1. 「大人の近代史」今だからわかる日本の歴史
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2023-03-21 39:47

#107「終戦を知らず29年間ジャングルに」小野田寛郎のルバング島でのゲリラ戦

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小野田寛郎は終戦を知らずに29年間、フィリピン・ルバング島のジャングルで過ごす
そこには、彼の任務の特異性や思わぬ事態が重なったことが要因としてある。
今回はそんな彼のお話をしています。

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00:04
良い鉄は釘にならない、良い人は兵にならない。始まりました、「大人の近代史」宜しくお願いします。
宜しくお願いします。
良い鉄って釘にならないんだってちょっとおって思ったけど、なんで?
なんでって言われても、これ中国の昔からあることわざらしいんだよね。
確かに鉄ってわかんないけど、俺、屑鉄とかそういうのを釘にしてんのかな。
あー、使った残りみたいな感じで、そういう、なんだろう、破片とかで作ってるみたいな感じなのかな。
なんかそんなことなんだろうね。今はどうかわかんないけど。
うん。
で、良い人はさ、兵にならないって。これね、あの、今回の主人公である人が親しい中国の友人から言われたんでね。
うん。
そうそう。要はさ、中国にその時行って、兵隊にはならないでくれっていうような、一緒にここで暮らそうよみたいなのを言われたみたいなんだよね。
へー。
そう。なんで今日のね、テーマは小野田博夫さんです。
あれ?小野田博夫さん?
なんか聞いたことある?
んー、でもわかんないな。なんか聞いたことあるような気はした。
あ、そう。で、この人はね、あの、約29年間、終戦を知らずにフィリピンのルバング島のジャングルの中で過ごした人なんだよね。
あー、なんかわかったわ。
そうそうそう。ま、それはさ、なぜかっていうのもちょっとおいおいやっていきたいんだけど、
うん。
ま、彼のね、任務の得意性っていうのも、ま、一つにあったんでね。
うん。
で、さ、自分さ、これいろいろ調べる前にさ、終戦を知らずにいろんなところでさ、各地でいた日本兵って、ま、実際にいたわけで、
うん。
で、なんかそういうイメージってさ、例えばジャングルの中とかだったらさ、痩せ細ってさ、穴の中でなんか隠れて暮らして、気の毒な日本兵なんじゃないかっていうふうに思ってたのよ。
うん。
で、この小野田博夫さんを調べたら、なんかそれとはまた全然違った感じだったね。
うん。あ、そうなんだ。
そうそう。それにちょっと驚いた。
へー。
ま、ということで、ちょっとおいたちから。
うん。
彼はね、1922年に和歌山県で生まれたんだよね。
うん。
で、中学を卒業して、あの、自らね、進学をせずに、貿易会社田島養子ってところに就職するの。
うん。
でね、すぐにね、貿易会社だから、中国の北省の汎港ってところに配属になって、そこ汎港ってね、今ね、現在の武漢なんだよね。
うん。
そうそう。今ね、新型コロナと、ま、初の感染者が出たってところで、みんな知ってるかもしれないけど。
うん。
なんでその仕事ではさ、彼は日本語を使わずに中国語のみで行わなければならなかったんだよね。
03:00
うん。
でね、またね、プライベートというか、中国の女の子をくどくためにも、あの、中国語ってこう、けっこう必死に覚えたってところがあったの。
あー、なんか、それは小片郎も、なんか言ってたよね、学生のとき。
何にも喋れねえ。
ははは。
そのため、彼は中国語が長けてたんだよね。
うん。
で、そのことが、彼の、ま、運命を分けるというか、
うん。
っていうことにもつながっていくの。
うん。
で、時代背景としてはさ、その頃は日中戦争、で、太平洋戦争にも入っていた時期なんだよね。
うん。
で、日本は戦時体制中で、彼はさ、満20歳になったから、中国で徴兵検査を受けたんだよね。
うん。
そこで、九州久留米の第一予備士官学校で、訓練を受けるために日本へ帰国する。
うん。
そこではね、50人の兵を引き連れて、敵に切り込みを繰り返したりとか、
そういうね、ま、いわゆる、玉砕戦法みたいな訓練もやっていたっていうんだよね。
うん。
そうそう。で、そんな中、教官に呼ばれて、なんか、お前は中国語ができるらしいなって言われて、
うん。
で、上官からね、ある機関への配属が言い渡された。
で、それがね、あの、陸軍中野学校なんだよね。
うん。
あの、陸軍の中にはさ、こういった校名を見ても内容がわからない学校っていうのは2つあるって言われてて、
うん。
それがね、中野学校と奈良市の学校っていう。
うん。
で、中野学校は、ま、いわゆる、その、スパイの養成機関って言われてる。
うん。
で、奈良市の学校は、毒ガスとか細菌腺の専門教育をするところ。
うん。
そう、で、この2校だけはさ、他と違って三房早朝の直轄っていう、まあ、特別な学校なんでね。
うん。
で、えっと、中野学校についてはさ、ま、今回ここは詳しくは話さないけど、またちょっと別の機会であれば話したいなと思うんだけども、
うん。
例えばね、内容的にはね、彼が教わったのは、いろいろあるんだけど、
スパイ同士の会話は、すべてね、息を吐き出した後に耳元で話すとか、そういう実践もやってたみたいなんでね。
息を吐き出した後に。
これだから、やってみると本当に、あ、そうだって思って、こうやって、はーって息吐いて、始まりました音だらけ。
んふふふ。
何言ってんの?
