先の大戦末期の昭和19年10月から昭和20年8月まで、日本軍は航空機などで敵艦に体当たりする特攻作戦を行いました。特に米軍が沖縄本島に上陸して以降は、10代、20代の若者が鹿児島県内の基地から沖縄近海へ出撃しました。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、終戦までに6418人が戦死したとされています。

産経新聞の宮本雅史編集委員は、元特攻隊員や遺族への取材を20年以上続け、多くの証言や知られざる事実を記事化してきました。これまでに連載された特攻隊に関する記事のうち、女性に焦点を当てたドキュメントを3回に分けて音声コンテンツで配信します。語りは宮本編集委員が務めます。

※このエピソードは、産経Podcast「宮本雅史が語る特攻隊と女性たちの戦後」を再録したものです。

 

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00:01
産経Podcast 特攻隊と女性たちの戦後
大東亜戦争末期、日本軍は特攻作戦を行いました。
祖国を守るため、多くの若者が命を失いました。
これは、特攻隊と残された家族や関わりのあった方々、
特に女性たちの戦後に焦点を当てたドキュメントです。
語りは、長年、特攻隊員の遺族への取材を続けてきた、産経新聞記者の宮本政文です。
宮本記者は、昭和28年、和歌山県生まれ。
事件記者として、東京地検特捜部を担当し、政治家の汚職事件などで数々のスクープを放ってきました。
外国企業による日本国内の土地買収問題を発掘したことでも知られています。
第一話は、特攻隊員の婚約者。1年の文通と長い戦後です。
彼女の名前は小栗楓子さんと言います。
子先上は楓子さんですが、楓ちゃんと我々は呼んできました。
ご本人も楓でいいというふうにおっしゃっていました。
幼馴染の特攻隊員というのは、林義則さんであります。
当時は将尉でありましたが、亡くなった後は隊員になられております。
当時、楓さんは25歳、林さんは24歳でした。
林さんは鹿児島県の千蘭飛行場から特攻隊員として出撃、沖縄近海で懺悔します。
昭和19年3月23日、岐阜県上野郷村の村役場で戸籍係をしていた小栗楓さんは、
小学校の同級生だった幼馴染の男性と再会します。
男性の名前は林義則さん。
林さんは戦闘機の操縦士の訓練で満州に行くことが決まり、
不仁の挨拶のため役場を訪れていました。
楓さんは懐かしさの余り、別れ際に思いを込めた短歌を書いた紙切れを渡します。
大空を見たてと駆ける勇士にも、いとけなき日の面影残ると読んだ紙切れを楓さんに渡したそうであります。
二日後、電報が届きました。
03:00
これをきっかけにして、ほぼ一年間にわたる二人での分寸が始まったわけです。
二人は手紙だけのお付き合いでした。
言うのもしておりません。正式な婚約をしたわけです。
しかし、楓さんと俳優さんとのやりとりなどを見ますと、
私だけでなく事情を知る人たちは楓さんのことを婚約者と呼ぶようになりました。
わたしたちの婚約者とは何かというと、
私だけでなく事情を知る人たちは楓さんのことを婚約者と呼ぶようになりました。
私がその楓さんと初めてお目にかかったのは、もう20年ほど前であります。
今でも鮮明に覚えております。
岐阜県の山間部にありますご自宅の一室は何十年も変わっていないと言いました。
戦後、子どもたちに書道を教えてきたので書道の道具はありましたが、
部屋の壁には日本刀を片手に99式襲撃特攻機に乗り込む
楓さんの写真とそばには碑がありました。
インタビューはだいたい4時間ぐらいかかりましたが、
楓さんがこの間何度も繰り返したのは
私たちはあの人たちのおかげで生かさせてもらっている。
あの人たちの分も一生懸命生き抜かなければいけないと
こう言って部屋の家に何度も手を合わせておりました。
お話をだいたい聞き終わった後、
ちょうど私が楓さんに会った日は楓さんの命日でしたので
お墓参りをさせていただこうと、させてほしいと頼みますと
宮本さんお墓参りしていただけるんですか?
ありがとうございます。少しお待ちくださいねと言って腰を上げました。
何をするのかなと思っていましたら10分ぐらいでしょうか
10分が経つと帰って戻ってきました。
で、その時に彼女の姿を見た私は驚きました。
装い着の着替えた上、薄化粧をしていたんです。
2人でそのままお墓にお参りしました。
お墓は山の中にありました。
その日は大雨で車をタクシーを呼んで
途中でお花を買って山に入りました。
楓さんはお墓に着くとすぐ車を降り
06:00
傘もささないでお墓のそばへ行きますと
お墓を撫でながら東京からこういう人が来ましたよ
あなたのことを話してほしいと
私は全部しゃべりましたよと彼女は言いながら
何度もお墓を撫でてるんですね。
お参りした後もう一度楓さんのご自宅に戻りまして
話をさせていただきました。
彼女がその時も繰り返したのは
あの人たちのおかげで、そして私は
あの人と会って彼が出撃し亡くなるまでの1年間が
私の人生の全てでしたっていうことを何度も繰り返しておりました。
楓さんと林さんの文通が始まりました。
二人は手紙を通じて心を通わせますが
そのやりとりが途絶える日がやってきます。
手紙は最初は軍隊長の簡潔な文面で
甘い言葉なんかは一言もなかったみたいです。
楓さんは文言から林さんの居所を推測し
静とにらめっこしながら一緒に空想の旅を始めます。
楓さんも居場所をそれとなく知らせるように
