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2025-01-16 18:17

暇と退屈の倫理学を読んで考える「休み不要論」。

参考書籍:暇と退屈の倫理学

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サマリー

「暇と退屈の倫理学」の考察を通じて、休みの必要性が再評価されています。効率を追求した結果、現代社会の休みは生産性に根ざしており、真の休息とは何かを考えるきっかけが提供されます。このエピソードでは、休みの必要性や退屈とは何か、真の休息がどうあるべきかが探求されています。特に、生活と仕事の境界を曖昧にすることの重要性や、没頭することで得られる生き方について語られています。

哲学と休みの再評価
おはようございます、しゅうへいです。この番組では、1年後のあなたが楽になるヒントを、瀬戸内海の島から毎日有効とお届けしております。
はい、ということで今日はですね、哲学について話します。おい、しゅうへいが、あのしゅうへいが哲学について話すぞ、みたいなね。
なんか、身構えなくても大丈夫です。僕も難しい話はできないので。で、今更かもしれないんですけど、暇と退屈の倫理学という本をね、
読んでるんですよ。ほぼ読み終わりつつあるところなんですけど、オーディブルで聞いてますね。紙の本もね、またちょっと合わせて読みたいなと思うほど面白い本でした。
で、これ読まれた方も読まれてない方も多分ね、いろんな方がいらっしゃると思うんですが、これを読んで僕は思ったことはですね、
休みっていらないんじゃないかというような結論が自分の中で出たんですね。もちろんこれは変わりますよ。ただ今のところそういうふうに思ったんですよね。
で、なんでかっていうと、要するにこの本を読んだり、あとゴーワイルドっていう、ちょっとまた別のジャンルの本を読んだりとか、
あと一流の人の休み方だったかなっていう本もちょっと最近、フリーランスの学校の読書部でね、アウトプットがあって、いい本だなと思って買ってちょこっと読んだんですけど、
そのあたりの本をビャーって読んで、自分の感覚とともにそうなんですけど、いわゆるその労働者の休みっていうもの。
今ってまさに週休3日とか、とにかく働く人のワークライフバランスが大事だみたいな、世の中がそういうふうになってるじゃないですか。
なんだけど、この休みというものは結局やっぱ今も生産性を目的にした休みになってしまっているなと思ったんですよね。
この本の中でも書いてあるんですけど、フォーディズム、T型フォードってあるじゃないですか。
生産性と労働者の休み
フォードがめちゃめちゃ生産ラインを改良して、すごい安い価格で自動車っていうものをみんなの生活権に届けていった。
最初800ドルぐらいしてた自動車を何年かかけて290ドルとかまで安くしたっていうことですよ。
すごいよね。プリウスが今、例えば200万だったとしたら改良改良重ねてプリウスが50万ぐらいになったとか、もっとそれより安くなるみたいな。
だから本当に大衆車となってフォードは大成功したわけなんですけども。
そのときにも言われてたことが、まさに生産性を上げて、とにかく市場を拡大させて、いい車安い車を出していって。
そしたら労働者は売上が上がればボーナスも入るし、しっかり休みも取れるよねみたいなことで。
今言われてるようなことですよね。あまり変わってないような気がするんですよ。
でも休みっていうものの存在は、結局生産性のための休みなんですよね。
でも今もそうじゃないですか、割と。
要するに仕事の生産性を上げるために休もうみたいな。
いい仕事をする人はいい休み方をしてますよっていうようなものじゃないですか。
それもいいことなんで、休むことって大事だと思うから。
脳を休めるとか体を休めるとか。
でも100年くらい前からそういうふうに現場では言われてたわけですよ。
要するに労働者を酷使しまくってたら、労働者が倒れて生産性も悪くなるから休ませた方がいいよね。
これ本当に人間思いなのかどうなのかでちょっと分かんないよね。
結局今の週休2日か3日かとかフレックス制度とかいろいろ出てきてるけど、
それも本当に労働者のことを考えた休むことなのかとか。
結局会社から与えられた休みを、月から金曜日とか働いてストレスがビヤーって溜まったものを、
結局週末でだらだらして過ごして、休んだ気もならずにまた月曜日がスタートするみたいな。
日本が特にそういう休み方をしてしまってるのかもしれない。