んふふふ。
いや、本当にさ、声出ないんだよね。晴れないんだよ。
あー。
これ、なんかそうなんだと思って。
まあ、だからそれぐらいコショコショ喋るよっていうことなのかな?
あー、そうそう。実際にね、彼は、あの、実践でもそうやって会話をしたって言ってたね。
へー。
で、あと、考察っていう屋外での実地教育があって、
うん。
例えば、あの、工場の前を通ったら、教官が、この工場は何を生産して、従業員数は何人なのかっていう質問を、こう、どんどんしてくるの。
うん。
で、まあ、限られた判断材料から、それを割り出すんだって。
06:02
うん。
で、こういったね、あの、考察ではね、メモが一切禁止で、
うん。
で、これはね、敵に捕まった時に証拠を残さないためなんだよね。
うん。
そう、だから、彼はね、この後、まあ、ジャングルでの29年間の生活をするんだけども、
うん。
一切ね、メモを取らずに、すべて頭の中で記憶してた。
うん。
で、ここでね、教わった中で、まあ、大きな影響を与えたのが、
当時さ、軍隊ではさ、精神主義ってさ、生きて捕虜になるくらいなら、死を選べっていうような教育とか風潮があったんだよね。
うん。
そう、だけどね、中野学校では、死ぬなら捕虜になれっていう。
捕虜になって、敵に偽情報をつかませるっていった、まあ、合理的にこう判断することが求められた。
うん。
ここでの訓練はね、3ヶ月間で終わって、配属が言い渡される。
うん。
彼はね、横山司団長の命令で、フィリピンのルバング島へ赴き、その島にいる警備隊のゲリラ船を指導せよっていう風に命令を受ける。
うん。
で、さらにね、言われたのが、玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。
それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでも、その兵隊を使って頑張ってくれっていう風に言われるんだよね。
うん。
で、この命令をその後、29年間彼は守り続けていく。
うん。
で、彼はね、麦わら帽子にアロハシャツの民間人に変装して、ルバング島へ行くんだよね。
で、この時はね、1944年の12月頃な。
うん。
そう、だから、もう終戦に近い年だよね。
うん。
で、ルバング島っていうのはさ、フィリピンの首都マニラから南へ約160キロのとこで、
うん。
だいたいね、大きさはね、伊豆大島の2倍ほどの島なんだよね。
うん。
で、ここはさ、当時、交通と通信の要ってされて、軍事的にはね、結構重要な場所とされてた。
うん。
この時、ルバング島にはね、日本の守備隊は約200人いたんだよね。
うん。
で、戦況はね、サイパンがもう陥落していて、
うん。
海軍は0手置き海戦で大打撃を受けたっていうような状況。
うん。
そう、で、小野田はね、アメリカがこう、ルバング島へ上陸する前に、
飛行場とか、あの、桟橋っていうのを爆破したいっていうのを、ルバング島にいた守備隊に伝えるんだよね。
だけどね、彼はね、仲間から受け入れられなかったんだよね。
うん。
まあ、それはなぜかというと、まあ、彼の微妙な立場があって、
彼が命令されたのは、ゲリラ戦を指導せよっていうことであって、
指揮権が与えられたわけじゃないんだよね。
うん。
まあ、そういったものがあって、なかなか行動をせずにいた中で、アメリカがまあ、上陸をしてきたわけなんでね。
うん。
で、激しい戦闘が始まって、まあ、圧倒的な物量の前に、たったね、4日間で制空権、制海権も奪われて、飛行場ももちろん占領されてしまうんでね。
09:11
うん。
で、この時ね、日本編は、戦闘で亡くなったりとか、自決した者もいて、約ね、200人いたのが40人ほどになってた。
うん。
一応その小野田さんは、将校クラスの人で、で、将校の人はね、小野田さん一人で、一応ここでは一番地位が高い立場になったの。
うん。
で、幸いアメリカ軍の上陸前に、食料とか弾薬っていうのは、もしもの時に隠していたんだよね。
うん。
そう、だから無事で、で、この特にね、貴重な弾薬を使って、ルバング島で生き延びていくんだよね。
弾薬で?
