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今さらなんて言わせない。始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
よろしくお願いします。どうした?どうしたっていう聞き方も変だけど、冒頭の言い方がなんか変わった気がするんだけど。
気持ち込めたらちょっとニュアンス変わるのかなっていう実験。
なんかちょっと重々しかったんだけど大丈夫?
大丈夫、大丈夫。至って元気。
じゃあ今日はですね、早速なんですが、江戸城無血開城についてやろうかなと思います。
お、なんか歴史っぽいね。歴史っぽいよ。
そうそう、前に母親戦争とかで話した時にチラッと江戸城無血開城のところちょっとだけ触れたぐらいなんだけども、
今回江戸城無血開城だけをちょっと取り上げてやりたいなって思います。
これ時代は1868年なんですね、無血開城されたのが。
どんな出来事かっていうと幕府の中心ってその当時江戸だったんだよね。
その象徴であった江戸城を倒幕派っていう幕府を倒す、薩摩長州を代表にする倒幕派に一人の犠牲者も出さずに江戸城を明け渡したっていうのが江戸城無血開城言われてるんだよね。
結構教科書とかも載ってるし、割と有名な出来事だよね。
そうだよね。
なんかさ、自分これちょっと調べて、江戸城無血開城っていうネーミングセンスがすごく良くない?
どういうこと?
絶対に記憶に残るというかさ、この無血っていう言葉もいいし、無血ってさ江戸城無血開城ぐらいにしか使われてないんだよね結構。
無血じゃないからね、そもそもだけど。
そうそうそうそう。
そもそも革命ってさ、大体一応伴うというかさ。
そうそうそう、珍しいことだよね。
そうそう。
これさ、調べていくだけで誰がつけたんだろうとか、調べたんだけどないんだよね。
で、当時の資料漁っても、当時は江戸城無血開城なんて言われてないね、もちろんだけど。
だからこれ一体誰がつけたんだろうっていうのをね、気になってたけど、結果わかんなかったんだけど。
なんだ、わかんないんだけど。
そうそうそう。
で、なんかさ、自分は全然関係ないけど、こんな無血だったらいいなみたいな思ったのちょっと。
こんな無血?
ごめん、全然すれちゃったけど。
例えば、マグロの無血解体とかね。
何の手術だよっていう。
ちょっと興味ない。
どんな、どんな風にさばいてんの?みたいな。
血が出ないとかもすごくない?
イラク若干は真っ青だよ。
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多分今聞いてる人、誰も望んでない今会話になっちゃったから。
じゃあ早速いきましょう、本題に。
時代背景ちょっと簡単に説明すると、ここはね結構新選組とかでも何回も触れてるとこなんだけども、
江戸幕府っていう幕末の頃だから江戸城無血開城って、江戸幕府が260年ぐらいトータルで続いているんだけども、
江戸幕府っていうのが後半になって、だんだん幕府の力が弱まってきて、
尊王攘夷っていう思想を持つ人たちが現れてきて、
前にも説明したんだけど、尊王っていうのが天皇を中心とする政治というか、国家を作りたいっていうので、
攘夷っていうのが外国を排除しようとする思想なんだよね。
そういう人たちがこの幕府を倒すっていう風になっていくんだけども、
最初この尊王攘夷っていうのはもちろん思想の基盤にあったんだけども、
これって後々やっていく中で、誰もが特に攘夷っていう外国を排除するってことはむしろもうできないよねっていうのは、
幕府を倒そうとする側ももう分かってたことなんだよね。
というのは、下関戦争とか撮影戦争とか外国と戦っていく中で、
明らかに力の差っていうのを感じて、これはもう攘夷できないよねっていう風になっていたんだけども、
尊王攘夷っていうので集まった思想の集団たちが倒幕派って幕府を倒すっていう風に、
結局は変わっていったというか、そうなっていったんだよね。
そういう背景があるんだよね。
なんで幕府を倒そうとする風にいったかって言ったら、やっぱり長いこの幕藩体制に不満を持ってた人たちもいたし、
安政の大国だったり長州政治とかで、いろいろ幕府からいろいろな制裁を受けてきた人たちが、
