サムネ画像は、佐藤栄作首相と渡米する寛子夫人(羽田空港にて 昭和44年11月17日)

【今回の戦後史開封は】ツイッギーの来日から2年余りがたった昭和44年11月17日、佐藤栄作首相は訪米の途についた。沖縄返還交渉のためである。見送りの人たちは、タラップの上でいかめしい顔をした首相の隣で、にこやかに手を振る夫人、佐藤寛子のファッションに目を奪われた。ひざ上5センチのミニスカートだったのだ‥

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

■番組のフォロー、評価をお願いします!

■産経Podcast おすすめの歴史番組

①『神田蘭の5分で恋する日本史列伝』人気〝講談師〟の神田蘭が語る、日本史に名を残す偉人列伝。教科書が載せてくれない偉業と生い立ち、思わず身の引き締まるお話を、情感豊かにユーモラスに語ります。
Spotifyで聴く(リンク)

ApplePodcastで聴く(リンク)
Amazon Musicで聴く(リンク)

②『歴史の真相―本当はこうだった』学校の授業だけでは分からない歴史の暗部。現代を生きる我々の想像を超える出来事が潜んでいました。歴史上の転換点や人物について、史実を掘り起こしていきます。
Spotifyで聴く(リンク)
ApplePodcastで聴く(リンク)
Amazon Musicで聴く(リンク)

■番組SNSでは最新情報をお届け
X(旧Twitter)
 
■産経Podcast 公式ウェブサイト
https://sankeipodcast.com/

■産経Podcastとは。
新聞紙面では伝えきれない情報を、産経新聞社の記者陣が厳選。
ニュース解説、ドキュメンタリー、歴史、エンタメ、インタビューなどオリジナル音声コンテンツをお楽しみください。 

■アンケートフォームはこちら(リンク)

See omnystudio.com/listener for privacy information.

サマリー

森華恵が佐藤栄作首相の妻にミニスカートをはかせるきっかけとなったエピソードが紹介されています。

佐藤栄作首相の妻にミニスカートをはかせたきっかけ
戦後史開封、ミニスカート②
ツイッキーの来日から2年余りが経った昭和44年11月17日
当時の首相、佐藤栄作は、ツイッキーが降り立った同じ羽田空港から方米の都に着いた。
沖縄返還交渉のためである。
見送りの人たちは、タラップの上でいかめしい顔をした首相の隣で、にこやかに手を振る不審。
ひろこのファッションに目を奪われた。膝上5センチのミニスカートだったのだ。
当時、62歳のひろこにミニをはかせたのは、デザイナーの森華恵。
米国へ着ていく服装を相談され、ミニスカートが流行っているといえば、日本は遅れていないということになるから、と勧めた。
当時の官房長官が人を返して、「短すぎるのでは?」と忠告したり、夫の首相に相談したら、
そんなことわからんよ、うるさいね、と叱られたり、といった話を、ひろこは後に日本経済新聞のインタビューで打ち明けている。
英国から随機を招いた縁入も、森と京都で食事をしながら、
不審のミニ、大丈夫ですよね。ええ、大丈夫ですよ、と奇妙な会話を交わしたことを覚えている。
ともあれ、新聞の一面を飾った写真が、就年女性にもミニを履こうという勇気を抱かせることになった。
後続の女性の装いにも、ミニスカートが浸透する。
デザイナーで公室のファッションを担当する足田純は、ミニは後続にはふさわしくないのではないか、との声もあった。
では、もう少し長くしましょう、となったが、女性美の原点は何といっても足です。
トップレディたちのお墨付きをもらったおかげで、老いも若きもミニを履き出すきっかけとなりました。
と、振り返る。手持ちのスカートをミニに仕立て直した、就年女性も多い。
年齢も階級も取り外した、最初で最後の流行だった、と言える。
ミニスカートの普及と男性たちの反応
男性たちも、短くなったスカートを歓迎した。
漫画家の佐藤三平は、夕日くんなどで盛んにミニを登場させた。
男性数人がチラリズムを期待して、電車に座っている女性のミニスカートに視線を集中させている図柄。
これほど男性の反応が早かったファッションは、後にも先にもミニしかなかったのではないか。
女優のイングリッドバーグマンみたいな足が歩くのと、失礼ながら大根足、蟹股の足が歩くのとでは既に勝負はついていたはずなんです。
それでも日本女性のミニも立派に男性の憧れでした、と話す。
この頃大量生産が始まったパンティーストッキングもミニ扇風の重要な脇役だった。
階段の上り降りの時などの不安を解消。
爽やかで活動的なファッションに変えた功績は大きい。
女性の肌は色気の対象ではなく、健康美をアピールするものへと変わった。
ところでファッション史上短いスカートがなかったわけではなかった。
例えば1920年代にはボーイッシュな傾向を持つファッションが流行。
スカートはチャールストンを踊ると膝小僧が出るぐらいの長さだった。
少し前の第一次世界大戦で女性兵士や従軍看護婦らが着たシンプルで活動的な短いスカートとブーツ姿が戦後、新しいファッションとして蘇った。
同時に戦争の不安や抵抗の精神が強く表されていたのだという。
1960年代のミニスカートはどうだっただろう。
ミニを初めて世に送り出したのはイギリス生まれのマリークワントだ。
今でこそ世界中で黒い花のクワントマークを見かけるが、当時はまだ二十歳を過ぎたばかりの無名のデザイナーだった。
当時マスコミに対してこう語っている。
大人の作ったファッションが嫌いだったし、戦争と関わった大人とは別の何者かでありたかった。
既成の価値観に対する反発、疑念はフランスのカルチエラタン、日本の全共闘運動など若者たちの反体制運動のエネルギーと相まって、
それまで大人の価値観から生まれていた文化や風俗が若者に主導権を奪われる。
そのきっかけになったのがミニスカートだった。
では、なぜクワントではなくモデルのツイッキーを呼んだのか?という疑問に対し、
エンニューは彼女がミニのシンボルになれたからです。
と、言う。
高校を中退してファッション雑誌のモデルを始めたばかりのツイッキーだが、来日中こんな話もあった。
エンニューがツイッキーとマネージャーで恋人のジュスタンを東京ヒルトンホテルに招き、歓迎パーティーを開いたときのことだ。
天ぷらの材料が運ばれ、息のいいエビがピョンと跳ねた。
悲鳴とともにツイッキーが気絶したため、歓迎会は台無しになった。
エンニューは爪を噛んだり泣いたりと13歳くらいにしか見えないことが多かったから、この時の様子が何とも頼りなくてね。
だが、この没個性、無色透明さこそがシンボルになり得る最大の条件だと見抜いたんです。
と、話す。
ツイッキーという無色透明なシンボルが反発と抵抗の時代背景を映し出していたというのだ。
だが、その一方で佐藤三平は何と言われようと男のエッチ精神が身にを支えたんですと主張する。
その意味ではミニスカートもまた従来の文化の発生と同じからくりと言えるのかもしれない。
ずるっとラーメントーク
東京のラーメンシーンって、多分世界を見渡しても稀に見る。
今日、多分この話をしているこの今日だっていう進展が多くしている。
数えてみると、今年から今にかけて多分進展は100ほど出ている。東京だけで。
それを食べ歩いているっていうのがこれが好きなんです。
あなた、ラーメンオタクですね。
ラーメンを年間700杯食べている私ラーメン管理のこと、和崎と
飲食トレンドリサーチャーでラーメンが大好きな山口恵理子がラーメンについて語り尽くす番組です。
ずるっとラーメントーク、概要欄のリンクまたはお使いのポッドキャスト送りで検索を。
07:40

コメント

スクロール