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  2. #25 自分に点数をつけて評価す..
2024-05-10 14:03

#25 自分に点数をつけて評価するのをやめる、ということ

自分に点数をつけて、一喜一憂するのを止めるようにした。

その結果、少しずつ気持ちが楽になっていったお話。

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あ、そうだ、ブログを探しに行ってくれたじゃないですか、減点方式と加点方式の話ですね。
そうそう、やっとそれで思い出したんですけど、何かするときはいつも達成しなきゃいけなくて、ミスをしたら原点するっていう、そういう考え方をついしがちで、その結果、自分を追い込んでしまうな、みたいなことを気づいたから、
上手くできたこととか、成長を加点方式できちんと認めていきたいっていうことを去年話してたんですよね。去年、そうですね、去年ですね。
で、今年になって気づいたことは、でも何かそれって結局加点方式に切り替えたとしても、プラスはいいことで頑張ってプラスを求めて、マイナスはダメで避けるべきことだっていう、そこのとらわれからは結局抜けてないな、みたいなことに気づいたので、
今としては加点方式ができるようになったというよりは、原点方式を止められるようになったっていうか、そもそもその点数をつけるっていう行為自体を減らすことで、楽になってきたっていうか、前提を変えたみたいなところっていうのがあるなってことに気づいたっていうのが、この1年間でしたっていう話ですね。
なるほど、いっぺんにできるというよりは、まずは原点か、加点しすぎか原点しすぎかのどっちかにやってる人が何かをそれに気づくところが最初ですもんね、やっちゃってるなって。
ちょっと収まったがゆえに加点の方に思考が持っていかれちゃってるのも、ちょっとずつまた抜け始めてるかなっていうことなんですかね。
原点でもなく、加点でもなく、自分はどうなってれば限りずのときにあれなんですか、心地いいというかベストな感じなんですか。
これがいいとか悪いとかっていう判断を下すんじゃなくて、それが自分にとって楽しいかどうかとか、自分が心地よいかどうかみたいなところになっていくのかなみたいなことは思いますね。
例えばたくさんの人にいいねが付いたから評価されてよかった、だからプラスだみたいなのとかじゃなくて、自分が別に評価とかに関わらずその時間を自分が楽しく過ごせたらOKだし、
過ごせなかったら過ごせなかったで何かそういう理由あったよねって言って、次からもっと楽しく過ごせるといいのかもしれないねぐらいの感じで過ごせるといいのかなって。
ちょっと今僕聞いてて思ったのが、これ難しいなと思ったところがですね、原点方式、自分はあれもできなかったこれもできなかったって思って、
自分の悪いところを100点からどんどん切り崩していった結果何も残らなくなった自分に対してすごくしょんぼりしちゃうっていうのをやってても仕方がないというかそれより進まないと思うので、
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あれができたねこれができたねってできるようになったもの、今の自分が30点とか20点だってことを認めた上で、
じゃあそれが30点になったことを喜ぶためにもその何の10点を手に入れにいくかっていうのを見つけて、
それができた、今回1回を通していつもが20点だったところをあえて気をつけることによって30点に持っていくことができたっていうのは、
加点方式でも自分を見て今までの自分よりもいいところにいったって思ってるんですけど、
じゃあこの考え自体は何でしょうね、何か目標を達成するためには絶対建設的だと思います、
けど結局その枠の中にいるからまたちょっと軸から外れてないから苦しさは常に実は20点から30点になっていることを喜んだり確認して実感しつつも、
実はあまりうまく回ってないのかなみたいなことを。
そうですね、まさにそうだと思います。
だからこそその点数をつけるみたいなところで、できた、できなかったみたいなところで一騎一遊するっていうところから離れるっていうのが多分いいのかなって気づいたって感じですかね。
難しいんですけどね、やっぱりどうしたって喜んだりとか落ち込んだりはあるから。
でも瞬間的にやったとかダメだったみたいなのがあっても、それに引きずられなくなったみたいなのっていうのはあるかもしれない。
あとはそれと自分自身の価値とかそういうものを結びつけるのをやめたというか。
今だと影織さんって絵を描き始めてなんか楽しいなって思うことが増えたみたいな話をしてたじゃないですか。
その中で自分が前よりもなんかちょっとコツがわかってきたなーとかこれ楽しいなって思う瞬間と、なんかここがうまく描けなかったなっていう瞬間と、絵ってやっぱ目の前でどんどん出来上がるので、
うまくいかなかったところを描きながらここどう描いていいかわからないところとか、なんかモヤモヤとしたりとかすることもあって、
いろんなものが凝縮されたものが目の前にポンと出来上がると思うんですよね。
出来たところ、出来なかったところ。
最終的にじゃあそこの出来たこと出来ないところをカウントするぐらいだったら出来上がったものを見て、
ニヤニヤ出来てればもうじゃあそこで切り上げていいんじゃないって、それで自分は十分楽しかったしっていうのを続けていく。
ここで切り上げれるみたいな感じなんですかね。
そうですね。なんかそこと、なんかだからお前はダメなんだとか、そういうところを結びつけないっていうところなのかな。
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なんかだからお前はなんか欠けているとか。
なるほどね。
確かに絵自体はバランスが悪いとかあるんですよ。
でもなんかだからといって、だからお前が悪いってならないだろうみたいな感じ。
で、そんな風に自分の価値とか自分自身と絵っていうのを切り分けると、絵のダメなところ、ダメってあえて言いますけど、
その例えばバランスが悪いとかパースが狂ってるみたいなところも冷静に見て、
ここが狂ってるんだったら次は直そうっていう風に。
