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2022-06-07 1:16:54

BC039「現代のインターネット環境と退屈の哲学」

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今回は三冊の本を紹介しました。

* 『退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学 (集英社新書)』

* 『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』

* 『何もしない』

書誌情報はAmazonなどで確認してもらうとして、話の要旨をまとめておきます。

導入

なぜ「退屈」に注目するのか?

「どう生きるのか」とは、「どう時間を使うのか」にパラフレーズできる。そして現代では「有意義なこと」に時間を使ったほうが言い、という風潮がある。でも、はたして本当にそうなのだろうか。そんな天の邪鬼な観点から「退屈」に注目する。

一つの前提として、この社会は「資本主義」にどっぷり浸かっており、それ以外の社会をうまく想像できなくなっている、という点がある。ITツールやネットメディアは私たちに「環境」を提供してくれているが、それが「正しい」のか(あるいは適切なものなのか)は、判然としない。むしろ、あまり良くないのではないか、という懸念も多い。

その観点も含めて、退屈の哲学を用いて考えていきたい。

『退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学 (集英社新書)』

簡単にまとめれば、これまでの「退屈の哲学」を振り返りながら、現代に特有の「退屈」状況を考察し、その問題点を指摘する一冊。

ポイントは、退屈にいくつかの区分を設定したこと。

* 哲学の起源としての退屈

* 精神分析的退屈

* 政治的退屈

* 「創造的」退屈

* ネオリベラル的退屈

一番最後の」「ネオリベラル的退屈」は、著者が本書で設定した用語。その中核をなすのが「インターフェース」という概念。IT用語としては一般的だが、著者は「入り口(しかないもの)」という含意で用いている。人を誘い込む入り口でありながら、そこからはどこにもいくことができない。人はその場所に留まり続けることになる。

TwitterやYouTubeなどでも、特に何かを見たいわけではないのに、延々とスクロールしているときがある。そうしたとき、私たちはネオリベラル的退屈にはまりこんでいる。

その退屈は、実際は「手持ちぶさた」なわけではない。何かをしているし、ちょっと興奮もしている(ドーパミンが出ている)。しかし、深い満足感も納得感もそこにはなく、むしろ少しのいらだちや妬みが心に忍び込んでくる。それを解消するために、再び新しい投稿を求めてスクロールしたり、いらないものをスワイプで消したりしていく。

まさに現代的な「退屈」の在り方であり、そういう退屈に入り込んでいるとき、「退屈とは何か」「自分とは何か」「人生とは何か」という(哲学的な)問いに人は向き合うことがない。その意味でも、「どこにも出口がない」退屈である。

『暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)』

今回の中核をなす本で、面白いのでぜひ読んでいただきたい。

著者はさまざまな考察を繰り広げるが、一番のポイントはハイデッガーの退屈論を引き受けながらも、それをさらに展開させている部分。ただし、そこに至るまでに「退屈」に関する前提をいくつか押さえておく必要がある。

* 人類は最初移動していたが、途中から定住するようになった

* 移動する生活では毎日新しい風景に出会い、認知的処理を行わなければならなかったが、定住生活ではそれが不要になった

* つまり、定住生活では認知エネルギーが余ってしまう→退屈が感じられる

* 私たちは「退屈」を気晴らしでやり過ごそうとする

* 気晴らしは熱中できるものであれば何でも構わない(苦しいものであっても人は選択する)

* むしろ、楽しいものを選ぶためには訓練された能力が必要かもしれない

* かつての有閑階級はそうした能力を持っていた(暇はあるが退屈ではない生き方があった)

* そうした能力を持たない人は、苦しいものを選ぶしかなくなる

* ただ、どちらにせよどんな気晴らしも効果がない根源的な退屈がある

* 「なんとなく退屈だ」がそれだ

* それは根源的であるがゆえに気晴らしでやり過ごすことはできず、私たちはその問いに直面せざるを得なくなる

* そこから哲学的な思考が始まる

* だから、そうした退屈を通り抜けて決断せよ、それが人間が自由であることだとハイデッガーは言った

* しかし、著者はその点を問題視した上で、さらに退屈についての論を深めていく

ここからの展開が非常にスリリングである。環世界と人間の自由の話も面白いので通読されたし。

『何もしない』

時間の関係であまり取り上げられなかったが、本書も非常に面白く、「奇妙」な一冊。

「何もしない」というタイトルであるが、本当に何もしないことを(つまりサボタージュを)進めているわけではない。

ある種の「効果的」な行為を行わない、というくらいのニュアンス。結局のところ「効果的」とは、ある基準で測定可能な行為であり、そういう単純な行為は容易に資本主義にとらわれてしまう。だからこそ、「何もしない」。意義ある行為をしないことで、結果的に意義ある行為にたどり着く、というちょっと禅的な感じもある。

「生産性」ばかりを求めると、私たちは失敗する。考え方が単純化し、二項対立にとらわれてしまうからだ。だから、そこから距離をとる必要がある。

資本主義に投げやりになるのではなく、かといってそのゲームに従順になるわけでもない。資本主義の中にいながらも、その外を想像できるようになるために。



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サマリー

現代のインターネット環境と退屈の哲学について語る。『現代のインターネット環境と退屈の哲学』は、退屈の種類とその現代的な原因について議論し、暇と退屈の倫理学を構築することで幸福に至る道を探求する哲学書である。暇と退屈は別であり、現代の問題は暇なき退屈にある。人気哲学者のハイデガーは退屈を2つの形式に分類し、さらに第三の形式を提案している。退屈の原因は人間の認知エネルギーが余ることであり、定住することによって風景の変化が少なくなり、日常の繰り返しによって生じる。しかし、退屈を避けることはできないため、退屈と上手く付き合って生きていくことが重要であると本書は提案している。『現代のインターネット環境と退屈の哲学』では、退屈の捉え方を変えることや意味のある行動を取らない戦略について探求し、距離を取る在り方や拒絶による視点の変化を提示している。これらの方法を通じて、第三の空間に至ることができるだろう。

