1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
  2. #172「中島飛行機と終戦」なぜ..
2024-08-13 30:09

#172「中島飛行機と終戦」なぜ戦後に姿を消すことになったのか?

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戦前、航空機メーカーとして三菱重工と並ぶ巨大企業

1945年の終戦とともに姿を消した

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第82回「財閥解体」GHQによる戦後の日本統治政策

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第79回「日本にとっての大東亜戦争」

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00:04
スピーカー 1
空に憧れて空を駆けて行く あの子の命は飛行機雲
スピーカー 2
始まりました。大人の近代史、よろしくお願いします。 よろしくお願いします。何だろう?わかんない。
うそ?これあの名曲、飛行機雲。 え?あの松桃屋由美の。別に言ってしまえば世代じゃないからね。
スピーカー 1
うそ?いやでもあれだよ。これさ、あのジブリの風立ちぬとかにも使われた曲だからね。
風立ちぬでそういう曲だったっけ?ちょっと覚えてねーな。見たけど。 ちょっとね、その映画とはずれちゃうかもしれないんだけども
スピーカー 2
今回はね、中島飛行機をやりたいと思います。 出たよ。もう素晴らしいね。もうこれあれだよ。今もう待ってました。
スピーカー 1
みんな喝采してるよ。 いいんだよ、無理して。そんなの持ち上げなくて。
いやいや、もうそれがやっぱおときんのね、もう今ね、しょうがない。もう事実だから。 いやいや、今日すごいずっとね、飛行機雲聞いてきたから。気持ちはね、入ってるから。
いやいや、そこいらないでしょ。 そうそう。まああの自分自身もね、ちょっと空に時間を費やしてきた。
スピーカー 2
で、今日はこの中島飛行機をやりたいと思います。 空に時間を費やした意味がよくわからないけど。
でも確かに小片郎ってさ、パラやってたからさ、あのそういう、なんだろう、空を飛ぶっていうことに関してはさ、まあいわゆるもうプロだよね。
いやいや、怒られるよマジで。パラグライダーだから全然違うけどね、飛行機とは。 まあ原理は違うからあれなんだけどさ。でも空を飛ぶっていうところは一緒じゃん。
スピーカー 1
そうだね。まあということで、ちょっとこの中島飛行機っていうのは、戦前ね、航空機メーカーとして三菱重工と並ぶ巨大企業だったんだよね。
1945年の終戦とともに姿を消してしまった会社でもあるんだよね。
で、このね、中島飛行機は創業者がね、中島築平っていうんだけれども、この人群馬県の出身で農家のね、長男として生まれて、
あの農家を継ぐために親からはね、あのそんな教育は必要ないっていうふうに言われて、高等教育とか受けさせてもらえないような環境だったんだよね。
で、ただね築平っていうのは16歳の時に親の金をくすめて、勝手にね、あの東京へ行っちゃうんだよね。
で、その後ね、自力で勉強して南韓のね海軍機関学校に入学してるっていう人なんだよね。
すごいよね。
スピーカー 2
まあ、親の金くすめて、まあ結果が出してるからいいと思うけどね。
スピーカー 1
ね、そうそう。で、海軍ではね、技術者としてフランスとかアメリカなんかも視察して、そこでね航空機の構造とか技術を学ぶ機会があったんだよね。
で、アメリカ行った時なんかは勝手にね、操縦免許を取得しちゃうっていうような、まあすごいね、堅破りな人なんだよ。いろんなところで。
03:04
スピーカー 1
彼の中で航空機っていうのが今後のね、戦争の主力になっていくっていうふうに革新に変わっていったんだよね。
ただね、当時の軍の考えっていうのは対艦挙法主義っていう、あの巨大な軍艦に巨大な大砲こそが必要なんだっていうような考えが根強くあったんだよね。
それでね、大正3年の海軍の予算をちょっと見てみると艦隊関連への軍備予算っていうのは1億円あったんだよね。
それに比べて航空機の予算っていうのは20万円しかない。そうそう。こんなね、落差っていうのも竹兵はね、もう粉買いして
意見書を海軍に提出するっていうような感じだったんだよね。その後、自らもう航空機製造していくんだって言って、海軍を退役して、
その時、彼って海軍機関隊っていう結構いいポジションで、将来も約束された立場なんだけども、なんとこれを退役して自ら会社を立ち上げるんだよね。
1917年に大正6年、民間会社飛行機研究所っていうのを立ち上げて、最初はね、使われてない小さな洋産小屋だけだったんだよね。
カイコを育ててた、そんな綺麗な小屋ではないんだけども。カイコと言ったら尾形郎だもんね。そこはいいんだけどさ。
スピーカー 1