もう幕府を倒す、倒さないと新しい国が始まらないっていう風に思ったのかなっていうのはあるんだけどね。
で、前にも母親戦争の時に話したんだけども、
慶応4年1月3日から戸場伏見の戦いで母親戦争っていうのが、幕府対幕府を倒そうとする倒幕派で起こったんだよね。
で、倒幕派の方は5000人に対して幕府軍が15000人っていう、人数で幕府が圧倒してたんだけれども、
新政府軍が勝利して幕府軍が大敗を期したっていう。
で、この時に錦の御旗って言われるんだけど、幕府を倒そうとする倒幕派の方が錦の御旗っていうのを掲げて、
これって天皇側の軍隊ですよっていう象徴する旗印で、鎌倉時代以降からもなんかそういう風に使われてたみたいで、
だからなんか幕府が天皇に逆らっている敵っていう風に今印象付けをしようとしたんだよね。
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そこからまあ何だろう、官軍って言い方もするんだよね、倒幕派の人たちを。
なんで官軍っていうのは天皇に属する、天皇とか朝廷に属する軍っていう意味なんだけど、
もう勝ったら官軍っていう言い方もするんだよね。
突破伏締めの戦いで勝った方が結局は官軍なんだろうなっていう歴史の流れがあるんだけど、
ちょっとこれからは倒幕派のことを今日は官軍って言うんだけど、言いやすいからだけど。
これで突破伏締めの戦いで徳川義信は敗戦が濃厚になると大阪城から軍艦の海洋丸に乗って江戸に配送するんだよね。
で、配送した後に江戸から官軍が大量にじわじわ西から江戸に向けて攻めてくるわけ。
ここで徳川義信は江戸に戻って戦卓を迫られるわけ。
それは2つあるって言われてて、徹底抗戦をするか官軍に対して、もう一度幕府を集めて戦いを挑むか、これが主戦派って言われるんだけど、
もう一つは矯準って言い方するんだけど、もう徹底的に反抗せずに官軍の言う通りに従う態度を示すっていう。
この二択を迫られた時に徳川義信はこの矯準っていう方を選んだんだよね。
これもすごい選択だなっていうのは思うんだけども、当時幕府の大半って主戦派が示してたの、徹底抗戦をするっていうのが。
なんでかって言ったら、まだ幕府余力もあったし、海軍って前も言ったけど海軍力っていうのは明らかに幕府のが上だったのよ。
だって船作るのに3年とかさ、かかるわけ、軍艦作るのに。
だから今から官軍がさ、用意するっていうのは相当な月日がかかるわけだし、そういった意味でもちょっと有利に立ちた部分もあるんだけども、
あえて戦いを選ばずに矯準という道を選んだ徳川義信の選択なんだよね。
そこで幕府の大半が主戦派だったんだけれども、矯準派というか戦いを望まない派もいたの。
それが大久保一王とか勝海州だった。
そこで勝海州が江戸城無欠海上に大きく関わってるんで出てくるわけなんだけども、
戸場伏見の戦いの前までは勝海州って徳川義信と馬が合わないというか、
戸場伏見の前から官軍とは戦うべきではないっていう風にポジションを取ってた。
実際に戸場伏見の戦いで大敗してきた中で、徳川義信は勝海州に任せる感じになるわけ。
標準の選択をしたわけだから。
勝海州っていうのは幅広い知識を持ってるんだよね、豊かで。
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カンリン丸とかさ、この前横浜海溝資料館でもあったけどさ、
カンリン丸乗っていち早くサンフランシスコ行ってさ、
日本だけじゃなくて西洋の文化とかも実際に見て体験してきたりするし、
これまでの幕府を変えなきゃいけないっていう考えのある人だった。
そうやって結構官軍派の人たちと割と思想が似てるというか、
勝海州の中で士とも言われている坂本龍馬も割と長州と薩摩を結びつけたって言われているじゃん。
そんな観点から割と幕府の中で交渉するんだったら勝海州っていうのが責任だったんだよね。
この人は軍官武業っていうくらいだったんだけども、
一気にこの時に海軍武業並みにランクアップするんだよ。
海軍武業並みって海軍の中の上が海軍総督で、その次なわけ。
もうトップ2みたいな、一気に昇格するわけなんだけども、
それで就任の4日目ぐらいに思い切って、当時さ、
フランスに幕府軍って援助してもらってたりとか、軍事顧問とかつけてたんだよね。
