・22歳の息子を失った母親 開口一番「ようやった」
・特攻作戦に自ら志願 知覧から出撃
・母親はなぜ33回忌まで涙を封印したのか
・「いつまでも若いのね」と語った1人の女性
・軍服を抱いて一晩中泣き明かした理由

※このエピソードは、産経Podcast「宮本雅史が語る特攻隊と女性たちの戦後」を再録したものです。

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産経Podcast 特攻隊と女性たちの戦後
大東亜戦争末期、日本軍は特攻作戦を行いました。
祖国を守るため、多くの若者が命を失いました。
これは、特攻隊と残された家族や関わりのあった方々、
特に女性たちの戦後に焦点を当てたドキュメントです。
語りは、長年、特攻隊員の遺族への取材を続けてきた、産経新聞記者の宮本政文です。
宮本記者は、昭和28年、和歌山県生まれ。
事件記者として東京地検特捜部を担当し、政治家の汚職事件などで数々のスクープを放ってきました。
外国企業による日本国内の土地買収問題を発掘したことでも知られています。
最終話は、32年間、悲しみを封印した母親です。
昭和51年5月28日。
自宅で長男の33回寄放を終え、墓前で線香をあげようとした瞬間、
75歳の母親は、長男の名前を繰り返し叫びながら泣き崩れました。
そんな母親の姿は、それまで家族全員、誰も見たことはありませんでした。
産男が駆け寄り、肩を貸しながらどうしたのかと聞くと、
今まで日本の国にあげた子供やったんや。
でも今日の33回寄りでやっとわしの子供にやったんや。
母親はそう呟くと、大声を出して墓石にしがみつきました。
泣き崩れた女性は中西時代さん。
和歌山県飛鷹郡和田村。
現在の三浜町出身の特攻隊員、中西信勝さんの母親です。
時代さんの長男、信勝さんは昭和20年5月28日、
陸軍特攻隊の隊員として鹿児島県知来飛行場を出撃、
沖縄近海で懺悔しました。
22歳でした。
中西さんは6人兄弟の長男でした。
小学校の校長をしていたお父さんの後を継いで、
教員になろうと和歌山県師範学校へ入ります。
昭和18年春、卒業と同時に地元の和田国民学校の教壇に立ち、
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正式な教員となりましたが、
陸軍特別操縦見習士官に志願しました。
当時12歳だった産男の小松雅也さんにお目にかかりました。
小松さんは私に、
ある夜、兄と父親は声をひそめて相談していたのを覚えている、
と私におっしゃいました。
小松さんによると、
お兄さんがお父さんに戦争が激しくなってきた。
教師をしている時じゃない。
飛行兵にならねや、と迫っていたそうです。
お父さんは黙って頷いていたそうです。
陸軍に進んだ中西さんは、
三重県の明け野陸軍飛行学校や福岡県の立原井航空隊を経て、
チラン飛行場に配属されます。
中西さんは特攻隊として出撃しましたが、
出撃するまでに2回和歌山県の実家に帰っております。
1回目は昭和19年の暮れです。
家族が全員揃うといきなり、
特攻隊を志願したと告白したそうです。
お父さんがそうかとうなずくと、
お母さんは、
信勝お国のためにしっかり手柄を立てるんやでと、
手をしっかり握ったそうです。
その時涙はなかったと小松さんはおっしゃっていました。
愛する我が子が特攻隊員になればどうなるのか。
それをわかった上で、
時代さんは手柄を立てるように激励したのです。
当時の母親の心情を小松さんが語っています。
特攻隊は必ず死ぬのわかっていたが、
それより息子に国のために役立ってもらいたいという思いの方が強かったのだと思う。
兄貴の特攻志願は中西家にとって誇りだったと、
小松さんは当時のお母さんの態度を見て、
そう感じたというふうに話しておりました。
年が明けて昭和20年になると、
新聞は連日特攻隊の出撃を報じておりました。
特攻隊に志願したことを知らされていた両親、家族は、
そろそろ突入する自分やろうな、
もう突入しているかもしれないなというふうに諦めておりました。
家族全員が中西さんの死を確信していました。
