1. 空地的ジンブン学
  2. #11 教室で誰も手を挙げていな..
2023-05-21 53:19

#11 教室で誰も手を挙げていない時に手を挙げることってどうなの?

教室で誰も発言しない時に発言することとヒロイズムの関係。自己犠牲ってどうなのだろう?僕たちも誰かに自己犠牲を強いているのか?

サマリー

このポッドキャストでは、自己犠牲についての話が展開され、映画『スラムダンク』と『シン・仮面ライダー』が例示されて、チームプレイとヒロイズムが話し合われました。また、実習中の返答について言及され、軍国主義とヒロイズムの関係について考えられました。中高での勉強に対する姿勢には多様性があり、授業で手を挙げることが意味することや、女性に対する配慮について様々な観点から議論が展開されました。個人と社会の関係について考えるための重要な視点であると言えます。また、社会システムに対する疑問や抑圧に対して芸術を通じて目を向けることも大切だと考えられます。

00:05
藤原です。
松崎です。
中村です。よろしくお願いします。
久しぶりだね。
そうですね、収録自体も1ヶ月ぶり。
そうだね。
上げてるのは2ヶ月ぶりとかになっちゃうかもしれないけど。
そうそう。
そうですね。
まあ、生活を落ち着いて、毎週更新目指して。
そうなんだけども。
映画『スラムダンク』と『シン・仮面ライダー』
最近、映画スラムダンクとシン・仮面ライダー見て、
特にスラムダンクはいい映画だって。
シン・仮面ライダーはそこは置いといてって感じなんだけど。
どっちもね、何かね、
自己犠牲の話だったのよ、基本的に。
自己犠牲って言うと難しいけど、ヒロイズムだよね。
自分を犠牲にしてまで何かを成し遂げる的な感じがあって。
それって結構物語の定番ではあるじゃない。
よくある。
でもね、よくないんじゃないの?っていうのがやっぱ。
でも今、ごめん、あれかもしれないけどさ。
シン・仮面ライダーとスラムダンクっていう例を挙げちゃうと、
その話になっちゃうで。
ということ?
よくないっていうこと?
性質が違うわ、ヒロイズム。
なるほどね。
でもその2本を統合して俺はそれを感じたのよ。
でもスラムダンクとかあれチームプレイだしね、まず。
バスケっていうものは。
だし、自分の力で成し遂げられない目標に向かってやる。
全国性があって目標に向かってやるっていう話だから。
特にそれがあるよね。
あとジャンプだよね。
そこそういう意味では一緒だよね。
シン・仮面ライダーとかもそこら辺密接に関わってるから。
あとね、これは話。
それの関連で、あともう1個思ったのが、
最近俺映画学科で実習始まったのよ。
実習って結構照明の移動とかあるんだけど、
割と力のない女子が持ってる時に
実習中の返事とヒロイズム
手伝うよって俺が言っちゃって持って行っちゃったりするんだけど、
これもなんか変な、
これ良くないヒロイズムな気がしてきたんだよね。
ただの親切ではない。
ただの親切なんだけど、
普通に持ってきるわけじゃん、彼女だって。
そこで俺の方ができるからってやっていくっていうのは
現場が回るためには必要かもしれないけど、
でもそういうところ余計な気遣いっていうか、
余計なヒロイズムなんじゃないかなみたいな気がしてきたんだよね。
さっきのお前が修行会議で言ってた例もよくわかった、
なんとなく返事の話。
そうそう返事の話もしたんだけど、
今日俺このポッドキャストのテーマって
LINEのノートに書いてるじゃない。
俺今日授業中にノートに書き込んじゃったんだけど、
それは藤原とか、あと他の監督コースのやつが
めっちゃ返事が良かったの、授業中。
返事が良いことは良いことだと思う。
だから先生に言われたらちゃんと返事するようにしてるんだよ。
でも一瞬返事をはいって言うことが、
それこそ軍国主義的なものの始まりになっちゃうんじゃないかみたいな。
それに違和感がある。
でもそれは良いことだってのは分かるんだけど、
同時に違和感も少し感じてるんだよね。
軍国主義とヒロイズムは絶妙に離れてない。
でもヒロイズムってどうなんだろう。
自分のためなの?あれは。
自分のために死に行くのもヒロイズムにつながってる。
軍国主義ってヒロイズムじゃないの?そんなに離れてないと思うんだよ。
離れてるよ。
どういうこと?
離れてないけど、返事はそうかもね。
結構近いところにあるよね。
でも返事は大事なんだよ。
俺がバイト先で後輩が入ってきたばっかりで、
一応俺半年以上働いてるから多少教えられることがあるんだよ、何個かは。
教えたりするときにうーんとか言われるとやっぱりはって思うし、
普通に敬語が使えないやつとかも普通に俺嫌だなって思う。
それは大事じゃん。実際。
でもそういうところと統制することとか、
集団の論理で個人が優先されないことが近いところにあるから難しいなって思ってるんだよね。
でもそれは秩序の問題じゃない?
