2023-11-06 08:08

中国残留日本人③ 北京の日本大使館、中国の警備兵が日本人を門前払い

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 日本赤十字社などを窓口とした残留日本人の集団帰国で約2万9000人が日本に帰った。しかし、日中関係の悪化で昭和33年に中断してしまった。
 共産中国の大躍進から大飢饉、そして文化大革命という混乱に残留日本人は巻き込まれた。「従軍慰安婦」とか「日本のスパイ」などと、いわれのない非難を受けた日本人が大勢いた時代だった。
 そんな中、中国と関係の深い松山バレエ団の一行が昭和39年10月、かつての満州、中国東北部に足を踏み入れた‥

「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。

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サマリー

戦後の歴史を扱ったPodcastをお届けいたします。案内役はナレーターのバーバラ・アキです。第3話では、日本赤十字社を通じた帰国の中断から始まり、中軍慰安婦や日本のスパイとして非難された残留日本人たちの時代についてお話しします。

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戦後史開封中国残留日本人
産経新聞に連載された戦後史開封中国残留日本人をPodcastで5回に分けてお届けします。
案内役は私、ナレーターのバーバラ・アキです。
残留日本人の集団帰国と中断
第3話 日本赤十字社などを窓口とした残留日本人の集団帰国で、およそ2万9千人が日本に帰った。
しかし、日中関係の悪化で昭和33年に中断してしまった。
共産中国の大躍進から大基金、そして文化大革命という混乱に、残留日本人は巻き込まれた。
中軍慰安婦とか日本のスパイなどと、言われのない非難を受けた日本人が大勢いた時代だった。
そんな中、中国と関係の深い松山バレー団の一行が昭和39年10月、かつての満州、中国東北部に足を踏み入れた。
文化交流が目的だった。
毛沢東、周恩来、劉少奇、首都倉、中国最高首脳部の歓迎を受けて、団長の清水雅夫は、
ハルビンでの講演に残留日本人を招待したい、と申し出て認められた。
清水はこう振り返る。
11月のハルビンは氷点下十数度という寒さですが、会場は残留婦人380人の熱気と開放感に包まれました。
日本との接点を失った彼女たちの祖国への熱い思いを知らされましたよ。
楽屋を訪れる残留婦人もいた。
同行していた運動団体幹部はこう振り返る。
どこで材料を調達するのか、日本ののり巻きを差し入れてくれました。
その一つ一つに彼女たちの時を越えた思い入れが詰まっていました。
それから8年がたった昭和47年9月29日、日中国交正常化が実現した。
北京の日本大使館と警備兵
翌48年1月、北京に戦後初の日本大使館が作られると、
祖国に帰りたいという残留日本人たちが大使館へ押し寄せた。
大使館の参答書機関だった橋本勝子は、そうした残留日本人の対応に当たった。
まず、残留日本人からの手紙を分類する個人別ファイルを作ることを始めた。
シャブー等を日本から大量に調達し、ファイルには番号を付けた。
日増しにファイルは増え、4年後には8000番台に入っていた。
橋本は言う、みんな焦っていました。
当時は文化大革命の末期で、政治が急変すれば日本大使館に帰国希望を出したことで、
その人の運命が変わる可能性もありました。
だから1週間もすると最速の手紙が来るんです。
多い時には1日70通近い手紙に対応しましたよ。
初代中国大使に就任した小川平志郎は、交渉現場で多くの壁にぶち当たった。
小川は次のように振り返る。
日々悩んだのは、大使館に中国側が配置している警備兵です。
訪ねてくる残留日本人を門前払いにするんです。
日本人だから入れてほしいと頼むんですが、彼らは絶対に入れないんです。
政治の中心である北京への立ち入りが厳しく制限される中、
残留日本人たちは郊外から歩いて大使館を目指した。
しかし、たどり着いても警備兵がストップするのだ。
残留日本人が事前に大使館に電話連絡しても、電話は盗聴されて筒抜け、
待ち伏せされて途中で追い返されることもあった。
橋本は、残留日本人にお昼ご飯でもごちそうしようと外出すると、
当局の車に尾行されます。
私たち大使館員が一緒の時は問い詰められる程度ですが、
市場などの人混みで別れると捕まって、一日二日は交流されたと後で聞きました。
という、中国側は残留日本人の出国ビザをなかなか出さなかった。
帰国の旅費を日本側が負担したくても、なぜか応じなかった。
ところが、昭和49年に日中航空協定が結ばれて、
残留日本人の帰国が航空便に変わると事態は一変した。
一当初機関として北京に派遣された加藤英一によると、
中国側は巧妙だった。加藤は次のように振り返る。
中国で暮らしていたのに万里の頂上も見たことないとは言わせられないから、
北京へ旅行させ始めました。
日本へのお土産代として現金を渡し、洋服も新調させるんです。
そうして温情ある中国と冷たい日本政府という印象を植え付けたんです。
日本へ一時帰国した残留日本人が北京空港に戻った時の風景は、
庶民の実態を露呈した。橋本は言った。
真夏だというのに、ズボンやセーターを何着も着てオーバーまで羽織ってくる人もいたんです。
日本で買った新品の衣類を中国に持ち込もうとすると、
法外な税金がかかるんですが、本人が着ていれば無税だったからでしょう。
次回第4話は、残留小児たちが肉身探しの面接会場を出ると、
秋葉原に直行したその訳をお届けします。
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