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2022-01-25 32:50

第53回「ジョン万次郎」武士となり咸臨丸での活躍

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ゴールドラッシュから短期間に資金を得たジョン万次郎。
そして念願の帰国。家族との再会。
武士となり幕府直属の家臣として咸臨丸での活躍。
教育面でも日本へ多大な功績を残したジョン万次郎について話しています。

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勇気は、状況によっては愚者の無謀な選択となる。始まりました、「大人の近代史」よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。もう先に聞くけど、誰の言葉ですか?
これはね、万次郎を日本へ送り届けたアメリカのホイットモア船長が言ったとされる言葉。
あんまり万次郎と関係がないと言えばないし、あると言えばあるし、みたいな。
勇気があって、その選択によってはそれが無謀なことになるよっていうふうな忠告でもあるんだよね。
本当の勇気っていうのは、正しい判断を平然とこなすこと。
だから、上陸が困難だと思ったら引き返してくるようにって、ここの船にまた戻ってくるようにっていうふうな意味合いがあるらしい。
ああ、そういうことね。
そうそうそうそう。ということで、ジョン・万次郎の前回の続きからなんだけども、ちょっとおさらいすると、
トサの漁師で遭難をして、アメリカの捕鯨船に救出されて、アメリカで高等教育を受けてから、また再度捕鯨に行って、で帰ってきたっていうところからだと思うんだけど、
ここで、報酬として一応350ドル受け取ったんだけども、この額ってどのぐらいなのかって前回からちょっと考えてて調べたら、アメリカで大体1年程度のんびり暮らせる金額なんだって。
のんびり暮らせるか。イメージ的にあれなのかな。今で言ったら、4、500万円ぐらいもらって、普通のサラリーマンの給料、年収。
そうなのかな。そんなイメージなのかな。ただ一生暮らしてくるのはもちろん無理な額で、あとこの額で日本へ帰国する資金にはちょっと不足してたの。
そんなに逆に言うとかかるの?これはね、想定しているのが全員で買えるっていうことを想定してるから。
あと、自分たちで小舟を買おうっていう風に考えてたの。そういう諸々の費用を加えると、これじゃちょっと足りないよねっていうことで、もっとお金が欲しいと。
そんな時に有名な話だけど、ゴールドラッシュがアメリカで起こるんだよね。
これゴールドラッシュって1848年にカリフォルニアの山奥で、最初農地を開拓しようとしたところに偶然金が見つかったんだよね。
カリフォルニアってこの時ってまだ事実上はメキシコの領土だったの。
1846年から48年、アメリカとメキシコの戦争でアメリカが勝利して、結果としてこの時はアメリカ軍が占領してた時代なんでね。
正式には1850年にカリフォルニア州としてアメリカの領土になってるんだけど、
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なんでこの1848年の時っていうのはまだちょっと狭間の時というか、微妙な立ち位置のカリフォルニアだった。
ということはあんまり法も整備されてないし、無法地帯なんだよね。
まだまだカリフォルニアって未開拓の場所が多くて、なんでこんな状況なんで誰でも金を採掘できるっていうところが魅力の一つだったんだよね。
それに免許も必要としないからアメリカンドリームっていう風にこの時言われてたけど、
だけどねこれねカリフォルニアって全然整備もされてないから行くまでも本当に大変なのよ。
金を求めて向かう途中に亡くなる人も多かったの実際。
しかも発掘者同士でトラブルも多くて、金品の略奪だったりとか殺害も多く起こってたんだよ。
無法地帯だからね。
実際に金の採掘で儲けられた人っていうのは結果的にはごくわずからしいんだよね。
そんな情報を知っている上で、マンジローっていうのは友人のテリーを誘って発掘へ向かうんだよね。
この選択がそこで行くっていうのがすごいよね。
日本人だから言っても、なかなか異国の地で金を掘り当てるとかっていうのは考えないよね。
そうそう。ニューヘブンからカリフォルニアってめっちゃ遠いから。
だからこの決断ってラッキーだねって思う人もいるかもしれないけど、実際行かないだろうみたいな。
長丸もこの前前澤さんが月に一緒に行くっていう人募集したときに応募した?