ただただそこが悪いからここを直そうみたいな事実として受け取れるので、
そのそこに対してのネガティブ感情とかがっつり紐づかなくなるっていう感じなのかなって思うんですよね。
また描けなかったからもうなんかもっと頑張らなきゃいけないとか、
なんでいつも私はできないんだとかっていう風に、
そういうマイナスの苦しみの気持ちと、できなかったとかうまく描けなかったっていう事実をくっつけないっていう。
おー、まあ難しいんだろうなーっていう。
なんか色々的にだいぶそういう悪いところを一個一個潰していこうみたいなルートから、
今の自分のやつよりも昨日よりも、
今日はちょっとだけ成長したらそれでオッケーだと思うからみたいな流れが増えてきて、
それが良いみたいな流れになってる。
確かにそれはすごい良い事だし、着実に今の自分の状態を自分に高望みしてたりとか、
期待値上げすぎてだからがっかりしちゃうとかっていうのもなくなってくるから、
良い方向ではあるんですけど、
それを目指そうとするっていう軸にいる事自体が割と点数っていう概念から逃げれなくなってしまってるので、
楽しむっていう事で楽しい事さえやってれば、
いずれそこから何かしらプラス次の一歩に行く。
飽きてくるのもそうだし、楽しくてまた新しく発見したものに触れる事によって、
次の一歩、どっちでも次の一歩に行くと思うので、
そこまで自分を採点して、だからこうっていうのを入れてしまう自分は実は必要ないよねとか、
入れてしまう事自体に何か問題があったよねみたいなのに、
気付けたら本当はOK、気付く事が本当は一番理想的っていう事なんですかね。
なんか点数を付ける事自体は別に良いと思うんですよ。
それと、それが悪いっていう低い点数だから悪くてダメでがっかりでみたいな、
そういう気持ちとネガティブな思いとか、感情とかと避けるべきだとかっていう、
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そういう思考と紐づいちゃってるのが良くなくて、
今の絵は例えば30点とか60点とか120点みたいな感じに付ける分には良くって、
でもそこに対してこだわらないというか、
それはあくまで次に自分がもっと自分の目指すものを描きたいっていうものの指標として、
僕だけでこのパーツバランスが悪いとかっていう、
そういう情報を手に入れるためにあくまで点数を付けるというだけで、
それに対して感情を上げ下げするために付けるわけじゃないっていうか、
そこと感情を切り離すって言ってなんか難しいけど、
そういう態度で良いのかなって思うんですよね。
お湯あるじゃないですか、水あって水が例えば100度に沸騰するとして、
別に100度に沸騰しても水が30度でも0度でも別に悲しくないじゃないですか。
はいはい、そうですね。
そういう感じ、今の自分の絵の点数を例えば付けて、
それが100点だろうが60点だろうが30点だろうが、
すごい嬉しくないしすごい悲しくないし、
お湯の温度みたいな感じで、
今の状態をあくまで表しているだけの数値だっていう風に捉えるっていう感じかな、
伝わりますかね。
今その話を聞いてて僕は、よく聞く単語だったら
どっちでもいい状態っていうのがそこに存在してるのと、
あと報酬ですよね、終わったことによって
多分じゃあ自分がこれで100点を取れたら何かに近づくはずだとか、
60点だったから何かから遠のいてしまったとかっていう感覚は、
その先にあるゴールへの近づき云々具合みたいなのを見てしまってるので、
実際もう描いてる時間とか描き終わったそこが到達点であって、
それ以上のものは存在しないっていうのが多分一番いい形なはずなんですよ。
その後に起きるパースとか見直してみたらパースが狂ってるとかっていうのは、
あくまで記号であって次回以降の何か思い出す時。
そうですね、うんうん、そう。
緑茶入れるのに80度の温度がいいと思うんです、また水の話をするんですけど、
でも今実際に沸き上がったものは30度だったって言ったら、
じゃあ次は80度を目指した方がきっと美味しいお茶になるだろうしな、
美味しいお茶飲みたいしなって言って、
じゃあ次は80度にするかみたいな感じで、
じゃあ80度にするにはもうちょっと加熱した方がいいな、
どう加熱したら30度、80度に上げられるだろうって考えるっていう感じで、
別にそれを何か、あ、30度、ああ、みたいな感じにならないっていうところなのかな。
30度、残り50度分上げなかったことによって何か大きい罰がやってくるなり、
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何か大きいデメリットが発生すると思ってるけど、
実際そこで発生するデメリットは自分がお茶を飲みたいっていう感情を叶えれた時点で、
一応給代点は取ってるわけじゃないですか、30度のお湯で。
もっと美味しいお茶飲みたいなはプラスからもっとプラプラの方にいったというか、
マイナスにいくことじゃないはずなんですね、通常だったらそこって。
そうですね、水出しで飲んだけど今度はお湯で出したの飲みたいな、
そういう感じじゃないですかね。
減る必要が本来ないんですもんね、そこには。
0点以上だったらプラスなんですよね、やった時点で0点以上なので。
そしてそのプラスに対しても無理やりそのプラスを見出そうとかっていう風に、
不自然にしなくてもいいっていう感じなのかな。
それも結局プラスであってほしいとかプラスでなきゃいけないとか、
プラスを見つけなきゃいけないとかしなくても、
目の前にあるそのものが事実としてあっておしまいっていう感じで、
そこにどういう感情を乗せるかは実は自分で選べるし、
あえて感情を乗せなくて、よしじゃあ次行こうみたいなのでもいいしっていう。
そこの下手にこだわりというか囚われみたいなのをなくしていけるといいよなーみたいな。
難しいけどね。
難しいなー。
もうちょっと喋ってもいいですか、長いけど。
もっと喋りましょう、はいどうぞどうぞ。
僕この話を聞いてて、最近始めたマージャンの話なんですけど、
マージャンってルールが。
また次回も聞いてね。フォローも待ってます。
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