弾薬だけじゃないんだけど、その敵を攻撃したり、あとは狩りをするのにも。
あー、なるほどね。弾薬をこううまく使っていったってことか。
そうそう。で、これがある限りは、なんか彼は後に言ってるんだけど、ずっとその、ここで戦い続けようっていうふうに思ってたみたい。
うん。
でね、この後ね、一箇所に集まっていると、敵にさ、包囲されたら全滅しちゃうっていう意見も出てて、
うん。
分散してね、潜伏することにしたんだよね。
うん。
で、そこでね、最低3人一組で行動するようにしたの。
うん。
その後もね、敵の攻撃とか受けて、人がこう入れ替わったりして、結局ね、小野田さんの部隊には島田と小塚っていう3人になったんだよね。
うん。
島田っていうのは当時32歳で、で、小塚がね、24歳。
うん。
で、小野田が23歳。
で、一番ね、実は年齢は下なんだけども、階級は小校だから、他の2人よりね、上の立場で指揮するような立場にいたんだよね。
うん。
で、アメリカはね、この時作戦を切り替えて、日本兵をね、島の山林とか奥深くに閉じ込めておくっていうことをしたんだよね。
うん。
そう、だからね、それ以上深追いはしてこなかった。
あー、なるほど。
そうそう。で、残された日本兵っていうのは、ジャングルの中で生活をしていくしかなくなったわけなんだよね。
うん。
で、ルバング島にはね、浮きと換気に分かれていて、浮きにはね、すごい量の豪雨が山脈に川を作って流れるらしいんだよね。
うん。
で、そのためね、小野田率いる3人は15度ほど傾斜した密林の斜面で暮らすようにした。
あー、なるほど。
そう、そこでね、泊まりしたりとか。で、そうすると、まあ水が下に流れていくからね。
あー、とりあえずね、なんとかなるって感じなのか。
そうそうそう。で、しばらくするとね、毎日こう威嚇射撃をしてたアメリカの姿が見えなくなったんだって。
うん。
そう、実はもうこの時終戦になってた。
あー、なるほど。
だけど本人たちは気づいてないんだよね。
うん。
で、敵の姿はアメリカ兵からいつしかフィリピン兵に変わってたんだよね。
12:05
あー、そうなんだ。
そうそう。で、その後、別の部隊の3人組がフィリピン軍とある時戦闘になって、
うん。
で、そのうちの2人が亡くなって、生き残ったね、赤津一頭兵っていうのが小野田のその3人のグループに加わって4人になったんだよね。
うん。
で、こっからしばらく4人の生活が始まるんだけども、いろいろその投降するように呼びかけるビラっていうのも巻かれたりとかしたんだよ。
で、その中にさ、少し前まで仲間だった兵隊の名前入りで書かれたビラもあって、
うん。
実はその周りではもう1946年の4月には、この4人を除く41人はすでに投降してるんだよね。
あー。
でも小野田らは投降することはなかったわけ。
うん。
まあ、それはなぜかと言ったら、小野田だけに与えられた任務の得意性もあって、
うん。
彼はいろいろさ、その深読みをしたんだよね。
うん。
例えばビラが巻かれてビラの内容を見るの、そうすると文脈の不自然さとか漢字の間違いっていうのが実際にあって、
うん。
まあ、それを見つけてこれはアメリカの暴略だっていうふうに思い込んだ。
うん。
で、さらにね、その後ね、1950年からはさ、朝鮮戦争が勃発するんだよね。
うん。
特にさ、アメリカ軍の戦闘機が飛び立つのをこう目撃したりとか、
うん。
海岸にね、船の残骸が漂着したこともあって、戦争が継続してるっていうふうに疑わなかった。
あー。
と、それからちょっと先なるけど、1955年からはベトナム戦争があって、
うん。
この時もね、アメリカの爆撃機が何度もね、上空を飛んでるのを見て、戦争が継続してるっていうのを確信してるんだよね。
まあ、だからそういう周りのちょっと状況もあったんだよね。
うん。
で、彼ら4人のジャングルの中での生活について触れたいんだけど、
うん。
もうまさに原始生活というか、で、なんで彼らがさ、この長い間生活することができたのかっていうところなんだけど、
うん。
ルバング島はさ、熱帯気候で食べ物が豊富な自然環境が整ってたんだよね。
あー、なるほど。
そう。で、ジャングルにはさ、パパイヤとかマンゴー、バナナとかが自然に生えてた。
あとは野生のブタとか、ヤマネコ、オオトカゲとかもいて、それも食べたりとかしたらしいんだよね。
野生のブタってなんか、ちょっと想像つかないけどね。
ね、育ててるやつより美味しくはなさそうだけどね。
なんかイノシシに近そうな感じなのかな。ちょっとわかんないけど。
確かに。オオトカゲとかはすごいまずかったって言ってたけどね。
あー、まずいんだ。なんかヘビとか美味しいって言うじゃん。
あー、だからいろんなもの、食べれるものは食べたんだろうね。
うん。
またね、近くに暮らしてる住民もいるわけで、農作業のために水芸を放牧するっていうことをしてたんだって。
15:08
うん。
その牛を銃で仕留めて食料としていたっていうのも、これもかなり栄養源になってたって言ってた。
うん。
あと何よりさ、水が豊富にあったことが大きいんだよね。
あー。
そう。島には綺麗な水が流れてるところがいくつもあって、それで過ごすことができてたんだよね。
なるほど。
で、一つの場所には滞在せずに、3日とか5日間したら場所を移動して、その際にね、寝蔵の場所とか足跡って痕跡をすべて消すんだって。
うんうん。
徹底してたんだよね、そういうところは。
あー。
で、ジャングルの中ではね、人だけじゃなくて恐ろしい害的がいたの。
害的?