それをフランスとの軍事顧問を外して、縁をちょっと切ったんですよ。
っていう、ちょっと改革もしたりとかして、
あとちょっとここで象徴的な勝海州の言葉が、
短眼書っていうのを官軍に向けて送っているのが残ってるんで、ちょっと読み上げたいなと思うんだけど、
めっちゃ抜粋するけど、トークはインドの敗れ。
これインドがイギリスに植民地化されたっていうことを言ってるんだけども、
近くはシナの地、シナの地っていうのは中国ね。
で、長毛の官兵是非曲直を鳴らして、同族愛はみって書いてあるんだけど、
これは中国国内で不平不満を言って、同族同士で争いが起こったっていう風に言ってて、
その次に西洋諸国その拠に譲渡って、
西洋諸国がそれに譲渡して一気に中国に攻めていったわけよ。
ご存知の通り、アヘン戦争で大敗を期すわけですよ、中国は。
で、その次が今や後国ほとんど銅鉄に陥らんとすって言ってて、
後国っていうのは日本っていう意味なんだけど、
日本も同じような道に陥ろうとしてますよっていう文章を官軍に送るわけですよ。
要は国内でこんな争いをしていたら海外に西洋諸国に日本そのものを滅ぼされますよみたいな、
そういうニュアンスで手紙を送ってるんですよ。
そうそう、なんかそういう結構視野の広く見てるんだなっていうのを感じられるんだよね、ここで。
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さらにね、ここでこの後勝海州っていうのは陸軍総裁っていうになるの。
陸軍の本当にトップになるわけ。
で、これね海軍総裁じゃないわけですよ。
なぜか陸軍総裁になるんだけど、これはおそらくなんだけど勝海州って今まで海軍に精通してた。
でもここでなんで陸軍総裁になったかっていうと、このおそらく内乱、官軍との戦いを取り仕切ってほしいっていうところでなったんだと思うんだよね。
要は海軍ってさ、そもそも海外からの敵に対して設立したものだから、1865年にできて、ペリーとかがその前に来航してきたりとか色々あって、
海軍っていうのはあったから、あえてその海軍じゃなくて陸軍になるってことは、内乱だったらもう陸軍がメインじゃん。
そういう意味を込めて陸軍総裁になるってことは、もうこの官軍との戦いを任せたよっていう、トップの徳川義信とかの意思表示でもあるんだよね。
なるほどね。
そう、まあいろんな見方あるけどね。で、ここから一気にもっとかつかつ改革を起こしていくんだけど、主戦派って言われてる官軍と徹底抗戦したいっていう思いの人たちをどんどん江戸から出すわけ。
小栗光月之介とか松平固森とかね。
相津藩の新戦組の親玉だね。よく前言ってたけど、そうそう。のもあるし、この前新戦組でも言ったけど、新戦組自体も紅葉陳部隊として山梨県に送り出すわけですよ。
江戸から一気にこの主戦派を出して、抗戦しないっていう構えを官軍側に示すのが必要だった。
で、しかもさらに徳川義信は東映山官営寺ってとこに隠居させた。で、もうこれでなんだろう、官軍側にもう抗戦しないという交渉がこれから始まってるんだけども、その反面で一応万が一のことがあって、この交渉が決裂した場合に江戸の周囲を燃やして、その混乱の中徹底抗戦をするっていう最後の切り札を密かに進めてたとも言われてる。
これはね、ちょっとかつ回収が言ってるだけなので、ちょっとまあどこまでが進んでる話なのかわかんないんだけども、江戸のひけ死の人とか辰五郎とかね、
ヤクザの親分なんかにこう話を言って、もし万が一の時は指示を出すから江戸を燃やして、その中で江戸の住民はある船、漁船とかの船で全部逃げるっていう計画を進めてたとも言われてるんですよ。
そんなこうした準備をして、やっとその漢軍側がだんだん近づいてきて静岡まで来たわけですよ。
そこでかつ回収がまず自ら行くんではなくて、幕府機っていうのね、逸材って言われてる山岡鉄修っていう人がいるんだけど、この人を使いに出して、かつ回収の手紙を持って静岡に行かせるわけですよ。
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山岡鉄修っていうのもなんかすごい人格者というか、身長ね、188センチもあんだって、その当時で。
え、すごくない?
