1. 終わりかけのRadio ・今夜も最終回
  2. 第141回 暇の哲学 〜”有意義”..

ひろゆき氏の記事や書籍「暇と退屈の倫理学」から「暇」についていろいろな角度から話し合いました。

▶ 関連リンク
ひろゆき「バカほど『自分にごほうび』といってムダにお金を使う」
https://president.jp/articles/-/48410

暇と退屈の倫理学
https://amzn.to/3kjO2QP

▶ 関連する過去エピソード
第128回 得する趣味と損する趣味 〜 無趣味のつもりでも多趣味に見られる謎、公言しているその趣味は本当の趣味なのか、など
https://anchor.fm/owarikake-no-radio/episodes/128-e11fm4h

▶ 目次
「バカほど『自分にごほうび』といってムダにお金を使う」
書籍「暇と退屈の倫理学」
なぜ「暇」が生まれるのか
暇を利用して資本主義に搾取される
消費と浪費
消費だけをすべきか
「自分にごほうび」という表現
有意義な時間の使い方
なぜ脱成長や陰謀論が注目されるのか
暇とクリエイティブ
大人になると忙しさをアピールする
暇を作る気力
芸術が多く生まれた平和な時代の「暇」の意味
おわりに

#暇 #暇と退屈の倫理学

お便りはこちら
https://forms.gle/oEfBpskGT2qf4iMW9

00:05
どうも、WATAです。 TAZAWAです。
TAZAWAさんは、暇ですか?
いや、暇ですね。
暇ですか?
とても暇には見えないんですけどね。僕からすると、もうやること、to do、ぎっしりですもんね。本当ね。
Googleカレンダー、びっしりでしょ。
暇を楽しんでますけれど。
暇を楽しんで、いいことです。今日話したいのは、そのテーマです。
ちょっと前振りなんですけど、みんな大好きヒロユキさんがですね、最近ヤフーニュースの記事で、バカほど自分にご褒美といって、無駄にお金を使うっていう記事が上がってて。
まあ、恒例のヒロユキ節の記事なんですけど、もうタイトルの通りです。
バカに限って、無駄にブランド品を買ったりとか、ルイ・ビトン着てるやつ、だいたいバカっぽい見た目じゃないですか。
だいたいやっぱバカってお金を使いすぎるんで、っていう記事。何の内容もない記事なんですけど、ちょっと見ましてね、まあまあ、はいはいと、ヒロユキさんっぽいなっていうか。
ただ、なんかその、まあ別にヒロユキさんの人言うことはどっちでもいいんですけど、なんで贅沢とか、無駄にお金を使うことって、なんかそういう悪いみたいな見方をされてるんだろうなっていうのを、ちょっと疑問に思って。
で、最近ちょっと読んだ本に、たまたまこの問いに対する答えがちょっと近いものが書いてる本があって、ちょっと今日はその本を題材にお話ができたらなと思うんですけど。
結構有名な哲学者の方なんですけど、国文広一郎さんというですね、哲学者の方がおられて、僕らが大好きな100分で名書とかにも出てる有名な哲学者の方なんですけど、その方が書かれてるですね。
この書籍も非常に有名な書籍で、「暇と退屈の倫理学」という本をちょっと読みまして、なんか読みましてというか、ちょっとまだ読んで途中なんですけど、結構分厚い本なんで、なんかね結構いいことを書かれてて、ちょっとね、この紹介も触れつつ、さっきのヒロユキ問題の問いをちょっと2人で話したいなと。
で、この本のあらすじなんですけども、書いて字のごとくの通りですね、暇ですね。暇というものがテーマに扱われていて、で、暇っていうのがそもそも人間にとって何なのかっていうところを結構哲学的なアプローチで解釈していたりとか、あとは、なんで人って暇になっちゃうのかなっていうところとかもちょっと紐解いていたりして、で、暇っていうのがそもそも人間に悪いことなのかどうなのかとか、
なんか結構その、過去の哲学者がいろいろその辺を論じてたりするんですけども、その辺もちょっとうまく批判しつつ、なんか紹介している本でして、で、まぁ結局ね、なんかその暇って何なのかっていうところとかからちょっとあらすじは始まるんですけども、なんで暇とか退屈になるかって言われると全然わかんないじゃないですか。
だってそれは空いた時間がね、たまたま退屈なだけでみたいな、なんかだから僕ら現代人ってその暇っていうものに対して、あくまでそのなんだろう、あのもう先天的にある時間のその合間に生まれる、そのまぁ何もない時間みたいなものを暇っていうふうに認識するということらしいんですけど、なんかあの元来その動物とか、あとはそのまぁ僕らの先祖様ですよね。
03:23
今って僕らってその家を持って定住するっていう生活をしてるじゃないですか。でもあの、いわゆるそのあれですよ、こう家を持たない時代っていうのがあって、誘導生活っていう、遊んで動く生活みたいな、なんかそういう呼び方をするらしいんですけど、なんかいわゆるその定住場所を持たずにひたすらその移動しながら生活をしていく。
でまぁ理由としてはその、同一の場所に居住空間を持っちゃうと、結構その汚染されていっちゃう。あの昔やっぱ今みたいにその清掃の技術とかが発達してないんで、一つの場所にいると、まぁいわゆるその自分の排泄物とか、まぁいろんなもので汚染されていっちゃうんですって。
だから一箇所に集まっていると、すごい動物的にあんまり良くない衛生状態になるんで、だからそのために移住をしてたりとか、あとはその狩りをしてる時代だから、当然その獲物を追いながら、獲物も移動してたりするんで、それを追いながら移住していったと。
だからなんかその頃の人たちって、いわゆる僕らが今思うような暇っていう感覚がやっぱ全くない時代で、当然だからまぁ毎日こうあれですよ、その狩りとかさ、ちょっとでもさ、なんかその遠いとこで住みやすい場所探してとかさ、そういうことに一生懸命だから、そんな暇なんていう概念が生まれる余裕がない時代。