しないね。
そうでしょ。そういうことなんだよね。
次行こう。
カリフォルニアまでの経路をちゃんと分析して、どうやったら最善の道でたどり着けるのかっていうのをマンジローは計算をして、
船だったり汽車を乗り着いて、これねやっぱり時間かかってるの。半年以上かけてやっとカリフォルニアに着いてる。
サクラメントっていう場所が金の発掘で有名なとこだったんだけど、最初はサクラメントの川の砂をザルで掬えば砂金が当初は取れてた時代があったらしいんだけど、
マンジローが着いた時はもうそういう状況ではなくて、ツルハシだったりスコップで結構深く掘らないと出てこないような状況だった。
これで普通に独学でやってもちょっと難しいなって思って、交付として雇ってもらったんだよ、まずは。
で、要領を得てから友人と2人で独立して70日ほどずっと作業して、金を取り分として600ドルぐらい短期間で得たんでね。
でもこれでね日本へ帰れるっていうのが見えてくるんだけども、その時にさ彼はアメリカ大統領と議会が艦隊を日本へ派遣するっていうことを決定した記事を目にするのよ。
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そう、だからなおさら日本への帰国を急いで、例えばその日本側がその艦隊に対して発砲とか大砲を撃っちゃったりとかしたら戦争になっちゃうっていう恐れもあったし、
だからマンジローは焦ってその自分が行って世界の情勢とかを説明すれば最悪の事態っていうのは避けられるんじゃないかっていうふうに思って急いで帰ることを決意する。
なんで彼はカリフォルニアからホイットフィールドのいる家には戻らずにハワイのオアフ島に直接行ったのまず。
ここで漂流した時に別れたゴエモンとフデノジョーっていうのに再会するんだよね。
もう一人トライモンっていう人が漂流の時に一緒だった人は結婚してて40歳手前で日本へ無事に帰れる保証がないから自分は行かないっていうふうに言ってこの人は行かなかった。
そこまでして帰ろうとする日本愛ってでもすごいよねって思って。
だって一応暮らしはもうなんとかなってたわけじゃん。
全員充実割としてる。むしろ日本の時よりもいい暮らしをしてた。それぞれ。
日本は貧しいわけだからね。少なくともその当時にしてみれば。
だから国民愛というかなんかそこは感じたね。
あれだろうね。ノスタルジーじゃないけどさ。やっぱりなんか生まれたところがいいんかなっていう。
それはあるんだろうね。
彼らはさ今までもう何回かその日本近海を船で通ったチャンスはあったんだけども実際に帰れてないっていう現実があって
それはあの大きな船が日本に直接乗り付けができないからなんだよね。
っていうことは近くまでその大きな船で行って自分たちのボートで恋で行くしかないっていうことに決意するわけ。
だからここで金の採掘で得た資金をもとにボートも買ってるの。
これが風を受ける穂が立てられるような結構ね丈夫なしっかりしたボートを購入してるの。
アドベンチャー号っていう名前も付けたらしいんだけど。
なんかまさにって感じだけどね。
そう、冒険ってね。
これあの着陸地点は琉球にしようっていうふうに考えたの。
これはなんだろうあのこの頃琉球というのは薩摩藩の続国という形で正式な日本の本土っていうわけでもなかったわけよ。
だからそこまで取り締まりが厳しくないんじゃないかっていうのもあったし
実際にアメリカの船が物資を求めて上陸したっていう情報を得てて
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その時は攻撃されることがなくて
翌日すぐに退去するようにっていう風な感じで言われただけらしかった。
だから琉球にしようというふうに考えたらしくて
ここでね日本近海を通る船を探して
上海を目的地とする商船を見つけたのよ。
これが冒頭で言ったホイットモア船長が率いるサラボイド号っていうところ。
ここと交渉して最初はねすごい何度も断られたんだけど
万次郎が自分は一等航海士としてのキャリアがあるし
この3人分の働きをするからどうか乗せてくれっていうふうに何度も頼んで
もしその自分の働きが不足してるんだったら
自分は上海まで最後まで行くから
日本近海で2人だけはボートに下ろして返してほしいっていうふうにお願いをして
やっと了承を得ることができた。
航海は順調で琉球の近海まで来て
ホイットモア船長は万次郎含めて3人ボートに下ろしてくれたんだよね。
下ろされたところは10マイルって予定通りなんだけど
約16キロ離れた場所で下ろした。
結構話したのは琉球の島民から
