説明されている。
その直前1648年から1652年に成立した
茶道司祖伝書の三才講伝書にも
切腹の場面が詳しく記されこれらの書の内容は似ている。
ただ切腹の場所は千利休諭書書が京都
茶道司祖伝書が堺と食い違う。
中村教授は利休と親しい武将の細川忠沖またの名を三才が
石田三成ら利休追放を獲策したと考えられる勢力の目をそらすため
堺で切腹したという偽情報を流したと推理している。
また生存説の根拠の一つに挙げるのが
秀吉が1591年朝鮮出兵の前線基地だった佐賀県唐津市の名古屋城から
母の傲慢どころに当てた書上だ。
その中には昨日も利休の茶を飲んで食事もとって
とても愉快で気分がよかったですという意味の記述がある。
利休の茶とは利休流の茶で利休自身が立てた茶の意味ではないと解釈されてきたが
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中村教授はそのままの意味で解釈することもできると説く。
中村教授の主張には反対意見もある。
茶道師下の神津麻雄さんは利休が晩年も元気に過ごしたとすれば
長生きした三歳が三成の死後もそれを秘密にしたことになり説明がつかないと指摘している。
中村教授の説を検証した論文はなく学会の評価は未だ定まっていない。
利休が生き延びていたら謎が多いからこそ創造を巡らせたくなる。
お届けしたのは産経ポッドキャスト茶生有、千利休生誕500年の第4話
切腹せず九州に逃げた異説唱える研究者もでした。
第5話は商人ならではの自己プロデュース力をお伝えします。
茶会で無二の存在感を発揮した利休の横顔に迫ります。
なお産経ニュースでは文章写真やグラフィックでお楽しみいただけます。
産経ニュース千利休で検索してください。
ナレーターは菅俊介でした。
産経新聞社がお届けする茶生有
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