だからまぁもう生活全てが移住するためとか、自分の食料とか確保するために費やされてた時代で、なんかその頃暇っていうものがなかったんですけど、結構その何ですかね、時を経てですけど、いわゆるこの現代って言われる1900年代とか、いわゆる消費の時代が始まるじゃないですか、大量生産とかが始まって、すごい資本主義の時代が来てみたいな感じで。
結構その頃くらいから結構強く生まれた概念らしくて。理由としては単純で、僕らその前からですけど、固定の定住する場所っていうのは持つ生活が当たり前になって、なおかつその一食中の食べ物とかも買いに行けば買えるし、ある程度お金持ってるもんね。
お金を当然蓄えるために働いたりとかっていう、そういう社会ができて、文化構造としても日々そういう生活に覆われなくても良くなった。ある意味豊かになったみたいな感じで、そういった時に人っていうのはやることがなくなっちゃったわけですよね。だからそれ故にその時間が暇とされたみたいな感じらしいんですけど。
1900年代前半のバートランド・ラッセルっていう方がいてね。幸福論っていう本を書いた方なんですけど、ラッセルが言ってるのは、人間はこういう大量消費を迎えた時代においては、暇と退屈っていうものに向き合わざるを得なくなって、これから解き放たれることはまずないだろうということを言ってて。
06:09
ちょっとでも幸福になるためには、何か打ち込むものを見つけるべきだみたいな。だから一つ何か打ち込むものがあれば、暇と退屈に勝てるっていうことを言ってる。でもラッセルの理屈だと、暇と退屈をなくすために一生懸命頑張るわけですよ。何かに打ち込んで。
結果、人っていうのはどんどん成功していって、富とか豊かさを得る流れがあると。ただ結果的に豊かさと富を得た時に、また人はやることを見失っちゃって、暇になっちゃうっていう。
ラッセルの言ってること、正しい部分もあるんだけど矛盾もはらんでて。結局、暇っていうのは何なのよみたいな。熱心に何か向けば解決するものでもなく。そういうのを通ってる本で。
そうですね。この本のアプローチで言うと、一応暇になる原因というか、今言ってたラッセルの何かに熱意を持って取り組むことで、暇が取り除かれていって幸福に繋がるみたいな考え方があるんですけど。
ただ反面、ラッセルもこのパラドックスは理解してて、結局現代の若者っていうのは、何か成し遂げることが残ってないから不幸なんだっていうことも言ってるんですよ。昔の先住民みたいにワーって移動してワーってやったりとか、開拓地をすごい開拓して街作るぞとか、そういうことがもうこの時代はできなくなってて。
だからもう現代の若者ってやることもなくなっちゃって、だからそれは不幸だよねみたいなことを言ってたりする。あと本当に好きなことというか、本当にやりたいことが見つからないから暇とか退屈になるんだよみたいなことも言ってまして、要はその熱心に取り組むものがあればいいんですけど、ない場合もあるじゃないですか。
だから見つからない人はまたずっとその暇とか退屈を、それとともに生活をしていかなきゃいけないみたいなことを強いられてしまうんだけど、これ前僕ら話した趣味の話とか、あとは去年とか話した時間の話と結構いろんな話につながっていく話のエッセンスが盛り込まれてて、ちょっとその辺も絡められれば話したいなと思うんですけど。
結局だからこの今挙げた2つの理由で退屈とか暇っていうのが訪れちゃって、この現代においてさらに資本主義の構造上、僕らが暇になると資本主義って逆にすごい高都合で、その暇な時間を消費させることができるんですよ。
ちょっとわかりやすい例で言うと、咀嚼とかそうですよね。まあ要は僕らが別に本当にやりたいと思って、本当にやりたいと思ってやってる人もいるんだけど、だいたいの人は広告とかを見てさ、これ面白いっすよって言ってさ、なんかいろいろこうレコメンドされて、なんか楽しそうだからやってみるかみたいな感じでやってて、なんかそれが本当に好きなこととかやりたいことだったらいいんだけど、要はその暇つぶしの手段としてそれを選んでるっていうだけで、
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それを消費させるっていうのがまあすごい資本主義の結構大きな構造のその特徴で、それが結構欠陥だとかも言われたりするんですけど。で、要はその現代人はそのいろいろこう暇つぶしでいろいろネットフリックスとか見たりとかさ、ゲームやったりとかしてるけど、結局そのそれで自分たちが暇じゃないっていうふうに思い込んでるんだけども、
結果的には別に自分がやりたいことじゃないこと、まあ見つからない人とかもいるから、そういう人たちがまあやることないからやってて、で、なんかそれがまあ暇じゃない状態だって認識してるっていう、なんか錯覚が生まれてるんじゃないかということもね、提言してて、なんかまさにおっしゃる通りだなというか、で、あのなんかこの前の趣味の話で言うとさ、これ結構趣味の話も近いところあって、なんかやっぱねレコメンドされてる趣味とかっていうのを僕らは別にやりたいと思ってないんだけど、
まあ言われてみたらこれ趣味かなみたいな感じで、例えば読書でも何でもいいんだけど、本当に好きな人はいいんですよ、ただ人に勧められてたりとか、なんか世の中こういう趣味持ってなきゃいけないよねみたいな風潮でやってる場合もあるんで、そういうのはいわゆる結構その資本主義社会の中でのやっぱりその消費構造の中で削除されちゃってる状態になってるみたいなこともこの本は言っていて、
