オランダは350年にわたってインドネシアを植民地支配した。この間、各部族が抵抗を繰り返したが、1904年にスマトラ北部のアチェ族が投降し、オランダは完全にインドネシアを掌握した。
 しかし、厳しい搾取を行うオランダへの反感は強く、古の予言――「いまに北方から黄色い強者が空から降り、圧政者を追放し、トウモロコシの花咲くころには立ち去って、われわれを解放してくれる」という予言が信じられるようになっていた。

(リンク)『歴史の真相~本当はこうだった』北海道侵攻を阻止した占守島の戦い 400人の乙女を救う

産経新聞社のアンケートフォームもご利用いただけます。
産経Podcastの番組改善アンケート

■産経Podcast オススメの歴史番組
・『神田蘭の5分で恋する日本史列伝』:人気「講談師」神田蘭が語る、日本史に名を残す偉人列伝。偉人たちのあんな話やあっちの話も、情感豊かにユーモラスに語ります。
・『歴史の真相~本当はこうだった』:学校の教科書には決して載っていない、歴史の暗部。歴史上の転換点や人物について、史実を掘り起こしていきます。

■番組SNSでは最新情報をお届け
Twitter 
 
■産経Podcast 公式ウェブサイト
https://sankeipodcast.com/

■産経Podcastとは
新聞紙面では伝えきれない情報を、産経新聞社の精鋭記者陣が厳選。
インタビュー、ドキュメンタリー、歴史、エンタメなど、20タイトル以上のオリジナル音声コンテンツをお楽しみください。 

See omnystudio.com/listener for privacy information.

サマリー

日本兵が終戦後に初めて経験した実戦について、インドネシアで残留した人々が語っています。

00:07
戦後史開封 インドネシアに残った日本兵
第2話 終戦後に初めて経験した実戦
インドネシアに残った日本兵で作る福祉友の会
インドネシアに残った日本兵で作る福祉友の会で石井政治の次の理事長となった オツドンのボルは
敗戦で自分の人生は終わったと感じ 自らの位置でインドネシアに残った
オツドは早稲田大学を卒業して中島飛行機に就職したが 昭和18年4月に招集され
コノエホヘイ第3連隊に配属された 招集から半年後二頭兵としてスマトラへ渡った
すでにオランダ軍は降伏しており治安も良く丸腰で街を歩くことができた しかもインドネシア人は
オランダを追い払ってくれた日本人は恩人と考え 親日的で林卓も直堂もお金の受け取りを拒否するほどだった
オランダは350年にわたってインドネシアを植民地支配した この間各部族が抵抗を繰り返したが1904年に
スマトラ北部のアチ族が投降し オランダは完全にインドネシアを掌握した
しかし厳しい搾取を行うオランダへの反感は強く イニシエの予言
今に北方から黄色い強者が空から降り 発生者を追放しトウモロコシの花咲く頃には立ち去って我々を解放してくれる
という予言が信じられるようになっていた 1905年日本が日露戦争に勝利したことでこの予言が
我前現実味を帯び黄色い強者とは日本軍のことだと信じられるようになった 日本軍がインドネシアで想像以上の歓迎を受けたのにはこうした背景があった
オツドの終戦後の経験
オツドはインドネシアに入ってほどなく 幹部候補生試験に合格
ジャワの予備士官学校で教育を受け 省委に任官する
しかし終戦となりシダン司令部のある スマトラ第一の都市メダンに集合する
イギリス領インド陸軍が上陸してきたが 日本軍はそのままの武装で引き続き治安維持に当たった
ところが半年後オランダ軍が進駐してくると インドネシア人の間で不穏な空気が流れ始めたんですとオツドは言う
日本は東南アジア各国を占領後 フィリピンとビルマに対しては独立を認めたが
インドネシアとマレーシアについては自治能力不十分 という理由で独立を流報した
その後選挙区が不利になると 近い将来独立を許容するとの声明を出し
一時禁止していたインドネシア国旗の敬仰や 後の国歌インドネシアラヤを歌うことを認めた
インドネシア人の協力を得るためだった 日本軍の寛容な政策に対し進駐してきたオランダ軍は独立はもちろん国旗の敬仰
国歌を歌うことすら厳禁した オランダへの反発は強まった
終戦の翌年10月 オツドの部隊は日本本土へ復印することになった
しかし行き先がパラオ諸島だという噂が流れ オツドは脱走を決意する
パラオに行けば捕虜収容所に入れられる 旅衆の恥ずかしめを受けるのは嫌でした
植民地の悲惨さはインドネシアを見てよくわかっていた 戦争に負けた日本も植民地にされると思っていました
戦争に負けたことで自分の人生は終わったと感じた これからの人生をインドネシアの独立に捧げようと決意しました
パラオに行くというのはデマに過ぎず 部隊はそのまま日本本土に復印するがデマを信じたオツドは集合場所に行かず
予備士官学校の同期生3人とともに独立軍に身を投じる
オツドは皮肉にも終戦を迎えて初めて 実戦を経験することになる
山岳地帯に立てこもりインドネシア人部隊を率いて オランダ軍に対してゲリラ戦を戦った
オランダ軍の中途んちに夜襲をかけたり 輸送中のトラックを襲撃したりしました
武器らしい武器がなく竹槍を持った者もいました しかし独立への彼らの意志は強く勇敢に戦いました
インドネシアが独立を果たした後もオツドは現地に留まり 法事記の会社を経営した
石井と同じ小野江捜索連隊出身の中川は 戦争中の昭和18年6月に満帰除退となったが日本に帰らなかった
同盟通信の記者になろうとも考えたが結局軍の宣伝班に残った 中川はこう振り返る
日本に帰らなくて良かったのかもしれません あの時帰った仲間の多くはその後再度召集されて
イオウ島や沖縄に行かされ 全員戦死しました
生きて履修の恥ずかしみを受けずという考えもありましたがそれより 妻と子供に対する責任から残留の道を選んだのです
その時すでに中川は現地の女性と結婚しており 子供もできていたからだ
中川は中国戦線マレー作戦 シンガポール攻略戦を経験していたがインドネシアでのゲリラ戦は中川にとっても
辛いものだったでも 一般民衆が一丸となった
我々ゲリラ部隊が行くところ誰もが独立を意味する ムルデカと叫んで食料を提供してくれ
寝るところも用意してくれた どんな危険な状況でもかばってくれた
これなら必ず独立できると確信しました という独立が達成されその後進出してきた日系企業に就職し
インドネシアの新聞から日本関係の記事を選んで日本語に翻訳して配布する仕事を した
10人の子供と27人の孫に恵まれ 娘のロカワティさんはインドネシアの女性パイロット第1号となった
東京浅草生まれの中川は江戸弁で幕したてる インドネシア政府からは国軍将位としての恩急が支給されている
ところが日本政府は私を脱走兵扱いですよ 2年前に4万円の一時金が出ただけ
勤めていた日系企業も経営が順調になると我々を使い捨てにした こうした日本の姿勢は悲しいねえ
次回第3話は イギリス軍に逆らって独立集会を許可した日本兵の話をお送りします
案内役は私 ナレーターの菅俊介がお届けしました
09:24

コメント

スクロール