社員も中島直兵の兄弟とか海軍時代の部下なんか合わせても8人ぐらいしかいなかった。本当に小規模からスタートしてんだよね。
最初は初めての飛行機製造に苦戦して失敗を繰り返しながら、大正8年にようやく試験飛行に成功して、そこで陸軍から練習機20機の注文を受けることになったんだよね。
その後、資本提供も受けるようになったりとか、会社は徐々に大きくなっていって、社名も中島飛行機っていうように、いくつか名称変わるんだけど、最終的には中島飛行機になったんだよね。
この中島飛行機が、そもそも個人ですごいちっちゃなところから、この先三菱なんかの財閥と渡り合っていくんだけども、なぜ成功できたかっていうと、
一つ目は、優秀な人材を覇覚の大偶で呼び寄せたんだよね。
例えば東京帝国大学の優秀な学生とか、その中の一人の吉田隆夫っていう、この人もすごい名設計をした人なんだけども、
この人は東京帝国大学の航空学科卒で、当時この学科って7人しか入学できないっていう、エリート中のエリートだったんだよね。
あと、東北帝国大学の機械科を卒業して、その大学で助手をしてた小山康氏とか、この人も後に有名な設計の担当になるんだけども、
こういった優秀な人材を自ら直接スカウトして、彼らを全て設計部に配置したんだよね。
06:05
スピーカー 1
次は、若者が活躍できるっていう環境があったんだよね。
三菱とか川崎とか、大きな会社っていうのは40代の熟練した技術者が設計とか制作にメインで携わっていて、
三菱なんかね、ネジ1本買えるのも会議が必要だったんだよね。
それに比べて中島っていうのは、もう大学卒業者にすぐに仕事を任せて、さらに具体的な指示は出さずに自由に図面を描かせるんだって。
それで、自由な発想を推奨して提案したプランが採用されれば、その責任者に抜擢されて、出世していくっていうような環境だった。
だから、若者たちが競い合うようにアイデアをどんどん出すっていう環境があったんだよね。
最後は、何と言ってもやっぱり創業者の中島竹平の飛行機への情熱なんだよね。
もともと彼って技術者としてスタートしているから、飛行機の性能にこだわっていって、それに若い優秀な人材が興奮したんだよね。
後に技術の中島って呼ばれるほど、この優れた航空機をどんどん作っていくんだよね。
ちなみに中島竹平っていうのは、1931年に世界へ進出していって、形式上は中島飛行機から一切手を引いているんだけども、
その後も中島飛行機を影から支えて、大社長って呼ばれてるっていう側面はあるんで、一応紹介しておきます。
ちょっとフラットスピンしちゃったんで話を戻すと、日本は大正くらいまで海外からの航空機を購入してたんだよね。
または海外のライセンス料を払って、同じものを生産していた。
徐々に日本国内でも国産の飛行機の必要性が高まってきて、そこで日本は競争施策っていう、コンペだね。
指名した数社の飛行機会社が同じ場所で試験飛行をするっていうやつなんだよ。
与えられた条件をクリアしていって、最も優れた飛行機が採用されて量産されていくっていうシステムだった。
これは各社の競争意識を煽ることで技術レベルの向上を狙うという目的もあって、この仕組みが中島飛行機のようなまだまだ規模の小さい会社でも優れた飛行機さえ作れば選ばれる可能性があったんだよね。
これ後に太平洋戦争前には一社指名方式に変わっていっちゃうんだけど、この時は競争施策だったんだよね。
それでちょっとエピソードをいくつか紹介するんですけど、海軍からこれは競争施策で、以前三菱が作った一丸式艦上戦闘機の後継機種を作りたいって要望があったんだよね。
09:01
スピーカー 1
この条件には時速240キロのスピードと不時着水した場合に長時間海上に浮上していることっていう条件があった。
三菱は不時着水時の浮上を重視して、翼の一部を水密構造にして、要はボートのような形状にして沈まないようにしたんだよね。
結果、性能は少しだけ向上しただけで従来のものより500キロ以上も重くなっちゃったんだよね。
一方で中島っていうのは、不時着水時の対応は機体後部に浮き袋を設置しただけにして、重量を300キロ増えただけに留めたんだよね。
それよりも性能を重視して、以前の300馬力から500馬力のエンジンを搭載して、スピードとか整備性の良い飛行機を作ったんだよね。
総合的に評価が高かった中島飛行機が採用されたんだよね。
このように中島飛行機は海軍の要望を的確に捉えて、海上の浮上は二次的なものだから、それよりも後継機種の戦闘機種として性能を大幅にアップさせるっていうことにしたんだよね。
例えばスマホだったら、iPhone第3世代があるじゃん。
当然、第2世代より大きく性能アップしたいってオーナーだったら思うかもしれないけど、そこにさらに要望で完全防水もしてくれって言われた技術者が完全防水にして、その代わりにすごい重くなったら嫌でしょ。
スピーカー 2
スマホなんてそうだよね。重さは特に大事だもんね。飛行機もそうだけどさ。
スピーカー 1
それだったら防水ケースつければみたいな、そんな感じなんかなと思って。
スピーカー 2
いいね。この例え、小片郎オリジナルでしょ?