それは一流の人の休み方の本に書いてました。
暇と退屈の意味
海外はどっちかというと、休養日、要するに体を休めるっていう日と教養に使うっていうことですね。
本を読んだりとかいろんな人と会ったりとか、趣味をするとか。
日本人は特に休日は一人でいたいとか、スマホ見てだらだらしてるみたいな過ごし方が多いらしいんですよ。
話を戻して、暇と退屈の倫理学を読んで、休みっていらないよねっていうことを何で思ったかっていうことなんですけど、
結局人間がこの暇と退屈を得てしまったのは、いわゆる定住生活を始めたからなんですよね。
誘導生活というか、いわゆる狩猟採集の世界から、要するにこの土地で農作物、じゃがいもとか豆とかトウモロコシとかお米とか育てていこうって言って、
それで、いわゆる食事をその日取らなくても何もしなくても貯蔵されたもので大丈夫っていう。
そういったところから、いわゆる貴族階級、勇敢階級ですよね。
勇敢というのは、いわゆる暇を持っている人たちですよ。
自分はお米作らなくてもいいし、労働しなくてもよくて、貴族のお茶、ティーパーティーに行ったりとかゴルフをしたりとか、高刈りに行ったりとかしながら、
本の中では、要するに貴族たちは暇をどう使うかっていうのを分かってた。
でも、そういう労働者階級の人たちも産業革命とかでバーって変わっていって、その人たちの休みも取らないといけないよね。
T型フォードみたいなリズムみたいな感じですけど、そこから労働者はいきなり暇を与えられて、その暇を持て余して退屈をしてしまうようになったと。
退屈したくないから何か消費をしたりとかして、何とか紛らわすというかね。
そういったものになって、でもその消費のためにまた働かないといけないとか。
そういう無限ループにはまっていってるよねみたいな、そういう話もあったんですよね。
そういうことを考えていたときに、じゃあそもそもその休みって何なのかってことだよね。
誘導生活から定住に行って、暇と退屈が生まれてしまったと。
これはもう宿命みたいなもんですよね。しょうがないよね。それは生まれてしまったもんだから。
でもそこからいわゆる僕らが今のような働き方ね。
くじごちとかで働くとか、フリーランスも基本的には一緒じゃないですか。
そういうふうになったときに、休みっていうものが用意されて、
でもそれは結局生産性を維持するための休みであり、そもそも本当に休みが必要だから休みとして用意されたものではないというか。
僕ら当たり前に土日休みとか、何日か働いたら休みを取ろうねとか言うけど、
でもそれって本当にカレンダーで土日だったりとか、月水が休みですとか、
そういうものって必要なのかなっていうことなんですよ、ライフスタイルの中に。
だから今はどっちかというと、休みを取りましょう取りましょうみたいな世の中じゃないですか。
逆な気がするんだよね、多分これからの世界って。
いや、そもそも休みってなんだっけっていうこと。
それは今たぶん農業とか漁業とかしてる人たちを見るとすごく分かりやすいなと思っていて、
堺とか基本毎日海とか畑とか出てるよね。
僕らの周りに住んでる島の人たちもあんま休みみたいなの持ってる感じがしないんだよ、特に農家の人たちとか。
毎日そこに行って様子を見たりとかしてると。
それはさ、次の生き方を表してるような気がするんですよね。
僕もフリーランスになって会社も作って大体独立して6年7年経ちますけど、休んでないんだよね。
休んでないっていうのは要するにいわゆる土日が休みですよとか、
フリーランスだけど土日は働いて水で休みを取ろうとかそういうのもないし、
夏休みっていうのもないし、正月休みっていうのは別に儲けてないんですよね。
僕の周りイケハさんとかもそういうタイプの人が多い。
これを確かにブラック化してる、セルフブラック化してるっていう風に見る人もいるんだけど、
多分イケハさん見たら分かるけど、幸せそうじゃないですか。
むしろイケハさんに1日全く何もしない日を作ってって言っても、あの人多分ボイシー取ってると思う。
だからボイシーはどこまで仕事なのかっていうのも難しいんだよこの定義がね。
だけどなんかね僕もやっぱこのサラリーマンっていう働き方で、
とにかく休みが楽しみだった人間だからこそ思うんだけど、
別に今フリーランスになって会社自分でやってて、休みが楽しみっていう感覚があんまりないんだよね。
それよりも例えば今度1月の21日にあのイケハさんとアレコさんと本つまみ食いラジオ、
本つまラジオっていうのを始めるんですけど、その収録が楽しみだなとか。