退屈の哲学とインターネット環境
面白かった本について語るポッドキャスト、ブックカタリスト、第39回の本日は、
現代のインターネット環境と退屈の哲学について語ります。
はい、よろしくお願いします。
はい、お願いします。今日はなんか、本のタイトルじゃないやつなんですね。
一応本のタイトル3冊、紹介するんで3冊並べてもいいんですけども、
以前3冊やった英語系、英語系新書、英語学習系新書の3冊をちょっとテイストが違うので、
あえてちょっとタイトルをつけてみたという感じです。
タイトルから推測するに、退屈の哲学というものをタイトルにしつつ、
その背景にあるインターネット環境というものが退屈を変えてしまったのではないかみたいなイメージですかね。
だいたいそういう感じで理解してもらったらいいと思います。
なぜ今、退屈の哲学ということを考えるか、
退屈なんてものを哲学で考える意義みたいなことを最初に提示したいんですけど、
結局私たちがどう生きるのかっていう問題って、
どのように時間を使うのかという問題にパラフレーズできると思うんですよ。
どう時間を使うのかっていうので、もちろん有意義な時間を使いたいっていうことの対立概念に退屈っていうのがあるんですけど、
本当にその二項対立の捉え方でいいのかなっていうのをちょっと今回考えてみたいなというところです。
あれですね、脱構築なわけですね、今回も。
そういうことですね。
今回3冊退屈系の本を紹介するんですけど、
その前に一旦前提というか確認しておきたいことが、
資本主義リアリズムと情報の濁流
我々は資本主義の社会に生きていますけども、
マーク・フィッシャーが言った資本主義リアリズム、
資本主義以外の世界、社会を想像できなくなっている状況にあると。
これは反対意見はあんまりない。
特に日本で生きている限り、資本主義以外の社会ってどんなものかなっていうのはイメージしにくいですし、
例えばSF作品であっても、そこで描かれる社会って大体資本主義なんですよね。
だから僕たちの身の回りの大抵が資本主義が空気のように存在しているというのがまず第一。
なんかね、個人的には資本主義以外の社会を想像できないという言葉すら想像できないぐらい、
資本主義が当たり前すぎるような気がして、
なんか中世とかでも資本主義だったように感じてしまうんですよね、うまく言えないと。
確かに。
マーク・フィッシャーが投げたのはそうなんですよ。
資本主義どのコードというよりも、資本主義という概念がもう僕たちの中のデファクトスタンダードになっているし、
ということは、そこから違う社会を描く能力すらも剥奪されているっていうことを彼は嘆いていたということだと思います。
第2に、つんどっこそが完全な読書術である本でも出てきましたけど、
情報の濁流というものがあって、情報の濁流っていうのはいろいろな意味合いがあるんですけど、
私たちに向かって大量の情報が送り込まれてくると。
しかもその情報は大体偏っていると、いろいろな意味で。
一つはカスタマイズされているという意味で、フィルターバブルであったりとか、あとは広告寄りとか、
そのように大量に流れてくるだけじゃなくて、ある偏りをもって情報が流れてくる社会に生きていると。
こういうところがまず話の前提で進めていきたいんですけど、
退屈の分類とネオリベラル的退屈
一番最初に退屈の哲学において考えたいのは、退屈とは何かっていう自問を自分に問うことを、
ゴリゴさんは仮に今まで生きてきた中でやったことがあります?
この1ヶ月とか2ヶ月っていうレベルでちょっと考えたことはあるんですけれども、
それ以外の40年以上を考えたこともないというか、退屈が悪であるという以上のことを考えたことがないですね。
なるほど。大抵はそうですよね。特に現代人、近代人、退屈っていうのは基本的にネガティブなニュアンスで捉えられて、
しかもそのことを疑ったこともないという状況がおそらくあるだろうと。
今回はその退屈とは何かについてちょっと考えている、ないしはそれに関連している本を3冊取り上げてみたいと思います。
ただし3冊は均等に取り上げるんじゃなくて、ちょっとバランスが違って、真ん中の本が一番ハイボリュームです。
残り2つは前後サンドイッチするものは補足的というか、より付き添い的なものでいきたい。
そうでないと時間のボリュームが合わないんで。
1冊目が終焉写真書で、退屈とポストトゥルース、SNSに搾取されないための哲学、マーク・キング・ウェルという方の本です。
今どきっぽいSNSに搾取されないみたいなのが見出しになってくるんですね。
そうですね。これは結構詩的なタイトルで、現代がI wish were here。
Iの過去形ね。
そこにいたらよかったのにっていうようなこと。
家庭法過去やから、実際はいないということになってるね。
だから私というものがその場所で喪失していることを嘆いているっていうのが現代、現のタイトルで。
だいぶ違うタイトルになってますけども。
さらに言うとね、言いたいだけの小ネタなんですけどね。
これピンクフロイドのWish you were hereを文字っているんだと思うんですよね。
それは知らなかった。
おそらくさらに言うと、その時代が高度経済成長を待った中でもあるので、
社会が希望に満ち溢れていた時代でもあったので、その辺りまで多分考えてるんじゃないかなと予想します。
なるほど。
著者のマーク・キングウェルさんがトロント大学の哲学家の教授で、
カナダとかで活躍されておられる方で、ポストトルースというので、
一応現代哲学が視野に入っているんですが、
本書はこれまでの哲学者の退屈に関する施策をたどりながら、
現代の哲学、退屈について考えると。
俺、実は次に紹介する本、暇と退屈の倫理学もほとんど同じ構造になってて、
名前が上がる哲学者も大体似てるんですけど、
どこを問題視しているのかの視座がちょっと違ってて、
この本のマーク・キングウェルは社会構造が悪いというか、問題がある。
人間性というのは一旦置いておいて、
社会が人間に対してこういう迫り方をしているのが問題だと大きくは言いたい。
社会が変われば変わり得るという言い方にもなるんですかね。
ただ、それはちょっと逆に絶望的だろうみたいな感じが、本書ではメッセージなんですけど、
暇と退屈の倫理学の国父先生は、もっと人間性、人間の中にある退屈というものを捉えて、
人間と退屈の関係をもう一回考え直そうという感じで、
社会も関係はあるけど、その本の中でもっと人間性そのものに向かっていくというところで、
過去の哲学者を探りながら、現代の退屈について考えるというところは似てるんですけど、
目指す地点は2冊だいぶ違うっていうのが大きなポイントでしょうね、これは。
あと、タイトルでちょっと気になって、あんまり知らなくて知りたいんですが、
ポストトゥルースっていうのはどういう概念なんですかね。
ポストトゥルースというのは、トゥルースという概念、つまり近代的な真実というものが一つあるという、
で、皆さんそこに向かって進んでいきましょうという、啓蒙思想的な考え方ですよね、大体は。
真実はそこにあるっていう哲学のかつて思われていたことに対して、その後。
ポストトゥルースは、ポストモダン以降ですね。
要するにポストモダンがある種の相対主義と見られて解釈された時に、
真実っていうのはそれぞれの人の心の中にあるっていうもの。
だから、絶対的な真実っていうのがないっていう状況を、基本的には悲観的に捉えるために使われる言葉ですね。
真実が変わってしまったポスト、後の時代の世界観という感じですかね。
ということですね。これは基本的にはポストトゥルースはあんまり良くない。
少なくとも、真っ当に学問をしている人にとってはあんまり良くない概念ですね。
それが当然問題だと言いたいわけですけども、その辺の諸々の話は今回は省きまして、
本章で紹介されている概念を2つだけ取り上げると、
まずね、著者は面白いんですけど、退屈っていうのをいくつかに分類するんですよ。
退屈を分類する。
そう。退屈っていうものがいくつかの形態というか、カテゴリーじゃないんですけど、いくつかのパターンに分かれられると。
それを5つ分類するんですね。
なんかあれですね、感情はできるだけ細かく分けてみようっていう。
それに近いかもしれへんけど。
でも、感情はどっちかというと、分割されるものは等価じゃないですか。
ある種だから、アウトライナーでいうと兄弟項目として習いますよね、基本的には。
うーん、なんだっけ、この前紹介した情動はこうして作られるだと、いろんな脳の成分があって、こういう時にはこういう感情なんじゃないっていう、名前を付けてあげると区別しやすくなる。
それに近いかな。
その退屈がいかに生成されるのかっていうことで分類、分類というかな、形態を分けているっていうのがこの退屈の区分で。
5つありまして、1つ目が哲学の起源としての退屈。
で、これは結局退屈ですることがない。
その時に考えますよね。
ギリシャの時代はおそらくそれで始まったんじゃないかっていう。
そういうふうに、例えばこの根源的に自分自身とは何だろうとか、生きているとは何だろうかっていう問いに向かう退屈っていうのがまず1つ目。
精神分析的哲学、哲学と退屈を間違えた退屈が2つ目で、これは自分の中にある欲望なり浄土なりが相反する状態にある時に生まれる退屈。