例えば神社の鳥居の前で写真を撮ったり
自分がどこにいるのか推測できるような方法で
手紙に託したようです。
手紙のやりとりは頻繁になり
いつしか軍隊長の簡潔な文面だったのが
会話しているような文面に変わったといいます。
その時の気持ちを楓さんは私に
一緒に暮らしているような気持ちになった
というふうにおっしゃっていました。
楓さんから楓さんに旧婚の言葉は一言もありませんでした。
ただ一度だけワイフというのはありがたいものだな
と書かれていたそうです。
楓さんが最後の手紙が届いたのは
出撃直前の昭和20年4月末のことであります。
いよいよ今日出撃するこの5年を読んで
何も言うことなし
よく耐えてくれたお前の心を大切に持っていく
君やりて我幸せなりし
体を大切に静かに平和に暮らしていることを祈る
楓さんはこの手紙を読んだ時に
ああもうこれで最後だなと思った
と私に話しておりました。
そして彼女は私にこう言いました。
09:00
私が本当に生きたのは昭和19年3月から
20年4月までの1年でした。
楓さんは生前、遺品を楓さんに渡すことを望んでいました。
そして楓さんは仕事の上でも楓さんの死と向き合うことになります。
楓さんの遺品が戻ってきたのは20年の4月の末です。
冬用の軍服と時計にカメラ、満州で撮った写真、
遺品と一緒に両親宛の手紙も支えられていました。
手紙にはこう書いていました。
楓はよく手紙をくれて励ましてくれた。
少妻がいなくなると当分は寂しいと思うから
父様でよく慰めてやってください。
写真機と時計を楓に渡してください。
時計はいつも楓さんは手に巻いていました。
時計の針の音がタイのハエさんの鼓動のように聞こえたそうです。
彼女は残されし時計の刻む針の音は脈拍のごとく胸に伝いきと呼んでおります。
実は私がインタビューしているときに彼女は
三山さんこれは何かわかりますかと言って私に指輪を見せたんですね。
その指輪は銀製で百合の花が刻まれていました。
聞きますと手紙のやり手の最中に
ハエさんが手頃使っているシガレットケースを送ってきたそうであります。
お返しにと当時使っていた指輪を楓さんは送り返しました。
その指輪が遺品の中遺品として戻ってきた冬用の軍服のポケットに入っておりました。
百合の花はつぶれていました。
彼女は私にこう言いました。出撃するとき持って行ってくれればよかったのに。
でもこの指輪があの人と一緒に動きそして手元に戻ってきたなと思うと
あの人のぬくもりが伝わってきますと私に涙ながらに話して
おりました。
昭和20年10月戦死後方が届きました。
役場で戸籍係りをしていた楓さんは自分の手で
林義典の文字の上に戸籍抹消の手銭を引きました。
亡き人の数に入るかは今日よりは戸籍の手銭胸に致しもう。
楓さんは松ごろ水を取ってあげる気持ちで手銭を引いたというふうに振り返っておりました。
12:05
楓さんは戦後一度だけ結婚しますが昭和34年に離婚しています。
楓さんはかつて宮本記者の取材に
あの人のことを思う気持ちでいっぱいで
あの人のことを考えるだけで幸せでしたと答えています。
晩年は養護室に入られました。
何度かお目に隠りました。
その時に彼女が私にこう言ったんですね。
あの人たちはどうして死んでしまったの私たちは私はあの人のおかげで生かさせてもらっている。
でも今の日本を見るとかわいそうで仕方がない。
あの人たちは何のために死んだのかしら。
今の日本人はあの人たちの思いと姿を忘れてしまったのかしら。
悔しさが出てきて感じるんですね。感じました。
初めて会った頃はあの人たちのおかげで生かさせてもらっている。
生き抜かなければいけないという前向きだったんですね。感謝の気持ちと。
ところが晩年は何であの人たちは死ななければいけなかったのか。
あの人たちの最後の姿を今の日本人は忘れてしまったのかというふうに
不平とも不満とも言える言葉を私の前でおっしゃっていました。
2015年夏宮本記者は入院していた楓さんのお見舞いに行きました。
それが最後の面会になりました。
そして宮本記者には一つの役割がありました。
楓さんから自分の骨はあの人のいる沖縄の海に沈めてほしいと頼まれていたのです。
食事が喉を通られなしく点滴を受けておりました。話もできない状態だということでした。
もともと小さで小柄でしたけれども体重は25キロでした。
布団にくるまっている小さな体が楓さんを見るとまるで子猫のようでありました。
楓さん私が声をかけますとうっすらと目を開け私の顔を見ると手を合わせるのですね。
楓さんの名前を呼びながら準備していた林さんの写真を見せると
彼女はそれまでうとうとしていた目をカーッと見開いて奪うように写真を手にして
15:04
食い入るように写真を見ていました。目はうっすらと涙を浮かべ
一言も喋らないのに私の方を見てありがとうと言ってまた手を合わせたのです。
それから数日後楓さんは亡くなりました。
楓さんとの約束の通り私は楓さんのご遺骨を沖縄の海に産骨させていただきました。
私は今でも手のぬくもり、彼女の手のぬくもりを覚えています。
宮本さん私が死んだらお骨は沖縄の海に沈めてほしい。
死んだらあの人を探しに巡礼の旅に出るの。あの人に会えるかしらと私に問いかけました。
沖縄の太陽の日差しを浴びながらキラキラと沖縄の海に散る楓さんのご遺骨を積みながら
長かった楓さんの戦いとそして戦後は終わったのだと感じました。
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