なんかまあまあ確かにね、この前趣味の話した時も思ったんですけど、なんかやっぱその生産的な趣味とか、生産的じゃない趣味とかっていうのは結構こういうところでも見極められるんだなっていうことが書いてあったりとか、でまああのさ悲しい話でそのね、でもそのまあ本当にやりたければいいんだけど、そうじゃない場合さ、別に本当はやりたくないことに時間を費やして、で結局でもそれがさ、その人的にはさ、暇じゃない状態になってるわけですよ。
暇つぶしができてるから。でも人生的に何も豊かになってないとか、なんか満足してない状態。でね、あの例えばその例として、面白い例を挙げてるんですけど、釣りをしてる人に、例えばその僕この魚釣ったんであげますって言って、よかったらこれあげるんで、もう釣りやめて帰ってくださいって言って、釣りをやめる人がいるかみたいな話で。
で釣りって結果を、魚が釣れるって結果を追い求めるスポーツだと思うんですけど、でも別にそれじゃなくて、そのプロセスを楽しんでいて、それで結局なんかその目的とは別のさ、なんかその時間を消費するっていうところ、目的を見いだしてるみたいなところはあると思うんですけど、なんかまあ結構それに近い理屈で、なんかこう本当に何がしたいからその時間を享受してるってよりも、結果的にそのなんだろう、そうあるべきだから消費してるっていう行動っていうのがまあ基本的にはそうです。
あの基本的にはその現代人に多く見られるパターンらしくてですね、でなんかこの本であの暇っていう言葉と退屈っていう言葉をなんか切り分けて説明してて、であのいわゆるなんか暇っていうのは結構客観的な状態、だからあの暇であること自体は実はいいことじゃないですか、なんか要は時間があるってことだから、暇じゃないってことはめちゃめちゃ忙しいってことで、忙しくないってことはすごく心に余裕がない状態で、
12:06
で、たとえお金があっても暇がなかったら何もできない状態なんで、まあ実は暇があるっていうのはいいことで、で逆にその退屈っていうのは何なのかというと、退屈っていうのはその自分の主観的な感情、でなおかつそのあのさ、僕らってその基本的にすごい時間の制約がある中で、そのたまたま休みの時間があって、休みの中で何かできなかったりすると、それを退屈って感じるらしいんですよ。
制約がある時間の中で何かやらなきゃいけないと思ってて、そこで何かできなかったりすると退屈って思っちゃうっていう、まあそのなんか主観的な感情があって、それを退屈というらしいんですけど、だからまあ実は暇っていうのは結構贅沢なことで、暇があること自体はまあいいことだと、ただすごい制約の中で何かをこう時間を消費しなきゃいけないっていう中で葛藤しているその退屈さっていうのをどうしてもそこからのカルマから逃れられないのは現代人で、だから要はもう退屈とずっと戦ってるっていう感じですね。
だから、やっぱりその幸福、本来の意味では幸福的な考え方とか、あとはその豊かさみたいなところを求めてくるには、この退屈さと向き合っていかなきゃいけなくて、で、やっぱこの退屈って結局どうすると取り除けるのよみたいなところをやっぱ考えなきゃいけなくて、結構みんな錯覚して暇つぶしてゲームやって、ああ楽しいなみたいな感じで思ってるんだけど、で実はそこはこういうレトリックがあるよと。
で、あともう一つちょっと対比で説明してるのが、さっきから言ってる時間の消費っていうのは消費っていうことだと、あとは浪費。消費と浪費っていうのは実は違うみたいなことを言ってて。
で、消費っていうのはいわゆる、僕ら消費者なんで、例えばそうだな、トイレットペーパー買って、トイレットペーパーはやっぱ使わなきゃいけない。
生活できないから買うじゃないですか。いわゆるそういう生活の中にも組み込まれてる、なんかなきゃいけないものとして生じる生産物。
別に使うことにさ、僕ら別に何の意味も持ってなくて、それ使ったからなんていう思わないものじゃないですか。で、浪費っていうのは逆に、ある種自分の必要を超えた価値を受け取ることみたいなのがあって、
例えばすごい分かりやすい例で言うと、いつも松屋食ってる人がちょっと今日は月末だから、ちょっとステーキいっちゃうみたいな感じで、いい肉食って、うわーなんかやっぱいい肉うめえなみたいな。
それが浪費っていう。だから要は浪費っていうのは贅沢っていうことらしいんですよ。
で、ここにきてようやくね、ちょっと長くなって申し訳ないですけど、広いけの話に戻るんだけど、
要は人っていうのは消費だけしてると、どんどんどんどん心が貧しくなっていっちゃう。
なんかそのさっき言ってた、やりたくもないことをやって、なんか何でかわかんないけど、まあまあ楽しいけども、別に幸せじゃないみたいな状態になって、
資本主義に搾取されてるみたいな、なんかうっすらそういう漠然とした感覚がある状態で過ごしているんだけど、
またこの浪費っていうのは逆に、ある程度ね、もちろんお金の余裕もなきゃいけないし、毎日やることはできないんだけど、たまにやっぱ浪費をしないと、
人間の心の豊かさを担保できないんですよ。で、この浪費っていうのは、さっき言った、退屈じゃなくて、暇。
15:04
暇を持て余すっていうところで、暇をどういうふうに使うか、時間をどういうふうに浪費するか、
そのより満足感を得られる時間の使い方をするかっていう考え方がやっぱすごい重要で、
絶対的にね、その暇と退屈から逃れることは100%無理なんだけども、
ただ、この浪費っていうのをある種、与えてあげることで、人っていうのは豊かさを保てることもできるし、
逆にその心のゆとりが生まれて人に優しくできたりとか、いろんなプラスの面がたくさんあるんですよ、というとこで。
この本は結果的に言うと、ひろゆきのさっきの論調を完全に論破してる本だったという。
ひろゆきはその話を、お金を無駄に使うことっていうところの論点で言ってるんですか?
要はブランドの話とまた別な気もしてて、よく一般的に言うじゃないですか、ブランドもそれ着飾ることがどこ?
そっちの方なのか、無駄遣いの方で言ってるのか、どっちなんですか?