俺も意識的に返事するのを心がけてるんですよ。
でもそれは様々な理由があって、
軍国主義とかの前に率直な俺が返事をいつめて意識してるかからすると、
まずね、返事誰もしないのよ。
人生ずっとそうです。
あとね、返事誰もしないっていうのと、
映画っていうのは集団作るから、声の掛け合いがめちゃめちゃ重要なんだよ。
よく言うけど、例えば電気通すときとかも、今から電気通しますって大声で言わなきゃいけない。
本番のときは本番って大声で言わなきゃいけない。
で、オッケーですって言ったらオッケーやって大声で言う。
カットって言ったらみんなもカットって言う。
確かに現場は声でかいね。
現場は声を大きくする。それこそ軍国主義に近いかもしれないけど、
声をよくすることで組織が活性化するわけだ。
行き届くわけだ、みんなが。
あとコミットするっていう意味でも。
今日の授業とかでも、みんな結構返事しないんでね。
なんか言われたときに、わりと俺は意識的にはいって言うようにしてるんだけど、
あと俺今日ね、ヒロイズムではないけど、
無駄でもないけど、やりたくてやってるわけじゃないなって思ったのが、
毎回ね、今日の授業なんだけど、
教授が毎回実際にみんなの前で本番を撮って、
それをみんなに見てるっていう形でやってたんだけど、
みんなに意見を求めるのよ。見ててどうだったっていう。
そういうときに言う人がまず少ないんだよね。
で、俺そういうときに2年生になってから県庁だけど、
特に手を挙げるようになったわ。
軍国主義とヒロイズム
そういうときに、場として誰もいないまま、
俺今日何回も手を挙げるのおかしいから、手を挙げなかったときもあったけど、
そういうふうに行って、場を収めるじゃないけど。
で、事実、自然とどんどんこれから授業を重ねてくるに出るんだろうけど、
あんま出せる人と出せない人がいると思うんだよ、俺。
教授は出る人を求めてると思うけど、
生徒は出すべきだと思ってるかもしれないけど、
教授というか、授業の文法に合わせてパッと思ったことを言える。
自分に嘘もつかず教授がいいと思うこと、
自分に即したことを言えるってなかなかできないことだから、
そういうときに俺、最近手を挙げるようになったなと思う。
まあそうだね。
俺も結構先生の話はうなずいたり反応したりするようにしてるんだよ。
やっぱりさ、みんな聞いてなさそうな授業で一人先生説明してるときってさ、
いたたまれない。
いたたまれないじゃん。
そう、いたたまれないじゃん。
だから結構するようにはしてるんだけど、
だから俺は結局間を取って、
先生の目を見て、先生がわかるくらいうなずくっていう手を取ってるんだよ。
聞いてるってちゃんと意味になってるよっていうのを示すっていうのが、
今のところの俺のやり方なんだよ。
だから授業によるような、
映画学科の話だとさ、
実習の説明とかは、
実習中の説明とかは、
いちいち返事はしなくていいと思うんだよ。
だけど、次回はこうしますとか。
そういう指示だよね。
なんか区切りみたいな。
区切りみたいなときはちゃんと返事してるんだよ。
どう?
どう?
いや、俺返事する側だけど、
別にあんまり秩序のために返事はしないね。
普通に授業受けるときに、
一対一で受けたほうが先生と話が入ってきやすいんだよ。
よく言われてることだけどさ、
授業ってさ、基本的に聞くだけだったら頭入んないじゃないですか。
だからこっちも話してるよっていう定義でいたほうが、
頭に入るっていうののために自分でやってるけど、
ただ全体の中で、
俺がこうしたほうが授業全体が良くなるなとか、
あんまり考えたことがないね。
いやー、でもなんかね、
映画がみんなで作るっていうのがあるんだよね。
そこが違うと思う。
あのね、それね、
実習はもうそれは声出した方がいいに決まってんだよ。
野球部が声出さないとどうするみたいな。
運動部も、運動部が声出すのもそうなんだよね。
で、そこが、
たぶん軍国主義と密接にかかってると思っちゃうのが、
単純に組織を一番効率よくというか、
一番まとまった形で統制する。
ってなった時に声を出すっていうのが単純に良い方法なんだよね。
だから、たぶん方向性が違うんだと思う。
さっき、今返事するってだけで話してるけど、
俺は実習中に声出すようにしてるし、
例えば実習によっても声出すか出さないかも違うし、
やり方も違うから、
なんかこう、全部が軍国主義にいくってわけじゃないと思うけど、
軍国主義の手段と目的の創作っていうかさ、
っていうところがあると思う。
でも実際そういう軍国主義的な風潮が広まる時ってさ、
そういう創作が起きて自然にそうなっていくんだろうからさ、
根本を解きほぐさないと。
運動部とかでも、声出したらどうなる。
声出したらどうなるっていうのがないと。
例えばチームプレーだったら声を、
よくサッカーとかバスケットもそうだけど、
フィールドで声を出すっていうのはめちゃめちゃ難しいんだよね。
プレーしてる時って声出ないから。
みんなボールに集中しちゃってる。
自然に声が出るようにしようっていうのと、
あと部活の指揮。
声を出したほうがやる気が出るとか、
声を出したほうが体が動くとか。
っていうので声を出させるけど、
途中から、
先輩がその目的のためっていうのを後輩に説明せずに、
先輩が後輩にさ、
うまく声出てないよ。
そっから調子乗ってるなとかさ。
そこが始まりグラデーション。
調子乗ってるなとか。
よく見た。
なって、それが体育会系の良くないところが出てるんだよね。
俺体育会系にいたことがあるから分かるけど、
体育会系のノリって間違ってることもあるんだけど、
正しいこともあるんだよ。
全部が間違ってるわけじゃないんだよ、それは。
だから体育会系に出たほうが、
体育会系にいたほうが社会でうまくいくよって言われちゃったりするんだよ。
それもまたそういうところも浸透せずに倒作して、
子供を体育会系にさせたりとかさ、
そういうことが起きてるんじゃない?
