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スピーカー 1
綿紙や毛糸編んで伸縮性のある繊維に仕立てたものなんだよね。
1932年に東洋メリヤスっていう会社を設立して、日本本土から製品を仕入れて台湾で販売するっていう事業を起こしたんだよね。
これが大成功して、日本からの仕入れの重要性も増してきたんで、大阪に移り住んで、1933年に大阪に日東商会を設立するんだよね。
その傍らね、立命館大学経営学科で学ぶっていうこともしていて、
その他にもね、彼はこれからいろんな授業をしていくんだけども、この時授業の計画をしていたのがヒマシアブラに注目をしていったんだよね。
スピーカー 2
ヒマシアブラ?
スピーカー 1
ヒマシアブラ、あんまり聞かないよね。
ヒマっていうあの東大草科の植物なんだよね。
スピーカー 2
なんでわかんねえ。
スピーカー 1
そっから取れるのがヒマシアブラで、当時ね、飛行機の巡航衛に使われる重要なものだったらしいんだよね。
そのヒマっていう植物からは、葉っぱもあってさ、それがね、カイコの餌にもできるっていうのが研究して分かって、
そのカイコから取れる糸を織物にして、さらに販売するっていう計画も立てたんだよね。
この計画がね、大手の三井物産とか、当時その大見献子宝石っていう企業が賛同していって、
会社を設立するところまでいったんだけども、時代が大東亜戦争に突入していく時期で、
戦時体制下で自由に商売ができなくなって中止になっちゃうんだよね。
それでも彼はね、諦めずに、今度はさ、戦時中、軍需産業が拡大して急激な需要が起こったんだよね。
軍需工場ではさ、徴用で借り出された素人コインばかり働くようになってきて、
彼らに工場での作業を教えるのに、当時あの幻灯器っていうのを使ってたんだよね。
幻灯器ってその画像をスクリーンに大きく映し出す装置で、今でいうプロジェクターみたいなもんかな。
その幻灯器の需要に注目して事業を起こしてるんだよね。
他にもね、軍需会社の川西航空機の下請けでエンジン部品などを製造する工場を共同経営して、
この会社は下請けなんだけども、一応軍需工場ってことで資材は国から支給される緩急品だったんだよね。
この事業の中である日ね、安藤がその資材の一部がごっそり消えてることに気づいたんだよね。
警察に相談すると、憲兵隊のところへ行くようにって言われて、憲兵隊に事情を話すと、安藤自身が逆に疑われて留置所に入れられてしまうんだよね。
その留置所で1ヶ月半もの間、拷問を受け続けて、梱包で殴られたりとか腹を蹴られたりとか、
正座した足の間に竹の棒を入れて締め上げられたりとか、すごい酷い目に遭うんだよね。
食事も汚れた食器に麦飯と漬物だけっていう粗末なもので、最初はとてもじゃないけど食べる気にもなれなくて、数日間後、絶食したんだよね。
ただね、飢えが襲ってきて、その食事も食べられるようになって、その時彼は食の大事さを痛感したって言ってるんだよね。
そもそもなぜ彼がこんな目に遭ったかっていうと、これね後でわかったことなんだけど、その共同経営してた人が実は応領してたんだよね。
しかも憲兵隊の人と裏でつながっていたっていうことで、彼は悲惨な目に遭ったんだよね。
結局先に留置所から出所する人がいて、その人に安藤が昔からの知り合いだった井上元陸軍中将にこの現状を伝えてくれるようにお願いして、それが伝わって釈放されることになったんだよね。
ただもう釈放された時は自力で歩けないほど弱ってて、病院でその後長期の療養生活を送ることになったんだよね。
その後、戦争がどんどん激化していく中で、安藤は大阪が空襲が激しくなってきたから家族とともに兵庫県の上郷に疎開してるんだよね。
ここでも彼は何と起業をしていて、例えば炭焼き事業を起こしていて、燃料の少なかったこの時代に目をつけて25ヘクタールの山を買って木を切って一山を炭焼きにするっていう事業を行ったんだよね。
他にもね、戦災にあった人たちのために3坪ほどのバラック住宅を製造する事業を行って、
初めから企画された柱とか壁材を現地で組み立てるっていう、現在のプレハブ住宅の走りなんじゃないかって本人が言ってたけども、そういうことをしてるんだよね。
スピーカー 1
で、その戦時中にね、彼は関西の在海人が集まる大阪のクラブの受付所のマサコさんに一目惚れすんだよね。
それでね、結婚するっていうことになって、ね、受付所だよ。
スピーカー 2
うん。
いや、なに、そうなんすか。
小片郎の憧れってことね。
スピーカー 1
いやいや、俺はなんか受付所にはいつも受け付けられないから。
スピーカー 2
いやいやいや、どういうことだよ。
スピーカー 1
で、結婚したのはね、安藤がね、30代半ばの時で、これ1945年の3月の時だから、もう本当に終戦が近い頃だよね。
スピーカー 2
うん。
で、その後、まあ実際終戦になって、その翌日にね、大阪に行くんだよね。
スピーカー 1