でもそれってさ、確かに映像もちゃんと撮らないといけないし音声も気にしないといけないから、
仕事としての責任感もあるんだけど、別に昔の会社の上司みたいに緊張する相手でもないわけですよ。
イケハさんもそうですし、アレコさんしかりね。
それを聞いて誰かが喜んでくれたりとか、本買ってみましたとか読んでみましたとか、
次回が楽しみですって言われてる風景を思い浮かべるとすごく楽しみで、
なんかあれって思ったんですよね。
まさにこの暇と退屈の倫理学、いろいろこのもろもろね、
なんでその暇と退屈が生まれちゃったか、その定住生活から、
じゃあその貴族社会は勇敢階級でどういうふうに扱ったかで、
じゃあ労働者階級みたいな人たちはそれに対してどういうふうに適応していったかみたいな話がバーってあるんですよね。
いろんな理想とか考えたとか、自然状態の話とかもいろいろ出てきたりするんだけど、
あとファイトクラブの話とかも出てくる、大評価でそのくだりもね。
いろいろ出てくるんだけど、結果的に自分でこれおもろいなって思ったりとか、
いちいち好きかどうかも考えず、何かそれに対して没頭してるというか、
おもろいやりましょうとかこれやってみたいって思えてたらいい。
一日の決まった時間というか、一日の中でその割合があればいい。
生活することとは別ですよ。
だから寝てる時間とかお風呂に入ってる時間とか、その時間をもちろん思考したりしてるのかもしれないけど、
結構ね、振り返ってみたらずっと考えてるんですよね。
僕偉そうに言うわけじゃなくて、考えたくて考えてるみたいな。
だからこういう暇と退屈の倫理学も誰かに読めって言われたわけじゃなくて、
ちょっとドライブがてらなんか聞こうと思ったら出てきて、
これ面白そう、そういうの聞いた気がするな、どっかで見た気がするなと思って、
じゃあ読んでみようと思って読んでて。
僕らの今は世代というか、趣味を自分たちで決めれずに出てきたものを趣味講座みたいなので選んで、
それを好きみたいに言ってて、いやそれちょっとちゃうやろみたいなツッコミから入ってて、
いや確かにそうだなと思ったんですよね。
それで読み進めていったわけなんですけど。
だから、僕あんまね、そう思ったら退屈してるってことないなって思ったんだよね。
この本の中では暇と退屈をちゃんと分けていて、
暇っていうのはなんかごめんなさい、ちゃんと本に沿ってないかもしれないけど、
イメージとしては、暇という状態はいいものとされてるっていう感じかな。
退屈はどちらかというと暇と近いんだけど、
なんかそれはこう、良くないものというか、何かちょっと解決すべきものみたいな。
なんか伝わります。
暇人であることってディスられたり、
暇と退屈の違い
あいつ暇人だからあいついつでも連絡つくよとかって言われたりするけど、
今この資本主義の社会で暇人であることってものすごいことだよね。
ある意味その本当に貴族的な階級ではないかもしれないけども、
予定が詰まってないとかっていうのはすごいことじゃないですか。
それ難しいことだと思うんですよね。
どちらかというと退屈っていうのは、
働いてて結構パツパツで疲れてて、
心身ともに疲れてて、休日を無駄にしてしまうというか、
でも休日来ちゃったどうしよう何しよう、
でも外出ても疲れるし、趣味もないし、
友達連絡しても会っても話すのしんどいし、
パーティー行っても退屈するし、
みたいなまさにちょっとネガティブなイメージ。
だからちょっと細かい定義は本を読んでいただいたり、
調べていただいたらいいんですけど、
そう考えたら僕、暇ではあるけど退屈はしてないなと思ったんですよね。
じゃあ何でかなと思った。
じゃあ自分の会社員時代の休日を考えたら、
確かに退屈してた気がする。
思う思う。
せっかくの年だけど行くの退屈だなみたいな、
ゴロゴロすっかみたいな。
今ももちろんゴロゴロしてることはあるんだけど、
休みみたいなものがなくなったんですよね。
結局どう休むかみたいなところにまた戻ってくるんだけど、
どう休むかっていうこと自体も不要なんだと思うんだよね。
休みについて考えてる時点でちょっと違うというか、
没頭する生き方
それよりも仕事と生活の境界をすごく曖昧にしていくぐらいのことの方が、
もしかしたらこの先の働き方とか生き方の上では大事。
それはまさに動物になるみたいにこの本の中で言ってるんですよね。
動物になってそれに没頭している。
人間であることを忘れている瞬間みたいな感じ。
まさに猫のように生きるにつながってくるなと思ったんですよね。
まさにうちの瀬戸さんとかも、