いわゆる、ひろゆきはこの本の中で言う、消費だけしてなさいって言ってる感じです。
要は、いい服着たってさ、お前そんなかっこよくねえからさ、意味ねえだろ、みたいなその感じ。
だから、それいる?みたいなものをすごい何にでも当てはめちゃってる感じ。
どんな文脈に関係なく、高いものに対して必要ってことを言ってる。
なるほど。
だから、松屋が好きならずっと松屋食ってりゃいいじゃん、みたいな感じ。
別にさ、家賃4万でもさ、十分でしょ?十分じゃん?って言ってる感じ。
だから、それ以上を、たとえばその独り身のやつが3NDKのマンション住んで生きてるみたいな、そういうのをややしてるんだと思うんですけど、
なんか意味ないじゃん、みたいな、そういうやつだいたいバカだからみたいなことを言ってるんだけど、
ただ、この本は逆で、そういった贅沢は人間は許容しないと。
ただただ贅沢すればいいってもんじゃないですか。
もちろん人によって贅沢の価値観って違うんで、お金かけるかかけないかとか、そういう問題ではないんですけども、
ちゃんとそこで、さっきのヒロイキの論で言うと、ちゃんとご褒美を与えないと、
なるほど。
どんどんどんどん心が貧しくなっていっちゃうだけだからっていう。
そのヒロイキのその、どんなニュアンスで言ってるかわかんないですけど、
例えばヒロイキがそういう意味で言ってることはないですかね。
満たされない心をお金使って満たそうとしてるだけだからバカじゃねえって言ってるんだったら、
同じ意味な気もしますよ。
そうですね。
ちょっと今記事を見てるんですけどね。
見つけました、その記事。
結構ね、最近の記事なんですけどね。
ヒロイキの多分言ってること的には、いわゆる見栄を張ってるみたいなことでもあったりして、
それって何の価値があるのみたいな。
それさっきタダさんが言ってくれた雰囲気に近いかもしれないけど、
結局そういうところで自分の心の豊かさを埋めてると勘違いしちゃうみたいな感じ。
それは意味ないんじゃないのっていうのは確かにニュアンスとしては入ってはいるんですけど、
ただこの本の内容で言うと、この本は基本的にあんまり客観的な話ではなくて、
あくまで自分の退屈と暇の理論の話なんで、
18:02
あんまりそこの客観的にどう思われたいっていう、そこの辺は語られてはいないんですけども、
ただまあこれはちょっと難しい議論であるんですけど、
回り回って例えば客観的にいいと思われたいくて、
別に自分の幸福かどうかわからないけど、人に素敵だと思われたいから何かを自分に表示しましたと。
でも結果的にそれが自分の心の豊かさにつながってるんであれば、
僕は十分その贅沢は必要がある贅沢なのかなみたいなのを思ってて、
全然見栄張ってもいいなと思うんですよ。
それは見栄を張るっていうことで、その人が満たされるんであれば全然僕はいいと思うというか、
だからこの広行きの論で言うと、ブランドばっかり着てるバカみたいな奴らは、
別にだからブランド着て満たされてればそれでいいと思う。
別にそれ自由だし、お金持ってる人でしょうしね。
それを格好つけて生きて、俺はイケイケだって思われてるぜって思ってても別にそれはそれでいいかなとは思ってて。
何となくそういうところを寄ってる気がしますけどね、広いから。
そうですよね、雰囲気的には。
極端な言い方になっちゃってるんで、なんか贅沢してる奴、全員バカだみたいな感じに捉えられちゃいそうな感じもあるんですけど、
この辺どうですかね、田沢さん的に。
これは単純に僕の言い方が、贅沢なものを手に入れれば満たされるんじゃないかみたいな風に説明しちゃってるところもあったんで、誤解があるとあれなんですけど。
時間の使い方が、いわゆる豊かかどうかっていうところを説いてる本にはなるんですけど、なんかその辺って田沢さん的にどうですかね。
田沢 そうですね。
またちょっと論じるポイントが難しいと思うんですけど、あれですよね。
これすごく難しいんですよ、結構切磋叩く前にすごいストイックに生活を切り詰めて頑張ってる人っているじゃないですか。
そういう人って結構実は生きがいをそれに感じてて、それ自体はポジティブじゃないですか。
全然否定する気もなくて、贅沢がなくても生きていける人っていて、中には。
そういう人もいるから、あんな感じでそこの豊かさ求めることが全てじゃないんじゃないっていう話も。
僕はどっちかというと多分、贅沢をするというところの魅力を今までは感じたことがないんですよね。
これからもしかしたらいいじゃんと思うかもしれないですよね。
今のところ、なんか贅沢をすることに喜びを感じるシーンとか、贅沢してみたいなとかって思ったことないから、割と考えたことないですね。
ちょっと僕でもどっちかというとこのひろゆきの話で言うと、この意味とちょっと違うかもしれないですけど、自分にご褒美っていう表現はあんま好きじゃない。
そういうこと言う人好きじゃないですよ。普通に使いたいからって言えばいいじゃんって思うんですよ。
そうだね、まあ確かにね。自分で言ってる分だけど、人にはなかなか自分にご褒美とはね。
自分にご褒美の感覚は僕はわかんない方ですね。
例えば、今月めっちゃ仕事頑張ったから、今日くらいうまいもの食いに行くかみたいな感じ。
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それはいいんですけど、それを自分にご褒美って言ってお金使うっていう流れが好きじゃないですよね。
普通にお金使えばいいじゃん、それって思うんですよ。それを言い分けしてワンクッション挟んでるところがちょっとダサいなって思うんですよ。
素直になればいいじゃんって思うんですよ。
確かにね。そこ自体はお金使うだけだからね。
そうだよね、確かに。
あとこの時間っていう視点ではどうですかね。僕結構今回重要だなと思ったのは、
当然お金の贅沢な使い方で、いわゆる労費っていうのをやるといいことはあるよなっていうのは、僕も高いもの好きだから気持ちは分からない。