俺はちょっとだけ、マジちょっとだけソフトボールやってたのよ。
8ヶ月くらいかな。
7ヶ月くらいかな。
地元の半分楽しみつつ真面目にやろうくらいのテンション感で、
普通の少年野球だよね。
でも土曜の3時くらいまでしかやらなかったの。
日曜が休みっていう。
弱小チームだったのよ。
そのバランスがちょうどいいじゃん。
ワークライフバランス。
単純にもっと自然に野球好きな子が、
野球興味を持ってできるようになるべきだな。
土日全部使わなきゃいけないっていうのも厳しいからな。
と思って入ったの。
手を挙げることの意味
そしたら6年生が何人かいたんだけど、
辞めちゃったのよ。
人減るじゃん。
近隣のチームと合同になったの。
その途端にスパルタになって、
もう土日、マジで7時から6時みたいなのが2日。
その瞬間に辞めたんだけど、
その野球チームで学んだことは、
一塁に誰かが訴求するとき、
ライトはカバーに入らないといけない。
カバー入るよって言わないといけない。
これ実際さ、入るって言わないとさ、
いるかわかんないし。
やっぱ声がけが大事だから。
よくあるじゃん、プロでも。
フライを取ろうとしてセンタードライブぶつかったりとか。
あれはやっぱ声がけが絶対しないといけないから。
声がけは絶対大事なんだよ。
でも今話聞いて思ったのがあれだよね。
あなたたち考えて返事してるじゃない。
結局返事する人が多いと、
返事するもんだってことになってくるよね。
ヒロイズムの問題
個々人が考えて本当に返事してるわけじゃなくて、
半分洗脳じゃないけど、
動地圧力みたいな範囲は軍国的になってくるんじゃない。
それは増殖していくしね。
考えてない人がいっぱいいたら考えてない人になるからね。
教える人いないしね。
組みに乗っちゃうほうが楽だからね。
難しいね。
それは個々人のやり方だからね。
それは返事なんかしたくはないけど、
それはちゃんとチームでやっていきたいと思ってるから、
声出すけどね。
まあ、そうね。
そうです。
どうなんだろう。
それとヒロイズムの問題ってさ。
ちょっと軍国主義の話になっちゃった。
また別の話になる感じするよね。
そう、別になるんだよ。
でも、俺が考えて返事してるのはヒロイズム的だよな。
そうだね。
一人だもんね。
一人で。
お前だけ死んでるもんだね。
俺らが別に、
それは見てるから、感想あるから言えるけど、
それは感想あるって言って自然に言ってるわけじゃなくて、
誰も手を挙げないとどうしようってなって、
その時にちょっとパッと空気が悪くなるじゃん。
その時にやっぱ手を挙げて言ってて。
お前、学級委員やるタイプだよな。
俺は中高ではそうじゃなかったんだけど、
小学校の時はそうだった。
元に戻った。
だってあれでしょ。
誰もやらないから手を挙げて委員長とかになっちゃうタイプでしょ。
そう、俺小学校の時委員長やったもん。
俺もそれで都市委員長やった。
これもヒロイズムの話だよ。
そうだね。
俺、政徳委員長やらされたもん。
そうなんだ。
てかまあ賢かったからね。
なんだよ。
なんだよ。
賢くて体デカかったから。
そうなんだよ。
結局さ、男性性みたいな話を俺はずっと考えてるわけよ。
でもあると思う。
俺、中高男子校でしかも新学校割かし。
だから、みんながね。
みんながみんなってわけじゃないけど、
300人いたうち200人くらいは小学校の時委員長やってると思う。
うちの学校。
だから誰かに頼まなくても、
誰かが何かやってくれる学校だった。
みんなそれぞれに能力があってやることやるみたいな学校だったから。
うちの学校全然手を挙げない感じだったな。
そうだよね。
そういう学校って逆にさ、やったらやったらやったやつが出たがりみたいになるじゃん。
そうそうそうそう。
俺はそれでちゃんと発表とかしてたのよ。
中学生くらいまで。
出たがりだよね、てきなことをクラスの受信に。
それは言われる。
言われた時に、
小学校とか。
俺は、挫折した。
俺今日、うちの班で、
また、ごめん、
このポッドキャストで話したことないけど、
今日のドイブンの授業で、
初回の時に、
俺と松崎が結構教授に質問したのよ。
はいはい。
で、その時の空気があんまり良くなかったっていうので、
結構話題に残ることがあるんだけど。
で、その話は是非置いといて、
今日でもよく言われた。
でもそういう時に手を挙げるのは、
藤原君と松崎君だよね、みたいな。
それは別に意味も含まれてると思う。
そういう時に言えないんだよねっていうのもあるだろうし、
ちゃんと考えてるっていうのもあるだろうけど、
でもそういう時に手を挙げるよねっていう。
それテクニズム的な。
いやー、これは良くない話だね。
結局、別に自分が言われてるから良くないけどさ、
言う人だよねっていうのも、
そういう役割にさせられてるよね、一種。
なんかだって、その全員が君かも。
そうなってしまうんだよ。
俺がずっとヒロイズム的にやりますみたいなことを言ってると、
あいつがやるやつなんだからみんな会っちゃうじゃん、結局。
やんなくてもいいや。
ヒロイズムは、大かり少なかりもっと広いもんだと思う。
そういうのに酔わないとか、
そういうのに甘えないことが重要なんじゃない?