そうそう、写真もあるけど、もう本当にね、なんかすごいただものじゃないなって感じの人。
武道も極めてるんだけど、文武両道というかの人で、西郷隆盛もね、この山岡鉄修のことは後で褒めてたりするんだけど、手紙を持っていくわけ。
その時に西郷隆盛と会うわけなんですよ、山岡鉄修が。
当時西郷隆盛は漢軍が取りまとめる参謀っていう指揮官みたいな感じだったから、そこでね、話し合って西郷隆盛がね、条件を出すわけですよ、幕府側に。
これが7か条を出すんだけど、7つあって、1つが徳川義信は微前藩の池田家に預けることって。
で、2番が江戸城を漢軍に開け渡すこと。
3番が軍艦をすべて漢軍に渡すこと。
で、4番が武器を漢軍にすべて渡す。
で、5番が江戸城内に住んでる家臣は向こう島に移住してくださいよっていう。
で、6と7はね、割とニュアンスが一緒なんで一緒にしちゃうけど、漢軍側に立てつくものっていうのは徹底的に鎮圧しますよっていう。
こういう条件を出すわけですよ。
で、この山岡鉄修は最初に言った徳川義信を微前藩の池田家に預けるってことだけは受け入れられないですよっていうふうにはっきり言うわけですよ、ここで。
これ、微前藩っていうのはもう漢軍側の藩だから、
で、池田家っていうのは徳川義信の実の弟がいるところなんだけども、
それでも佐賀県なんで微前藩って、もう佐賀って西って大体も漢軍派だからほとんどが、そっちに徳川義信を預けるなんて、
命の保障もないし、幕府側の人間も絶対に納得しないで、これによってまた争いが増えますよっていうふうに、
最後高森にここだけはちょっと受け入れられないっていうふうにはっきり言うんですよ。
で、最後高森は分かりましたと、これで一度持ち帰って再検討しますっていうふうに言って、
一回ここで会談は終わるんだけども、その間にも漢軍側は江戸にどんどん近づいていくわけですよ。
で、いよいよここで勝海州と最後高森の有名な江戸で会談が行われるわけです。
で、この二人って実はその窮地の中というか、前に大阪とかで一度会ってるんですよ。
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で、その時に大久保利道に会った時の感想を最後高森が送ってる手紙が残ってて、
かつ先生をひどく惚れそうろうっていう、結構もう先生って言ってるぐらい尊敬してるんだよね、勝海州のこと、最後高森で。
で、そんな中だったから逆に相手、戦ってる側とのトップの人たちが会うってあんまりないじゃん。
そういうのが実現するっていうのも窮地の中だったからっていうのもあるんだと思うんだけど、
これがね、慶応4年の3月13と14日の2日間江戸の薩摩屋敷で会談が行われた。
1日目の3月13日っていうのは具体的な話は進めずに顔合わせみたいな感じだった。
で、3月14日に具体的な話進めるんだけども、もうね、この入ってくる時に最後高森らしいなっていうか、下駄をならしてカランコロンって来たって勝海州が言ってるんだよね。
でもね、最後高森ってこう結構真摯な態度で、なんだろう、だって勝ってる側の相手は降参してる側なのに、それでも真摯な態度で正座して手を膝の上に乗せて、なんか真剣にこう話し合いを持ってくれてるっていうことをね、勝海州が言ってる。
勝海州はもうそこで今まで言ってきたように、この内乱してしまうと国が滅んでしまいますっていうことを言って、降参してる相手にこれ以上戦いを望むっていうのは、それは官軍側っていうのはもう国のためっていうのではなくて、私でしょって言うんですよね。
個人的なものが入っちゃってるでしょ、みたいなニュアンスだと思うんだけど、ここでちょっとね、実際にね、書かれてる勝海州の回想録みたいなのがあるんで、ちょっとそのまま訳したやつを読み上げるけど、さていよいよ談判になると、最後は俺の言うことをいちいち信用してくれ、その一点の疑問も挟まなかった。
最後が、いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一心にかけて引き受けしますっていうふうに言ってる言葉が残ってて、結構懐が深いというか、最後高森も。
で、これでね、翌日に実は3月15日に予定されてたんですよ、江戸後を総攻撃するっていうのが。これをね、この会談によって中止したんですよ。
そうそう、重要な会談だったって言われてるんだけど、最後はね、門の外まで勝海州を見送るっていう、なんだろう、そんな紳士的な態度もあって。