ただ時間っていうのは難しいなと思ってて、でも時間ってこれからの時代すごい重要なキーワードになっていくような気がするんですよ。
物とかことの消費の時代は終わってて、次は時間とか意味とかっていうところの消費の時代が来ると思うんで、時間の使い方みたいなところで言うとここの贅沢さみたいなのがあって、僕結構あるかなと思ってて。
僕は割と有意義に時間を使いたいと思いがちな方ですね。
そうだよね。でもこれ本当に変なお世辞抜きですけど、すごい有意義に時間を使ってるように見えて。
でもなんかその使い方がいいんですかね。さっきのそれこそ和田さんの導入の話を聞いてて、それはそのある種心が貧しいことにはならないのかなと思ったんですよね。
あー。
要はちょっと変な面倒な話ですけど、さっきその資本主義の中で暇であることが資本主義によってある種都合がいいところがあって、資本主義に削除されていくとその暇をね。
だけどだからこそ有意義に時間を使っていくことは資本主義に削除されるわけではなく、有意義に自分にとって有意義な使い方をしていくべきっていう話ですよね。
そうそうそう。
だけど自分にとって有意義な時間を使い方をしていけば、資本主義の中で活躍できる人間になるんですよね。
あーなるほどね。なるほどなるほど。
だから絶対資本主義の上での話のような気はしてるんですよね。
確かに確かに。そうだね確かに。
だからそういう意味だと僕が有意義に時間を使っているってことは、資本主義の中で活躍していくため、価値ある人間になっていくための努力っていうふうになるなと。
確かに確かに確かに。
だから結局自分の生産性が上がるとか、そういうアプローチにもつながっていくものだと思う。そう考えると確かに資本主義を増長させる仕組みの考え方でもあるなというか。経営者とかはこの思想は強くて。
やっぱ有意義な時間の使い方っていうところで、捉え方が人によって大きく分かれるんだろうなと思って。有意義な時間の使い方っていうのが成長の意味ってなのか、ただただ幸福なことなのかっていうところで違うじゃないですか。
24:04
この本の場合で言うと、結構この本は脱成長思想が強いもので、ある意味生産性がなかったとしてもその時間を幸福として捉えられる時間の使い方というか、暇を有意義に楽しむっていう。
それで言うと、生産性がなくても幸せを感じられる時間の使い方が有意義なんだとしたら、ソシャリは有意義な時間になりそうな気がしますよね。
そうだね。だから例えばそのソシャリがその人に立っとって、実は幸福感とか何らかその将来的な倫理感につながっているのであれば、すごいめちゃめちゃあるし、それは有効な暇の時間の使い方なんですよ。確かにおっしゃられる通り。
そこはパラドックスがあるんで、まあちょっとそれは結構その人それぞれ感覚のところの話になるんですけど、ただまあその例が難しくなるパターンで、ちょっとひろゆきと同じパターンでパチンコとか言っちゃう気がするんですけど。
確かにそうですよね。だからそれこそ資本主義の前提で考えたほうがシンプルなんですけど、やっぱその脱成長的な視点ってやっぱり苦しい気がする。その要は資本主義を批判するのがちょっとロジックが途中で苦しくなってくるなって思いますよ、やっぱそれ聞くと。
まあね。そもそもいろいろな何たちがそこを今ベースに動いたりする中で、まあ反論の論調としてみたいなところもあるんで、どうしてもちょっとそこの反省法のパラドックスはあるかなと思うんですけど。
ギャンブルとかでその瞬間楽しむことをどう捉えるかで。
ただちょっと一つ切り口としてね、時代感みたいなのがあるなと思ってて。ここも結構前から話しますけど、なんかここ最近やっぱりこの脱成長、マルクス主義、脱資本主義の話って極端に聞くようになったって思いません?
流行ってると聞いてますね。 流行ってる。で、あともう一つこれは僕の得意分なんですけど、陰謀論。陰謀論が僕なぜ流行るのかってちょっとこの話をもとにいろいろ考えてみたんですよ。
僕はだから思うのは、なんで今こういう思想がこの2020年ですよ。もう100年前に絶対こんなのは無理ゲーだろうって思われた思想がなぜもてはやされるのかっていうのは、人々の結構内面的な潜在心理にこういう風潮を求めてるっていう空気が実はあるんじゃないかなと思って。
っていうのは裏側にはやっぱりもうこれは間違いなく格差があるっていうのはもうこれが誰も誰しもが論じる必要性もないぐらいさ、もちろん当たり前のように格差ってめちゃめちゃ広がってて生まれてるじゃないですか。で、なんかやっぱり結構僕らが思う以上に深刻なレベルでやっぱ格差っていうのが生まれてて。
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だから結構時間的な余裕であったりとか、設計的な余裕、いわゆるこの暇な時間を使える人っていうのが相当少なくなってきてるんじゃないかなっていうのをちょっと感じてて。その裏返しとして何なのかわかんないけど、なんかちょっと自分の考えとちょっとうっすら近いんだよなって思う人がいる。
やっぱりこのマルクス主義とかさ、だってすごい削除されてる人からするとやっぱりすごい生きやすいんですよ。そういう論調にね。もちろん自分が苦しいからさ。もう何も考えられないぐらい余裕がなくて。だからすぐあれなんだよ。直感的に手に取れる情報っていうのが取りやすい。
そういう人たちが、裏返しとしてね、こういう情報を手に取って共感してるっていう事実があって。だから僕らがよく言ってる斎藤公平さんのね。
その影響もあるとは思うんですけどね。ただやっぱり潜在的になんでああいう本が売れるのかっていうのは、やっぱりすごい世相が出てるなというか。あと陰謀論の話も全くそうなんですけど。
これポイントとしてはなんかね、単純に格差の話で金がないかどうかみたいな話があるんだけど、僕は重要なのは暇がないっていう考え方なんじゃないかと思って。暇がない人が多すぎる。要は金がないから働かなきゃいけなくて、暇がない人。で、働きすぎてて、単純に金はあるけど暇がない人みたいな。