それぞれがそれぞれのヒロイズムで生きてるってのはそうじゃない?
それぞれが仕事してるみたいな話じゃん。
誰かに誰かのヒーローを強いてるみたいな話になってこない?
そうかもしれないけど。
誰かが夜勤やってて、誰かがゴミ処理しててって話と近くない?
そうね。あくまで自発的にやってるもんだからね。
手を挙げろって言わされてるわけじゃないから。
そうなんだよ。
今聞いたと思ったのはそう。
確かにそれはそうなんだよな。
役割と責任
単純に俺が気が弱くて、いたたまれない時間に耐えがたいっていうのもあるんだよ。
それは自分を救ってるところもあるしね。
学校がそういう面あるね。
社会に出るとみんなが役割こなさないと、
職場って金もらってる以上評価もあるし、仕事しなきゃいけないじゃん。
それは誰かがなくてもいいだろうみたいな仕事なんてそんなにないわけだし。
学校って何もしなくても役割くれるからね。
学生ですよっていう。
学校ってやる気ない子が切られるみたいな場所でもないから。
でも多分職場でもあるんだろうね。知らないだけで。
でも少なくはなると思うぜ。
少なくはなるだろうけど、結局すぐはいはいはいはいって、
分かりました分かりましたって思っちゃう人と、
ちゃんと分担できる人と分かれたりするっていうのは効くよね。
それがいいことなのかって話だよね。
でも俺はそのヒロイズムみたいなの誰かが、
でもいたたまれなくてやってるってだけだよな。
俺がそれが誰かのためになってるとかで、
俺がすごく自己肯定に使ったりとかしないな。
単純にそういうことをやっとくべきだと思ってる。
そういう時に周りと一緒に誰かが声を上げるのを待つっていうのはできないけど。
そういう自分の姿勢は間違ってると思ってないけど。
単純にもう無理だよ。空間が。
そうなんだよ。でもそのいたたまれない、
耐えがたくて自分が手を挙げてしまうっていうのが、
助長してるんじゃないかっていう気持ちもしてるよね。
誰かがやってくる。
なるほどね。はいはい。
理想論で言えば、やりたくない人が一人もいないなら、
じゃあいない状態でどうクラスを回すかってことを考えるべきだし、本当は。
だから、結局本当にやりたくて手を挙げてるわけじゃないよね。
それって教える側が生徒のヒロイズムみたいに頼ってるよな。
そうなんだよ。
毎年そうやって流れていっちゃうんだよ。
いやだけど、思うけど、それは学びの場としてさ、
現実に対処するってことは大事だよ。
例えば、俺が例えば言語化して喋ったとするとか、
俺が、それこそ土曜日の授業で、
一人一人に今シナリオを元に演技するっていう授業やってるんだけど、
そのシナリオについてまとめてくださいみたいな。
そのシナリオについて喋ってくださいって言われて、
パッパッパって名指しで当ててったんだけど、
誰も答えられなくて、俺と教授が目を合って、
俺が答えてその話は終わった。
そういう時に、答えられない子が多いんだっていう状況に即して授業をやるっていうのは、
もちろん大切なことなんだけど、
でも、映画学科として、
映画にやる人間として、
それはできなきゃいけないことなんだよ。
まず。
そこを教えるところからスタートする大学じゃないし。
確かにな。そうなんだよな。
これは難しい問題だよ。
誰かがヒロイズム的に犠牲になってるわけじゃん。
俺はそういう風に自分が何かを指定するっていうことが、
ヒロイズム的に何かを聞き受けるってことが、
実は何かを助長しちゃってるんじゃないかと思って話をしてるんだけど、
でも、そういう風にせざるを得ないっていうか、
今の話ってそうだよなってめっちゃ思ったんだけど、難しいな。
ただし、相手の、
自分が嫌だから、やりたくないから、
やらない側を尊重するのもおかしい話なんだっていう、
ある特定の場面においても。
だから、そこで藤原以外の誰かが、
藤原がその時に答えられただけだと思うんだけど、
仮にヒロイズムとしてちゃんと答えたとするじゃん。
そうしたときにその前の人たちは、
本当は話せるかもしれないのに、
その場で言いたくないっていう自分の気持ちを優先して、
ヒロイズムを使わなかったとするじゃない。
そういう人がいたっていう過程ね。
そうするとやっぱり、
それが不健全な状況だなって思うじゃん。
だから、不健全なのは、
私、言えるけど言わないとか、
誰か言ってくれるだろうってボーっとしてるとか、
早く終わんないかなって思ってるとか。
難しいよね。
学校でやってるからこそ矛盾できちゃうよね。
どうにもならないじゃん、誰かが手を挙げないと。
でも、教授の姿勢としても、
全員が全員を立派な人に育てるっていうのは、
大学のようにやることじゃない?