スピーカー 1
オリジナル。これまじ幼稚園行ってる時に思いついて、すげー嬉しくなっちゃった。
スピーカー 2
さすがでアイデアの方向だよ。やっぱり俺勝てねえわ、小片郎には。
スピーカー 1
どうでもいいんだけどね。
結果、この総合的に優れた飛行機を作った中島飛行機の方が採用されて、これは三式艦上戦闘機っていう名前がついたんだよね。
こんな風に各社が競うコンペが行われて、ほぼこの先三菱と中島のどっちかが選ばれるっていうような、本当に競い合うような形になったんだよね。
あとはね、紹介したのが陸軍のコンペで採用された中島飛行機の九一式戦闘機っていうのがあるの。
これはね、設計の主担当が小山康で、それまでの飛行機って副用飛行機っていう上下に2枚の翼があるタイプだったんだよね。
この方が安定性があったんだけども、これをね広翼単翼っていって、機体の上部に1枚の翼だけにしたんだよね。
12:00
スピーカー 1
この方がシンプルな構造で、製作工程の負担が軽減されるっていうメリットがあったんだよね。
さらにね、この単翼っていう1枚の翼の方がスピードが出て、これね日本の戦闘機として初めて300キロ超える機体になったんだよね。
中島飛行機のがこれも採用されて、陸軍では九一式戦闘機と名付けられて1931年から生産をされたんだよね。
さっきからちょっとなんとか式とか言ってるんだけど、一応ねこれね九一っていうのは91なんだけど、後期年号の下2桁から取ってるんだよね。
これ後期年号って初代天皇とされる神武天皇の即位が紀元前660年って言われてて、その660年に西暦を達したものなんだよね。
そうそう。だから1931年は後期2591年だから九一式って言われるんだよね。
だからゼロ戦とかもそうだよね。ゼロ式艦上戦闘機って言うんだけど、これも後期2600年だから語尾がゼロだからゼロ戦なんだよね。
こんな感じでちょっと中島飛行機は徐々に飛行機業界でシェアを拡大していって優秀な人材も入ってくるようになっていったんだよね。
その中にね、糸川秀夫なんかも有名で、彼も中島飛行機に就職をしてるんだよね。戦後、宇宙開発の父とも呼ばれて、誰もが知る有名人なんだけど、彼も東京帝国大学の航空学科を卒業して、本当にエリートで中島飛行機の設計に携わっていくんだよね。
彼が設計に携わって作ったものがいくつかあるんだけど、一つが陸軍に採用された97式戦闘機っていうのがあるんだよね。
これ設計主担当は小山康氏なんだけども、この小山と一緒に糸川も参加していて、この2人が戦闘機のパイロット養成する学校にちょっと聞き込みに行って、どういう戦闘機をみんな望んでるのかっていうのを質問しに行ったんだよね。
設計担当としては、やっぱり飛行機ってスピードだろうと思ってたんだけども、その生徒から言われたのは、スピードよりも素早く方向転換して、敵機の後ろにつける機体を求めてたんだよね。
これは旋回能力が重要ってことで、この能力を高めた機体を目指すことにしたんだよね。
これには空力設計に強かった糸川秀夫も貢献したって言われていて、またこの機体っていうのは低翼単翼って、さっき高翼単翼だから高い位置に翼があるんだけど、これは飛行機の下方面から横に水平に翼が伸びてるタイプで、もう今の飛行機を思い浮かべてもらえばいいかなっていう。
この低翼単翼って空気抵抗を減らすこともできたし、飛行機の運動性が向上したんだよね。
15:01
スピーカー 1
その反面、なかなか安定性が最初悪くて、これが試行錯誤してやっとその形になったのがこの97式戦闘機なんだよね。
この戦闘機は1939年に日本とソ連がモンゴルの国境付近で軍事衝突したノーモンハン事件でも使われたんだよね。
ぜひ長丸のノーモンハン事件を聞いてもらったらいいかなと思うんですけども。
スピーカー 2
いや、97式の話は言ってない。当選は勝ったよっていう話しかしてない。
スピーカー 1
このソ連機と空中で97式で遭遇すると、素早く旋回することができて、後ろに回って数多く撃ち落としたっていう実績があるんだよね。
最終的には約1700機くらい撃墜したって言われてるんだよね。
この97式戦闘機の後継機として一式戦闘機ハヤブサっていうのが作られたんだよね。
これはスピードとか後続距離がさらに強化されて、また糸川秀夫が考案したファウラーフラップっていうのが後に取り付けられるんだけど、
これ翼に動く板みたいなの飛行機乗ってみたことない?