そんな矢先4月の25日夜、突然中西さんが帰ってきました。
聞くと自分が乗る特攻機が故障したため新しい特攻機を受け取りに、
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明けの飛行場に来たので立ち寄ったと説明していました。
その夜は両親と中西さんは夜が更けるまで話し込んでいたそうです。
ただ特攻のとの字も出なかった。
翌日、熊松さんが両親ら3人と合望駅、当時国鉄ですね。
合望駅でまで兄を、いわゆる中西さんを見送りに行きました。
駅に着くと中西さんが汽車に乗ろうとすると母親は身を乗り出して大きく手を振って、
手柄を立ててよと何度も叫んだそうです。
その9日後の5月4日昼頃、中西さんの操縦する飛沿が自宅上空に現れました。
明けの飛行場から地段に戻る途中だったようです。
熊松さんは屋根の上から日の丸を振って、母親は庭で大きく手を振ったそうです。
中西さんは自宅上空を4、5回旋回した後、西の方へ飛び去りました。
それからほぼ2ヶ月、6月中旬、中西家に2人の軍人が訪ねてきました。
2人は特攻機を護衛した直援隊の搭乗員で、中西さんが5月28日早朝、
沖縄周辺海域で敵艦に突入して戦死したことを告げました。
2人の報告に、母親はありがたい。手柄を立ててくれたのかのぶかす。
ようやったと小踊りしたそうです。
33回で見せた涙は、これは32年間、母親の思いを封印し続けたいたのでしょう。
33回起砲撃で流した初めての涙で、ようやく戦争の呪縛から解き放されたように感じます。
中西信勝さんにはもう一つ、知られざるエピソードがありました。
一緒になりたかった、という女性が戦後現れたのです。
中西さんは昭和20年、22歳。ある女性が16歳。
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実は昭和30年の夏ごろ、中西家に一通の手紙が届きました。
のぶかすさんのお墓参りをさせてほしいと。
女性はお墓参りの理由は一切明かしませんでした。ただ、何度もお墓参りをしたそうです。
女性が一緒になりたかったと初めて明かしたのは何年も経ってからでした。
最初は単なる憧れだったそうです。ところが時間が経つにしたがって憧れ以上の気持ちに気付いた。
忘れられない人になってしまっていました。
どうやら中西さんもこの女性と一緒になるつもりであったようであります。
平成8年5月3日、チリランド開かれた慰霊祭の際、先ほど申し上げましたお父さんの小松さんがこの女性を誘い、
中西さんの遺品を特庫平和会館に収めることにしました。
合流した女性は軍服を一晩貸してくださいと。
翌朝朝食会場に姿を現した女性は目を真っ赤に晴らしていました。
小松さんは皆さんと話をしたそうです。一晩中兄貴だと思って軍服を抱いていたんでしょう。
この女性はその後特庫に関する証言書に自分の思いを投稿しておりますが、
その最後にチリランド特庫平和会館に飾られた慰霊を前にいつもお久しぶりね、いつまでも若いのねと無限で問いかけたと記しています。
果たして私はその話を聞いたときにこの女性の戦後はいつまで続くのだろうと苦しくなりました。
教員だった中西信勝さんは教え子たちからも慕われていました。
その魂、その精神は受け継がれています。
また和田国民学校の上空を中西さんは舞っていますが、教え子たちは運動場で手を振りながら別れを告げました。
その中の当時6年生だった女性はその時の気持ちを先生の味方は永久に私たちの心を去りません。
教えを固く守って新日本建設に邁進いたします。
私たちの目の前に見せていただいたあの精神は言わずともなくよくわかります。
きっと私たちも先生の御意志に沿います。
中西さんは他の特攻隊員がそうであったように、
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ご国の使命だけではなく、両親や兄弟、恋人、教え子ら、
自分と関わりのある全ての人の思いを背負って出撃、突入したのでしょう。
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