学びたい人が学べるっていうのが大学のあるべき姿だから。
日本の大学って言われてあれだもんな。
卒業はさせてあげるけど、みたいな感じのとこ多いよね。
最近は卒業も厳しいけどね、昔より。
そこのバランスが難しいよね。
学費もったいない気分になってくるけどな。
現実問題は社会の問題としてあるよ。
大学はストレートで入るもんで、
俺二郎してるから特に思うけど、
ストレートで入るもんで、22で出るもんで、
っていうのはあるよ。
それはもう大学の仕組みがおかしいなって思うこともたくさんあるから。
でも小中高もそうなんだよな。
義務教育でもそうなんだよ。
単純にみんな勉強とかに対する姿勢が、
それは小中高とか当たり前だけど、
大学とは違うからそうだけど、
勉強に対する姿勢
小中高で勉強に対する姿勢が
ちゃんと出来上がってるってのはないと思うよ。
俺だって受験勉強するまで
一回も勉強しなかったんだけど、中高。
俺が授業出てなかったりとか、
後ろでふざけてたりとか、
寝てたりとかしてる間に
たぶん誰かが何かやってくれてるんだよね。
それはたまたま俺が大学入って、
ある種真面目になってやる気があるから、
何かちょっと人のことを言うようになっちゃってるかもしれないけど。
ちょっと話戻すとさ、
手を挙げると手を貸すこと
手伝ってあげるっていうことがさ、
有害と紙一重だと思うんだよ。
そのね、授業の中で手あげるのと、
女の子に荷物持ってあげるっていうのは、
それはちょっと話が違うと思うよ。
まあそうね、違うんだけど。
でもこれは二つあると思う。
俺が言ってるヒロイズムのもう一つ。
だから、
女の子が持てるのに重いよねって言って、
じゃあ俺が持つよっていうのは、
俺らの、まだ俺らの世代だと自然に出るじゃん。
自然に正直に出ない。
あとまだ、俺男子校だったから
特にそういうところがすっげえ古いんだよ。
ガラパゴスなんだよ。価値観が。
古いんだ。
旧式の男の価値観で生きてたから。
例えば、女の子とデート行ったら怒るもんとかもあるし、
あと女の子にシャドウがあらかせないとかさ。
最近今でもネットでずっと論争してるじゃん。
テレビで誰かが怒らせるもんだって言ったら炎上して、
割り勘にすべきだって言ったら炎上してるとか、
話題になってるみたいなのが来てるじゃん。
それがカトキにあるから。
そうね、言ってたわ。
エイミーが言ってたわ。
エイミーが言ってたね。
フラッシュマークした。
でも持ってもらうの嫌がる人もいるじゃん。
そう。
いや、私持つよって。
そういう風にバカにしてるって思う人もいるかもしれないし、
今は共通の価値観がない時代だから、
そこにまだ至ってないじゃん。
それは俺は立場的には、
この時代には割り勘にすべきだし、
何があっても割り勘にすべきだし、
それぞれの荷物はそれぞれ持つべきだと。
例えば、
さすがに男の方が力強いという前提としてあるから難しいんだけど、
女の子がカバンをわざわざさ、
買ったもんとかだったらわざわざあるけど、
重いカバン自分でわざわざ持ってきてな。
そうそうそう。
っていうのはおかしいと思うんですよ。
結局そういう優しさだと思ってるものが
すごいトキシックなものなんじゃないっていうのが、
特に優しさでやってるじゃない。
男女の関係性
やってるみたいなやり方してないけどね。
日常にそういう場合はないけどさ。
めっちゃやってる奴みたいなテンションで喋ってるけど。
でも、たまに不足出るよね。
俺もわかる。
特に実習とか出るのよ。
一番働いてる俺正直。
みんなが同じ分量を、
例えば重いものがあるなら、
女子の力でね。
体格的に持てないものがあるなら、
それを俺らが率先してやって、
持てる人は持てるものをやっていくみたいに。
みんなが同じだけ働けるようにするのが
正しい形なんだけど、
いや、やるよって言ってる俺の優しさっていうのが、
結局、社会とかそういう構造を
温存させちゃってる原因の
一つになってんだなってめっちゃ思うんだよ。
そういう意味の有限が男性性だよね。
そう。だから、いわゆるじゃなくてね。
女性側からしたら、
奢ってくれる男の人は、
単純に金払ってもらってるから、
それが女性差別を
助長させてるんだよ、とはならないんだよね。
それがいいって思えちゃうんだよ。
で、奢ってもらって当たり前って思ってる人が
女性の権利を主張してたりするじゃん、今は。
あるいは奢ってもらって、
当たり前というか、じゃないとして、
奢ってくれてありがとうって思っちゃうのも、
これもまた女性側がこれ、
トキシックな男性像に
男性の構造を温存しようとしてるじゃん。
助長するじゃない。
だから、そうなんだよ。
自分の生理的な反応を超えた理性で
抑えていくしかないんだよ。
過剰になっちゃうよな、実習とかで。
映画だと機材でも
明らかに重いのあるから。
明らかに重いのって、女の子持とうと思えば持てるよ。
だけど、俺が持つから、
危ないしね。
ギリギリ持っても。
でも、そんな危なくなる手前なんだよ。
危なくなる手前の、
普通に机か椅子かぐらいの差なんだよ。
椅子だったら誰も持てる。
だけど、机って持って危なくないけど、
じゃあ、俺持つから椅子持ってって、
女の子に自然に言っちゃうってことだよね。
そういうことを少しずつ、
例え、あいつ身勝手だなと、
そういうことしてくれないんだなと思われるかもしれないじゃん。
女性の側も良し悪しじゃなくて、
そういうふうにある程度、社会っていうか、
そういうふうに生きてきてしまってるじゃん。
持ってくれるみたいな前提があったかもしれないじゃん。
そこで例え、俺が持ってくんだやつだと思われたとしても、
シャドウを譲ってくんだやつだと、
奢ってくんだやつだとしても、
奢っちゃいけないし、歩いちゃいけないというか、
そこの、そういう時に、
あえてそういうことをしていかない、
多少悪く思われるのは、
しかないと社会が変わらないと思うよ。
てか、母数を減らしたほうがいいからやるのを、
惰性でするのをやめたほうがいいんじゃない?