そういう人が今すごく多いんじゃないかなと。で、コロナになってみんな暇になるとかはされてたけどさ、実は時間的な余裕は生まれたのかもしれない。ただ、束縛されてる時間。要は精神的に拘束されてる時間は前よりも長くなってきちゃったんじゃないかみたいな。
そういう意味で多分今すごい世相が荒れてると思うんですけども、なんかその辺もこの話に通ずる話なのかなと思ってね。ちょっとまあ今日もそれもあってあえてこの話題をフォーカスしてみてるんですけど。
確かにやっぱりこのコロナの状況の中で、このいわゆる人身性の資本論が言ってるような、脱成長の社会主義的な考え方ってそこに共感する人が多いっていうのは当然で、やっぱりその考え方って倫理的には正しいんですよ。要は倫理的に正しいんですよ。
そうすると資本主義を撤退してする考え方だから、僕は反対ではないと思うんですけどね。資本主義を公立するための考え方だからとしか言うと、そこでやっぱり倫理的なテクニックでのレトリックがある気がしてて。
どうしても悪いところついて、こういう風なのがいいよっていう導き方にはなっちゃうんで。逆に言うとこれは昔から問題視されてるところであると思うんですけど。
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だからこれからちょっと分かるんですけど、本当に思想の分断とかっていうところもこういうところから生まれやすくなると思うんですけど。ただやっぱり僕結構人間の成長に、もちろん暇の考え方は人それぞれでいいと思うんですよ。
本当に資本主義的な方でもいいし、マルクス主義者的な考え方でもいいんだけど、結構暇っていうのは割とクリエイティブな感覚ともつながってるような気がしてて。
これ僕調べてたらすごいことに気づいて、僕デザイナーじゃないですか。デザインの最初の歴史ってまさに産業革命時代からなんですよ。アーツ&クラフト運動っていう大量消費者会に対して工芸品とかがすごい品質の悪いものが出回っちゃって。
そういう品質の悪いものがもう許せない職人が多くて、こんなダメな工芸品を人にばらまいてこのままじゃダメだって言って、それを良くしようって言って職員たちが頑張っていろんな工業製品とかをデザインしていって、より良い品質を保つためにやった運動がアーツ&クラフト運動。
これが今のデザインっていう文化の原点になったりするんですけど、アーツ&クラフト運動を主導してたウィリアム・モリスっていう社会主義者がいるんですけど、もともとは社会主義の思想なんですって、デザインの原点で。
だから今ちょっとねじれちゃってて、資本主義をどうにか鎮圧しようとする。
資本主義か社会主義かって話じゃないからって話なんですけど。
主義の話だからね。だからどっちも良い部分ありどっちも悪い部分。その思想の話はあるんで、ちょっとそこは難しいんですけど、ただちょっと原点的に言ってアーツ&クラフト運動っていうのがあって、それがこの暇と退屈の倫理学の話も繋がっていくんですけど。
でもちょっと僕が言いたかったのは、暇っていうのは結局だから創作。要はこれがさっきちょっと僕が言った贅沢な暇の時間の使い方っていうところで一つ思うと思うんですけど。
良いものを作るときってそんなに時間をかけないとダメなときってあると思うんですよ。で、ちゃんと向き合わなきゃいけないし。で、これ無駄じゃないってことを頑張って向き合って、100時間ぐらいかけたやつをこんなんじゃダメだって捨てる行動を僕は創作だと思ってますね。
それは創作ですよ。
だから結局有意義で贅沢な時間の使い方まさに僕これなんじゃないかなと思ってて。だから暇があるっていうのはある意味創作に向き合えるっていうことなのかなと思って。だからそういう意味で言うとクリエイターとかで、これクリエイターじゃなくてもそうなんですけど。
33:02
人が何か発想したり、いろんな面白いことを考えたりっていうのはやっぱり暇がないとできないんじゃないかなと思ってて。
だからそういう意味で言うとこの本が言ってるその暇、退屈じゃない暇の時間だよね。暇の時間っていうのはやっぱりすごい今世の中に求められてる気がしてるんですよね。
だからさ、かといってさ、だからそんなこと言ってもそんな時間作れないからこんな苦しいんだよっていう人は多分。
芸術家が時間をかけて制作をするっていうのはその時間を自分で作ってるっていうだけだから。
そうだね。忙しい中でもね、やるんだよね。
むしろ忙しいと思ってるからこそ時間をいかに作んなきゃって思ってそこの中に制作をしていくっていうところの全部必要な気がしますよね。
本当にもう余裕がありすぎたら制作意欲ってまたどうかと思うしね。忙しいけどどうしても作りたいというところの欲化されたところで何とかして時間を作ってその中を有利に制作活動に時間を費やしてみたいな。
そうだね。これは僕ら本当に作る側の人なんでよくわかりますけど、やっぱり納期ありきで作った方がいいものができるパターンも本当にあって、やっぱり時間に差し迫られていろいろ力が出る場合もあるんで。
だからなんか創作ってなかなか複雑に出来上がってるマインドなのかなとは思うんですけど。
とはいえさっきの世相の話じゃないですけど、風潮としてはそういう時間が取れないがゆえに非常に鬱屈している人たちが周りにたくさんいて、もしかしたら僕もその一部なのかもしれないし、
本当だからみんな心のどっかにそういうものがあるのかもしれないんですけど、これをうまく暇っていうものを見つけてクリエイティブな方向に持っていければいいなっていう理想論だけど最後。
暇って本人が決めることじゃないですか、暇という定義が。だから社会に対して暇っていうことを、社会を暇っていうキーワードで語るのって難しい気もしますけどね。
要するにその状況を暇と思う人もいれば思わない人もいるっていう定義がちょっと揺れるというかね。
だから暇っていうのはあくまで客観的な定義だから。
暇をもう少し共通の説明で再定義してほしいですよね。みんなが同じ理解でその定義、暇というのは。
そうね。一般的に考えられてる暇ってどっちかというとネガティブじゃないですか。だからこの本はネガティブじゃないよっていうのを言ってる本なんですけど。
