2023-10-23 08:38

中国残留日本人① 戦争が終わっても日本に戻れなかった〝残留婦人〟と〝残留孤児〟

spotify apple_podcasts

「母親が乳飲み子の首を絞め、ぐったりしたところで土で埋めたんです。でも、殺しきれない母親もいて、子供はまた生き返るんです」
 そう語るのは、開拓のため満州に渡っていた原田要(かなめ)だ。終戦後の昭和20年8月、現在の黒龍江省にある牡丹江からハルビンに移動する途中の山中で、地獄を見たのだ‥

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

■番組のフォロー、評価をお願いします!

■産経Podcast おすすめの歴史番組

①『神田蘭の5分で恋する日本史列伝』人気〝講談師〟の神田蘭が語る、日本史に名を残す偉人列伝。教科書が載せてくれない偉業と生い立ち、思わず身の引き締まるお話を、情感豊かにユーモラスに語ります。
Spotifyで聴く(リンク)

ApplePodcastで聴く(リンク)
Amazon Musicで聴く(リンク)

②『歴史の真相―本当はこうだった』学校の授業だけでは分からない歴史の暗部。現代を生きる我々の想像を超える出来事が潜んでいました。歴史上の転換点や人物について、史実を掘り起こしていきます。
Spotifyで聴く(リンク)
ApplePodcastで聴く(リンク)
Amazon Musicで聴く(リンク)

■番組SNSでは最新情報をお届け
X(旧Twitter)
 
■産経Podcast 公式ウェブサイト
https://sankeipodcast.com/

■産経Podcastとは。
新聞紙面では伝えきれない情報を、産経新聞社の記者陣が厳選。
ニュース解説、ドキュメンタリー、歴史、エンタメ、インタビューなどオリジナル音声コンテンツをお楽しみください。 

■アンケートフォームはこちら(リンク)

See omnystudio.com/listener for privacy information.

サマリー

第1話では、戦後処理によって中国に取り残された〝残留婦人〟と〝残留孤児〟について語られています。

戦後処理による問題
戦後史開封 中国残留日本人
産経新聞に連載された〝戦後史開封 中国残留日本人〟を
Podcastで5回に分けてお届けします。
案内役は私、ナレーターのバーバラ・アキです。
第1話 日本の戦後処理で大きく取り残された問題がありました。
ソ連軍が日蘇中立条約を破って
満州、今の中国東北部に進行したため
帰国できなくなった日本人たち。
そのまま中国から出られず
中国人の妻となった日本人女性は
〝残留婦人〟と呼ばれました。
また、混乱の中で親と行き分かれ
中国人に引き取られて育てられた日本人の子どもたちは
〝残留孤児〟とされました。
母親が血のみごの首を絞め
ぐったりしたところで土で埋めたんです。
でも殺しきれない母親もいて
子どもはまた生き返るんです。
そう語るのは開拓のため
満州に渡っていた原田かなめだ。
終戦後の昭和20年8月
現在の国竜交渉にあるボタン港から
ハルビンに移動する途中の山中で
地獄を見たのだ。
ソ連軍は8月9日に進行してきた。
男性はみんな軍に動員されていたため
孤立無縁となった女性や子どもは
逃げ惑うほかなかった。
原田の目撃団は続く。
満州開拓団の人たちは収容所に入れられました。
飢えに耐えかね
若い娘は食糧と引き換えに
中国社会に飛び込みました。
善良な中国人に子どもを助けられる母親もいました。
一方で日本の子どもは優秀とされ
労働力や商品として売り返された子どもも多いのです。
生死の狭間での辛い決断でした。
残留婦人、残留孤児たちの大半は
戦前の国策として
帰国開始までの道のり
満州に送り込まれた開拓団の人々だった。
だがその後の閉ざされた日中関係の中で
残留日本人の存在は
日本政府からは帰り見られなくなる。
昭和27年
サンフランシスコ平和条約の発行によって開設された
香港の日本僧侶時間の主席領事として
小川平志郎が赴任した。
その僧侶時間に
ボロ雑巾のようになった人が飛び込んでくるようになる。
日本に帰りたい。でもお金がありません。
何とかしてください。
香港の領事館まで行けば日本に帰れると
危険を犯して越境してくる日本人たちだった。
小川は言う
中国から香港へ国境を越えて領事館に逃げ込んでくる日本人の中には
たった一人で途方もない時間をかけて歩いてくる人もいました。
気の毒でなりませんでした。
しかし我々には香港で彼らを待つ
それ以外になす術がなかったんです。
日本政府は当時台湾の中国国民党政府と国交を結んでおり
大陸の中国共産党政府とは国交がなかった。
そのため中国大陸に残った日本人に
手を差し伸べることはできなかった。
だがせめてもの救いがあった。
残留日本人の実態を目の当たりにした新聞社の特派員や
領事館の職員の間で同胞意識が自然と湧き上がったのだ。
安宿に泊まって日本行きの船を待ってもらうんです。
宿台は特派員と職員の義援金で補っていました。
小川たちが悩んでいた昭和27年12月1日
中国政府は北京放送を通じて突然
残留日本人の帰国開始を通告した。
公十字会とは日本赤十字社、いわゆる日赤に相当する組織だ。
ニュースは日本国内でも速報された。
中国側はさらに日本側の窓口を日赤日中友好協会
日本平和連絡委員会の3団体で組織するよう要望してきた。
日赤以外の2つの団体は中国に好意的な人たちだ。
社会党の参議院議員を加えて法中団が結成された。
中国側が法中団メンバーの顔ぶれに注文をつけてきたため
中国訪問は遅れ、昭和28年3月5日
ようやく残留日本人の帰国推進を確認する共同コミュニケが調印された。
しかし日赤側には不満があった。
帰国問題は純粋な人道的堅持に立つべきで
他の2団体の介入は必要ない。
日赤と公衆事会で処理すべきだ、というわけだ。
だが中国側は他の2団体との共同事業とすることで譲らず
最終的に日赤も日本人の帰国が先決という立場から
共同コミュニケの調印を受け入れた。
中国側の真意について
残留婦人の日本人妻を持つ中国人男性は次のように説明した。
中国は資本主義国との信頼関係がなく
社会党の議員のような有効的な人が仲介役として必要でした。
革命勢力を日本にも浸透させて世界革命を成功させたいという意図もあって
残留日本人の帰国問題を日本の左派との連携を強める
良い機会と捉えていたんです。
残留日本人の帰国は昭和28年3月に始まった。
そして中国の意向の下で行われたこの帰国事業は
1年半の後、再び天気を迎える。
中国洋人が戦後初めて日本を訪問したのだ。
次回第2話は台湾を刺激しないために行われた
日赤と外務省の極秘工作についてお届けします。
日本兵がいた。
アジアを解放する、再びオランダの植民地にしてはいけない
との信念からインドネシア独立戦争に身を投じた日本兵たち。
戦後史開封
インドネシアに残った日本兵
概要欄のリンクまたはポッドキャストアプリで検索を。
08:38

コメント

スクロール