ここで2人の話とか会談が結構美談に上がってはいるんだけども、実はその裏側というか、もう一つの出来事があって、これ会談の1日目の日ですね、3月13日に別の場所で長州藩の木梨誠一郎って人がイギリス甲子のパークスに会いに行ってるんですよ。
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そこで会談をしてて、イギリス甲子のパークスの方からはっきり言われたんですよね。漢軍が江戸に攻め入るってことは反対ですっていうふうに、はっきり意思表情を示したんですよ。
っていうのは、まあ何だろう、相手が降参しているのにも関わらずそれを攻めるっていうのは、イギリスだけじゃなくて国際世論も許さないよっていうふうに言われたわけですよ。
で、これによってもうぶっちゃけな話、漢軍側は安易に江戸を攻められなくなっちゃったんです。っていう裏側もあるんですよね。
いろんな見方があるからこの江戸城無欠解除って、ちょっと難しいとこなんだけど。で、イギリスがなんでそう言ったかって、まあいろいろこれ憶測にはなるけど、漢軍側ってさ、もともと尊王攘夷の秘僧たちの集団だったわけじゃん。
だから、攘夷って外国を排除しようとするっていう考えを持った人たちがいて、実際に生麦事件とか切りつけたりとかさ、戦いになってたりするわけじゃん。
そういうのもあるし、江戸からさ、外国人拠離地ってさ、横浜って近いわけ、割と。で、まあ戦いが起こったら、その外国人拠離地まで被害が及ぶんじゃないかっていうのも懸念してたし、
あともう一つは、単純にイギリスの得意先って結構江戸が多かったから、その江戸がボロボロになっちゃったら、イギリスにとって不利益だからとも言われてるんですよ。
まあそんなこんなで、イギリスっていうのは反対の表明を出したっていうね。
この後にね、実はカイシューもパークスと話し合いをしに行ってるんですよ。
カツカイシューってさ、逆にイギリスってそれまでは官軍側を援助してたからどっちかっていうと、その幕府側の人間がさ、わざとその話し合いに行って、しかもね、万が一江戸を攻められちゃった時に、徳川義信をイギリス軍艦に乗せて他国へ逃がしてほしいっていうお願いに行ってるんですよ。
そうそう。で、こういった思い切ったこともして、なんとかね、こういろんな選択を、最悪の場合はっていうのも考えて行動してたんです。
で、まあ結果はね、最初に出した最後高めの7箇条があったんだけれども、その中でいくつか変更点があって、徳川義信っていうのは水戸藩に預けるってことに変わったんです。
それは幕府側の意見が通って、水戸藩は徳川義信が生まれ育った、9歳まで育った場所だから、そっちの方が、まあそれだったら幕府側も納得するところだったのね。
で、あとは江戸城、官軍には明け渡すんだけども、その後、尾張の徳川家が預かるというか、面倒見るっていう風になったんですよ。
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で、あとは武器。武器も官軍側に全て渡すっていうのは、一度は渡すんだけども、その後徳川家に戻してくださいよっていうようなニュアンスにちょっと変わるわけですね。幕府有利側に働いてくれたんですよね。
そんなこんなでね、だから会談の効果もかなりあったとは言われてるんですよ。
で、これでね、一通りの決着がついた中で、海州は徳川義信に会いに行ってるんですよ。
で、これ海州の海曽録にあるんだけど、逆にね、すごい怒られたらしいんですよ、義信に。失跡されたって。
なんだかよくわかんないんだけど、ああ危ないかな危ないかなってめっちゃ言われたって言ってたね。
まあ多分なんだろう、これが本当に成功するのかちょっと強引なことをするみたいなニュアンスで言われて、もしもの時はイギリス軍火に乗せて他国へ逃亡とか、結構まあ無茶がるっちゃあるじゃん。
まあどういう思いでちょっと言ったのかわかんないけど、なんかなんかやりきれない思いがあったみたいな感じで書かれてたんだよね。勝つ回収も。
こんなに頑張ったのに。
どこまでが真実かわかんないんだけど、これで結果的には4月11日、これ旧歴だけど、江戸城無欠解除が行われたんでね。
これによって、江戸って当時100万人規模でいた人たちの命を守ったっていう重要な出来事なんだよね。
勝つ回収が後年ね、こういう交渉ごとっていうのは一番大事なのは精神正義なんだっていうふうにちょっとかっこいいことを言ってるんですよ。
勝つ回収のらしい言葉だね。