そう。例えばね、アリなんだよね。
へー。
これは、なんかジャングルってイメージするとここら辺のアリと違うなって思うと思うんだけど、
うん。
害的にあうとさ、強い酸を放つ赤いアリっていうのもいて、
うん。
あとね、蜂のようなこう針を持ってる種類もいて、
アリなのに?
そうそう。刺されるとね、腫れ上がって熱まで出るんだって。
すごいね。なんかもう蜂だね、もはや。
もはや蜂だよね。
うん。
逆にアリと思ったのもすごいかもしんない。
あ、でも、そっか、飛んでねえからか。
わかんないけど、そうなんじゃ。
で、実はね、このオノダはね、ジャングルで寝ているときにアリにね、左耳の鼓膜をかじり取られてるんだよね。
うわ、なんかすげえ痛そうだね。
そう、だからそれ以降もう左耳は聞こえなくなってる。
へー。
そう、それはね、晩年になってもそれ以降も耳は聞こえてないんだよね。
うん。
あとね、サソリとかニシキヘビなんかもいたっていうんでね。
なんか普通に死んじゃうけどね、なんかそんな環境にいたら。
いやーね、だから寝るときはね、こう周辺の落ち葉とかを綺麗に取り除いてから寝ないと危険なんだって。
あー、なるほどね。
で、何より恐れたものがあるって言ってたんだけど、それは何でしょう?
何より恐れたもの、まあだから今の感じで言うと生物系なんだろうけど。
そうそう、今生物系だね。
えー、なんだろうね、毒系じゃないの?やっぱり毒ヘビみたいな。
あー、なるほど。ミツバチって言ってたんでね。
えー、ミツバチなの?
そうそう、なんか日本にいるミツバチをイメージするとあれなんだけど、
何十万匹っていうこう大変態を組んで、帯状になってこう大量に飛ぶんだって。
あー。
あ、ごめん、そういう変態じゃないよ。
あー、オガタロウのことじゃないってことね。
そう、すごい変態って意味じゃないよ、ごめん。
だからあれでしょ、オガタロウのことじゃないよっていう意味でしょ。
なんだそれ。
で、だからそういうさ、来たらもう地面に伏せて少しでもこう動くと攻撃を仕掛けてくるんだって。
えー、ミツバチってなんかすげえ、そんな攻撃的なイメージないけどね、なんか日本のだと。
確かにね、ただ何十万匹なんか見たことないしね。
18:02
まあ何十万はすごいな。
そうそう、で、ただね、もう通過するのを待つしかないんだって。
うん。
そう、もうどうしようもないから。
なるほど。
その後ね、4人の共同生活が始まって、4年目になって、1949年にね、アカツっていうのが脱走するんだよね。
うん、後から来た人ね。
あ、そうそう、後から来た人。
よく覚えてた、逆に。
いやいや、覚えたって、そんなちょっと前に言ったことじゃん。
で、彼はさ、この4人の中でも一番体力もなくて、ジャングルでの生活でね、グループの中でも疎外感を感じてたっていうふうに言われてるんだよね。
あー。
そう、まあ本当の真相はわかんないけども、それまでにね、何度か黙っていなくなったりとかもあったんだって。
うん。
彼はいなくなったのは、その結果は投稿して無事日本に帰還したんだよね。
うん。
で、たださ、残された3人にとってさ、彼は脱走した裏切り者っていうふうになってるんだよね。
うん。
で、そのことをね、小野田自身も後に帰国してから本を出すんだけど、そこでもね、アカツのことを脱走したっていうふうに書いてる。
うん。
これがね、日本の当時の読者からも批判が入って、脱走じゃなくて正当な行為でしょっていうような批判が結構あったらしいんだよね。
あー。
これ見てもさ、ちょっと複雑だよね、なんか。
まあ、そうだね。だからその本を出した時の日本の感覚っていうかさ、価値観っていうのはもう、その戦時中じゃないからさ、変わっちゃってるわけじゃん。
もう変わってるわけだよね。
小野田さんはさ、俺も何か思い出したけど、この人って帰ってからもちょっと戦時中の気分だったんだよね。
そうそうそうそう。
そう、だから多分その気分で帰ったものだからさ、やっぱり価値観は違うよね。
そう、で、この後おそらく交流したっていうのが書かれてなかったから、いろんな資料見ても、多分埋まらない溝がずっとあったと思うんだよね。
うん。
で、その後ね、小野田さんって有名だからさ、メディアとかドラマでもなったんだよね。
うん。
でも赤津さんの存在っていうのはなかったかのようにされてるんだよね。
うん。
ただ、赤津自身はね、帰国した後も小野田らの救助のために参加したりとか、ビラを巻いたりとか、捜索隊にも参加しているんだよね。
うん。
そういう面もちょっとあったんで紹介したんだけども。
