因果応報と公正世界仮説の理解
はい、こんにちは、ぽちこです。 今日はですね
因果応報とか、自己責任とかそういうものについて話していこうと思います。 ちょっと単語が難しいかもしれないんですけど
公正世界説っていうのが違う。間違えた。公正世界仮説ですね。 っていうのがあるというのを最近知ったので、その話をしていきます。
その公正世界仮説とは何ぞや、ということで文字にすると、 公は公やけっていう字ですね。公園とかの公ですね。公民館とかの。
正しい世界に、仮説は仮の説ですね。
っていうのがあって、これが何かっていうと、世の中は 因果応報とか、自分のしたこと、良いことをしたら良い結果が返ってきて、悪い結果
悪いことをしたら悪い結果が返ってくるっていう、そういうもので成り立っているっていう 考える自分の中の思い込みとかバイアスみたいなものです。
これはね人によって程度の差があれど、大なり小なりみんな持っているもので
わかりやすいサイトがあったので良かったらリンク貼っておくので見てみてください。 スライドみたいになっているので矢印を押すと次々見れます。
簡単に説明すると、よくあるのが事故とか事件が起きた時に、この被害者にも何か落ち度があったんじゃないか
っていうコメントを見かけることはあるんじゃないかなと思います。 こういうことをしたからこういう結果になったんじゃないの?こういう事故にあったんじゃないの?
事件に巻き込まれたんじゃないの?夜遅く歩いてたからそういう被害にあったんじゃないかとかね。 あとはいじめられる側にも原因があって、いじめられてもしょうがないんじゃないか
みたいな考え方をする人もいますよね。 そういうもののことを指します。
これなんでこういう考えになるかというと、人間というのはやっぱり自分が何か被害に遭うとか苦しい思い、辛い思いをするって嫌じゃないですか。
なのでそういう安定とか秩序を求めるんですね。 求めた時に、でも他人のことには干渉できないので
自分が良いことをしたらその良い結果が返ってくると思いたいという気持ちがあります。 その結果何か自分の関係ないところで起きたものに対して
何か落ち度を見つけるとか落ち度があると思うことで、自分は反対にそれをやってないから安全に過ごせてると思いたいみたいな気持ちがあるんですね。
ここまでのところだけ聞くと、なんかすごい良くない感じの心理に思うんですけど、これは何か必ずしも悪いことだけじゃなくて、
その公正世界仮説っていうのを適度に持っていると、それはそれで幸福度が上がると言われています。
なんでかというと、良いこととか他者貢献とかをすることに直接的な見返りを求めずにできるようになるので、
何かしたらきっと自分も後々良いことが巡り巡って帰ってくるだろうなって思えたりとか、
あとは努力とかっていうのも一つに入るんですね。 努力をしたらその努力の結果がついてくるって思えたりするっていうので、
何かに対して、社会とか環境を責めるのではなく、自分の中で努力しようと思えるみたいなことで結果的に良い循環に入る場合も多々ある。
そういうことにも影響しているってことで、適度な自己責任論だったり、自責感情を持つのはむしろ自分の幸福度を上げるとも言われています。
ただ、昨今のいろんなネットの情報とか、SNSだけを切り取ると、やっぱりそこが行き過ぎてる人たちも多かったりして、
何が何でもその被害者の方、事故にあった方とか事件に巻き込まれた方の落ち度を探して叩くとか、
ネット文化の影響
あとはいろんなことに対して、社会的にやっぱり物価が上がってたりとか、
あとはいろいろ、自己責任論がやっぱり強くなってきてて、物価が上がって生活が苦しいとかに対しても、それは何かそれに備えてなかった人が悪いとか、
その給料でやっていけると思って転職活動しなかったのが悪いみたいな、そういう話を出してくる人とかもいたりして、
そういうふうに、何でもかんでも、世界は因果応報であるみたいな考え方に染まるのはちょっと危ないかなっていうのも感じてます。