本当に持ちたい時と、
別に持ちたくない時ってあるじゃん。
本当に持ちたい時でも、
自分は持ちたいけど、構造的に
持っていいのかってことを考えるといけないんじゃない?
それちょっとなぁと思う。
いきすぎ?
やりすぎだと思う。
でも俺は、
社会を変えていくためにそうすべきとは思わない。
例えば普通に、でも、
本当に単純な話で、
俺の価値観に近いけど、
俺が女の子に怒らなかったからって、
世界は変わるわけじゃないじゃん。
だけど、
俺が多少なると周りに影響して、
それが広い意味で世界を変えてるってことになるかもしれないけど、
それはなかなか難しい話じゃん。
だから俺個人のスタンスとして、
男女の平等とかジェンダーに対する価値観として、
女の子に怒らないっていう主義は、
確かに俺は貫いてるから。
それは俺だって、
単純にさ、
そういう正しさの前に、
例えば気になる女の子がいて、
気になる女の子と飯行ったとして、
それは怒っちまえばこっちが気があるって思わせられるから、
怒っちまいたいって思う時だってあるよ。
もう楽しくて怒っちまいたい時もあるし。
腹ってなんか気持ちよくなりたいとかもあるし。
でも別にそれ正しさだけじゃなくて、
俺は中高厳しいってことだったから、
後輩には怒るもんだと思ってるから。
そういうのもあるけど、
でも女の子に怒っちまいたいって思う時もあるけど、
でもやっぱ怒んない方がいいんだと思う。
で、先輩後輩は先輩の方が単純にバイトしてるとか、
学生とか金があるってのがあるけど、
先輩後輩は明らかに上下ってのがあるけど、
男女ってのは上下がないわけだから。
そういう先輩が後輩に怒るみたいなもんで、
女の子に怒るのはなんか俺は違うなと思ってる。
うーん、なるほどね。
それはなんか俺が、
まあだから本当にそういう、
ちょっと強い言い方だけど、
そういう有害な男性とか、
あるいはそういう意味では、
そういう意味では怒られて当然と思ってるのは、
俺的には有害な女性なんだよ。
まあ別に害があるわけじゃないけど、
あんまり俺的には正しくないわけだよ。
そこに加担したくないってだけなんだよ。
うーん。
いやでもさ、今思ったんだけどさ、
例えば自分がよく思われないとしても、
社会を変えるために今俺は怒らないでおこうって、
これもまたヒロイズムなんだよ。
社会のためのね。
社会のために俺は今好きなことを飯を食べているのに、
怒らないというこのヒロイズムをしてるわけじゃん。
うーん。
いやでもどうすればいいんだよ。
もう考えすぎてるよね。
だってさ、冷静に考えすぎてるじゃん。
考えすぎてるじゃん。
授業中誰も手をあげなくて手をあげるのがいいのかって言ったらさ、
そりゃまあそういうもんだよと言えばそうじゃん。
それは良くない状況だけど。
いやでもやっぱり結局さ、
そういうもんじゃんとか、
別にその場ではいいからいいじゃんの積み重ねじゃない?
まあそうだよ。
でもさ、変なこと言っちゃうけどさ、
もうさ、昔から歪んでるんだから歪みがもうさ、
連なりすぎて、
こじれが取れるわけないよねってさ、
考えすぎたらさ、夜中にふと思うよね。
そもそも俺が生まれる前からねじれてるんじゃないかと思って、
どうしようもねえわって言って、
不丁寧するよね。
まあそれはまあ。
だから結構強い力でやらないとどうにもならないよね、
そういうのって意外と。
社会が変わっていくとか、
いや俺は分かってる。
国ごと。
俺はなんか急速だからだろうなと思う。
価値観の変化が。
普通に間に合ってないんだと思う。
そうだよね。
価値観の変化に社会が。
例えばもっと俺とか、
まあ松崎と俺今意見近かったけど、
例えば松崎がこう思ってるってやつが、
別に松崎だけじゃないから社会にそう思ってるやつは。
徐々にいて、
それがどんどんどんどん広がっていって、
社会が変わるのに、
まああと多分何十年とかかっていくと思うよ。
だってそもそもジェンダーが、
ジェンダー問題っていうのが、
まあ今回はジェンダー問題に限っちゃうけど、
ジェンダー問題について考えるっていうのが、
もっと広い社会にあって、
男女が怒る怒られる論争みたいなのが出たのなんて、
もう十年くらいの話でしょ多分。
そうだね。
大々的になってる。
大々的になってる。
もっとネットニュースになって、
ツイッターで話題になってるっていうのはさ、
十年くらいの話じゃん。
そこまではね。
ここ十年と、
その二十年前から十年前の社会の変化も違うし、
そういう意味で価値観の変化は早いんだけど、
それ国の体制とか仕組み、法整備とかがさ、
間に合うわけがないから。
そうなんだよ。
授業で手を挙げることについての考察
そういう意味で、
別に俺らが正しいとは思わないけど、
ちゃんと定まった価値観になってくるのは、
すげえ時間がかかると思うよ。
そうなんだよな。
確かに松崎ちょっと考えすぎちゃ考えすぎるかもな、
俺らも。
授業中手を挙げちゃうもん。
そうなんだよ。
性格とかそういう問題だよね。
社会ってそうちゃそうだから。
そうなんだよ。
シンプルに役割の話だってさ、
価値観の急速な変化って話になるとさ、
じゃあ、変化についていけない人は、
もう淘汰されていいのかみたいな話まで始まってくるじゃないですか。
そうだね。
別に今、多様性っていう名の確率化が進んでるみたいな話に近いよね。
そうなんだよ。
例えば、その多様性っていうものを考えた場合は、
正しくない人もいるべきなんだよね。
はいはい。
正しくない人を淘汰するっていうのは厳密的に言う上では、
みんながある種の正しさを持っているっていう考え方が多様性の考え方で、
それが広まりつつあろうと同時にこういうのが正しいという確実感があって、
それに反してたらネットニュースになったり演説したりするわけでしょ。
でも逆にさ、多様性を認めないことも多様性だっていう言説もさ、
これは明らかに誤尾言うじゃない。
これダメじゃない。
これは明らかに良くないじゃない。
間違いじゃない。
っていうのはもうガンジガラメだよな正直。
ガンジガラメっていうオチになるのこれ。
だから単純に多様性だから犯罪起こしちゃいけないって言うのと一緒。
そうだね。
あと時間の問題じゃない?