うん。
で、大阪はもう、その時、空襲によってかなり焦土と化していて、地平の果てまで続くがれきの山で、大阪駅から南側の南端の辺りまで一望できたって言ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、道端にはね、もう焼けた遺体が散乱している状態で、そんな中、人々はこう、水豚とか雑炊が食べられればまだいい方で、芋のつるまで食べて、上をしのぐような、そんな生活をしてたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、それでも終戦から1年余り過ぎても、合社がこう、道端で倒れているっていうこともあって、まあそんな当時、阪急電鉄の梅田駅の裏手に一面焼け野原で、そこにね、闇市ができたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、安藤はね、冬の夜偶然そこを通りかかって、で、そこにね、2、30メートルの長い行列ができてて、その先にね、1軒のラーメン屋台があったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
人々はこう、寒さに震えながらさ、順番来るのを待っていて、で、彼はさ、寒い中、こんな長打の列、ね、待ってる人たちがいるっていうところに、大きな需要が暗示されているのを感じたって言ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そう。で、それからの彼はね、全てのこう、仕事を職にこう、転向するっていう決意を決めたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、彼はまた起業するんだけども、例えばね、製塩業って、あの塩を作る会社を起こしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
これはね、ある工場で薄い鉄板がたくさんこう、積まれて放置されているのを目にして、まあ、戦後だから多分放置されてたんだろうね。
で、これを使ってね、浜一面に鉄板を並べて、で、その鉄板はさ、日差しでこう、熱くなってくるから、その上に海水を流して、
で、この作業を何度も繰り返して、次第にね、塩分がこう、濃縮されていって、最後に溜まった濃縮液を大きな釜に入れて煮詰めると、こう、塩ができたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、このできた塩を、彼はね、市民に無料で配布したり、まあ、一部余った塩は販売したとは言っていたんだけども、そういうことをして、
で、他にもね、漁船を2艘買って、いわしを取って、それもね、近所の人に配ったり、で、その一方で、あの、若者にね、自動車の修理技術とか、鉄道建設の知識なんかを習得できる全寮制の専門学校を設立してるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この時の彼はまあ、いずれも企業活動というよりは、まあ、社会奉仕に近いようなそんな活動をしたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただね、この後ね、1948年に、米軍の憲兵に脱税の疑いで連れて行かれちゃうんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そこでね、裁判が開かれて、4年の重労働っていう判決が出て、彼はね、不動産も全て没収されて、スガモプリズン、東京留置所に就管されることになったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これはね、彼、安藤樹氏は全くその、脱税っていうのを身に覚えがなかったらしくて、GHQはね、国の深刻なこう、歳入不足が当時あって、それを解消するために調税をこう、強めていて、まあ、その見せしめにされたんじゃないかっていう風に言ってるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、この就管された時、安藤は6人のね、弁護団を組織して、税務局に処分の取り消しを求めて、提訴したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これにはね、税務局の役人が来て、その訴えを取り下げてくれれば、まっすぐにその自由の身にするからっていう条件を出されて、で、これを飲んで、すぐに釈放されたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