スピーカー 2
あるある。
スピーカー 1
そうそう。この動作を利用して運動性能を向上させたんだよね。
このハヤブサが中島飛行機で最も生産された飛行機になって、日本のこのゼロ戦の次に多く製造された戦闘機なんだよね。
その後、第二次世界大戦に入っていくんだけど、このハヤブサっていうのは初期には日本が南方方面に進行した際に多く投入されているんだよね。
それから日本で最も多く採用された戦闘機にゼロ戦っていうのがあると思うんだけども、
これは機体は三菱製なんだよ。
だけどエンジンは実は中島飛行機製のもので、坂江っていうエンジンを使っていて、このエンジンは戦時中最も生産されたものなんだよね。
中島飛行機ってエンジンの開発ってすごく定評があって、他にもホマレっていうエンジンとか、数多くの戦闘機に搭載された実績を持ってるんだよね。
他にもちょっといっぱいあるんだけども、いくつか紹介すると、テンザンっていう艦上攻撃機っていうのがあって、これは大きな爆弾を搭載できる大重量の戦闘機だったんだよね。
あとサイウンとか、これは高速偵察機で、当時世界最高の拘束距離と速度を誇ったって言われる機体なんだよね。
スピーカー 1
こんなエピソードがあって、乗組員が敵機に襲われた時に自慢のスピードで引き離して、我に追いつく敵戦闘機なしって伝聞を送ったっていう逸話が残ってるぐらいなんだよね。
あとキッカっていう、これ試験飛行のみで終わっちゃった特別攻撃機なんだけれども、これはプロペラ機じゃなくて国産初のジェットエンジンを搭載した飛行機っていうのも作ってるんだよね。
18:03
スピーカー 1
あとフガクっていう、これはもう伝説になってるんだけども、計画だけで終わった超大型爆撃機なんだよね。
これは高速距離が15,000キロって言われてて、爆弾搭載量は20トン、5,000馬力のエンジンを6機搭載して、B29の3倍以上の馬力がある結構大きな力道山もびっくりだったんだよね。
スピーカー 2
なんで力道山が急に出てくるんだよ。
スピーカー 1
最低限にね。
これ専用の工場も作られて計画を進めていったんだけど、本土空襲が激しくなって計画って結局中止になっちゃったんだよね。
高層では1トン爆弾を20発搭載して、千島列島のシュムシ島から飛び立って7,000キロほどあるアメリカ本土に行って、そこで爆撃をして、そのまま大西洋を飛び越えて有効国のドイツ領フランスに行って、
給油と爆弾を補充して、また再びアメリカ本土を爆撃するっていう計画があったんだよね。
そうすることで一気に和平交渉に持ち込むっていうことを計画をしていたんだよね。
このフガクっていうのは中島ではZ機って呼ばれて、もうアルファベットの最後って意味で最後の飛行機だったんだよね。
中島飛行機っていうのは1945年の4月1日、もう戦争の終盤だね。
国有化されて第一軍事交渉になったんだよね。
これで国家の目的に沿った生産をするっていうことで、その見返りとしては国から資材とか資金、さらには労働力を優先的に割り当てられたんだよね。
それもあって規模を拡大していって、各地にたくさんの工場を建設して、戦争末期には何と従業員20万人以上もいたって言われてるんだよね。
三菱重工と並ぶような巨大な軍用機メーカーになっていったっていうわけなんだけども、
ちょっとここでアメリカと航空機の製造の比較なんだけれども、日本のピークが月2500機ほど作ってたって言われてるんだけども、アメリカはピークが月8000機を超えてるんだよね。
さらに日本はゼロ戦とかハヤブサをはじめ大量生産されたものって小型の軽戦闘機なんだよね。
それに比べてアメリカって中型から大型機が多くて、その上さらに製造台数も圧倒的な差っていう、結構な製造能力の差が出てるんだよね。
日本はさらに熟練工も終盤になって戦争へ借り出されるようになって人材不足が生じたし、さらには資材不足にもなって、航空機燃料に必要な石油も不足していったんだよね。
それで燃料にアルコールを混合したりとかして質の悪い燃料が使われて、本来の飛行機の性能が出せてないっていうことがあったんだよね。
そんな状態の飛行機で特攻なんかも終盤行われるようになって、多くの若者が命を落としてるんだよね。
21:06
スピーカー 1