そうだね。
徐々に変化って言うもんね。
まあでも学校系っていうのが単純に古くせいからな。
そういうのが構造を生んでるっていうのはあるよな。
そうだね。
あんまね、だからその話のおったいになっちゃうけど、
授業で手を挙げる話ぐらいだったら、
そんな考えなくてもいい。
だからその全体の中で役割があんじゃんぐらいに
軽く思っといた方が、
ちょっとごめんなんか違うな。
でもそういうことでなんか。
でも、ごめん。
ごめんごめん。
その中でどうするかみたいな話になってくるじゃん。
その社会の中で。
でもそこまでこう思っていくと結構大変じゃないってなっちゃうから。
ちょっとね、自己犠牲は付きまとってると思う。
俺の価値観にも。
自己犠牲派なんだよ。
俺は自己犠牲派だね結構。
そうだね。
誰かが犠牲になった時に自分が犠牲になってる方がいいって思える。
その方が俺は。
そこはもう多分自己犠牲が自己肯定になってる部分もあると思うよ。
手を挙げる話もそうかもしれない。
誰かが加担したくないっていうのもそうだけど、
誰かが手を挙げるのを待っててやってもらうっていうのは、
それは誰かに甘えちゃってるわけだから。
そういう自分を自分が肯定できないって話でもある。
あと俺結構ね。
これは俺もだいぶ自分も間違ってると思うんだけど。
俺も結構歪んじゃってると思うんだけどさ。
それこそ女の子と夜会ってた時に、
結構急に大きな雨が降り出したのよ。
その天気予報を知ってたのが俺だけだったわけ。
女の子は傘を持ってなかったの。
俺帰り道に、
その子が傘買わなきゃみたいな、
傘買おうかなどうしようかなみたいなことを言ってた時に、
その折り畳み傘を渡して、
その子に渡して俺は濡れて帰った。
その時に確かに俺は、
これ地獄のテイク上がりますよ。
気持ちいいね。
気持ちいいでしょ。
もう豪雨の中で濡れて帰りたい日あるだろ、女の子に傘渡して。
それは単純に俺も古い価値観だから思うんだよね。
俺も間違ってると思うんだけど。
でもそれいいと思うわ普通に。
普通にその子のことが好きとかじゃないんだよ。
ただ単純に別にそいつが男でもそうしたかもしれない。
好きじゃない子が逆にいいよね。
それは何て言うの?
それはお前が間違ってる。
それはただの恋話だから。
俺の中で、
単純に、
あのね、
例えば、
はいはい。
これでも本当にその話、
雨とかよく分かりづらいけど、
俺と松崎、
よく松崎は傘持ってこないですよこいつ。
天気予報見ないから。
こいつはよく俺の傘に入ってるわけ。
で、その時に、
濡れてる方が俺の方が俺は楽なんだよ。
単純に。
分かるよ。
それは、
入れてもらってるがいいだろうなんだけど、
お前の気がちっちゃいんだよ。
なんで?
俺もそう思うけど、
それは自分が濡れてる方がいいっていうのは、
気がちっちゃい人間だと思うよ単純に。
自分もそういう気があるから言うけど。
気がちっちゃいんだよ。
だから本当は2人とも55時に寝れるべきなのに、
自分が7時に寝れてる方が、
安心できるっていう、
自分の気の弱さみたいなもんだと思う。
なるほどね。
俺もそうだもん。
でも本当は55で寝れないとなーと思いながら、
7時に寝れてる。
55で寝れないとなって、
その場で思える?