その後ね、ある人から、あの大阪で新しく設立された信用組合の理事長になってほしいっていう依頼を受けるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、最初断ってたんだけども、何度も頼まれて、まあ、しぶしぶその理事長になったんだけども、そのね、信用組合が破綻しちゃって、財産をね、結局失うっていうことになっちゃったんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
まあ、こんなふうに、すごく戦後って、彼って散々な目にあって、で、全て失った彼の脳裏に、戦後のそのやけの原にできた、闇市のこのラーメン屋台に長蛇の列を作って並ぶ人々の光景が思い浮かんだんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、さらにさ、戦後って、アメリカの占領下で、あの、厚生省からは、アメリカのこう支給する余剰小麦を使って、日本人に朝礼してたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ほとんどがさ、その当時、パンとかビスケットにそれがなってたんだけど、アンド・モモフクは、東洋にはさ、その、昔から麺の伝統があって、日本人が好む麺類をやろうっていうふうに決意するんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そこで彼は全くの素人なんだけども、ラーメンの開発に取り組んで、で、彼の目指したものは、美味しくて保存性の高いもの、調理に手間がかからない、値段が安くて安全で衛生的っていうものを作ろうっていうふうに目標を掲げたんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、当時のね、家のその庭に10平方メートルほどの小さな小屋を建てて、大工に作ってもらって、そこにね、中古の製麺機を使って、たった一人で研究に取り組むんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、そんな彼が朝5時から夜中の1時とか2時まで小屋にこもって、40ワットの裸電球の下で研究したの。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
服は着てましたよ。
スピーカー 2
40ワットってあたりもなんで40ワットなんだろうと思ったけど。
スピーカー 1
いや、わかんないけど、裸電球ってとこでちょっとごめん、誤解を招いちゃったらいけないと思って。
スピーカー 2
でも、小片郎、今、服着てないんでしょ?
スピーカー 1
着てるよ。暑いけど、頑張ってんだよ。
スピーカー 2
あ、そうなんだ。
スピーカー 1
で、睡眠は朝、もう全然平均4時間ぐらいで、1年間、その1日の休みもなく続けたんだって。
うん。
で、試行錯誤の末、油熱による乾燥法に彼はたどり着くんだよね。
うん。
ヒントになったのはね、家で妻が揚げてた天ぷらなんだよね。
うん。
これね、小麦粉の衣をまとった天ぷらが油の中に入ると、泡を立てて水を弾き出してたんだよね。
うん。
そう、で、水と油は絶対に相入れない存在なんだっていうことに気づくんだよね。
うん。
で、彼はそれを応用して、麺を暑い油の中に入れて、で、水と油の温度差によって冷たい水分が弾き出されて、水分が抜けた後に無数の穴が麺に開くのを気づいたんだよね。
うん。
で、その後、それに熱湯を注げば、その穴からお湯が吸収されて、麺が柔らかくなって復元したんだよね。
うん。
この麺をさ、均一に揚げる方法も苦労して、針金とさ、金網を買ってきて、四角いね、型枠を作ることにして、その中に麺をほぐして入れたんだよね。
うん。
四角い型枠に入っているからさ、そのまま油に入れると、見事にこう、均一に揚がるんだよね。
うん。
で、しかもその麺はさ、油に揚げたことで、その乾燥の状態になって、長期保存が可能になってたんだよね。
うん。
しかもその油で揚げることで、独特の香ばしさが生まれるっていうのもその特徴なんだよね。
うん。
で、チキンラーメンってさ、まあスープはもちろんチキンを使ってるんだけども、
うん。
これね、なんでチキンにしたかっていうと、研究小屋の横でね、鶏を当時飼ってて、時々ね、家で料理をして食べてたんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ある時、その調理中にぐったりしてた鶏が突然暴れだして、
それにね、息子が驚いて、それ以来ね、その鶏とか、その鶏の関係の食事を食べなくなったんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、ある日、その妻がね、鶏のガラでとったスープでラーメンを作ったら、息子がそれはね、喜んで食べたのがあって、
で、その時ね、ラーメンはチキン味にするっていうアイデアが浮かんだんだって。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これってね、もう後々なんだけど、すごく理にかなっていて、海外に進出した時に、