あれをしたいけどこれができないとか、その欲望のもつれている時に起こる退屈っていうのが2つ目の退屈。
学校に行っていて早く授業終わって帰れないかなって思っているのは精神分析的退屈。
そういうことね。でも帰らない方がいいという思っている自分もいるわけじゃないですか。
成績を良くするためとか内進点を守りたいからそこにいると思っている自分もいて、でも帰りたいと思っている自分もいて、そこに欲望のねじれがありますよね。
まっすぐ同じ方向向いてない。で、そういう時に生まれる退屈っていうのが2つ目の退屈。
で、3つ目の退屈が政治的退屈。で、政治的退屈っていうのは風向を思い出してもらったらいいんですけど、何かを正常とか異常とかって分けるっていうのは、
恣意的なものでしかないっていう話と一緒で、仕事というものとその余暇っていうのが分けられてしまう。
企業とか政治主題によって分けられてしまって、その余暇の中ででもすることがないみたいな状況が生まれてくる。
政治的によってここはあなたたち自由な時間ですよと勝手に決められて、そこででもすることがないという風な時間の使い方が分からないっていう風に、ある種の線引きによって生まれる退屈っていうのが政治的退屈。これが3つ目。
あの、あれですかね。今の日本の引退して仕事に燃え尽きてしまった老人が感じる退屈は割と政治的退屈みたいなやつ。
そうですね。本来別のことに使えるはずの時間であっても、その線引きされたことによってその時間の使い方をロストしてしまうような退屈。これはさっきの2つの退屈とはちょっと形態が違うという区分ですね。
なんか言われるとすげー違う気がして、興味深いですね、これは。
で、4つ目が創造的退屈って言って、これはさっきの引退した人にちょっと似てますけど、芸術家なんかがエネルギーを外に出したいけど出せないっていう時に感じる退屈。で、それが爆発すると芸術になっていくと。
それも退屈っていう概念なんだ。不満が溜まるとか。
不満っていう感じですね。で、ここまではよくある、いわたらこれまで行われてきた哲学における退屈の分類をまとめたものなんですけど、著者はそこに1個付け足すんですね。ネオリベラル的退屈っていうものを付け足すんですよ。これが面白い。
名前的にも面白そう。新自由主義な退屈。
現代的退屈
で、引用すると、それはアップグレードの支持、速度と満足に関する熱狂的な要求、そして幸福を台無しにする妬みによってあらゆる場所で悪化していると呼ばれる退屈。つまり、僕らがインターネットとかパソコンとかでどっぷり詰まっている時に、使っている時に感じる退屈であると。
おー、恐ろしい。あの、そしゃげでポチポチしている退屈はそういう感じ?
そういうことです。そういうことです。そういうものが現代の一番大きい退屈であって、現代ならではの退屈である。で、そういうさっき言った、そしゃげポチポチとか、ツイッターでずっとタイムラインを探してしまうみたいな。
というようなものを、そういうものを引き起こす者たち、SNSとかデータベースとかプラットフォームとかっていうのを、その一つのシステムとして、経営として見た時に、彼はそれをインターフェースとして名付けてるんですね。インターフェース。で、インターフェースって、説明じゃないですか。AとBの境界線にあるものじゃないですか。インターフェースって。
境目ですよね。確か日本語訳をすると。
それはだから、ある種AからBに向かう入り口じゃないですか。インターフェース。インターフェースは入り口なんですけど、彼の言うインターフェースは入り口しかない。入り口だけ。そこに入ってもどこにも行けない。ただ入り口があるというだけっていう意味でインターフェースと呼んでる。
悪い意味で使っているってことなんですね。
そう、悪い意味でかなり使ってます。この2つ、さっき言ったネオリベラル的退屈っていうものを現代に見出したのと、その原因となっているのがインターフェースというソースというか、1つの系システム。
要するにそれは僕たちが現代でテクノロジーでどっぷり使っているものの中で、ただ何も手に入れられないけども抜け出ることもできず、何かに操作はしているけども、でも満足は得られないがずっと繰り返されているっていうのがネオリベラル的退屈と。
ここがポイントなんですけど、僕らはネオリベラルのもとで自由な選択をしてSNSとかを使っているはずですよね。おそらくは。でも自分の満足は高めていないし、むしろ何かをロストしているような感覚になったりとか、さっき言ったネタ見によるネガティブな感情を抱え込んでしまうと。
そこで起きているのは何が問題なのかっていうと、それより以前の退屈っていうのは、まず自分っていうのがある。その自分が対象とかにうまくアクセスできないとか、あるいはその対象そのものをロストしてしまうような状況から生じているけども、彼が言うにはネオリベラル的退屈っていうのは主体であるその自己そのものが細分化されてしまう。
おだしょー 細分化されて一体化、その自己って呼べる大きなものが粉々に砕けて散ってしまうと。だから種類が違うんだと言いたいわけですね。
おだしょー 退屈の種類が全然違う。 ネオリベラル的はそもそもその退屈を感じる自己そのものが解体されてしまっていると。
おだしょー なんとなくイメージはつきます。自分が選んでやっているですらないような感覚というのは確かにあるし、本当の俺じゃないような気もするし、言ってみたら。なんか充実している感じがないというのはわかるような気がして。
おだしょー このリベラル的退屈はおそらく退屈を感じてないんですね。おそらくは。以前1から4までの退屈のようには退屈は感じていない。
おだしょー たぶんね、テレビを見るもそうだしパッチスローをやっているとかもそうだと思うんだけれども、割とマシーンになっているような。マシーンが意外と退屈じゃなくて適度にドーパミンが出てきてうまいこと回っているので、退屈ではないというのはわかります。
おだしょー だから、退屈を自覚してそれを対処して乗り越えるとか、退屈があるから、例えばさっき言った哲学的疑問にシフトするっていう変化が起こらないんですね。
おだしょー 昔の暇は暇だったから生きるってなんだろうみたいなことを考えたりもしてたけど、今はたぶん、そしゃげやりながら生きるってなんだろうはあんまり考えない気がする。
インターフェイスとネオリベラル的退屈
おだしょー だから、本来著者が言うように退屈っていうのは、実存の病、実存が抱えている病の兆候として現れてたと。でも今は退屈が表面化しないから、病にも気づけない。ただ目をそらし続けるだけでその場所に居続ける。
おだしょー そういう入り口しかないものがインターフェイス。だから入ってもどこにも行けないっていうのはそういう意味ですね。これまでの退屈は入ったら別の道に抜け出せたけど、今の退屈は入ったらもうそこで止まってしまうタイプの退屈が現代的にはある。
おだしょー それはやっぱりインターフェイスを提供しているような企業とかそれを要請する情報資本主義的なものが問題であろうと。で、あるからこそ一度成立したインフラ化してしまっているこういうシステムってなかなか変えられないと。だから変えるのは難しいだろうというぐらいのニュアンスで著者は捉えてます。
おだしょー 解決の糸口みたいなのが出てくるっていうわけではないんですかね。
おだしょー 考える力とか対話とか共通の話し合いができる場を作ればいいとは言ってありますけど、でも具体的なイメージはない。
おだしょー 簡単にできるものじゃなさそうっていうのはそもそもありますよね。
おだしょー そこでおそらく問題の指摘としてはほとんど真っ当でも、でも解決策に至る道としてはやや心もとないというのがこの本です。だから状況を認識してこれまでの哲学者の退屈を知るには良い本、ただし未来は描きにくいっていうのがちょっと物足りないところがこの一冊目の本です。
おだしょー タイトルに哲学ってついてるんだったら、哲学的には別に答えを出さなくてもいいから、答えを出さなくてもいいわけではないのか。社会の分析としてはすごく理にかなうというか、ああそうだなあっていうのはすげえ思いますね。
おだしょー 一応この本が先に読んどくとこれから紹介する本が読みやすいかなと思って紹介したんですけど、二冊目が今回のメイントピックで、暇と退屈の理理学。僕が持ってるのは情報版で、国母高一郎先生の本だ。これも哲学書なんですけど。
最近、新潮文庫が出てるんで、今読まれるんやったら文庫本を買われると良いと思います。で、暇と退屈の倫理学なんですね。おだしょー 哲学の中の細かい分野。
おだしょー はい。で、倫理学って何かっていうと、いかに生きるべきかを考える学問ですね。基本的には。何が良いかを決めるわけですから。倫理学っていうのは、人間がどう生きるべきかを考えるという目論びで。で、暇と退屈の倫理学を本書で体系だって説明するというよりも、本書を通して暇と退屈の倫理学を構築していこうっていうタイプの本ですね。
これも答えが書いてあるわけでは当然ないと。おだしょー 一応、答えは書いてあるんですけど、答えだけ言ってもあんまり意味がないっていうタイプの結論です。