で、今のネットのちょっと危ないところって、そのいいねとか、グッド・バッドとか高評価・低評価みたいな感じで、
この両方、どれくらい賛同している人がいるかみたいなのが可視化されるんですよね。
なので自分でコメント書く勇気はなくても、ボタン一つ押すことでその意見に賛同できるみたいなところがあるじゃないですか。
そうするとやっぱり知らず知らずのうちに、その何か落ち度を咎めてというか、落ち度があるんじゃないかっていう意見に賛同することで自分が安心感を得たりとか、
何か正しい間違ってるみたいなのをジャッジするような考え方に染まりやすかったりもします。
でね、これの怖いところって、やっぱり自分ではあまり気づけないんですよね。私も何かそういうニュースとかをたまに見たりはするんですけど、
コメント欄とか見てると、例えばいいね数が多いからなんかこの意見はすごい正しいんじゃないかみたいな、
正しくて、じゃあ自分が思っていることは世間では少数派なんじゃないかみたいなことを思いがちなんですけど、
本当ね、そんなに簡単なことではないと思っていて、やっぱりネット上って何かしら、
ちょっとうさばらしみたいな感じで使ってる人もいたりするし、
現実の方で満たされない承認欲求みたいなのを、何かちょっと過激なことを言って、
いいねだったりリアクションをもらうことで満たすみたいな人もいたりするので、
なので、あんまりそういう、ニュースとか情報を知るっていうのも大事なんですけど、そこの
声が大きい人の
ものをどんどん拾っていくっていうのは、やっぱ自分の中の価値観を揺るがす、
というかね、悪い意味で影響されちゃいやすいので、そのあたりって自覚しておくだけでもだいぶ防衛できるんじゃないかなということで今回この話をしてみました。
なんか、
やっぱ世の中って私はそんなに公平、公正なものじゃないと思うんです。
特に理不尽な事故とか事件とか見るとすごく思って、そこに意味を見出すこともね、例えば自分が被害者の立場になったらとか、その身内の立場になったら、そこに何かを見出すことで救われる部分っていうのもあるかもしれないんですけど、
それをその第三者が一部の背景だったり、その出来事を切り取ってジャッジするようなことは
なくなっていく世の中になるといいなっていうのをいろいろ見ると思いますね。
これは決して別に他人のためにどうこやれってわけじゃなくて、自分のためでもあるなと思ってて、人にその正しさとか
その自己責任を求めれば求めるほど自分が何か運が悪くて、運が悪くてっていうかタイミングが悪くてだったり運が悪くてってことって世の中絶対あるじゃないですか。
自分のね、これまでを振り返っても多分あると思います、皆さん。
そうなった時に本当に避けられないものとか、あとは例えば夜道を歩いてて何かの被害に遭った時に夜歩いてたこととその被害に遭うことが釣り合っているかっていうと絶対釣り合ってないことの方が多いと思うんですよね。
ね、それをだからリスク、そんなリスクを取るなって言ったらもうどこにも行けなくなるし、家からも出られなくなるし、なんなら家にいても危ないことなんていっぱいあるじゃないですか。
で、だからそういうものをすべてその何かあったのは、これが悪かった、これが落ち度があったみたいな考え方をしていくと自分があのしんどい状況に
たまたまなってしまった時にその自分に返ってくることになるのでね、だから人のためにっていうのももちろんそうなんですけど自分のためにもあまり
そういうね、因果応報みたいな考え方はしすぎない方がいいのかなっていうのをね、この言葉を知って思いました。
因果応報の危うさ
はい、これはやっぱ自分に対して厳しい人とかもやりがちで、何かあった時に自分に至らないところがあったからとか、自分がここをこうしちゃったからこんな良くないことが起きたみたいなことを考えすぎる人もいるかと思うんですけど、
それ自体はあの一種の防衛本能というかやっぱり自分の身を守りたいという気持ちから来てるので、