これちょっと前からこの話したかったんですけど、ずっと疑問に思ってて、子供の時とか学生の時ってどっちかというと頑張ってないアピールするじゃないですか。
頑張ってないアピールね。あるね。
試験当日に、俺全然勉強しなかったんだけど、でも実際。
めちゃくちゃやってるけどね。
大人になると急に忙しさの方をアピールするようになりますよね、人間って。
そうそうそう。3日寝てねとか。
そうそうそう。あれっていつから始まるのかなと思って。で、なんで大人になるとそっちをアピールするようになっていくのかなと思ったりはしてて。
36:05
忙しいアピール。
そうそうそう。だって学生の時忙しいアピールって逆にちょっとダサいみたいな感じじゃないですか。
そうだね。あるね。確かに。
普通に大人になると忙しい。
大人になるとそれはもう間違いない。100%それある。
ですよね。
すごい毎日レッドブル飲んじゃってる。
そうそう。あれはだからいつのタイミングでそうなるのかなと思って。
まあでもあれじゃない。それって実はすごい植え付けられてる感覚でさ。
やっぱその前提には忙しく動いてる自分がイケてる状態でそう見られたいっていうやつでしょ。それって。
そうそうそう。
だからでもそれがあれだよね。なんで若い頃、10代の頃とかは逆なのかっていう。確かにそこは。
僕はなんとなく10代の頃の感覚の方が正しい気がしてて。っていうのは大人になってなんでそういう風になるかって言ったら、
要は結果を出さなくても頑張ってる姿を見せることで価値が高められる世の中だからじゃないかなと思ったりするんですよ。
まあそう。すごい正論。
だからそれに順応してるんじゃないかなと思って人間って。
そうか。だからまあ本質的にめっちゃ頑張ってる人もそれを盾に俺頑張ってますっていうのが伝えられるっていうと、
あと頑張ってない奴も逆にいや俺頑張ってますっていうことで、お前頑張ってんのかみたいな。そこで障害られるというか。
例えば評価面談の前とかに頑張ってますって言った方が有利っぽい世の中じゃないですか。やっぱ。
そうですね。要は必死で向き合ってなんとかこなせてる人の方が評価されやすいっていうのがあるよね。そういう美徳はあるよね。働いてるやつが美しいみたいな。
それにやっぱり大人になって気づくんだろうと思ってた人は。
そうね。難しい。社会適応の一種と考えると言わされちゃってるところもあるしっていうのはあるよね。逆に日本社会で、別に頑張ってないけど結果出してるんでとかって言えると相当のやつじゃないですか。
でも確かに高校生の頃いたのよ。そういうタイプ。バイトしてるときにね。全然別に大丈夫ですけどみたいな。やっときますよ。もう3分くらいで終わるんでみたいな。
全然サボってるようでできちゃってるやつみたいな。そういうやつがかっけえみたいな。それはそれでいろいろあるんだけど。
でも僕はそっちでいたいってずっと大人になってからもね。だからあんまり忙しそうにしてる姿見せたくない。だから忙しいって自分で言いたくないっていうのもあるんですけど。
いやでもなんかこれ結構奥行かしい話だよね。これだから難しいよね。削除されてるって思われるダサさってあるじゃないですか。
そうそうそう。
あいつブラック企業ですげえ疲弊してるわーみたいな。そう思われたくないっていうあの感じ。
39:03
だから例えばそういうブラックな環境で働いてるとかっていうことを外に言った時に、だったらどうにかしたらいいじゃんってなるだけだから。
いずれにしても客観的なやつ。客観的なやつじゃなくて主観的になれるといいなみたいな思って。
言わされてるにしろ言うにしても、構造の中でそう見えてることが正しいからそう振る舞ってるっていうのは、
僕の中で想像性とは結構逆の世界観で、やっぱり自分の主観としてどうかっていうところで見れていくといいなと思うから。
それで言うとこの本が言ってるように、ある種の自分の感覚としてそれが本当に退屈なのか暇なのかっていう感覚。
それが見極められてて、やっぱりその創作に繋がるような感覚っていうのができていくといいなというふうに思ってて。
だからすごい難しいんですけど、この理想論だから。東映ね、いろいろ考え方を変えていかなきゃいけない時代にも来てるからさ。
やっぱり暇の時間を最終的にはたくさん持つことが大事だと僕は思うんですけど、例えば忙しくしてる人がそういうふうになるために時間を作るためには、まず自分がそういうふうに暇の時間を作っていこうっていう気持ちになっていかなきゃいけないと思うんですよね。
そこの方が大事な気はしますね。
いや、そうだと思う、本当に。だからさっき言ってた、その搾取されてる構造で、実はその構造に適応しちゃってる人もいるのよ。
この本も言ってるんだけど、人間ってすごい適応能力が高いから、できちゃってる状態になっちゃうと、それでいいやってなっちゃうんですってやっぱり。
だから結局それが結局、さっきそしゃげやってて、あ、俺暇潰せてるわ、楽しいわっていう状態で適応できちゃうから。
このコロナ禍でもそうですけど、適応できたじゃないですか、なんだかんだ。結構適応能力高いんで、そう思っちゃうんですけど、今たださんがおっしゃってられた通り、それそうじゃなくて、本当に自分で作っていくっていうところをしないと、適応しちゃうから、人間の能力として。
だから優れた技術作品みたいなところで言えば、日常生活の中で普通に働いてるような人が時間を作って作品を作るってことは相当ハードル高いし、
よっぽどの熱意がないとできないわけですよ。だからこそそういう人が何とかして時間を作って作品を作って活躍していくっていうのはある気はするから。
社会が暇を容易には作れない構造だからこそっていうのもある気もする。
そうねそうね。難しいよねそこはね。だからこそ限られた才能がある人が生まれやすいっていうのはね確かに。
僕もこれ勉強不足で知りたいんですけど、日本だと江戸時代とか平和な元禄文化とか和製文化とかあの時って優れた技術作品がたくさん生まれてるじゃないですか。