おだしょー 一応、最終的には暇と退屈の倫理学っていうとこに至るんですけど、7章立てで1章から6章までのいろんな暇と退屈に関わる原理的考察を経て、最後に結論として暇と退屈の倫理学を打ち立てるっていう構成になってますね。
これって分厚い本ですか?おだしょー 結構分厚いですね。結構ボリュームあってパワーある感じなんですね。おだしょー ただ、めちゃめちゃ面白いです。読み出したら最後まですぐ読める。国文先生は文章が非常にお上手なんで、最後までスルスルと読めるし、最後まで読ませようっていう強い意思を感じますね。
箸折り読みは許さない。許さないはちょっと強いけど、読者を最初から最後まで読ませようという気概を感じる本ですね。簡単に内容を紹介すると、起点となるのがラッセル。哲学者ラッセルの幸福論があって、彼の幸福論の中にある話で、
おだしょー 例えば戦後、やけの原だった日本が復興に向かうという時に、そこに生きてた人たちはきっと活力にあふれていたでしょうと。対する現代は、もう社会をこれ以上復興するみたいな目標はロストしたと。だから、そこに社会に生きる若者っていうのはエネルギーを持っていく場所がないと。
さて、この両2つの若者を比べた時に、どちらが幸福かっていう話で、やることがある人たち、充実感を持って生きてる人たちが幸福だとするんだったら、社会が不幸な方がいいということになってしまわないかと。
もっと言えば、社会をずっと不幸にしておけば、そこに生きてた人たちはずっと幸福っていう結論が出てくるのは、なんかおかしくないかっていう問題的から本章が始まります。
確か、公理主義の話をした時に同じような話が出てきましたよね。正義の話をしようのところだったかもしれない。
だから、これは非常に全うで、現代はどちらかというと豊か側にいるじゃないですか。豊か側にいて、その幸福っていうのをどう考えたらいいか。だから、基本的には幸福に至るためのこの暇と退屈の倫理学なんですね、基本的には。
幸福になるためのキーはひょっとしたらその暇と退屈が。
そういうことです。
どうにかすれば幸福に至れるんではないのかと。
少なくともさっきの状況の対比で言ったときに、その豊かになった社会で生きる人たちが幸福になるための考え方がまたきっとあるだろうということですよね。それを本書では考えていくと。
すごい、なんかこの時点で面白そうですね。
そうですね。僕たちがその豊かな社会に生きてて、豊かであるというのはどういうことかというと、金銭的な余裕と時間的な余裕があると。
それっていうのは結局何もしなくていい時間を得るということだと。つまり暇を得ると。
その暇な時間に何をするのかって言ったら基本的には自分にとって好きなことをすると。問題はその好きなことっていうのが本当にあなたがずっと望んでいて願っていてできなかったけどやりたいと思ってたことなのかどうかっていうまず疑問。
難しいですよね、それは。
少し前の社会学者、ジョン・ガルプレイスさんが、現代人っていうのはそもそも自分が何をしたいとか何を求めるかっていうのがわからなくなっていると。
例えば消費構造っていうのが普通はニーズがあってプロダクトが作られるけど、むしろ広告業界のおかげで欲望がプロダクトによって換気される形になっていると。
私たちは欲しいものを求めているというよりは作られたものを欲しがらされているという状況になっていると。
これはもう現代まで射程が伸びてまっとうなお話なんですけど。
例えば物を買うとかでもそうですし、休みのレジャーにどっかに行くみたいな話も基本的にコンテンツによってこれをしたいと思うようになってしまう。
それはもう好きなことなのかっていうまず疑問があるわけですね。
むずかしいですよね。好きなことは自分で見つけなければならないというのは事実かもしれないけれども、それを知る手段は何か、自分から出てくる人なんて稀ですよね。
だからそういう、現代は時間的な余裕とかがあっても、好きなことをしててもそれは自分が求めていることかどうかはよくわからないと。
これは結局、暇な時間、ないしは退屈な時っていうものの過ごし方を僕たちは知らないんだというところがまず確認されると。
そのことを遥か前にパスカルが言ってるわけですね。
人間の不幸っていうのは部屋でじっとしていられないがために起こると。
だから部屋でじっとできる人間は不幸なことに出会わないし、不幸にも感じない。
他人と比較することもないですし、運悪く事故に遭うこともほぼないわけじゃないですか。
だからある程度お金がある人はもう家でじっとしてたら不幸にはならないけど、でも大抵の人間はそんなことはできないと。
その事例としてウサギ狩りというのが例にあって、別に僕日本人はしないんですけど、たぶんイギリスとかはするんですかね、ウサギ狩りっていうの。狩りに出ると。
で、例えば貴族さんが狩りに出てウサギを狩るっていう行為をするわけですけど、狩りの目的っていうのはウサギを狩ることですよね。
おだしょー うん、ウサギを食べることではないですよね。
大平 問題はウサギが求めてるはずですけど、今から狩りに出る貴族に向かって、はいウサギですって渡したら彼は満足するかどうかなんですよね。
これはしないですよね。
だから結局彼が求めてるのはウサギを狩るというプロセスであって、ウサギというものではないと。
ロマン主義と退屈の関係
だから欲望の対象と欲望の原因がずれてるとバスから言うわけですよ。
対象と原因がずれている。
おだしょー つまり、退屈しのぎができるためにウサギを狙う。狙ってるその最中はウサギを狙ってるわけですけど、でも本当にウサギを欲しいわけではない。
ああ、そっか。狩りをしている最中の対象は完全にウサギだけれども、狩りをしようと思った原因は暇だったから。
おだしょー 暇だからっていう。だからウサギを得たら満足するというもんではないのは、さっき言ったように狩りをする前にウサギを与えても満足はしないっていう。
その原因と目的、対象がずれてるっていうことが気晴らしの行為なんですね。逆に言うと、そういう行為は熱中できなければならないと。
つまり、自分が暇やってることを忘れさせるぐらいのものではなければならない。逆に言うと、退屈している人間は熱中できるような対象、
あるいはさっき言った狩りって別に楽じゃないじゃないですか。例えばゲームとかも別に楽じゃないじゃないですか。
本気でやればやるほど楽じゃない。
おだしょー 例えばゴリラさんが惑星を開発するのも、どう考えても作業をしてるわけじゃないですか。
自ら進んで仕事をしてますからね。やらなくていい。
おだしょー パスカルから見たら、人が退屈する人間は、その退屈を解消するためにわざわざ自分から苦しみや負荷を求めるということになってると。
同じ話をラッセルも幸福論で分析してまして、ラッセルの定義はいいんですけど、
気晴らし的なものっていうのは苦しみであっても別にいいんですね。楽しみでもいいですし苦しみでもいい。
その間、自分が退屈な環境であることを忘れさせるものであれば何でもいいし、苦しみでも楽しみでもどちらでもいい。
苦しみの方が基本的に簡単に手に入るんですね。苦しいことっていうのは世の中には作業って大抵。
で、ラッセル曰く積極的に楽しさを求めるっていうのは難しいことだと。むしろそれは能力を開発して初めて得られるもの。
だからみんなそれをせずに苦しい作業の方に走って気晴らししてしまうと。
だから著者、ラッセルじゃなくてコブさんね、著者曰く問題はいかに楽しさを得るかっていうことじゃなくて、いかに楽しさを求められるようになるかだと。ここで問題を発揮させるんですね。
いかに楽しさを求められるようになるかが暇と退屈に立ち向かうために大事なこと。
そう、それを手にしないと人はどうしても苦しい方に行ってしまうと。
苦しいことで退屈を紛らわすのは良くないっていうのがまず秘書のスタンスとしてあるってわけですかね。
だからさっき言ったように良くはないですし、良くはないと多分そこまでは言ってないですけど、そうした方がいいという苦しさよりも楽しさの方がいいというニュアンスはあります。
個人的な話で言うと、ちょっと思ったのが退屈と苦しさはまずイコールではないというのは結構重要なことのような気がして。
その前提に立つと苦しさというものはネガティブな響きがあるんだけれども、実はあんまりネガティブじゃないんじゃないかって今の話を聞いていて感じて。
確かにあるね。
だとすると、ちょっと本に対する疑問なんですけど、幸福を求める場合に苦しくてもいいんじゃないかみたいなことをちょっと思ってしまって。
一応ラッセルの幸福論の結論として、幸福の秘訣っていうのはあなたの興味をできるだけ幅広くせよ。
そしてあなたの興味を引く人や物に対する反応を適意あるものじゃなくてできるだけ有効的なものにせよとラッセルは言ってるわけです。
これはおそらく全然正しいけど、著者は疑問に思うんですね。
例えばそういう今無力感に苛まれている人とかにこの言葉を言って果たしてそれで解決するのだろうかと。
それは難しいんじゃないかということで、さらに施策が進んでいきます。
今俺ラッセルの言葉を聞いて、おーすげー本当その通りだと思ったんだけど、ダメなんじゃない。
その言葉ではリーチしない人がいるんではないかというところですね。
それはでも確かにそうやなと思います。その言葉は確かに全く正しいと思うけど、届かない層もおそらくはいるだろう。