いちいちたぶん毛づくろいグルーミングしてる時に、
グルーミング好きだわと思って、
いちいち何かと比べてやってるというか没頭してるんだよね。
僕と追いかけっことか隠れんぼとかするんですよ。
猫飼われてない方はびっくりすると思うけど、猫って結構遊ぶんだよね。
僕はトイレから帰ってきた時に物陰に隠れてて、
うわーって脅かすんですよ。
ほんとに不思議だよね。
なんであんなことしてるんだろうと思うけど、
たぶん、だから思う、瀬戸さん見た時に理由ないんだろうなって。
もちろん動物的な理由なんかあるかもしれないけど、
なんかほんとに段ボールとかで遊んでたりとか、
追いかけっこしてる時はもう没頭してる。
僕もなんかやっぱ没頭してるんだよね。
なんか、うわー瀬戸さん早いからここで逃げて、
こっちに行ったフリをしてここに隠れとこうとか、
音とか匂いでわかるかもしれないから、
ちょっとそっとしてみたいな。
で、やっぱりハッみたいなさ、びっくりしたりとか。
瀬戸さんもびっくりしてたりとか。
その瞬間、そう没頭してる。
だから子供たちがさ、
子供たちが僕らが子供時代に
缶蹴りとか鬼ごっことか氷鬼とかさ、
なんかしたじゃないですか。
あん時さ、他のこと考えてなくなかったですか。
もう鬼どこにいるんだろう。
缶誰か蹴ってくれとかさ。
没頭してたよね。
で、鬼ごっこしようって言った時に、
なんで鬼ごっこしたいの?好きだからなの?とかさ、
聞かないじゃないですか。
なんで缶蹴りがいいの?とかね。
いちいち言わないよね。
だから、でも大人はなぜかその、
じゃあ釣りに行こうとか。
なんで釣りなの?釣りおもろいの?とかさ。
えー、登山あんま大変じゃない?とかさ。
なんかもう、なんか違うよね。
多分それってまさにこう、
人生っていうか、なんか退屈してしまってるのかもしんない。
人間になりすぎてるというかね。
そうじゃなくて、
そこに本当に没頭するような感じで生きていくっていうのが、
猫のように生きるみたいな、もう何か、
理由もなくそれに没頭するっていう。
それは別にその対象は何でもいいわけですよね。
自分がこれおもろいなって思うものでいいわけ。
それをなんか、僕ら常にこう、
他の人の意見とか、
他の人が頑張っていること、好きなことに、
結構左右されてるけど、
いやでも、いっぱいあるわけじゃないですか。
誰かが登山がいいって言った時に、
じゃあ自分も登山がいいかもって。
今それ同じことをやってもいいんだけど、
同じ登山では別に他の山もあったりとかさ、
トレッキングとかさ、
佐々木さんがよく言うフラット登山とかもね、
いろいろあるわけで。
そう、別にウォーキングでもいいし、ランニングでもいいし。
僕の場合はやっぱ、
ランニングとかウォーキングはオーディブル聞いたりとか、
流れで聞いて、途中で止めて、
それについて思考するとか、
それと何かをつなげていくとか、
これボイシーで話したら面白いかもとかって、
考えていく時間にしてて。
それってじゃあ仕事なのかって言われると、
別に仕事でもないんですよね。
完全にじゃあ休みかって言われると、
別に休みってわけでもない。
そこの区切りすらないっていうこと。
だからもう、
そういうふうにずっと何かが続いていて、
いるっていうことが大事なのかなって思ったんです。
変に区切りを求めないみたいな。
ちょっとこれ働き方とは別だと思いますよ。
区切りを求めずに、
本業の仕事を家に持ち帰って、
ずっと区切りなく断片的にやっているというのは、
それはちょっとブラックすぎるので。
そうではなくて、
もうちょっと俯瞰で捉えたときの、
ライフスタイルというかワークスタイルというか、
休みがいるかどうかっていうのも、
そもそも休みいらないんじゃないかっていうね。
そういうふうに考えていたら。
自分自身の体験として、
ちょっと面白いなと思ったことがあったので、
今日はそういうふうにバラバラと話してみました。
結論みたいなものはあまり見えにくいというか、
休みが不要だっていうことではあるんだけども。
これを聞いているみんなの中ではどういうふうに感じましたか。
休みは結局生産性のための休みっていう感じが、
どうしても色濃く残っている気がするんですよね。
そこに対する違和感がすごくあったので、
今日はそういう話をしてみました。
今日も聞いていただいてありがとうございます。
この後も心地いい時間お過ごしください。
バイバイ。
18:17

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