で、フィリピンもさ、あの山中にさ、こうやって武装した日本兵がいて、実際に射殺されたりとか被害もあってたんだよね。
うん。
で、治安維持するためにも、あの討伐隊っていうのを山中に送っているんだよね。
で、ある時ね、討伐隊に発見されて小野田らはこう銃撃戦となって、そのうちの一人の島田っていうのが撃たれて即死すんの。
あー。
で、彼はね、この時9年間ジャングルでの生活を、幕を閉じたというか。
うん。
21:00
9年間だよこれ。すごいけどね、それでも。
いや、なんかもう9年間さ、結局終戦も知らずにさ、しかも討伐隊に殺されちゃうっていうさ、もうなんかいたたまれないというか、何だったんだろうって感じになっちゃうよね。
そうそうそう。で、島田のさ、こうやって死亡が確認されたことで、日本でもね、本格的に残りの小野田と小塚の救出に乗り出すんだよね。
うん。
生存が分かったから。
あー。
で、彼らのね、家族らも加わって3万枚のこう、ビラをね用意して上空から撒いたりとか。
うん。
ただね、このビラの書かれた文語の中で、またね、あの小野田の家族の名前が書いてあるところがあって。
うん。
兄とね、妹の名前の漢字が間違ってたんだよね。
なんで間違えちゃうんだろうね。
いや、それもなんなんだろうね。で、これはね、明らかにアメリカの工作だっていう風に受け取ったの。
いや、そうなるよね。そうなっちゃったら。だって普通間違わないじゃん。
本人が書いたとかそういうんだったら。
なんかね、これは聞くと、ビラの作成はね、厚生省に任せてたらしくて。
うん。
時間がとにかくなくて急ごうっていうことで、構成せずに出したから、こういう間違いになったらしいんだよね。
あー、なんか日本もそういう良い時代があったんだね。
そうそうそうそう。
なんか今だったら絶対許されないじゃん。
許されない。まずそこを確認取るだろうみたいな。
そうそう。昔はなんかそういう緩いところがあるからいいよね。
そうそうそう。
で、お兄さんもね、スピーカーでこう声を張り上げて呼びかけたりとか実際ジャングルの中でしてんの。
うん。
で、これにはね、小野田はね、もうそのビラの件もあったし、敵は生体模写までできるやつを連れてきたのかっていう風に思ったらしいんだよね。
もう疑いの目でしか見れなくなっちゃったんだね。
そう。もうここまで行くと何をされてももう信じないんだよね。それ以降も。
だろうね。
で、6ヶ月間続いた大創作なんだけど、小野田とか小塚は出てこなくて。
でね、創作隊はね、大きな木の幹に、「小野田、小塚、安らかに眠れ。」ってナイフで刻んで創作を断念した。
うん。
でね、その後ね、彼ら残った小野田と小塚っていうのは日本でね、戦死したことになったんだよね。
うん。
靖国神社にもね、実際に祀られてんの。
うん。
そう。で、これはね、日本とフィリピン政府の間で取り決めがなされたんじゃないかって言われてんだよね。
うん。
要はさ、小野田、小塚がさ、もう死んだっていうふうにしたんだから。
うん。
今後、ルバング島で起こる殺傷事件とか、牛の殺害とか、食料の盗難事件っていうのは、日本人がやったわけではないっていう暗黙の協定だって言われてる。
うん。
でね、1960年頃にね、現地のフィリピンの警察軍から小野田らはね、ラジオを入手してんの。
うん。
で、このラジオからね、いろいろな情報を入手することができて。
24:00
うん。
実は日本の情報もあって、終戦とかね、戦後っていう言葉をね、何度かラジオから聞いたらしいんだよね。
うん。
だけどね、彼は、日本はアメリカの占領下で傀儡政権が誕生してるっていう認識でいたんだよね。
うん。
で、真の日本政府は満州に受立して、戦争を継続してるんじゃないかっていうふうに思ってた。
ああ、そうなんだ。
そう。
まあ、あくまでもちょっとこれ、小野田自身が生前出した本から元に今話してるんだけど。
うん。
で、これね、ちょっとね、いろいろ説もあって、本当は日本が戦争してないことは、彼は気づいてたんじゃないかっていう見方もあるんだよね。
ああ。
そう。まあ、これはね、あの、ちょっと真相はわからないんだけど。
うん。
ラジオからはさ、あと今の年とか日にちを知ることができたんだよね。
うん。
で、それまでさ、彼は中野学校で教わった通り、メモを取らずに頭の中で日にちを把握してたんだよね。
うん。
で、実はね、これね、日にちのずれはね、6日間だけだったんだよね。
へえ、すごいね。
この時、20年くらい経ってんだよ。
だから、あれでしょ、365日、66日をさ、こうちゃんと数えてて、9日間だけずれちゃったけど、ぐらいな感じなんでしょ。すごくない?
