サムネ画像は、ミニスカートを流行らせたモデルのツィッギー

【今回の戦後史開封は】ツイッギーが来日した昭和42年、当時、広告代理店の「電通」にいた順天堂大学スポーツ健康科学部教授の間宮聰夫は、担当していた森永製菓「チョコフレーク」のCMにツイッギーを起用した。「ツイッギーの騒ぎに参加しよう」という気持ちからだったという。
 CMがテレビなどで流れ出すと、かつてミスコンテストの仕事で知っていた真珠・宝石店「ミキモト」の重役の一人から冗談まじりにこんな“苦情”を持ち込まれた。
 「間宮君、ミニスカートみたいなものをはやらせるから、真珠が売れなくなって困るよ」‥

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

ミニスカートの流行は、東京オリンピックやビートルズ公演と関連しています。この時代の日本では、高度経済成長が進み、消費社会が形成されています。

ミニスカートの発端と流行の背景
戦後史開封、ミニスカート③
ツイッキーが来日した昭和42年。当時、広告代理店の伝通にいた
潤天堂大学スポーツ健康科学部教授の真宮敏夫は、
担当していた森永聖華チョコフレークのCMにツイッキーを起用した。
ツイッキーの騒ぎに参加しようという気持ちからだった、という。
CMがテレビなどで流れ出すと、かつてミスコンテストの仕事で知り合っていた真珠宝石店三木本の
主役の一人から冗談混じりにこんな苦情を持ち込まれた。
マミア君、ミニスカートみたいなものを流行らせるから真珠が売れなくなって困るよ。
当時の感覚でいけば、真珠はあくまでもフォーマルなドレスなどに合うもの。
行動的でラフなミニにはマッチしないと思われていたのだ。
真珠はミニブームをこう分析する。
ミニスカートの前に日本人は東京オリンピックとビートルズ公演と2回のビッグイベントを体験しています。
このこととミニ流行は無関係じゃないと思うんですよ。
東京オリンピックの閉会式がそうだ。
選手同士が国籍を超えてスキンシップをしながら国立競技場を更新した。
日本人の多くが一度に大勢の外国人に接することができた初めての催し物がオリンピックだった。
外国が身近に感じられた最初でもありました。
そしてビートルズ公演が続いた。
世界トップのビッグスターが日本の発注でやってきた。
この意味は大きかった。
ツイッキーも同じです。
音楽やファッションを通して海外もまた日本を理解しようとしていたことの現れだったと思います。
この頃の日本は高度経済成長が安定期に入っていた。
ツイッキーが来日した年の国民白書は東京の主婦の90%が初めて中流意識を持ったことを告げている。
消費は美徳の時代の幕開けでもあった。
パリでビニスカートが発表された時、まず飛びついたのはアメリカの産業界だった。
これでミニは世界的な流行へと発展するきっかけをつかんだという。
我が国の高度経済成長も大量生産、大量販売のアメリカ型産業から出現した消費中心の豊かな社会を目指していた。
新しい経営の始まりと時を同じにしていた頃にミニ流行のもう一つの原因があったと言える。
これを象徴するようにファッション界もそれまでのホームメイドから
ファッション界とマスメディアの役割
買ってすぐ着られる既製服に人気が集中しだしていた。
当時、花嫁修行の一環として通う人が多かった洋裁学校もこの後ゆっくりとだがプロの養成機関へと変身していく。
消費拡大は生活様式にも影響を与えた。
昭和40年代にミニ流行が発表された。
昭和41年頃からカー、クーラー、カラーテレビの3C時代が訪れる。
週休2日制が動き出し、レジャーブームに人々の関心が集まっていた。
日本でのミニブームの仕掛け人である元東霊、広報宣伝部長の縁入昇が言う。
当時のファッションマーケティングでは車が増え、床が増えるとどんな衣服の市場拡大が可能かということが頭から離れなかった。
ミニは各条件のちょうど接点にあった新しいファッションでした。
この確信がなかったらミニを導入するのは大きな冒険だったかもしれない。
ミニはスカート丈に合わせた短い丈の衣服市場を拡大させ、服装の洋風化でネグリジェやパジャマ、またスポーツ、レジャー、カジュアルウェアなどの売れ行きを押し上げた。
ミニの流行が大きなファッションの循環を喚起したのだ。
さらにこうした一連の流れを一般の人々に見える形にしたのはマスメディアだった。
ミニ大流行の年、白黒テレビの普及率は日本の全世帯の96%、一家に約1台の時代へと突入する。
週刊誌が月刊誌の発行部数を超え、ラジオの24時間放送が始まった。
女性自身はミニ上陸の半年も前からスイッキーを表紙のモデルに寄与して流行の先取りに成功した。
ミニはこれらの媒体に乗って日本のつつうらうらまで運ばれた。
和製スイッキーと言われた歌手の山本琳太は、結果的には果たせなかったが憧れの人スイッキーとの対談を計画した。
ミニばかりでなくブロンド、ショートカット、そばかす顔のスイッキーはたちまち若い女性の心をとらえていった。
写真家の秋山翔太郎は東京アザブのスタジオでスイッキーのコマーシャル用スチール写真の撮影をした。
女優の高峰秀子や吉永さゆりなどを昭和の美女として写真集に収めたが、レンズを通したスイッキーの魅力をこう話している。
高峰秀子さんなどはやたらポーズのうまい女優。カメラに向かって自分がどんな顔をしているかわかるって言うんです。
よく撮れても私の185番目の顔ねなんて言います。
スイッキーは逆に演技なしの自然な表情がすごく良かった。
撮られていないときの印象はあまり残っていませんが、スターというよりも身近なアイドル、現在のタレント像に代表されるような女性美に対する意識構造の変化もまた、スイッキーと彼女が持ち込んできたミニの副産物だった。
産経ポッドキャスト 歴史の真相
歴史の教科書では長い間、鎌倉幕府の成立といえば1192年と書かれていました。しかし最近の教科書では1185年と書かれているのです。
成立した年をめぐる議論には、現在進行形の天皇に対する思想の対立がありそうなのです。
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07:34

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