ヒンドゥー教徒は牛を食べないとか、イスラム教徒は豚を食べないっていうのがあって、
だけど、チキンだと食べない国っていうのは見当たらなかったって言ってるんだよね。
うん。
で、もしかしたら一部食べないところはあるのかもしれないけど、なんか彼はすごく理にかなっていたって言ってるんだよね。
うん。
で、1958年8月に商品名はチキンラーメンにして、彼が冒頭でも言ったけど、48歳の時に生まれた商品なんだよね。
うん。
で、それからね、家族総出でチキンラーメンを作って、試作品をあちこちの人に配って、
そのおかげでね、アメリカから500ケースの注文が入ったりとか、大阪の百貨店の試食会で500食がすぐに完売したりとか、大盛況だったんだよね。
うん。
ただね、あの、食品問屋に持ち込むとね、反応が冷たくて、それはさ、当時うどん一玉が6円の時代で、チキンラーメンはね、35円だったんだよね。
うん。
量産が高いっていうところで冷たい反応されたんだけども、消費者の声がさ、徐々に小売店に届くようになって、それが結局問屋に行って、注文が殺到したんだよね。
うん。
その後、量産できるよう工場を作って、生産を拡大していくんだよね。
うん。
で、チキンラーメンを食べると、精がつくとか肌に艶が出てきたっていう評判が当時立って、これをね、安藤桃福がその栄養分析をするために国立栄養研究所ってところに依頼したんだよね。
うん。
で、そうするとね、チキンラーメンのスープは、あの、自撮りをさ、その香辛料と一緒に丸ごと圧力鍋で煮詰めてとったもので、様々なあの栄養成分が抽出されていることがわかったんだよね。
うん。
スピーカー 1
で、厚生省はね、当時そのチキンラーメンを妊産婦のその健康商品として推奨したりとか、保健所にね、チキンラーメンの商品が展示されるほどだったんだよね。
うん。
で、その後ね、テレビとか高度経済成長の流れを受けて、日清食品は創業5年目で43億円の売り上げっていう、すごく大成功したんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
ただ、市場にはさ、それによってチキンラーメンの類似商品が増えていって、1965年時点では約360社ぐらい同じような商品を出すような会社があって、
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
さらにその、物もさ、粗悪品が多くして、この時にね、なんかインスタントラーメンが体に悪いっていう噂が広がったって言ってるんだよね。
うん。
確かになんかちょっとそういうイメージあるよね。
スピーカー 2
まあ、よくはないイメージは強いよね。
スピーカー 1
そうだね。で、日清食品はね、品質対策として1965年に世界に先駆けて実施したものがあるんだけど、これ何だと?
スピーカー 2
品質対策?
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
何だろうね。品質だから味が一緒になるようにしたとか?
スピーカー 1
ああ、なるほど。これはね、商品に生存年月日の表情を入れるようにしたんだって。
スピーカー 2
ああ、そういうことね。なるほど。
スピーカー 1
そうそう。いや、これ日清食品なんだと思って。へえ、と思って。
で、その後ね、彼はロサンゼルスに行った時に何人かのバイヤーにチキンラーメンを試食してもらうってことがあったんだよね。
うん。
するとさ、アメリカの人って麺を入れるどんぶり持ってなくて、そこでね、持ち出してきたのが紙コップを持ってきて、麺を2つに割ってコップに入れ始めたんだよね。
うん。
で、お湯を注いでフォークで食べるのを見て、大米の人ってその箸とどんぶりで食事をする習慣がないんだってことに改めて気づくんだよね。
うん。
で、ヒントにこの地にカップヌードルが誕生するんだよね。
うん。
麺をさ、あのカップに入れて、麺の長さもそれまでの半分ぐらいにして、アメリカ人がフォークでも食べやすいように工夫したんだよね。
うん。
さらにね、アメリカ出張の帰りに飛行機の中で客室乗務員がマカデミアナッツをくれたんだって。
うん。
で、その容器にはね、紙とアルミ箔を貼り合わせた上蓋が密着していて、で、これをヒントにさ、カップヌードルの上蓋にアルミキャップっていうのが決まったんだって。
うん。
確かにさ、あの蓋めくるとアルミだよね。なんかアルミと銀だよね。
そうだね。うん。
そうそう。これによって長期保存が可能になってるんだって。
スピーカー 2
えー、そうなんだ。
スピーカー 1
そうそう。いやまさかね、客室乗務員が絡んでるとは思わなかったね。
スピーカー 2
客室乗務員じゃないでしょ、絡んでるのは。
スピーカー 1
まあまあ。で、でもさ、飛行機乗っててさ、客室乗務員がマカデミアナッツをくれるってことあんのかな?