言われればわかります。そうだろうなっていう。
ここから全体的に人間と退屈の話になるんですけど、いくつかスベンセンっていう哲学者がいて、その人が退屈しているのはロマン主義のせいやと。
ロマン主義っていうのは啓蒙思想の後に来た考え方ですけど、簡単に言うと人生の充実を求めましょうみたいな。
人は人生で充実を求めましょうみたいなことを言うわけですね、その主義は。
ロマンチックな人生を送りましょうみたいな。
ただ問題はその人生の充実って誰にも何もわからないんですよね。
誰にも何もわからないから手に取りようがない。手に入りようがない。
だから主張としては充実しましょうって言ってるけど、でもそれに従っても充実は手にできない。
この虚しさが必ず発生すると。だからロマン主義を知ると人は退屈になる。
つまり本来は充実した人生を送るべきなのに、送れてない自分っていうのが落差として生まれてしまうので、これが退屈の原因になってるとスベンセンさんは言ったわけですね。
これより刑務所より前の人類っていうのは集団の中に生きてて、集団に意味を求めてたわけですよ。個人のせいっていうのは大したことではなかったと。
だから基本的には自分の人生をどうこう考える必要はなかったと。
でも人権宣言のうちに個人が従用されて自分の人生の意味を考えなければならない。
しかしさっき言ったように人生の充実っていうのはわからないと。全然何もわからないと。
だから平等になった時にどうなるかっていうと、基本的には周りの人と違う。ちょっといい暮らしをするとかっていう違いを求めるようになっていくっていうのが彼の分析。
暇と退屈の分析
そこでしか幸福を他人と比べることが一番簡単だから。
簡単っていう。
ついそこに行ってしまう。
だからロマン主義、個人主義の中で人は他人よりもほにゃららするっていう形で人生の充足をつい求めるようになってしまったっていうのが彼の分析。
わかる気がする。
もう一個面白いのがウィリエ・ヤム・モリスっていう人がいて、この人は共産主義者なんですけど、共産主義が全然到来していない時に、彼にとっては共産主義っていうのはほぼ運命に決定された。
到来が決定されたような出来事だったらしいんですよ、彼にとっては。
共産主義ってのはもう絶対来ると。
彼は考えたんですね。
共産主義になった社会で、人々は労働の時間以外をどうやって過ごすのかを、共産主義が来る前に考え始めたらしいんですよ。
革命が到達すれば私たちは自由と暇を得る。
そのとき大切なのはその生活をどうやって飾るかだと、彼はもう考えたんですね。
暇な時間がやってきたときに、人々は自分の生活を芸術的に飾ることができる社会っていうのが豊かな社会だと。
これは非常に資産的ですね。
だから僕たちも現代は機械化によってある程度暇な時間っていうのは手にしたと。
どう時間を使ったらいいかっていう資産を、もうモリスさんは考えたわけですね。
芸術的に生活を彩ることが暇の有効な時間の使い方だということを言ってたと。
もう一個これに似た話で、ベブレンっていう人がやりまして、漢字では勇敢って書いてある暇っていう勇敢階級っていうのがお金持ちですよね。
勇敢マダムという言葉がよく出てくるあれですね。
ヨーロッパの勇敢階級を分析した人なんですね。
国務さん曰くベブレンの勇敢階級理論っていうのはだいぶ突っ込みどころが多く破綻しているけども、彼の分析の中で唯一面白い、この論で役立つのが、勇敢階級の人たちは暇の過ごし方を知ってたと。
めっちゃ得意そうですね。
つまり、それ以前の人間は生きていくことに精一杯だったわけですよね、基本的には。
で、ある集団の中で、資産が大量にあってお金はあると。
で、そのお金がある人たちは、例えば召使いとかを雇って、でかい家をメンテナンスするわけですよね。
壺を磨いたりとか。で、明らかにその壺を磨くみたいなのは生活に必要ではないじゃないですか。
だからその生活に必要のないことをお金を払ってやらせるという形で、自分の金持ちさを保持してるわけですね。
でもそっか、結局やってることはそういうことでしか退屈は紛らわせてないんですね。他人に対しての優位に立つことでしか。
で、結局お金を持っている、つまり働かなくていい、私は暇であるっていうことを彼らは周りに向かって代々的に告知してたわけですね。
で、ある時期は召使いやったけど、ある時期の金持ちは今度は奥さんがすごい飾り立てるみたいな。
ということで、自分の暇さかげを告知してたわけですよ。
よくよく見ると、彼らは適切かどうかは別として、暇をいかに過ごすかを考えてた。
で、彼らの中には当然芸術に投資したりとか、自分で芸術の作品を買ったりとかもしていたと。
そういうふうに、彼らを真似することはできんけど、暇を持て余す術っていうのを持ってたと。
だから、暇と退屈っていうのを分けるんですね、とりあえず。分けたとして。
で、暇っていうのは客観的な指標。
つまり、その時間にやるべきことを持ち合わせてない状況。
だから、金持ちはみんな生きるために働く必要がないから暇なわけですよ。やるべきことがない。
で、退屈っていうのは主観的なもので、その時間をうまく過ごせない状況っていうことじゃないですか、退屈っていうのは。
だから、同じ状況であっても退屈な人もいれば退屈じゃない人もいる。これはだから、主観的なもと。
暇が客観的で退屈が主観的と分けた上で、有感階級の人たちは、暇ではあったけど退屈はしていなかったと著者は見出すわけです。
消費と退屈の悪循環
すごいな。暇と退屈は別か。確かにそう言われると、なんかいろんなものが開ける気がしますね。
だから、著者は曰く、暇であっても退屈にならない技術を身につけることが一つの道筋ではないかと、この辺で議題を立てるわけですね。
暇と退屈があるなしで言うと、マトリックスになるじゃないですか。あるあるなしなしあるなしある。
で、有感階級は暇ある退屈なしじゃないですか。暇ある退屈なし。で、今は、現代は暇なき退屈あり。
うん、分かる気がする。
で、こういうものが、この形態っていうのは、例えば、ここの本にはないですけど、たぶんブルシッドジョブと呼ばれてるものは、おそらく僕はこれだろうなと思うんですよ。
暇なき退屈。つまり、忙しく仕事はしてるけど空虚感しかないっていうのは退屈じゃないですか。
うんうんうん。現代の問題はまさにそれですね。
まさにそれですね。このブルシッドジョブとかもこれはたぶん結びつくだろうなと。
で、あの、著者はここで暇なき退屈っていうのが消費と退屈が悪循環するという状況を示唆してて、消費と浪費が分けられてまして。
で、浪費っていうのは、自分が受け取るもの以上のものを受け取るという形で、これは基本的に上限があるんですね。
で、例えばご飯を食べると。で、お腹いっぱい食べてしまう。普段の100%したら120%くらい食べてしまうっていうのが浪費。
で、消費っていうのはそれとは違って、人気のラーメン屋さんがあるからそれを食べに行こうと。
で、これはある種の栄養摂取というよりは飢餓を消費してるんであって、別のラーメン屋さんが人気になったらまた行くし、別のラーメン屋さんが人気になったらまた行くっていう風に再現がないと。
だから、消費をしてる限り終わりはないと。で、これはさっきのタイクスとポストスルースの話ですけど、僕らはインターフェースの中でずっと消費させられてるわけですよ。
だから、これは永遠に続いていくと。ここの分析で2つの話が、2つの本が接続します。
消費っていうと、必要な分を使うというイメージを持ってたんですけど、ここではそういうイメージではないってことなんですよね。
これ、カッコがついてて記号的消費っていうことの省略と思ってもらったらいいです。
ハイデガーの退屈分類
だから、必要なものを摂取するのではなくて、需要を生み出されてというニュアンスでもあるのか。
だいぶ前で、1回目か。ダーウィンエコノミー?
チーザイか。チーザイとしての消費っていうのとニュアンスが近いわけですね。
そっちの方は再現がないからずっと続く。それを記号的消費っていうのは情報的消費なわけで、
インターフェースの中で行われてるのは、もうわっきり消法的消費なわけだから、それはもう再現なく終わっていく。
僕たちは、マーク・キング・ウェイの話でいうと、インターフェースの中で暇なき退屈っていうのをずっと与えられているっていうふうに、おそらくは言えるでしょう。
ここまでの話がだいたい続いていくんですけど、本名がハイデガーなんですね。
一応著者としてはこのハイデガーが一番大きいところなんですが、まずハイデガーは退屈を2つに分類するんですね。
第一形式と第二形式に分類しますと。第一形式は分かりやすくて、何かによって退屈させられていること。
例としてハイデガーが挙げてるのが、どいなかの街で電車に乗るために駅に行ったら、1時間半待たされると。周りには何もないと。
ここの電車が来るまでの時間が、いわゆる第一形式の退屈。僕らが直感的にすぐ思いつく退屈ですよね。
この時間はだいたい、これも簡単に言うと、時間がぐずついてるとハイデガーは言うんですね。
つまり、すっと進んでくれないと。なかなか遅いと。
それによって僕たちの意識がそこに引き止められてしまうと。
時計をずっと見て、まだ5分しか経ってないみたいな風に、注意がその場に留まってしまう。