最後もね、それを受け入れるという度量の大きさっていうか、あとその話し合いを、実はだって長州とかね、めっちゃやっぱり反対派の人たちもいる中でそれをまとめ上げたっていうのは、すごい政治力というか。
で、山岡撤収の働きもあったし、イギリスの要因もあって、本当にね、なんか自分は奇跡と言ってもいいほど、この江戸城無欠解除っていうのは象徴的な出来事だなって思ったね。
だってさ、外国でさ、こんなことってさ、そうそうないじゃん。
うん、そうだね。
革命でさ、こう体制が変わる時ってさ、一族皆殺しとかが結構ほとんどじゃん。
まあそういうもんだしね。
中国とか、あとロシアだって、この前言ってたさ、ニコライ2世なんて、一族皆殺しなんでしょ。
皆殺しだよ。
集められて、もちろん騙されてて言われてない状態で集められて、もう10殺全員。
でさ、結果さ、この徳川よしのぶってさ、水戸で隠居生活が始まって、76歳までずっと生きたんだよね。
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で、なんか趣味の狩猟とかさ、写真にぼっとして、いやなんか、こんなのって日本ぐらいじゃないかなみたいなね。
でもなんだろう、徳川よしのぶってさ、自分の中では結構理想な生き方なんだよね。
国のために人生注ぐっていう、なんかそれはそれですごいんだけど、徳川よしのぶみたいな生き方って、綺麗事抜きで人間らしいじゃないですか。
っていうふうに思いました。以上です。
はい。
どうでしょうか。
やっぱり無欠解除っていうところはさ、なんだろうね、いいことだと思うんだよ、単純にだけ。
うん、ね。
だって外国が攻めてくるとかそういうことを除いてさ、やっぱりさ、戦争になったら絶対大火になってさ、今残ってるべきものも残ってないっていう状態に絶対なっちゃったと思う。
そうだよね。
まあ、どうせ東京大空手で燃えちゃってんだけどさ、そのこと言ったら。
ただとは言ってもさ、その時残ってたから、今の技術じゃないけどさ、少なくともさ、第二次大戦ぐらいの日本の技術があるところまで残存して、その後復興もできてると思う。
だってその江戸の時代でさ、燃えちゃったらさ、多分もう復興させるっていう資料もないし、写真とかね、単純に。
あー、確かにね。
そうそう、だから多分ね、再現ができなかったと思う。
はいはい。
やっぱりそういう意味でもさ、文化財を守るっていう意味もそうだし、単純にやっぱり人の命もそうだしさ、すごく江戸100万人を守ったって言っても過言じゃないわけじゃん。
まあ、そうだよね。
まあ本当にその無欠で歴史が変わるんだったら、それは悪いことじゃないよね。
うん、ね、誇れることだね、これはね。
イギリスの名誉革命も無欠って言われてるじゃん。
あんまりよくわからないけど。
あ、そう。絶対王政だったイギリスの王政を、どっちかっていうと立憲民主制、立憲君主制化に変えたっていう革命が、名誉革命なんだけど。
はいはい。
あれもあれなんだよね、王様が逃げちゃったから無欠。
そうなんだ。
でも逆に言うとそんぐらいじゃないの?あとはもうそんなさ、フランス革命なんてさ、貴族なんて皆殺し状態だったわけだしさ。
ね、無欠解除の後には、実際には母親戦争でも話したけど、多くの血は流れてはいるんだけどね、この出来事に関しては争いもなくって感じだもんね。
うん、なんだろうな。だって結局さ、母親戦争っていうのはさ、幕府側としてはもう負けを認めてるわけじゃん。
まあね。
だからその幕府の中でも負けを認めてない側の、要はもう負け戦だけれどもっていうところでさ、戦いをずっと続けてたわけじゃん。
はいはい。
またちょっとニュアンスが変わってきちゃう。
そうだね。
だからそういう意味でさ、やっぱり幕府対さ、言葉借りるなら官軍だけどさ、がちでやってたら正直どっち勝つかなんて分かんなかったぐらいだと思うのよ、実際は。
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ああ、そうだね。
数の上でもそうだしさ、武器は全然官軍の方が上なんだけど。
うん。
って言ってもさ、やっぱりホームアウェイのさ、立地の部分で言えばさ、幕府ってホームだったわけじゃん。
うん。
だからそういう意味でも、たぶん長期戦とか持ち込めば勝てたんじゃないのかなっていうところもあるけど、それをあえてやらないっていう、英談だよね。
確かにね。まあそんな感じで、今回江戸城無欠会場についてでした。
はい。
最後まで聞いていただいてありがとうございました。
はい、ありがとうございました。