「終戦直後、われわれ憲兵はイギリス軍によって刑務所に収容されてしまった。そこへインドネシア人義勇軍の兵士だった数人が訪ねてきて、“これまでわれわれは日本に協力した。今度は日本がインドネシアに協力する番だ”と言うんです。彼らの手引きで刑務所を脱走しました」
 巷には流言飛語が飛び交っていた。憲兵はすべてシンガポールに送られて銃殺される、というのだ

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サマリー

第三者の視点で、より自然で読みやすいように以下の文章を日本語で書き直してください。 丁寧な日本語を使用してください。 現在形を使用してください。 挨拶や別れの挨拶は含めないでください。 ポッドキャストの内容の一般的な説明は含めないでください。 入力: 終戦でインドネシアの日本軍から姿を消した憲兵の中に、第16軍憲兵隊の総長、小野寺忠夫、軍曹の田中利雄、警備担当の軍賊だった岩本富雄がいた。さらにシンガポールでイギリス軍の捕虜を管理、監督した小野江市長兵連隊出身の藍沢海一郎も部隊を離れたいずれもその後、インドネシア独立軍に加わった、という物語 出力: 終戦後、インドネシアの日本軍から姿を消した憲兵の中には、第16軍憲兵隊の総長である小野寺忠夫、軍曹の田中利雄、警備担当の軍賊であった岩本富雄が含まれていました。さらに、シンガポールでイギリス軍の捕虜を管理、監督していた小野江市長兵連隊出身の藍沢海一郎も部隊を離れ、その後、インドネシア独立軍に参加したという物語です。

00:01
戦後史開封
インドネシアに残った日本兵
第4話 軍艦までインドネシアに渡す
終戦後の憲兵
終戦でインドネシアの日本軍から姿を消した憲兵の中に
第16軍憲兵隊の総長、小野寺忠夫
軍曹の田中利雄、警備担当の軍賊だった岩本富雄がいた
さらにシンガポールでイギリス軍の捕虜を管理、監督した
小野江市長兵連隊出身の藍沢海一郎も部隊を離れた
いずれもその後、インドネシア独立軍に加わった
岩手県出身の小野寺は部隊を離れた戦いをとつとつと説明する
終戦直後、我々憲兵はイギリス軍によって刑務所に収容されてしまった
そこへインドネシア人義勇軍の兵士だった数人が訪ねてきて
これまで我々は日本に協力した
今度は日本がインドネシアに協力する番だ、というんです
彼らの手引きで刑務所を脱走しました
巷には流言飛語が飛び交っていた
憲兵はすべてシンガポールに送られて銃殺される、というのだ
小野寺たちは部隊に戻らず、ジャカルタ南方のボゴールへ行き
独立軍に合流する
小野寺は言う
独立戦争は全くの遊撃戦のようなものでした
インドネシア人が日本軍のところに行き、兵器を奪ってくる
食い物はイギリス軍やオランダ軍から奪う
まあ泥棒戦争です
一方日本軍は事情を知っていて武器を渡してくれました
こんなこともあった
終戦から2ヶ月後、小野寺たちが東部ジャワへ移り
遊撃戦を展開していた時のこと
スラバ屋の広場に数千人のインドネシア人が
日本軍の武器を奪い、オランダ軍と戦おう、と集まった
9月に上陸したオランダ軍戦犬隊が
かつてのオランダ軍の宿舎を補修するよう命じたことから
住民が反発したのだった
インドネシア人はまず日本の陸軍部隊を襲った
イギリス軍、オランダ軍からは
インドネシアに武器を渡してはならない
という命令が出ていたが
オランダ軍に武装解除されることになっていた陸軍部隊は
喜んで武器を渡した
インドネシア人はこの武器を手に
さらに海軍基地に押し寄せた
海軍は最初、引き渡しを拒んだため
インドネシア人の指揮官は日本刀を振りかざし
日本語で「突撃!」と命令を下した
そこへ海軍陸戦隊が駆けつけ
撃ち合いが始まった
この時、日本側の司令長官
柴田八一郎中将は
今、日本軍がインドネシア人を撃退すれば
日本はインドネシアの永遠の敵になってしまう
武器を渡そうと述べ
東ジャワ州のインドネシア人長官に譲渡する形で
武器を渡した
この時、陸海軍から譲渡された武器は
小銃26,000丁、機関銃600丁、戦車12両
それに軍艦、後射砲などを含む膨大なものだった
日本軍は最終的にインドネシア全土で
小銃63,000丁、機関銃5,000丁、火砲427門などを
秘密裏に引き渡した
柴田中将ら幹部はこの後
異門に来て終戦を迎えた歌手の藤山一郎らとともに
インドネシア人によって刑務所に拘束されたが
21年3月、スカルノ大統領の
日本人に恩をあだで返すようなことをするな
とのラジオ放送で釈放され
やがて日本本土へ復印することになる
復印のため港のあるプロポリンゴに移動する列車では
将校は一等車と二等車をあてがわれ
インドネシア兵が100メートルごとに警戒し
駅では住民が果物を差し入れるなど
部隊は戒戦するかのようだった、という
イギリス領、インドの陸軍が上陸したときは
インドネシア人は日本軍から奪った武器を差し出せ
さもないと皆殺しにする、と通告してきたため
インドネシア側とインド陸軍の間で戦闘になった
24時間の戦闘でインド陸軍第49旅団は全滅
旅団長も戦死した
飛来したイギリス軍の戦闘機3機も
高射砲で撃墜されてしまった
こうした戦闘の実質的な死期を取ったのは
オノデラをはじめ脱走した日本兵だった
オノデラは日本軍の戦闘機の爆弾を解体して
布団にくるみ遠隔装置をつけて
オランダ軍が来ると爆発させて悩ませました
東部ジャワではついにオランダ軍は
スラワヤから一歩も外に出られなくなりました、という
福祉友の会のメンバーのうち
代わり種といえるのが宮原英二だろう
台湾の台南生まれ
9代前の先祖は中国大陸から台湾に渡ってきた中国人である
父の姓は李という
宮原は
自分は生まれた時から日本人として教育を受け
日本人として生きてきた
中国人、台湾人という意識はない
と言い切る
昭和15年5月
台湾第二連隊に軍属として入隊した
海戦と同時にフィリピン攻略戦に参加
17年3月にジャワ島に上陸した
終戦となり日本兵の多くは福音することになった
しかし宮原の帰るべき台湾は
日本の統治下から中国に復帰し
国民党軍が親中していた
宮原は
大統は解放を信じて戦ったから
台湾に帰れば中国人であるのに
日本に協力した犯罪者として処罰される可能性があった
日本に行くことも考えたが
宮原はインドネシアに親中してきたオランダ軍を見て
心が決まりました
我々は何のために戦ったのか
アジアを解放するためではなかったか
インドネシアを再びオランダの植民地にしてはいけない
と思いました
と話す
宮原は独立軍に参加する
独立戦争終了後は
冷凍設備の会社を経営し
およそ1000人の従業員を抱えるようになる
終戦から16年間
国籍がない状態だったが
昭和36年に
インドネシア国籍を取得した
次回最終話は
戦後も通用し続けた
日本の軍標の話をお送りします
案内役は私
ナレーターの菅俊輔がお届けしました
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