この本船が確認できないような距離にする必要があって
外国船が来たって思うと警戒されて追い払われるっていうのを避けるために
こうやってボートで日本人が来たっていうふうな感じに見せたかったね。
これね、結構悪天候で雨風が強い中
10時間くらい懸命に漕ぎ続けて
やっと万次郎らは琉球に到着したんだよね。
14歳で漂流してから万次郎も24歳になってるわけよ。
10年以上経ってる。
琉球に着いたタイミングがまた良くて
この到着の2日前に薩摩藩の藩主っていうのは
琉球って薩摩の族国だから
薩摩藩の藩主が島津成明だったの。
これは到着の2日前に就任してるの。
この人って海外の文明を積極的に取り入れようとしてる人で
実際にガストを取り入れたり
反射炉で製鉄とか大砲の鋳造などを作ったりとか
欧米の文化に理解がすごい深い人だったのよ。
だから結構万次郎らはいい待遇をしてもらったんだよね。
藩主から食事その他全てにおいて
丁寧に接するようにっていう通達が出てて
新しい服一式が渡されたりとか
毎日のように食事も出してくれた。
その後琉球から薩摩藩に行って
島津成明にも万次郎は直接会ってんだよね。
彼は正直に話して
いろいろな航海の知識だったりとかも話して
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島津成明は結構気に入って関心を示したんだよね。
この後一応長崎武業所ってとこに行って
取り調べがあって踏み絵もやってる。
これはあくまでも形式的な感じだったんだけど
3日間一応牢屋には入ってんだよね。
牢屋で実は別の時に漂流に会った人っていうのも
中国経由だったりとかから
帰ってたまたま牢屋で出会った人たちと再会して
ここで感じるのが
海外へ行くのも帰ってくるのも
よく死罪って聞くじゃん。
これって問題なのは
外国の考えに染まってないことが重視してるんだなっていうのは
この取り調べを見ててもちょっと残ってる資料からも思うんだよね。
特にキリスト教の信者になっていないければ
遭難者であれば思い切りになることはないんじゃないかなっていう感じ
を感じたんだけど
そんなもんだでちょっとマンジュロっていうのは牢から出て
トサハンに帰ることができた。
ここで11年10ヶ月ぶりなんで
お母さんに再会することができた。まだ生きてたのに。
お母さんは毎日裏山の寺の境内で
1日も欠かさずお祈りをしてたんだって。
兄弟も全員生きてたんでね。
感動だね。泣いちゃうね。
遊び頭はいなかったもんね。
よく全員無事で生きてたよね。
この後トサハン氏の山内陽道だったの。
この人にも気に入られて
この人も今の幕府のあり方を変えるべきだっていう改革を訴えてた人で
割とマンジュロらに理解のある人だったの。
ここでトサハンのお抱えの絵師って川田松陵って人がいるんだけど
この人の家にマンジュロを滞在させて
表存記略っていう本を報告書にまとめてるんだよ。
この表存記略って今でも日本語訳したやつとか
普通に買って読めるんで
これは結構リアルというか
実際にマンジュロから直接聞いた人がまとめたものだから
すごい超一級の資料だと思うね、自分は。
絵師の人だからね、冊子絵とかも入ってるね。すごくわかりやすい。
確かにね、絵があるだけで全然違うもん。
そんなマンジュロなんだけど
トサハンの指示で帰ってきた3人は
他の土地にはいかないことっていうのは条件として出たの。
あと今後海での仕事は禁じられた。
その代わり一生涯にわたって放禄っていう給料を与えるっていう
結構厚い待遇なんだけど
ただね、これを聞いたトサハン氏の山内陽道は怒っちゃって
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藩に仕えるべき逸材、特にそのジョン・マンジュロっていうのは
こんな扱いをするべきじゃないって言って
この後そのトサハンで両氏から一気に武士に投与してるんだよね。
身分制が厳しい中でのこの大抜擢なんだけど
そこから武士になったから苗字を名乗ることが許されて
出身地の中浜を取って中浜・マンジュロっていう風になってる。
そんな時にペリーが1853年に蒸気船4隻を従えて江戸にやってくるんだよね。
この時に空砲とか威圧的な行動を繰り返して
江戸幕府っていうのは対応に困ったわけよ。
アメリカの目的が何なのかっていうのが知りたかったところに
トサにジョン・マンジュロっていうアメリカから帰ってきた人物がいるってことを聞きつけるわけ。
この時福山藩士の安倍政宏っていう老中が
ジョン・マンジュロを幕府の直接磁器産にするって言って江戸に呼び寄せたんだよね。