そうですね。
あの時の平和というか安定というのはどういう意味での安定なのかを知りたくて。
42:04
でもちょっと今日僕1個エピソード持ってきたのは江戸前寿司が生まれたエピソードが面白くて。
寿司ってさもともとさ別々だったの魚と飯が別々で。忙しい漁師のために一緒にまとめて食わせるようにつって。
団子みたいにして。おにぎりくらいでかかったらしいんだけど寿司って。作ったつって。でも当の寿司屋めちゃくちゃ暇だったんだよね。
暇すぎて何回かこねくり回してなって。これを下にしようかなとか。これもうちょっとサイズをでかい方がいいんじゃないかとか。
いろいろ鯖1匹いくかみたいな。相当練って最終的にあの形にいったっていう感じで。
時間っていう意味で言うとだいぶ今よりはすごい緩やかな時間の流れ方してたんじゃないかなと。そういう中で生まれるもの。
あと中世時代とルネサンスもそうですからね。基本的には。人々がもう色濃い沙汰にまみれて。肉欲にまみれて。
そんなことしかすることなかったからみたいな時代にああいう芸術が復興したっていうところはあるんで。
それが本当に身も心も安定して悩み事がない世の中だったからこそそうなったのか。反動からの心の安らぎがそういう風になっているのかを知りたくて。
これちょっとこれ僕のあれなんだけど。時間なんだけど。それしかやることなかったんじゃないかと思って。暇すぎるっていう。
そこで僕知りたいのが、暇すぎた時に魂の入った芸術作品ってどれほどできるのかなって知りたいんだよずっと。
これもうちょっと僕ひとつなんだけど。熱意がないパターンもある。だから本当に片手間でやっちゃう人もやっぱ中に。
だからダビンジとかそうですよね。ああいう人もいるし。あれはもう本当に巧みのある天才だからってあるんですけど。
なるほど。だから熱意がなくてもいい芸術作品が生まれるっていう見方もできるってことですね。
個人的には熱意があった方がいいとは思うんだけど。
なるほど。それはちょっと新しい視点です僕にとっては。
でも当然時代性とかもあるからね。そこはまあ難しいんだけど。
なるほどね。
ただ本当に芸術家になりたくて芸術やってない奴の芸術が評価される時代もやっぱ。
なるほどね。それは面白いですね。
あとなんか結構文芸作品を生み出してる人って僕結構暇人だと思ってるんですよ。
あのダザイとかもそうですけど。なんかそのやっぱああいう人ってさ、なんかわかんないけどなんか生み出す時あるんだよね。本当に。
ただ暇って言ってもトーニーはめちゃめちゃ描いてるから実際は忙しいのよ。
だからそれがだからその暇っていうのがめちゃくちゃ心が荒んでいて精神的には追い詰められてるんだけど時間はめっちゃあるっていうタイプのある種の暇もあるし。
あるね。あるある。
本当に満たされている暇もあるじゃないですか。
あるある。
それがどっちなのかは知りたいんです僕は。
あのね、それで言うとね、この本で言うとちょっとこれ厳密にちょっと深く惚れてるんだけど、いわゆるその有感層、有感クラスって言って漫画であるじゃないですか。有感クラブみたいな。
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なんかいわゆるその超金持ちのブルジョワの中の人たちのドラマみたいな描いてる漫画があるんですけど。
有感クラスの人ってその芸術に対する超暇人なんですよ。ちなみにもう全く仕事してないんで。全部何もしないでお金入ってくる。
だから超暇なんだけど、芸術に対してのその欲求っていうのが、いわゆる時間があるんで。
だからそういうことを学んだりとか、あとは買い付けてそれをパトロンになって誰かに売ったりとかさ、そういうことをやってたりする。
結局だから暇人がその芸術を支えてるっていうのは事実として背景としてあるんだけど。
そいつは何かを生み出してるっていうよりは、どっちかというとそういう人たちがそういう文化を啓蒙してたりとかしてて。
だからお金持ちの、いわゆるその有感層と言われるレベルまでいくと、相当逆にそのクリエイティブに関してもすごいセンシティブだったりするところもあるし。
なんかその僕らでちょっと想像できないような結構ね、そういうお金の使い方もできるんで。ちょっとね、ちがいに比べられる話はないと思うんですけど。
そういう人たちがアンディ・ウォーホルじゃないですけど、なんかすごいさ、莫大ななんかその金をさ、若い優秀なアーティストに金をあげてて、
お前頑張れってやるとかさ、あってそれで成功していく場合もあるんだよね。だからそうね、難しいけどね。
なるほどね。そうか、まあいろんな、あれか、時代によっても社会によってもいろいろタイプの。
そうそうそう。
やっぱり僕なんかはそのどっちかというとその、なんとかしてその時間を粘出して、しかも鬱屈した精神状態で、っていうパワーでこうなんとかものを作っていこうってやって頑張ってた人間だから。
なんかそういうね、芸術のスタイルっていうのは想像できなかったりするから。
まあ、ただあれですよ、それがいい芸術かどうかは別ですから。そういうスタイルの人もいるっていうだけだから。
まあでもその過去のね、その平和な時代がすごい知りたいなって思って。
まあちょっと今度その辺掘り下げてみましょうかね。なんかそれは面白いかもしれないね。
そうですね。
僕が聞いてる限りはその、そうね、確かにその江戸時代の話とルネサスの話はなんか結構聞くよね、その辺はね。
ちょっとだから掘り下げてもいいかもしれないっていう感じで、ちょっとでも1時間超えましたんでね、ちょっとこれピンチなんでちょっとこの辺にしておきましょうか。
すごいね、いい、やっぱね、やっぱ白熱したらこのままなんですよ。
いや良かったです本当に。
ありがとうございます。
盛り上げていただいて。はい、じゃあちょっとこの辺で聞いておきます。じゃあご視聴ありがとうございました。
ありがとうございました。
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