ボットみたいな熱中みたいなのが生まれずに、退屈をずっと感じると。
この状況は、自分が求めているものが環境から与えてくれない状態だと。
駅が楽しみのコンテンツを与えてくれないとか、
駅にとって1時間半待つ施設として準備されてないじゃないですか。
だから暇ですよね、基本的には。
そういう風に自分の期待と、ものが与えてくれるものとの不一致がある。
そういうのが退屈の第一形式であると。
そのうまいことを期待するのが得られないことを空虚状態とハイデガーは読んだと。
これが第一形式。
第二形式なんですけど、何かに際して退屈することが第二形式で。
例えば、パーティーに呼ばれてパーティーに出ましたと。
パーティーに出て周りの人と食事しながら喋っていると。
その話を聞きながら、例えば机を指でトントンしたりとか、便箒をゆすりしたりしている。
こういう時に感じているものを退屈の第二形式と。
この状態の時は、人ははっきりと明白には退屈には感じない。
でも、例えば家に帰った時とかに、そんなに充実感はなかったなっていうちょっとした空虚さを得てしまう。
これが退屈の第二形式。
これを分析すると、パーティーのどこが退屈やったかっていうのはわからないんですね。
でもなんとなく不満足はあったと。
その論理をどんどん考えると、そもそもパーティーが気晴らしだったんだと。
本来は多分。
パーティーが気晴らしで、そのパーティーに参加して、例えば周りと円滑に喋るじゃないですか。
気晴らしのパーティーの中で、うまいことを段取りして喋るという時に、自分がその場に合わせることで空虚になっていくと。
つまり、別にそれをやりたくてやってるわけじゃないですか。そのパーティーで気晴らしでいってるわけですから。
第三の形式の退屈
でもその気晴らしに順応しようとするたびに、自分の中がどんどん空虚になっていくっていう空虚さが退屈の第二形式にはあると。
これはだから、第一形式と第二形式が並列に並んでいるというよりは、第一形式より第二形式の方がより深い退屈だというふうにハイデ側は言ってると。
自ら進んで退屈を求めに行って退屈になってしまっているっていう印象ですね。
ここまでは二つはいいんですけど、第三の退屈の形式までハイデ側はリッチするんですけど、それはどんな退屈かというと、なんとなく退屈だって感じる。
雑。
例えば街を歩いていて、ふとなんとなく退屈だって感じる。
あると思うけどね、確かに。
これは特定の状況とか場とかに左右されない、より根源的な退屈だと彼は言うわけですよ。
一番厄介なのはそうかもしれない。
そうそうそうそう。
こういう退屈になると、人は今自分は退屈を感じているというその事実に直面せざるを得ないわけですね。
つまりパーティーを分析しても仕方がないし、駅を分析しても仕方がないわけじゃないですか。
だって突然何の脈々思いついてきたわけですから。
だからその時になって、ハイデ側は自分自身に、自分の注意が自分に向く、自分自身に引き止められるようなことが起こると。
で、初めて人はそこで自由になれるとハイデ側は言ってるんですね。
なんかあれですかね、本来的な生き方が見つかるみたいなやつですよね。
そこで初めて自分とは何かとか人生とは何かっていう問いに直面し、そこで答えを出すと。
で、ハイデ側が言うには、そういう状況になったら決断せよと。
自分の自由を行使せよということですね。
だからいろんなことが選べるから、自分は何であるとかっていうことに答えを出して、その答えに沿って行動せよとハイデ側は結んでるわけですよ。
で、著者はそれが不満なんですね。
著者はそれがなぜ不満かっていうと、その第三形式でグタグタ悩んで最後結論を出すと決定するとしたとしたら、
彼は決定したことに従わなければならない。
つまりそれはその時の決定の奴隷になってしまうことだと。
これは結局第一の退屈に帰ってくるんではないかという話なんですね。
自分で自由に決断をして、退屈なことを何をしようが自由だ、よしこれをしようって思った瞬間、これをしようって決めてしまったので他のことができないという退屈になってしまう。
そうそうそうそう。だからそれ以降自分の選択肢が消えて、
それは益という状況から過去にある時点の自分が決めた決定に置き換わった第一形式の退屈になってしまうんじゃないかと、
著者は疑問を提示するわけですね。
なんか、辞めればいいじゃんって思うんだけど。
そうですね、辞めればいいじゃんと思いますね。まさにそういうことです。
で、著者は曰く、だから第一と第三っていうのは確かに分けられるけど、三と一は循環的に繋がってると。
で、一の時にも三の決定後も結局人は考えてない。決定に従っているだけで自分の自由な行動ができてない。
むしろ第二形式、気晴らしにパーティーに出て周りとうまくやってるその状況が、実は退屈とうまく突き焼いている状況ではないかと論を展開させるんですね。
で、パーティーに行って暇だなって思ったっていうのは意外といい退屈の仕方なんじゃないか。
つまり、一つここで言えるのは、退屈っていうのは切り離せるものではないという認識があるわけですね。
そう、なくならない。どう頑張ったってなくならない。
そうそう、なくならない。で、なくならそうとしたら、ずっと夢中になってたらなくなるじゃないですか。
で、ずっと夢中になっているのはある種の奴隷ということですよね。状況の奴隷ということ。
しかも、自分が気づいていない奴隷だから立ちが悪い。
ということで、そういうところに行くときがあるにしても、むしろ日常の大半は第二形式のちょっと退屈でもそれなりにやっていける状況なのではないかと。
だから、調査にしたら1と3っていうのはかなり極端な状況なんですね。で、2が日常に近いっていう認識。
人間の自由さとカン世界
あー、そう。どちらかというと退屈というものに対する見方を変えろみたいなことですかね。
そうですね。だからハイデガーは第3こそ解決だって言ったんですけど、調査は戻って、いや、実は第二の在り方の方が人間らしいんではないかということを言いたいと。
なんかあれですね。これまでの時代の力強いやつじゃなくて、もうちょっと柔軟な生き方っていう感じですね。
そうですね。で、結局その退屈っていうのはなぜ起こるのかっていうと、いうふうに人類史を探ってるわけですけど、
ごく簡単にまとめると、人間が定住し始めたからだと。
うんうんうん。
で、定住する前は移動するじゃないですか。移動するということは新しい地形とか情報に出会うわけですよね。
つまりそういうのに対処する認知能力が脳に備わったと。ただ、定住すると風景は変わらないわけじゃないですか。
というか日常は繰り返しですよね。これはだから認知エネルギーが余ってしまう状況だと。
あー、じゃあもう遺伝子変わらない限りダメなんだ。
僕らが定住しているこの状況において認知エネルギーが余るっていうことによる退屈を感じるってことはもう絶対に避けられないという話なんで。
だから退屈ってのはまずあると。あるという上で、どう付き合えばいいのかっていうと、
決断してそこから一切考えなくなって夢中になって生きていくだけの人生じゃなくて、退屈とうまいこと付き合って周りとやっていくその在り方ではないかというふうに話をまとめるというか広げるというわけですね。
これが僕は面白いなと思いました。
極端なことを言ってしまえば結局退屈は退屈だから諦めろっていう言い方にも取れるんですかね。
いやーでもまあちょっとそこが論が深いところで。
上回っているような気はするんだけれども。
で、ハイデガーが第三の形式にこだわったっていうのは、さっき言ったように自分自身に対して問いかけできるからっていう。
それが結局自由だからっていうことだったんですけど、ハイデガーの中ではそれをできるのは人間だけやと。
人間だけがそういう自由を持ってて、トカゲはそんな自由を持ってないっていう考え方ですね。
ハイデガーはあの時代の極端な人ですから、それはいいんですけど。
著者はカン世界っていう考え方を持ち出してハイデガーに反論してるんです。
カン世界、カンっていうのは輪っかの輪。
環境のカン。回るっていう意味ですかね。
ウンベルトというらしいんですけど。
人間の知覚やと、全ての生物とかは同じ世界に生きてるという感じがありますけど、
例えば動物とかは受け取る光の波長とか音の高さとかが人間とは違うじゃないですか。
動物によっては温かいと冷たいが分かるけど、そのとかは全然わからないみたいな。
そういう風に環境から受け取って、それを知覚するその状況そのものが動物によって違うということは、
生きている世界がそもそも異なると捉えるっていうのがカン世界っていう考え方なんですね。
人間の自由さっていうのは何かっていうと、
このカン世界を移動できる力の大きさやっていう話に著者はなっていくんですね。
例えば難しいですけど、人間は猿がどんな風に生きてるかをなんとなく想像できますよね。
なんとなくなら。
人間同士だったらもうちょっと想像できますし、人間近いとかあるいは鳥とかもなんとなく想像できますけど、
でも逆にトカゲは人間がどう生きてるか多分想像しにくいと思うんですよ。
こういう風にこのカン世界を超えられる力、別のカン世界へと移動できる力がある種の自由であって、
しかもそれが人間を他の生物とやや違うところに置いている能力の高さだと。