スピーカー 2
んー、まあ俺はないけど、まあ昔はあったんじゃないの?
スピーカー 1
いやまあ、かなりお金持ちの待遇は違うのかな。
スピーカー 2
あー、だから小片郎とかだったらもらったことあんじゃないの?
マジで何もねーよ。
スピーカー 1
で、こうして安藤が61歳の時にカップヌードルが販売されて、
この時ね、そのトン屋が取り扱ってくれなかったんだって。
うん。
で、その理由はね、袋麺が当時25円で安売りされてる時代で、カップヌードルが100円の設定だったんだよね。
うん。
で、金額が高いっていうとこと、
あと日本はその家族で食卓を囲んで割とその行儀の良く食べる習慣があって、
カップヌードルが合わないっていうようなこと言われたんだって。
うん。
で、そこで新しい販売ルートを彼は探すように命じて、
最初にね、購入してくれたのが埼玉県の朝霞の陸上自衛隊なんだって。
うん。
そう、まあこういったさ、今までにない販売ルートをどんどん開発していって、
で、そのカップヌードルがさ、一躍有名になったのは、これは結構みんなご存知の方も多いと思うんだけど、
1972年に、あの連合席群による浅間山荘事件なんだよね。
うん。
NHKとか民放が中継をして、当時その各社を合わせるとテレビの視聴率が89.7%に達したんだって。
うん。
雪の中でさ、包囲する警視庁のこの機動隊員が、カップヌードルを食べてる映像がそこで映し出されて、
で、その後さ、その影響でさ、カップヌードルってすごく売れて、生産が追いつかなくなったんだって。
うん。
で、その中挫折もしていて、1974年にカップライスっていうのを発売してるんだよね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
で、これね、熱湯をかけるだけでエビピラフとかドライカレー、チキンライスなんかができるんだって。
うん。
で、この時はね、試食も素晴らしいって評価をされていて、
あ、ちなみにカップライスって知ってた?
スピーカー 2
今似たようなのないっけ?なんか食ったことある気がするけど。
あ、確かに。
スピーカー 1
その当時のやつは食ったことないけど。
最近あるかもしんないね、確かに。
スピーカー 2
ね。
スピーカー 1
で、カップライスのためのその工場を建設したんだけども、
で、この時、日清職員力を入れて資本の約2倍、ほぼ年間利益に相当する30億円を投じたんだって。
うん。
で、実際に販売すると、これがなんと売れなくて、
これは値段が高いっていうのがあって、
袋入りラーメン1個が20円だったのに対してカップライスって200円だったんだって。
うん、ちょっと売れないね、それは。
そう。で、小麦粉よりさ、やっぱり米のほうが原価がどうしても高いんだよね。
うん。
で、さらにさ、やっぱり日本人ってご飯はさ、米粒からさ、家で炊いてるわけじゃん。
うん。
だから、あえて別にできたものを買うっていうのに抵抗があるっていうか、なじみがないんだよね。
うん。
で、そういう理由もあって、撤退を決意するんだよね。
うん。
その後も、日清食品自体はすごく成功を収めていくんだけども、
で、晩年1985年に安藤桃福はその社長の座を息子に譲って、代表権なる会長として残ったんだよね。
うん。
その後、1995年に阪神淡路大震災の時は、
その安藤が気が的状況がこれ来るんじゃないかっていうのを地震が起こった直後に予測して、
日清食品ってインスタントラーメンを積んで避難所へ向かってるんだよね。
うん。
で、被災者に温かいラーメンを大量に配ったりとかっていう活動をして、
で、これ今でも引き継がれていて、世界中の災害地に行って、インスタントラーメンって今でも届けてるんだよね。
うん。
で、そんな安藤桃福は2007年、96歳の時に急性心筋梗塞で亡くなっていて、
亡くなる前日までお昼には必ずチキンラーメンを食べていたらしい。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
そんな彼のお話なんだけども、やっぱり振り返るとその時代時代の需要を見つけ出すことに、彼はやっぱり優れてるなって思ったんだよね。
うん。
48歳の時にチキンラーメンで運良く遅咲きで成功したんだってずっと思ってたんだけど、