すごいよ。しかもずれたのは、なんかその深夜まで敵と戦ったりとかがあって、そこでずれたんじゃないかとか言ってたけどね。
ああ、なんか俺すぐもうわかんなくなりそうだもん。1ヶ月くらいでなんかもう30、いや、20何日だっけな、みたいなさ、なりそうだもん。
いや、そうだよね。2月は28日までだしな、とか29日な、みたいな。
そうそうそう。なんならさ、そう、月のあれだよね、30日、31日をなんか間違えてずっと数えててさ、
永久にずれそうじゃない、その月だけ。
いや、ずれるって、わかんないよ。
忘れるっていうか、わかんない、そもそももう数えなくなりそうだけどね。
ああ、そうだね。この後ね、ジャングルでの生活で、27年ほど経った時に、警察軍と銃撃戦になったんだよね。
うん。
で、その時ね、一緒に行動してた小塚がね、胸を打たれて即死してんの。
うん。
で、この時小塚はね、51歳なの。
うん。
いや、でもこれもさ、24歳から彼、ルバング島にいて、51歳だよ。これもすごいなって思って。
うん、なんかね、なんか長く生きて良かったのか悪かったのかって感じになっちゃうよね、こうなると。
いやー、ね。で、小野田はね、その場をね、なんとか逃れたんだよね。
うん。
小塚のさ、これ戦死は、また日本で大々的にニュースで取り上げられて、
うん。
日本でさ、もう既に死んだことになってたから、
うん。
小塚は諦めてたんだけども、その後ね、また大捜索が始まるの。
うん。
で、上空とか地上からも行われて、この日本からもね、家族とか友人含めて100人以上が参加したんだよね。
うん。
で、フィリピンの方でも、軍隊とか住民を合わせれば、合計ね、1万7000人以上の人がね、約6ヶ月間捜索したんだって。
27:07
うん。
その中にはね、小野田の父親、87歳だったんだけど、
うん。
だったり、あと、その時がんに侵されてた姉も来て探したんだって。
うん。
結局さ、小野田博は聞こえてたんだけど、探してるってのは分かってたんだけど、これにも警戒して出てくることはなかったんだよね。
うん。
で、残念ながらこう捜索後、あのすぐにね、がんに侵されてたお姉さん亡くなって、生涯会うことはなかったんだよね。
うん。
で、捜索隊がね、結局見つからずに帰った後に、しばらくしてね、彼にとって運命の出会いがあるんだよね。
うん。
それがね、鈴木のりよっていう人との出会いなんだよね。
うん。
彼はね、あの大学を中退してさ、1人で放浪の旅をしてた。
うん。
でも彼にはさ、夢があって、それは小野田将尉と雪男、パンダを見つけることっていうのが夢にあった。
うん。
でね、彼は1人でこう、ルバング島へ行くんだよね。
うん。
でね、捜索はね、これまで大掛かりなやり方とは全く違って、テントを張って日本のね、国旗をつけて待ち伏せ作戦をしたんだって。
うん。
で、それをあの見た小野田が見つけて、背後からこう忍び寄って、ま、彼をね、殺そうとしたって言ってたんだよね。
うん。
で、声をかけると、僕日本人です、僕日本人ですって鈴木が繰り返した。
うん。
しかもさ、この鈴木っていうのはなんか丸腰で、靴下にサンダル履きっていう変わった格好だったのよ。
うん。
で、まあ明らかにこれ軍人でもなさそうだなっていうか。
うん。
で、まあそういうのもあって殺すのはやめたんだって。
うん。
で、そこでね、彼としばらく話をするっていう今までにない行動をするんだよね。
うん。
このなんかね、自分はその鈴木の龍っていう人の不思議な魅力があったんじゃないかなって思うんだよね。
うん。
いや、まあ言ってる自体がちょっと不思議だけどさ。
まあそうだよね。普通に考えていかないよね。
そうそう。で、しばらく小野田ももう本当に久しぶりに人と話して。
うん。
で、どうやったらこう山を降りてきてくれるかっていう話が話題になって。
うん。
そしたらね、小野田はね、上官からの任務解除の命令がない限りここを動くわけにはいかないっていう風に言うんだよね。
うん。
で、その上官は誰なのかって聞くと谷口少佐っていうの名前をあげたんだよね。
うん。
でね、そこでね、鈴木と別れる前に一緒に写真まで撮ってるんだよね。
うん。