不当に傷つけられるってやっぱり世の中あったら怖いじゃないですか、不当に傷つけられたりとか不当に何か不利益をこむって、
だからそのこと、その起きたマイナスに対して何かしら自分がしたからそのマイナスを引き寄せたとかマイナスが起きちゃったみたいな考え方になりがちなんですけど、
もうそこを突き詰めていくと多分どうにもこうにも何かならなくなってくると思うので、
なのでなんか すべてのことに意味があると意味がある意味をつけるっていうよりはその
悲観的とか楽観的とかそういうことではなくて、もっとなんていうのかな、世の中にはその自分が、
自分にはコントロールできない部分があるっていうのを、 このフラットに受け入れて生きていくのがいいのかなっていうのを感じました。
で、ただでもそれっていうのもやっぱり人によって状況によってはすごく苦しいものになるだろうなーっていうそういう何だろうこのジレンマみたいなのも、
やっぱありますね占いとかやってると。 特にスピリチュアルっていうのは、
私はそういうなんか霊感とか前世がわかるとかそういうのは全然ないので、実際どういう感じで見えてるとかどういう風に何かを捉えてるとかっていうのはわからないんですけど、
スピリチュアルっていうのもそういう側面があるとは思ってて、
これはスピリチュアルが何か悪いとかそういう話じゃなくて、何かに意味を持つ、意味を持たせるって人間としてすごく大事なことというか救いになることだと思ってるんですね。
このもうちょい詳しい話はもしかしたらメンバーシップとかでやるかもしれません。
だから何か意味付けをするっていうのは、生きていく上で自分のメンタルの安定とかのためにもやっぱりいいものだとは思います。
ただ使い方を間違えるとそういう人に対してすごく攻撃的になったりとか、自分の首を絞めるものだといろいろやってると感じるので、
その辺のバランスもし崩れてるなっていうのを今回話し聞いて思う方がいたら、
何か少しそういうちょっと強めの意見が飛び交うような場所だったり、
あとは結構その自己責任論で全てを片付けるような、
例えばあなたがこれをしたからしょうがないこういう結果になったのは全部あなたが悪いみたいな言い方をするような環境にもしいるならそこから離れるとかも一つの手なのかなと思います。
はい、なのでなんかねいろんなことを
生きてるとあると思うんですけど、何かにとらわれすぎず
生活していけたらいいですよねっていう、あのなんかちょっとふわっとした着地になりました。
自己責任論と住まい
はい、じゃあここまで聞いていただきありがとうございました。
今日はね金曜日なんでもう少し緩めの話をしたいなと思ったんですけど、どうしても何かこれを言いたかったのでこっちの話になりました。
でね、来週はねちょっと新しい試みというか、来週1週間テーマを決めてやってみようと思って、
で、あの来週はマイホーム購入の話をしたいと思います。
でね、うーんと、
うーんと我が家はマイホームこだてで購入してから何年経ったんだろう。
9年?9年じゃない?そんな経ってない?
でもそのぐらいかな?多分9年、8年9年は経ってて、
なので、まあよく言われる持ち家か賃貸かみたいな、どっちが合ってるかみたいなのとか、あとはそのこだてかマンションかみたいな、
そういう話だったり、その自分たち、私たち夫婦がどういう部分を優先順位を上げて選んでマイホーム購入に至ったかみたいな話、
とかっていうのを小分けにしてやっていってみようかなと思ってます。
はい、なので良ければ来週も聞いてもらえたら嬉しいです。
マイホームを購入した、購入したじゃない、購入しようと考えている方とか、あとはもう購入したりとか、
賃貸で今住んでて、賃貸のまま行こうと考えている方とか、もうまた違うね、いろんな価値観があると思うので、
そういう自分とは違う選択をした人の視点というのも、
ああそういう考え方で選んだんだ、みたいな感じで楽しんでもらえるかなと思います。
はい、じゃあ、今日も緩く頑張りましょう。
バイバイ