先の大戦が終わると、海外には多くの日本人が残されました。京都府の舞鶴港で息子の端野新二さんの帰りを待ち続ける母、いせさんは、ヒット曲「岸壁の母」のモデルになりました。

 

■この番組は
政治、経済、事件、スポーツ、文化、そして風俗・・・。
戦後の歴史の中から、印象深い出来事を再取材して、知られざるエピソード、報道されていなかった面に新たな光を当て、戦後を振り返ります。

 

【原作】「戦後史開封」(「戦後史開封」取材班 /産経新聞社・刊)
【番組制作】産経新聞社

 

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00:01
戦後史開封
戦後史開封
岩壁の母、息子を待ち続けた橋の遺産
第1話 希望を捨てず舞鶴公園
昭和20年に先の大戦が終わると
海外にある日本の領土や日本軍が占領した地域には
およそ660万人もの日本人が残されました。
京都府の舞鶴公園には
ソ連によってシベリアに逆流されていた人など
およそ66万人が引き上げてきました。
3橋で出迎える人の中に
息子の橋野真実さんの帰りをひたすら待ち続ける母
伊瀬さんの姿がありました。
きっと曲、岩壁の母のモデルとなった伊瀬さんと真実さんの物語を
産経新聞に平成12年に連載された
親と子の日本史をもとに音声ドキュメントでお届けします。
ご案内役はナレーターの徳光亮子です。
京都府の舞鶴公に引き上げ3橋という3橋がある。
平成6年に復元された3橋の有書書にはこう書かれている。
幾多の苦難に耐え夢に見た祖国へ感激の第一歩を記した3橋。
3橋の脇に佇み我が子夫を待ち続けた岩壁の母や妻
そして温かく迎えた市民の姿。
この史実を伝えるため歴史の語り部として復元した。
その岩壁の母を象徴したのが波市の伊勢だった。
伊勢は戦地から戻らぬ息子を3橋で待ち続けた。
引き上げが終わり息子の死亡告知書が届いた後も帰りを信じ
昭和56年7月81歳で亡くなるまで息子との再会の希望を捨てなかった。
03:00
伊勢の一人息子真嗣が満州今の中国東北部に渡り
初年兵として入隊したのは昭和19年11月19歳だった。
真嗣は立教大学を中退し商船大学を目指して浪人中だった。
しかし戦争の状況は悪くなり学徒動員も始まっていた。
真嗣は
内地で召集されたらどの戦地に行くかわからないけど
満州の軍隊は強い関東軍だから安心と考えたという。
伊勢は
お前が戦死したら生きていけない。
働けるだけ働き何でも売り食べられなくなったら自殺するよ
と言って真嗣を送り出した。
昭和20年8月9日
ソ連が日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきた。
第一戦に出ていた真嗣は行方不明となった。
日本は戦争に負け伊勢は悔しい気持ちだったが
真嗣が帰ることを思うと悲しみも恐ろしさも忘れ
明日にも真嗣が帰ってくるような気がした
と当時ノートに書いている。
伊勢はそれからは東京大森の自宅から
帰ってきた兵隊たちが乗る列車の着く品川駅に毎日出かけた。
帰ってきた人に真嗣の所属を訪ね回った。
しかし情報は入らない。
じっとしていられなくなって
引き上げ船が入港する舞鶴港に初めて出向いたのは
昭和25年1月だった。
真嗣の好物のケーキと弁当を持って岸壁に立った。
大勢の出迎えの列の前に並び
真嗣はいませんか?真嗣!真嗣!
と空腹も忘れて呼び続けたが
誰にも耳を傾けてもらえなかった。
伊勢はその後も岸壁に立ち続けた。
真嗣王、どこにいるのか?生きていないのか?
母さんと呼んでもらえないのか?
06:02
と海に向かって叫んだ。
ノートには
戦死したのなら約束通り自殺します。
毎日帰ってきた時に母がいなければ
私以上に悲しむかもと思うと自殺もできません。
金があったらここに小屋を建てて待っていたい。
今少し待つのだと自分の心に言い聞かせ
涙を拭いた。
と記している。
報道で伊勢のことを知った作詞家の藤田真嗣が
岸壁の母と題した歌を作り
昭和29年に菊池彰子が歌ってレコードが発売された。
伊勢はその頃、過労で2ヶ月以上床に伏していた。
母は来ました。今日も来た。
この岸壁に今日も来た。
伊勢はその時はまだそれが自分のことだとは知らず
ラジオから流れる歌詞に我が身を重ね
涙を流していた。
産経新聞社がお届けする音声ドキュメント
岸壁の母、息子を待ち続けた橋野伊勢
第2話の次回は伊勢がなぜ真嗣を待ち続けたのかを考えます。
外出の際にはデータ容量を気にせず楽しめます。
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08:30

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