で、そしたらさ、2週間後に以前捜索隊が設けた連絡箱っていうのがジャングルの中にあって。
うん。
そこにね、鈴木の手紙を発見するんだよね、小野田が。
うん。
で、そこにはね、鈴木と撮った写真も2枚入ってて。
ちなみにはね、山下智幸大将の命令書を持って谷口少佐と島に来ました。
同じ場所で待っていますって書いてあった。
うん。
30:00
で、小野田はね、あ、これは本当の命令だと思って。
引き続きさ、戦闘を継続しろって言われるんじゃないかとか。
うん。
新たな場所へ言い渡される命令かもしれないと思ってテントへ行くんだよね。
うん。
で、谷口少佐から作戦行動の停止、全任務の解除が言い渡されて、ここで彼はね、初めて日本が本当に終戦であるってことを知ったって言うんだよね。
うん。
その時、小野田はあとね、1週間ほどで52歳だったんだよね。
うん。
そう、まあこれもね、23歳から彼はルバング島にいるから、すごい年月だけど。
そうだね、もうだって自分のさ、それまで生きてた時間よりも長い時間を過ごしてるわけだもんね。
いや、ほんとそうだよ。このさ、鈴木則夫っていうさ、一人の冒険家との不思議な出会いによって事態は動いたわけで。
うん。
なんかね、俺ちょっとこの鈴木則夫って人をもう個別に後で取り上げたいなって思うぐらいの人で。
うん。
彼はさ、1975年に自分のもう一つの夢であった雪男を実際に探しに行くんだよね。
うん。
で、氷原屋に行って、そこでなだれにあって亡くなってんの。
うん。
俺も壮絶だなって思っちゃって。
もうなんか冒険家だよね。まさに冒険家っていう。
うん。いや、すごいなと思って。
うん。
で、小野田はさ、日本で帰国した時に代々的に歓迎されたんだよね。
うん。
で、飛行機でさ、降りてきて、これ動画でも実際に今でも残ってるんだけど。
うん。
100人近い政府関係者とか家族とかマスコミが大勢迎えたの。
うん。
でね、思ったのがこれ動画見てて、両親が健在で、なんか家族に真っ先に会わせてあげればいいのにって思ったんだけど。
うん。
もう我先にさ、まず政治家がさ、名刺とかさ、自分の名前を名乗ってさ、挨拶するのよ。
うん。
で、なかなか家族に会えないっていうシーンが続いて。
うん。
いや、もうこれもちょっと違和感を感じちゃったね。
だから、昔の日本なんだよね、たぶんその辺も。
ああ、確かにね。
うん。
そう、で、記者の質問も結構さ、すごくてさ、今まで一番つらかったことは何ですかっていうのもあって。
うん。
そこで専用を失ったことですって言って。
うん。
ひたすらさ、小塚とか島田の家族にもその後謝ってたっていうのが印象的だったなと思って。
うん。
さらにさ、人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で暮らしたことについて、人生を損したと思うかっていう質問があって。
うん。
この質問には小野田はね、若い勢い盛んな時に大事な仕事を全身でやったことを幸福に思いますっていうふうに答えてはいるんでね。
うん。
彼ってね、なんかインタビューでもその後の本でも後悔はなんかしてないんでね。
うん。
33:00
その後帰国して検査入院に入って20日間病院に行くの。
うん。
で、体だけじゃなくて精神も異常ないかとかいろいろ検査をされて。
うん。
で、もちろん健康そのものだったんだけど。
うん。
だってちょっと前までさ、40キロを超える装備をつけてさ、52歳になるぐらいでもジャングルを巡回してさ、してたわけで。
うん。
本当に健康そのものだったらしいんだよね。
うん。
帰ってきたさ、あの動画も見たけど、めちゃめちゃなんだろう、もう痩せ細ってる感じでもなくて、すんごいたくましい感じなんだよね。
うん。
まあ一応でもジャングルでの生活での影響が多少あって。
うん。
帰国した当初っていうのは、入院した時に看護婦がね、病室のドアを開ける前に必ず目を覚ましちゃうんだって。
あー、物音に敏感なのかな。
なんかね、人の気配を感じるって言ってたんだよね。
うん。
片耳はもう聞こえないはずなんだけど。
うん。
で、あとね、日本に帰国してしばらくはね、平らなとこで寝ることができなかったんだって。
あー、坂にいたから?