人間の他の動物との違いで一番重要なのはカン世界を移動できる能力。
移動できる力。で、カン世界が移動できるから人は退屈を感じてしまうと。
つまりここじゃない世界を想像できてしまうから退屈を感じると。
だからここの世界しかなかったら没頭するしかないじゃないですか。
例えばトカゲは多分ずっと没頭してますよね。周りから入ってくる情報に対して反応するだけなので。
だからやっぱりあれですよね。無駄な能力がついて余計なことを考えられるようになってしまったから退屈というものを感じられるようになってしまった。
それがコミュニケーション能力につながっていると思うんだけど、退屈というのはそういう能力として出てくると。
だからカン世界能力の高さを生かそうという、あるっていうことを認めて、ある時は一つの世界に没頭したらいいし、そうじゃない時はカン世界を移動する能力を使っていったらいいと。
というふうにハイデガーの考え方をバージョンアップしているのが著者の考え方です。
退屈の捉え方
退屈に際して、まず一つは退屈であることは人間にとって避けられないものであると。それはおそらく多分遺伝子的にそうだと。
そうですね。
その上でどんな生き方をしてても、まあまあ退屈を感じないことはおそらくない。
100%ずっと熱中している状態というものがもし仮にできたとしても、それは退屈じゃないかもしれないけど、その熱中の奴隷になっている。
ある程度退屈を認めることは、まず退屈と付き合うために重要なことだと。
その上でカン世界を移動すると、退屈との付き合い方というのがいまいちつながらなかったというか、自分の中で。
普通の言葉遣いと逆なんですけど、何かに熱中すること、没頭することは動物的に動物になることって言ってるんですよね。
わかる気がします。言われるとそうな感じはする。
そうじゃない状況が人間的であることということなんですね。
だから人間的であることをありつつも時々は動物的になっていこうというふうに主張していると。
だからカン世界能力を捨てるわけでもなく、それだけでもないという2つの人間の知性の使い方を、もっとバリエーションを持って受け取ろうということですね。
割と全般的に捉え方を変えようというニュアンスなんですかね。退屈というものに対して。
退屈を消そうとするんじゃなくて、退屈というものはむしろ捉え方を変えれば全然悪いことではない。
捉え方を変えるっていうことが非常に重要なことなんですけど、どうやって変えるかっていうと、これは本書を通読してって書いてるんですよ。
つまり、さっき僕が言ってきた哲学者の様々な議論がありますよね。
それを自分なりに読み通して、それをどう受け取るかを自分でなりに発見すること。
そこが鍵である。
めっちゃ難しいことだよ。
だから、僕が今言ったまとめっていうのは、本当に1ページ目をなぞっただけで話であって、これを聞いても何の意味もない。
大して意味はなくて、本書の議論を通じて、さっき言った退屈とは何かっていう自己認識。
自分の中である認識を変貌させることが重要であるというのが、本書の一番面白いところで難しいところですね。
答えを言ってしまったら、答えじゃないってことなのかな。
だから、本書の目指した答えはまとめられるけど、こういうところが足りてないみたいなツッコミは基本的には意味がないっていう話ですね。
結局、世界の捉え方を変わらない限り、退屈の捉え方が変わらない。
変わらない。その捉え方を変えるために、いろんな論術を読んでいって、自分なりに考えましょうっていうことが言われてるんで。
だから、読むしかない。その効果を求めるのであれば、読むしかないというところ。
一回読んだだけじゃ、わかる気がしないような感じもしますね。
ある絶対的に退屈から解放される方法というのがなくて、それぞれの人が自分の人生において、退屈とどう付き合うかを発見するしかないってことかな。
そのヒント、発見するための目線の変え方みたいなヒントが本に書かれている。
それをちゃんと論術を送っていきましょうっていうところがポイント。
一つの別の方針としては、消費と浪費の話で、浪費っていうのは贅沢だと。
消費が贅沢って思われますけど、実は浪費こそが贅沢だよ。
贅沢を取り戻そうと。贅沢っていうのは何かっていうと、例えば100均に行ってたくさん物を買ってきて、家に物があることはこれは贅沢ではないと。
そうじゃなくて、一品物の何かとか、手作りの何かとか、芸術品とかっていうものを持つこと。これが贅沢であると。
だから生活の中にある種の芸術性、でもこれはアートとしてというよりは日常生活の中でそういう非マスプロダクトのものかな。
それはマスプロダクトだけじゃなくてマス情報みたいなのも多分含むと思うんですけど、っていうのを入れていこうっていうのが一応本書のメッセージになっています。
ブックカタリストの、多分前アフタートークで喋ってた話だと思うんですけど、例えば長野県の山の上の宿に集まって2泊3日、本を読むことしかしない旅行。
観光一切せず、外出せず、飲み会もせず、ただ本を読むと飯を食うしかしない旅行みたいなのっていうのは、割と贅沢な浪費という捉え方になるんですかね。
なると思いますね。やっぱり一番最初に出てきて楽しむためには訓練が必要だっていうことを改めて考える必要があって、
読書会をして思うんですけど、ああそういう楽しみ方があるんだっていう発見があるんですよ。
楽しむということは制徳的なものでは結構なくて、自分で得られるものは少ないから結構他社から学べることが多い。
だから読書に限らず生活のある側面での楽しみ方っていうものがあって、それを学んでいけば楽しむことは増えていくし、ある種退屈っていうのも形を変えていくだろうと。
少なくとも暇のない退屈っていうものからはおそらく解放される、近寄りたくなくなってくるみたいな変化は多分あるんじゃない。
これは別に本書の話じゃなくて僕の考えですけど、いうところがあるんじゃないかなと思います。
それはあるかもですね。
だから退屈をどう捉えるかっていうのは、個々人が考えてもらったらいいんですけど、楽しむための能力を増やすっていう目指す方向。
自分の中でそれを取り入れたりとか、例えばこういう情報発信でいいかな。
情報発信とかで楽しみ方を広げていくっていうのは、ある種のアンチインタフェースなものなのかなという感じがあります。
そうですね。情報発信だって時間効率で言ったらいいわけじゃないですからね、おそらく。
で、しかもこの僕を語る人も長々としゃべるわけじゃないですか。これは時間を贅沢に使ってるわけじゃないですか。これは間違いなく。
1時間本読めばそういうことできますからね。
でもそこに何かがあるわけですね、きっと。そういう効率とかでは測れない、ある種の何かがあるっていうことは多分言えるんじゃないですかね、きっと。
やっぱ思うのが、効率化は絶対浪費には繋がらないですからね。
効率化は消費をいかに最適化するかみたいな話ですからね、基本的には。
浪費って言葉をちょっと考え方を根本的に変えないといけないんだけど。
贅沢でいいと思う。贅沢するっていう言い方でいいと思う。
そうか、贅沢な時間の使い方と効率化は真逆ですからね。
だから、やっぱり効率化をするっていう言い方は、ある指標に自分の生活を従わせるってことだから、やっぱり良くないよね、それは。単純化されてしまうし。
100%否定するものではだとは言えないけれども、効率化しない方がいいことは思っている以上に多いんじゃないかなっていうのが自分の思うところですかね。
うん、確かに。それはあると思います。
で、もうほぼジョニー・オデルさんの何もしないっていうタイトルなので、さっきの話を引き継ぐと、効果のあることをしない、意義のあることをしない。
効能に最適化された行動をしないっていうぐらいかな。
だから、行動はするんやけど、いわゆる現代社会で定められている意味とか目的には従わないっていうことかな。
最大コスパで生きるのをやめろみたいな。
ということは、簡単に言うとそういうことです。それをキャッチに何もしないと言ってあると。
距離を取る在り方
いくつか面白い話があるんですけど、2つだけ言うと、1つの何もしない方針として、距離を取るっていう在り方。
距離を取るっていうのはどういう在り方かっていうと、完全に離れるわけでもなく、かといって内部にどっぷり浸かるわけでもなく、
ある程度距離を置いて、例えば自分がそこにいたらどうするだろうかというのを考える。
部外者の視点を保ち続けるっていうのが、距離を取るというスタンス。
これ話を聞くと、あずまさんの観光客っていう考え方にすごく似てるなと思ったんですけど、
例えばデジタルデトックスとかってあるじゃないですか。
でも本当にデジタル機器を全く使わない生活をしたとしてですよ。
例えば現代社会において、その人はそれでいいかもしれないけど、現代社会に起きる問題を何か解決できるかって言うと多分できないんですよね、それは。
だからちょっと距離を置いて、そういう状況がどうなっているかを見るとか、そういうふうにある一定ラインのディスタンスを持つ。
完全に知らんぷりするわけでもなく、どっぷり浸かるわけでもないスタンスで物事を捉えるっていうのが、何もしない戦略の一つのスタンスっていうふうに語られてます。