ちょっとこんなエピソードがあって、中島飛行機が軍から特攻機をとして大量に製造命令があって、キ115っていう機体を作ったんだよね。
これ資材が不足してたから木材とか鉄で作った簡素な飛行機なんだけれども、飛び上がりはできるんだけども、機体が弱すぎて着陸できないっていうものだったんだよね。
結果120強度作られたんだけども、これ実戦では使われなかったんだよね。
これは中島の技術者が着陸できない飛行機は出荷できないって言って拒んで出荷を遅らせたっていうエピソードが残ってるんだよね。
戦争終盤になってくると、本土でもアメリカ軍によるB29の空襲がどんどん激しくなっていって、中島飛行機をはじめ日本各地の軍事工場っていうのは特に狙われて破壊されていったんだよね。
そして終戦になったんだけれども、その後中島飛行機っていうのは富士産業っていう名前を変えて再建しようと試みてたんだよね。
ただGHQによる軍事会社の解体が行われて、特にこの中島飛行機っていうのは徹底的に解体が行われたんだよね。
例えば愛知県にあった半田製作所なんだけれども、これは戦後、連合国の調査員が100人ほどの武装した兵隊を連れてきて、
この製作所自体が終戦前に7月24日に大規模な空襲にあっていて、多くが破壊されて260人ほど亡くなってたんだよね。
そんな状況なんだけれども、9月3日に訪れて工場に残っていた飛行機、重巣機をさらにガソリンで燃やして滑走路にもいくつも爆薬を仕掛けて使えないように爆破したんだよね。
こういったことが続いて、中島飛行機っていうのは結果、戦後姿を消すことになったんだよね。
なんで中島飛行機はこういう事態になったかっていうと、いくつか理由があるんだけども、一つ目は飛行機製造の技術とか開発力が高かったんだよね。
これは高性能な軍用機を設計から製造、組み立てまで自社で一貫して作るっていう技術力と開発力を警戒されたんだよね。
二つ目は軍用機専用会社だったっていうところで、三菱とか三井、住友、安田なんかの財閥企業も軍需産業に携わってたんだけども、
軍需工場以外にも民術品の工場を多く持ってたりとかして、そのため民術産業への転換ができたんだよね。
ただ中島飛行機っていうのは軍用機専門の製造会社だから、民術産業への転換っていうのは難しくて、一時試みたんだけども成功しなかったんだよね。
24:01
スピーカー 1
三つ目は何と言っても終盤に国有化されたことなんだよね。
戦争末期に国有化されて終戦時中島飛行機っていう民間会社は形式上存在しなかったんだよね。
しかも戦時中大規模な増産に伴って工場を拡大して、国の圧戦で日本工業銀行っていうところから多額の融資を受けてたんだよね。
そのため戦後中島飛行機の役員とか全て退出させられて、日本工業銀行のメンバーに入れ替わって経営権を奪われちゃってるんだよね。
一方、創業者の中島竹兵っていうのは正解で、終戦直後は軍需大臣とか商工大臣を務めて大きな存在になってたんだけども、
突如GHQからA級先輩に指定されているんだよね。
彼は糖尿病だって言って、実際にA級先輩に出頭せずに応じなかったんだけども、これに対してGHQも強制的に連行するようなことはしなかったんだよね。
おそらくA級先輩に指定したのは中島飛行機の再建の活動をさせないためっていうふうにも言われてるんだよね。
こんなふうにしてこの会社っていうのは再建することなく姿を消したんだよね。
ただ中島飛行機の技術者っていうのは多くが自動車関連の分野で活躍するっていうケースが見られたんだよね。
これは1952年までGHQが飛行機の研究とか製造を禁止したっていうのがあって、そのためその技術が自動車産業へ注がれたんだよね。
例えば有名なのがスバルで、中島飛行機の関係者で作られた富士重工業が元なんだけれども、
特に軽自動車のスバル360っていう機種があって、これが飛行機製造の技術が色濃く反映されたものって言われてる。
全長3メートルっていう小柄なんだけど、エンジンをはじめ機械部分の狭い空間に集約して大人4人が乗れるようにしたものなんだよね。
航空技術を応用した超軽量構造にもなってて、軽自動車っていうカテゴリーを日本に根付かせたとも言われてるんだよね。