だからマンジュロはトサの武士から幕府直属の家臣になるわけよ。
マンジュロにこのアメリカの目的は何なのかっていうのを色々聞いているうちに
分かったことはアメリカ本土では未開拓な地域が多くあって
日本に対しての領土的野心はないっていうこと。
次にアメリカの目的っていうのは鯨の数が減少して
日本近海まで範囲を伸ばして捕鯨をしたいっていうのがあって
それには日本で立ち寄って水や食料とか補給をしてもらったりとか
病人や遭難者が出た場合に保護してほしいっていう
そのための開国要求なんだっていうのを知るんだよね。
当然英語が当時日本でまともに会話レベルでできるっていうのは
ジョン・マンジュロぐらいだった。
だから当然ペリーとの交渉の際にもジョン・マンジュロが出てくるかと思いきや
彼は交渉役には一切出させてもらえなかったんでね。
これは幕府側でちょっと推測にもなっちゃうけど
アメリカ側に彼を連れて行くと何をされるかわからないっていう
ちょっと警戒心があったんだと思うんだけど
あとはジョン・マンジュロ自身も長屋でアメリカにいたってことで
まだどこかで疑いの目で幕府側から見られたのかもしれない。
だから本来だったら英語から直接日本語に通訳できるはずが
英語から一回オランダ語に訳して日本語っていう交渉にかなり時間がかかって
結果になったんでね。
アメリカもマンジュロの存在っていうのは知ってたの。
だからなんで彼を通訳として出さないのかっていう苛立ちの日記が当時残ってる。
こうした結果としては日本は開国へ踏み切るわけなんだけど
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その後マンジュロっていうのは27歳で自分の護衛役だった
堅実司班の男の元野真っていう人の次女のテツっていう結婚してるんだよね
テツっていう16歳の子と。
その後妻は亡くなって生涯で3人結婚してこの人は。
3人も結婚してんだ。
だからその子孫の人とかが今もいるんだよね。
血は途絶えてないというか。
3人もね。
しかもね若いね。
なんか尾形良いんじゃない?
やめろやめろ。
あとさ、ジョンマンジュロって言ったらカンリンマルで有名だよね。
これさ、勝海修とか福沢諭吉らとさ日本の船で初めてアメリカに渡ったっていう。
これはさ1858年に日米就航通商条約っていうのに調印してるんだよね日本は。
でこれ国家間で条約に同意しましたっていう文書を交換するために日本側の施設がワシントンに行くっていうのがまず始まりなんだけど。
で2人のね日本の福祉っていうのはアメリカ海軍の軍火の砲破炭鉱で行くんだけど。
それに随行するような形で幕府がその時オランダから購入した最新の蒸気船のカンリンマルっていうのを一緒についていくっていう風にした。
でカンリンマルってささっき蒸気船って言ったけど長丸もさ横浜海溝資料館で見たけどさあの風を受けて走るようなさ大きな白い方があるわけじゃん。
見た目からしても蒸気船じゃないよねあれ。
まあそうだよね。
そうそうこれねあの燃料のね石炭っていうのは3日分しか詰めない設計だったから。
実際はその出航と入航の際くらいしか蒸気船としての役割は使ってないんだよね。
あーなるほどあとはもう風に身を任せるっていう。
そうそうだからあとは風を受けてあの走る帆船なんだけど。
でこの時最高責任者っていうのは勝つ海主ではなくてあの軍艦部下の木村義太家って人で勝つ海主はまあその次というかまあ盗取りみたいな役割でまあいるんだよね。
で通訳として万次郎が言ってるの。
でもさあこれさ考えてみてもこの経歴から言っても万次郎って通訳っていうレベルじゃなくてもう船の技術は多分一番トップレベルに高いと思うんだよ。
あー。
そうでも通訳っていうね。
あとねあの乗組員結構いて長崎海軍の練習所っていう生徒これ航海術などまだもう教育機関の生徒だったね半分以上いてで日本人はね総勢96名って結構いるんだよ。
だけど太平洋をさどこにも寄らずに横断してアメリカ行くっていうのは日本の船としては初のことなんだよね。
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だからあのこれねアメリカの測量船のフェニモアクーパー号っていうのがたまたま下田に来てたのよ。
しかもあの下田に訪問してた時にこの船って座礁しちゃってことがあってその時にバックフーガーからその船長だったブルック隊員っていうのにお願いして
管理丸に乗ってじゃあアメリカまで一緒に同行してもらえないかっていうのを脱進する。