もう一個は拒絶っていう、その場での拒絶っていうのがありまして、ディオゲネスっていう古代の哲学者がいまして。
樽の人ですか?
正解です。樽に入ってて、アレキサンダー・ダイオータが前に来た時に、
何してほしいって。
そう言われたら、火が邪魔だからちょっとどいてくださいって答えたっていう、ちょっと風刺的な生き方をした人ですね。
彼はだから、でも属性のあり方を嫌ってはいたものの、街中に住んでたわけですよ。
で、一応その王にもある程度の敬意を持ってしゃべるけど、その王の権力には従わなかったわけですね。
これはだから、さっきの距離を取るにも似てるんですけど、そのAかBかっていう二択とは違う選択肢を取ったわけですね、彼は。
王に従うか、王に歯向かうかっていうのとは違う選択肢を取ったっていう。
これが、僕は二項対立の手前で考えるやり方やなとは思ったんですけど、
著者が言うと、そういう視点とか疑問を持つことが第三の空間に至るための方法だと。
で、第三の空間って何かってあんまり説明はされてないんですけど、要するにだから、物事の基準を複雑化させようってことですね、要するに。
で、例えば、大書人パートルピーっていう作品がありまして、これも話すと長いんですけど、ある大書人代わりに文章を書く人のヘルパーとして雇われた人がいて、
その人に仕事をしてくれって頼むと、しないって言うんじゃなくて、しない方がよろしいんですって答えるらしいんですよ。
これだから、問いずらしてますよね、なんか答えを。で、その作品では、どんなことを頼んでもしない方がよろしいんですって言われ続けて、
で、結局、最初は、なんかしない方がいい理由があるんじゃないかなって雇った人を考えるんですね。
でも、結局どんなに考えても答えが出ずに、頭がちょっとおかしくなってきたからもうその人は雇うのをやめるんですけど、
そのしない方がよろしいんですっていう答える態度?
この、なんていうのかな、いいえとは言わない拒絶?
を突きつけることによって、その二項対立を自明に思っている人に対して考えの変化を起こすっていうのが、その場での拒絶っていう方法論なんですけど、
真似するのは難しいと思うんですけど、これはね、ちょっと面白いなと。
問いの視点をずらして答えるっていうのは、案外その二項対立と立ち向かう上で結構有用じゃないかなと個人的には思った次第です。
なんか、現代思想的っていうか、悪く言えばはぐらかして何とかしようとするなと思うんですけど。
だから、考えてる人が当たり前と思っている自明の構造を揺り動かす答え方をするってことですね。
だから、お前を間違ってるんですって言うと、それはそこで関係が終わってしまうわけですから、そうじゃないあり方で相手の存在を認めながらも、なんか違う方向性があることを示すっていうことが一つの方法論かなっていうふうに本書を読みながら思ってました。
何もしないなんで、一応暇とは関係あって、デジタルデトックスの話とかも出てくるんですけど、要するに今僕たちが直面しているインターネットとかさっき言ったインターフェースっていうものとの距離も、やっぱり全然使わなかったらええっていうもんではないなとは思うわけですよ。
現代のインターネット環境と退屈の哲学
実際使ってません。だから、かといってそれを当たり前ものとして、ゼとしてするのもおそらく違うでしょうから、なんかそのような距離の取り方っていうのを本書から学んだかなっていう感じです。
あの、ディオゲネスの樽の人の話がなんかいろんなことを象徴している感じですね。全てを拒否する拒絶するわけではないんだけれども、俺は俺の生き方をしていて、でも俺のは俺の生き方とか言いながら都会に住んどいて何言っとんじゃっていう突っ込みどころもあるんだけれども。
そうあったほうがいい。だからやっぱりその森とか離れで住んでる人の方が決断してる感じがするじゃないですか。でもやっぱりさっき言ったように第三形式なんで、それはやっぱりそこは。第三形式に陥ってるように見える。
自由だって言って、森に行ってしまったら、今度もう森から出れなくなって。
街で住むという選択肢を失ってるわけですかね、その人は。逆に言うと。なのでやっぱりそこを留まるための第二形式のあり方っていう。第1と第3を絶対適用しない考え方っていうのが、ある種の脱構築として働くんかなっていう感じとして受け取りました。
三冊でしかも2冊かなり掛け合わせでしたけど、とりあえず真ん中の暇と退屈の倫理学はこれめちゃくちゃ面白いんで、文庫本案でぜひ読んでください。
面白そうですね。しかし難しそうだなって思ったけど。
でもやっぱり他の哲学書に比べるとずいぶん読みやすいですね。
ジャンルとしてはやっぱり哲学書ですよね。
そうですそうです。
で、出てくる人も言ったらラッセル、パスカル、スベンセンは哲学者ではないか。
だいたい有名どころですね。ショクエハウアとキルケゴールも出てきて、この辺の人たちがだいたいこれまで暇とか退屈について論じてたらしいです。
で、やっぱり2冊のともに同じ名前が出てくるんで、これは系譜なんだなっていうのは確認できましたね。
そうですね。いわゆる哲学の歴史で幸福とかそういう話出てこないですもんね。
そうですね。
カントも幸福論とか言ってたはずなのに、歴史を読んだら全く出てこないし、ラッセルも出てこないしっていう感じですね。
そうですね。これ結構重要なことですね。日常どう生きるか、暇とどう付き合うのかっていうのは、僕たちある種の自由人になったわけですから、
勇敢、勇敢とまではいかなくて、ある程度暇を持てるようになった家電製品のおかげで日常生活にもある程度時間を確保できるようになった現代人だからこそ、
しかもその集団に意味を見出すんじゃなくて、個人に意味を見出さざるを得ない生だからこそ、時間をどう使うのか、あるいはロマン主義的なものがもたらす欠落感みたいなものとどう付き合うのかっていうのは
改めて考えておいたほうがいいテーマかなっていう気はします。
今だからこそですよね。退屈に耐えられなくなったっていうか、うちの息子が世代間の断絶みたいな言い方をするのはあれなんですけど、やっぱりなんとなく印象として5分の暇が耐えられないっていう印象はあるんですよね。
それは結局インターフェースにどんどん引き込まれてしまう兆候ですからね。結構危ないですね。
個人とか社会とか世代とかそういうもののせいにはしたくないし、あくまでも俺から見た印象というだけなので、ただ時代の傾向としてはそういうものは現れているだろうなと思うし、
自分もちょっと昔を思い返して駅で3分暇だとスマホを取り出すし。
分かりますよ。それは非常によく分かります。僕もエスカレーターとかエレベーター乗った瞬間にツイッター開きますからね。病気やなって思いましたからね、ある時。
一応それを意識して、例えば自分の場合iPhoneでツイッターのアプリは消したんですよね。代わりに暗記アプリを開こうと思って。
概念として身につけたのが、情報が増えないツールをインターネットにつながってはいるんだけれども、情報が勝手に増えないツールをできるだけスマホでは使うようにしようというのを意識していたりして。
こういうのも結局デジタルデトックスから言うと非常に中途半端ですけど、これぐらいが日常的に妥当かなという。人によってLINEの定規をあるにしよう。それなりの付き合い方を自分自身で見つけていくっていうところが妥当な方法でしょうね、きっと。
そうですね。スマホを持たずに外に出てしまうと、今は電車乗れねえし買い物できないし。
確かに。
10年前ですらそんなことはなかったですからね。
そうですね、確かに。
財布持たずに出ることはあるけれども、スマホ持たずに出ることはもうちょっと困ってできないし。そこを退屈のために使ってしまうのも、退屈を持て余すことはやっぱり。
そうですね、退屈であることは幸福ではおそらくなさそうですからね。退屈を感じてしまう。
だからさっきの話で言うと、駅の待ち時間とかにも鉄道マニアの人だったら全然暇しないと思うんですよ。それは駅を楽しむ心構えができてるからですよね。
だからそういう心構えが増えたらもちろんいいわけで、楽しむ訓練をいろんなところにしていけばいいと。
それは結局そういうことをしても一線のとこにもならないからこそ資本主義にとらわれないで済むっていうことは言えるんじゃないですかね、きっと。
あとはやっぱり暇だから退屈にならないというか、暇の方が退屈にならないとやっぱり不思議な感触はあって、都会の忙しさはやっぱり退屈を許してくれない。違う違う、暇を許してくれないから退屈になってしまう。
暇と退屈への向き合い方
うんうんうん、確かに。
なんかやっぱり難しくって答えは出ないですけれども、なんかやっぱり読んで考えることはいっぱいありそうですね。
これはね、早読み読んどきゃよかった系の本でしたね。
それはそう言われると読んでみようかな、ですね。
はい、ということで、感想や質問などがあれば、ハッシュタグ、カタカナでブックカタリストをつけてツイッターでつぶやいていただけると、ゴリゴとクラッシュなんか確認して紹介しようと思います。
それでは今回もお聞きいただきありがとうございました。
ありがとうございます。
01:16:54

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