調べていくと決してそんなわけじゃなくて、それまでも数多くの挑戦をしててさ、
結果大きく成功したのがチキンラーメンであって、なんかこの成功って別に偶然ではないんだなっていうのをちょっと感じたね。
うん。
スピーカー 1
で、インスタント麺のこの元をたどっていくと、彼が経験した過酷な流地上での食だったりとか、戦後のその闇市で食を求める人々を見たその実体験から来ているんだっていうのを、
今日は改めて思いました。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
いかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
あんまりよく知らない人だったから、ちょっとね、日清の創業者ってことでさ、今や誰もが知ってる日清、誰もが食べたことあるカップヌードル、チキンラーメンを作った人っていうところで、
今日の話はすごい興味深い話だったんじゃないかなって皆さん思ってると思うんですが、
俺ねチキンラーメン好きなんだけどさ、最近高くて買えないんだよね。
スピーカー 1
あ、そうなの。
スピーカー 2
高いでしょ。
てかインスタント麺自体なんか一気に値上がりしたんだよね。
ここ最近の話じゃないけどさ、もう多分5年とか10年ぐらい前になるのかな。
昔ってすごい安かったのにさ、高いんだよねインスタント麺。
スピーカー 1
あ、そうなんだ。
スピーカー 2
別に一人暮らしとかしてた時ってさ、普通にインスタント麺買って食うじゃん。
安いから。
でもなんかあれ高くて買えなくねみたいなさ、200円で買えてたのが今400円とかでしょ。
倍だよ。
400円だったらちょっといいかなってなっちゃうじゃん。
スピーカー 1
確かに。
そんな高いんだ。
高いよ。
スピーカー 2
なんか一食だからさ、あれって袋麺って5個入ってんじゃん。
5個入っててさ、一食あたりの単価安いからいいけどねっていう。
全然ちょっと脱線しちゃったけど、個人的にはチキンラーメン好きですってお話です。
スピーカー 1
あ、そう。
俺さ、なんかこれ調べててさ、思ったのがさ、
大学で東京で一人暮らししてる時にさ、長室がうち来てさ、
俺インスタント麺作って長室に出したの覚えてる?
スピーカー 2
あーなんか、いやーちょっとごめんちゃんとは覚えてないけど、そんなこともあったかもしれないぐらいにしか覚えてない。
スピーカー 1
俺ね、あの時ほんと申し訳ないなーと思って、なんか今でもね、結構うなされるんだよね。
スピーカー 2
ちょっと待って、言ってる意味がよくわからない。
スピーカー 1
多分ね、あの時ね、何のインスタント麺か、もしかしたらチキンラーメンだったかもしれないんだけど、
俺、社会人になるまで袋麺のそのインスタント麺をお湯に入れるじゃん。
そうすると、ほっとけばほぐれるじゃん。
で、俺知らなくて、いつも入れた直後に箸でほぐしてたの。
そうすると、もう当然固まってる状態でやるから、麺がこう、すごいバラバラになる。
さらにこう、分裂しちゃうというか。
で、俺ね、それをね、長室に出して、長室がめっちゃ食いにくそうに、このちっちゃなかけらを吸って食べてたの。
思わなかった?多分覚えてないか。
それを、なんか俺は社会人になって、ある日こう、ほっといたら麺がすごい綺麗にほぐれて、
スピーカー 2
あ、これ何もしちゃダメなんだって気づいたの。
でも好みだからね。なんかさ、割って入れる人いるじゃん、そもそも。
スピーカー 1
あ、そっか。
スピーカー 2
だから、麺のほら、麺が長いのが嫌な人もいるからさ、
俺もたまにこう、割って入れちゃう時もあるけどさ。
スピーカー 1
なるほど。いや、俺本当に長室ずっと根に持ってんじゃないかなって思って、今おそろおそに聞いてみた。
スピーカー 2
記憶にございません。
スピーカー 1
そうなんだ。それは良かった。
それでさ、調べてたら、アンド・モムフクがさ、いかにこう、お湯を入れてしばらくしたら復元するかっていうのを研究してたのに申し訳ないなとも思ったし。
スピーカー 2
いやいや、なんでそんなこと思うのかが謎だよ。
スピーカー 1
いやいや、それは良かった。
まあ、というわけで、今回はアンド・モムフクについてでした。