そう、15度ほど、それこそ傾けないと寝れなかったって言ってんだよね。
へー、なんか習慣って怖いね、やっぱ。
ね、そうそう、いやこれもうびっくりしたなと思って。
で、彼はさ、帰ってきて、その今まで自分は戦時中だと思ってずっと任務をしてたわけで。
うん。
帰ってきたら、変わりはずた日本に馴染むことができなかったんだよね。
うん。
例えばさ、靖国神社に行けば、軍国主義復活に加担するのかっていう批判をされたりとか。
うん。
あとは、何でもお金が優先される戦後の日本に絶望感を覚えたって言うんだよね。
うん。
で、2番目の兄がいるブラジルに渡って小野田牧場っていうのを経営して過ごすんだよね。
うん。
で、日本人女性と結婚して過ごして、晩年はちょっと日本にも帰ってきてたりしてたんだけど。
うん。
で、91歳で人生を終えてるんでね。
うん。
まあそんな彼のお話だったんですが、どんな感じでしょうか。
いや、なんかこの小野田さんのさ、ドキュメンタリーを過去に見たことがあってさ、なんかだんだん思い出してきてるんだけど。
うんうん。
どっちかっていうとこの人さ、帰ってきた時の方が苦労してるっていうかさ、本当に馴染めなかったっていうのをすごいさ、ドキュメンタリーでもやってて。
うんうん。
日本に。だからまずさ、時代が全然変わっちゃってるわけじゃん。高度経済成長期とかさ、もう経験してる日本だからさ、だいぶ発展しちゃっててさ、もう文化的なものも違うし。
で、しかも欧米化もされちゃってるわけじゃん。もう当時だから。
ああ、そうだね。
そう。で、なんか人々の考え方ももうなんだろう、やっぱり終戦から20年とかさ、過ぎてるからさ、まあ30年くらい経ってるのか。
だからさ、やっぱり全然さ、その昔の日本と違う。だから同じ日本人だけどもう違う人みたいな感じの感覚があったみたいで、すごい馴染めなくて、だから自分のところにしかも来る人っていうのはさ、もう物珍しさのゆえにさ、来る人ばっかだったらしいんだよ。
36:01
はいはいはい。
まあ、それこそパンダ見に来るみたいな感じ。珍しいみたいな。だからもう本当に人が信じられなくなっちゃったみたいな感じで、なんかさっきさ、ほらブラジルに行ったとかっていう話もあったじゃん。
うんうん。
そう、なんかそれでそうやってさ、なんかとりあえずなんか日本に居づらくなっちゃったところもあったらしいんだよね。
ね。
なんかなんだろうね、そんな30年くらいジャングルでさ、頑張ってさ、任務を全うしてただけなのにさ、帰ってきたら帰ってきたら馴染めなくってさ、なんかすごいなんだろうね、かわいそうっていう言い方も変なんだけどさ、なんかちょっとこう、なんかもっと上手い人生行けたんじゃないのかなっていう気はしたけどね。
確かに。
それで言うとさ、彼はインタビューでさ、その後さ、やっぱり命じるままに自分は戦っただけっていう風に言ってるんだよね。
うんうん。
そう、で、同じ時代の人々も命じられたところで戦った。私はただ少し遅れて帰ってきただけっていうのが言ってて、なんかすごい印象的だなって、その言葉。
うん、そうなんだよね。ただやっぱりそういう価値観じゃなくなっちゃってるからさ、日本ってさ。
うんうん。
だからその言葉自体がもう珍しすぎるんでしょ。そんな考え方が、みたいなさ。
確かに。人の価値観ってこんなにもやっぱり、まあ何十年って時だけど変わっちゃうんだなって思ったね。
うーん、そうだよね。10年違うとやっぱ価値観って違うからさ。
うん。
それがもう違う時代を生きてたような感じの人同士になっちゃうわけじゃん。そうなると。
うん。
まあこの小野田さんに関して言うとさ、あの晩年は結構幸せっていうかさ、奥さんも結婚もできたじゃん。
そうだね。
そう、なんかこの奥さんとの出会いもそのドキュメンタリーでやってたんだけど、やっぱり奥さんがこう近寄ってきた時も初め疑ってたんだって。
あー、はいはいはい。
なんかあなたもどうせ私のことが珍しくて近寄ってきてる人の一人なんでしょみたいな感じのことをね、なんか言ったりもしちゃうぐらい疑ってたらしいんだけど。
でも最終的にやっぱ結ばれてさ、まあ晩年は結構幸せにっていうかさ、落ち着いた余生は過ごせたわけだからさ。
まあそこはなんかまあ良かったのかなとはちょっと思いつつね。
そうだね。長生きだったしね。
まあだから長生きできたのもやっぱそれだけさ、あの若い時にね、健康って、ジャングルの生活が健康的とかちょっと思わないけどさ。
やっぱりそれだけこう体を作ってたからだと思うんだよね。
いや思ったらやっぱり1945年でさ、終戦って日本はなってるけどさ、まあ戦争はさ、なんかそこではい終わりっていう風にならないわけでさ。
後々までいろんな人のさ、人生を巻き込むんだなっていうのも彼のちょっと調べて思ったね。
そうだね。まあ終戦っていう意味だと1945年だけどさ、人によってその終戦の意味合いが違ったりさ、終戦が違ったりっていうのもあるわけじゃん。
だって未だに領土問題って言ったらさ、終戦してないところもあるわけじゃん。
確かにそうだね。
とかね、そういうところを考えると、じゃあ国家同士の意味合いで言ったら終戦はしてるかもしれないけど、本当に一人一人っていうところに向けた時にやっぱ追われてない人もまだいると思うんだよね、実際。
39:04
いやーそうだね。ということで今回は小野田博夫さんについてでした。
最近ねSpotifyでもし聞いてる方は投票機能っていうのがついたので、ちょっとね今回投票機能をつけたりとかしてみようかなと思ってます。
あとは概要欄にコメントを送るところがあるので、他の媒体で聞いてる人もぜひコメントお願いします。
はい、ぜひお願いします。
はい、それでは最後まで聞いていただいてありがとうございました。
ありがとうございました。
39:47

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