あとホンダ技研工業っていうのも中島飛行機のエンジン関係の技術者が多く就職をしたって言われていて、
ホンダ技研ってF1グランプリに参戦して1965年に初優勝してるんだよね。
この時の監督だったのが中島飛行機のエンジニアで、さらにそのF1のエンジンには富岳のエンジンで開発された低圧燃料噴射装置っていうのが取り付けられていたっていうのがあるんだよね。
他にもプリンス自動車工業なんかも中島飛行機の技術者で作られた会社だし、
他にもトヨタとか日産にも多くの中島飛行機の技術者が就職して活躍していったんだよね。
こんな風に日本の自動車産業の発展に大きく貢献していったんだよね。
27:02
スピーカー 1
日本の飛行機開発っていうのは戦前まで、世界で見てもかなり高い水準まで行っていて、その一躍になったのがこの中島飛行機で、
個人的にね、ただただちょっと残念なのは、戦後この技術が航空機開発にもっと活かされてたらよかったなってちょっと思うんだけど、
日本製の飛行機がさ、今全然空港見てもないじゃん。
もしかしたら空港が日本の飛行機で埋め尽くされている姿を見てみたかったなって、ちょっとこの回をやっていて思いました。
スピーカー 2
うん、そうだね。
スピーカー 1
はい、ということでいかがでしたでしょうか。
スピーカー 2
まあ、そうだね。もう俺から言うことはないよね。岡太郎が。
もうかなり細かく解説してくれたから。
で、まあほら、うちらさ、埼玉出身だからさ、群馬近いじゃん。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
で、まあちょっとほら橋渡って、利根川渡って群馬行くとさ、もうスバルの工場とかさ、まあ要はあれだよね。
多分、もともとそういうところにあったんだよね。軍需工場が。
スピーカー 1
うん。
スピーカー 2
が結構広がっててさ、なんかやっぱり昔の名残っていうのはなんか今でもこう垣間見えるなぁとは思うけれども。
スピーカー 1
確かにそうだよね。
スピーカー 2
そう。で、あとはそうだね、やっぱりその最後触れてたけど、航空産業を禁止されたことによって、その技術は伸びなかったけれども別分野、まあ自動車だよね、の分野にこうね、
生かされたっていうのは、まあ日本人のもう絶対この技術をなくしてたまるかっていう思いもまあきっとあったんじゃないのかなと思うんだよね。
スピーカー 1
ああ、確かにね。
スピーカー 2
うん。まあ航空産業があるなしはもう正直もうこれはどうにもならないことだから、多分今後も日本はその分野ではきっと活躍できないんじゃないのかなと思ってるけれども。
スピーカー 1
ああ、そうか。三菱もね、なんか挑戦してたけどね、結局うまくいかなかったもんね。
スピーカー 2
うーん、まあ無理だと思うよ、いろいろあるから。
スピーカー 1
ああ、確かにあのこれやっててさ、熊谷ってやっぱ群馬寄りだからさ、中島飛行機関連のなんか工場とかも結構あったらしいね。
スピーカー 2
うん、だから爆撃受けるわけじゃん。
スピーカー 1
ね、あの終戦の本当に直前に、あ、玉音放送の直前か、に大規模な空襲、熊谷あったけど、そうそう、そんな風にもやっぱちょっと思っちゃって。
スピーカー 2
うん、そうなんだよね。
スピーカー 1
うん、まあということで、今回は中島飛行機についてでした。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
面白かったら、あの結構ね、評価も推しもどんどん押してくれる人も多くなってきて、フォローもすごいしてくれる人も多いから、今後もぜひよろしくお願いします。
スピーカー 2
はい、フォローしていただけたら我々すごく喜びます。
スピーカー 1
はい、それでは最後に長丸から名曲、飛行機雲。
スピーカー 2
いやだから俺知らねえって。
あ、そうなの。
冒頭で言った。
スピーカー 1
それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
30:00
スピーカー 2
ありがとうございました。
30:09

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