であのその時に実技指導も一緒に兼ねて同行してもらうんだけど実際にそのクーパー号乗ってた乗組員の11名も一緒に管理丸に乗って行ってんだよね。
そうこの人たちがいなかったら無事にたどり着いてないからねおそらく。
これってあの太平洋のあれってすごくてしかも長い航海ってした人って日本側って万次郎はしてるけど他はほとんどしてない人たち。
だから船酔いをしちゃって部屋からもう出てこないような状況だったんだって。
であとかつ回収自体も船酔いで部屋から出てこないっていうね。
そうだから日本人はね万次郎含む3名ぐらいしか船の対応っていうのはしてないんでね。
96名いてこれなんかすごいよね。
まあ船にいられてるわけだから船酔いはしょうがないんだろう。
そうそうそうそう。
でまあ他すべてアメリカ側の乗組員がほぼ休みなく操業してで万次郎も頑張って対応したんだけども。
だからブルックタイの航海日誌にあるんだけど万次郎さん私たちがこの船から手を引いたらこの船はどうなるでしょうっていうのがあって万次郎がたちまち沈没することでしょうっていうのが残ってる。
それぐらい彼らの腕にかかってたというか万次郎はその一晩中起きて船の操縦だったりアメリカの乗組員と仲良く話したりとか
この時にもコミュニケーション能力の高さっていうのを見られたんだけど
日本人って船酔いしてるっていうだけじゃなくて実際になんか焼酎飲んで寝っ転がったりとか
不注意で火事を起こしたり窓を壊したりとか結構めちゃくちゃなんだよね。
しかも数回中なんか太平洋のど真ん中でボートに乗って日本へ帰るって言い始めたりとかさ
結構ね散々な航海だったんだけども
結果無事に37日間の航海でサンフランシスコにまず着いたんだよね。
この航海で万次郎の航海技術の高さっていうのが改めて評価されるような出来事だったんだけど
だってそもそも通訳で言ってるのにね。
サンフランシスコについて本当はねワシントンまでこの船って行く予定だったんだけど
実際に船の修繕っていうのに思いのほか時間がかかることが分かって
ワシントン行きっていうのは断念して
ここでもしあっち側にワシントン側に行ってればホイットフィールド船長たちの家とか近いから会えたかもしれないんだけどね
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ここは会えてなくて手紙だけ書いてっていうのがあったんだけど
その後ねこのカンリンマルってさ小笠原諸島にもね10年後ぐらいだけど行ってるんだよね
1862年に小笠原諸島の開拓調査団っていうのが107名がカンリンマルで小笠原諸島に行ってんの
またしても通訳として万次郎は同行してんだけど
小笠原諸島ってさその時日本人って住んでなくて未開の地だったわけよ
でこの開拓の必要性っていうのを幕府にね3回も憲法書を出して万次郎っていうのは提出で訴えてたんだよね
それあの捕鯨船とかで立ち寄って知ってるからね
八丈島からこの時ね小笠原諸島の七島ってとこに14名男女を住まわせてる
これがなければ今日本じゃないかもしれないね
まあもしかしたら
小笠原諸島ってそもそもさ最初にさ住み始めたのって1830年代にハワイのカメハメハ大王が送った人たちなのよ
あとその後アメリカ人とかイギリス人も住んでたっていう状況なんだけど
この時に日本人が100何名大勢で行ってここが日本国の領土であるってことを
その住んでる住民たちに証明するサインをもらって
で港に日の丸を形容していうような出来事があるんだよね
調査から小笠原諸島っていうのは捕鯨にも向いてるなってことが分かって
幕府は捕鯨許可を出してその後万次郎っていうのは実際に外国船を購入して
自分で捕鯨船の船長として漁務をしてたりするのここで
この時さ鯨を探してる中で近くでもないけど航海の土地で鳥島に立ち寄って
ここが日本国領土の看板だっていうのを設置してるらしい
そうだから鳥島もしかしたら日本じゃないかもしれない
この出来事なかった
まあそんな感じなんだけど
官林丸の後さ仲良くなった勝海州と共に万次郎っていうのは
結構その浅草にさうなぎを食べに行ったりしてんだよね
一緒に八甲っていう今でも浅草にあるんだけど
万次郎はねうなぎ茶漬けが大好物だったらしい
うなぎ茶漬けってひつまぶしみたいなもんでしょってことは
美味しそうだよね
うまいだろうな
あとはねさつま藩やとさ藩で教授として教えてたりもするんだけど
生徒には東郷平八郎とか後藤正次郎板垣大輔とか
竹内綱って吉田茂のお父さんだね
そうそうたるさなんかこれから日本を作っていくような人たちもいるわけよ
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1869年には明治政府からの要望で
改正学校って現在の東京大学の英語教授にもなってるんだよね
この後1870年にヨーロッパにおいて
不服戦争ってドイツとフランスの戦争があるんだけど
このね戦争を視察されたために
私説団7名を日本はね送ったんだけど
この中に万次郎も選ばれて
ここでさパリに向かう途中にニューヨークへ寄ったんだけど
1日だけ時間あったから列車を乗り着いて
ニューヘッドホードへ向かって
フェアヘイブンにいるホイットフィールド船長宅に行ってるんだよね
これがね最初で最後なんだけど
21年ぶりにホイットフィールドにあって
これ当時ねホイットフィールド65歳で万次郎は43歳なんだよね
日本のねコケシをプレゼントしてます
でね今度会う時は子供たちも一緒にねっていう風に別れたんだけど
結局この後ね会う機会はなくて
ホイットフィールドっていうのは82歳で亡くなってる
で万次郎もちょっと先だけど71歳で亡くなって
脳一血で最後亡くなってるんだよね
こんな風に万次郎のちょっとずっと
生い立ちを遡っていったんだけど
枯れて日米友好のまさに駆け走ったなっていう
これさあのマサチューセッツ州のフェアヘイブンの図書館にも
今でも万次郎の展示室が設けられてるんだって
そうそうそんなねジョン・万次郎でした
どうでしょうか
まあジョン・万次郎の名前ぐらいさ
なんとなくこう全然歴史に疎い人でもさ
聞いたことあるっていうような人だと思うんだけど
実際そのじゃあ何した人ってなるとさ
英語喋れた江戸時代の人でしょぐらいの
多分そういう認識だと思うんだよね
あーそうだよね
そうそうで俺も多分はじめそうだったしさ
なんか幕末ぐらいにアメリカ行って
英語喋れるようになった珍しい日本人だよねみたいなさ
ほんとその印象は強いんだけど
でも実際はさただたださ
アメリカに行った日本人っていうだけじゃないわけじゃん
その能力的にもそうだし
そうだね
やっぱりさその後明治維新に向かっていく日本であったり
明治維新後の日本であったりでもさ
いろんな方面で活躍はしていくわけじゃん
そんなすごいさ超活躍したっていうわけじゃないけど
でも縁の下の力持ちみたいな感じでさ
日本の礎をこう作っていったっていうところは
すごく評価していい人かなっていう風には思う
あーそうだよね
なんかちょっと評価が低いかなっていう気はするんだよね
要するに何が言いたいかっていうと
あー俺もそう思う日本での評価がね
だって普通に考えたらさやっぱり
そのさっきのペリー来訪の時もそうだけどさ
ジョンマンジローから幕府は情報を聞いてさ
30:01
あーじゃあとりあえずは大丈夫そうだなっていうのが分かったわけじゃん
だってジョンマンジローがいないでさ
なんか例えばさ
いや奴らは植民地化しようとしてんだぜみたいなさ
そういう噂が流れちゃったらさ
戦争になったかもしれないじゃんそこでアメリカと
なったかもね
そうそうだからなんか歴史の垂れ間になっちゃうんだけど
やっぱりさそういうちょっとポイントポイントでさ
ジョンマンジローいたから上手くいったみたいなことが多いと思うんだよね
あー確かにね
小川総裁もさ
結局ジョンマンジローがもし言わなかったらさ
どこどこの領土だったっていう可能性は確かに本当にあると思うんだよ実際
まぁね
まぁマンジローだけの意見じゃないかもしれないけど
確かにきっかけはね
うーんそう
だからやっぱりちょっとそういったところでさ
あのジョンマンジローが言うならっていう多分信頼感もあったと思うし
あー確かに
そうそうだからなんだろうな
もうちょっとこの人って取り上げてもいいんじゃないかな
とは思うね歴史の教科書とかさその他諸々でも
うーん通訳っていうのもったいないなっていうのもあるよね
もっとさ逆に交渉役としてもねぐらいのレベルじゃんもう
うーん
っていうのは確かに思ったね
うーんそうなんだよね
あの晩年ねマンジローっていうのは鎌倉のね長谷で過ごしてんの
うーん
この人さ鎌倉って言ったらさやっぱ紫陽花が有名じゃん
あそうなのちょっと知らない
そうだよ紫陽花であの14歳でさ漂流した鳥島っていうのも
ま小さくね咲いてる紫陽花があったんだけど
うーん
まそんな紫陽花を見て自分の原点を思い出していたのかもしれませんね
何それ
まということで今日はジョン・マンジローについてでした
はい
最後まで聞いていただいてありがとうございました
はいありがとうございました
32:50

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