パッと雨が降ってると。
最近、
習慣化されてる。
最近そういうことを思い始めてしまってから。
そこまで言ってるなんて、
自分の人生とかって、
現在意識とかに近いと思う。
分かるよ。
俺なんて、
現在意識マシマシだから。
習慣化されたいもん。
でも、
結局理想を持ってることと、
自分がやることは全然違うからね。
俺も55だなって思いながら、
何もできてないけどね。
単純に、
そういう、
自己犠牲。
自己犠牲が、
自己犠牲をしてる人の肯定を生んで、
構造が助長するっていうことだよね。
そうだよね。
まとめていくとね。
まとめると。
あんまり良くない感じになってきたね。
自己犠牲が、
自己犠牲を強いる人は楽だから、
より自己犠牲を生んでっていう。
二重で生んでいくっていうことだよね。
出たよ。
体重が悪いっていう。
俺、体重が悪いなって思うんだよね。
体重が悪いなって思うよ。
それはだって授業で、
手を挙げても俺がダメな理由がないよ。
それは。
手を挙げないで、
俺が手を挙げるのを待ってる奴の方が、
それは良くないよ。
それはだって、
見て何でもいいから言えって言われてて、
見て何か思うに決まってても見てるんだから。
で、あの時だって、
難しいこととか分かったこと言わなくてもいいのよ。
傾倒外れでもいいのよ。
今日じゃあそれを求めてるんだよ。
誰かが手を挙げて、
自然にみんなが発言できるように参加してるように
しようよみたいな。
なって、
今日も準備終わったけど、
二人ぐらいが手を挙げた時に、
どんどん発言できるようになっていいねみたいな感じだった。
そうなんだよ。
あんまね、最終が悪いって言うのもなんかこう、
自分が目覚めちゃってる側ですよみたいな感じになるのが嫌で、
あんま言いたくないよ。
でも俺らはもう誰かに自己犠牲を強いてると。
自己犠牲についての矛盾
そうなんだよ。
でも、そういう一つの例を取った場合に、
今自分が自己犠牲側だから、
自己犠牲に敏感なだけで、
俺らはもう誰かに自己犠牲を強いてる。
そうなんだよね。
でも誰もが自己犠牲をすべきじゃないと、
俺はやっぱ思うのよ。
だから、
自分が犠牲になって、
何か今変えようとしてるっていうこの矛盾がね。
あー、お前はでもね。
だから、そうじゃん。
誰かに自己犠牲をしない方がいいと思うから、
自分がゴーゴーで塗れた時に、
相手にはなんでこいつ7で塗れないんだよと思われたとして、
俺が自己犠牲になってしまってるじゃん。
うん。
いやー、なんか光が見えないなこの話。
お前ゴーゴーで塗れるべきだと思う?
思いな…うん。
そうだね、何回も習慣してるけど。
思いながら7で塗れてるけど、
これからはゴーゴーで塗れていきたい。
ふじわるは?
俺は別に、
あのー、ごめん、単純に雨の話だと、
そんな俺も別に塗れたかないけど。
スタンスの問題ですか?
スタンスとしては、
俺は、
例えば、
雨の時は、
俺が7塗れてるかもしれないけど、
別にそういう分かりやすい例じゃなくても、
俺単純に例えばコミュニケーションにあんま気遣えないし、
相手に気遣わせる場合もあるかもしれない。
そういう時に、
俺が3塗れ、向こうが7塗れるかもしれない。
だから、
それぞれがそれぞれの形で自己犠牲をやっていく上で、
それぞれがそういう自己犠牲を互いにやってるから、
全部が一緒じゃなくてもいいから、
いろんな形でやってるから、
関係が成り立ってる、
社会が成り立ってるんだよってことを、
それぞれが意識的であるべきっていうのが、
分かる。
そうなんだよ。
俺のゴーゴーが相手のゴーゴーじゃない可能性もあるからね。
そうそう。
だから、
お互いに意識的でないといけないっていうのがむずいね。
むずいんだよ。
それがむずい。
意識的であることの形が違うかもしれないしね。
男女関係と犠牲
だから、
旧式の、
今では時代遅れっていって、
ステレオタイプの男女関係っていうのだと、
確かにそれは、
でも、ある意味男が犠牲になってるっていう意見もあるし、
でも、
広い意味では女性も犠牲になってるわけじゃん。
そうなんだよな。
そこよりかはね、
マシかもしれないな。
今の状況は。
例えば、
女性が、
すごく虐げられてきたっていうふうに、
それ間違ってないじゃん。
っていう時に、
話が出てきた時に、
最近の言葉だけど、
弱者男性とか呼ぶわけでしょ。
っていうのは、
女性の自分、
女性側は別に男性も女性側に立ちますけど、
男女っていう言い方自体はあってるのかわからないけど、
でもその女性が、
自分の痛みで敏感でそうだけど、
その時に男の人が何をしてたか、
男の人が何の犠牲になっていたかっていうのはさ、
それは例えば、
真横歩けないのだって、
例えば刀の問題とかさ、
斬り合いとかさ、
それはだって、
それは旧式だって、
それはだって、
戦争があったら男が行かなきゃいけないっていう時代があったから、
そういうのが積み重なってそうなってたんだよとかさ、
いろんな問題があるわけじゃん。
だからそういう、
俺が言ってること今、
正しかったかわかんないけど、
でも、
それぞれがそれぞれの形で自己犠牲をしているってことを、
もっと広い目で、
想像力を持ってないと、
やっぱりそれはダメなんじゃないかと、
なんかそういう一義論でいけないっていうか。
そうね、なんか、
これ二項対立にしちゃダメなって感じ。
そう。
うーん、確かに。
昔とかの、
多分主要なのはその話だけどさ、
昔のギリシャとかってさ、
意外と女性にも賛成権とかあんのよ。
スパルタとか。
っていうのは子供を埋めるからなのよ。
で、男の方が賛成権が、
ただ7対10ぐらい多いのよ。
それは男が戦争に参加できる方法であるからなのよ。
うん。
っていう風に社会でバランスを取って、
なんかね、子供に対しても、
その将来の、わかる?みたいな、
バランスを国が全部統一したがらスパルタとかは、
こううまくいってたわけだけど、
そんなミニマルな話じゃなくなってきてるから、今って。
なんか体制でどうにかなったりとか、
ステートメントでどうにかなる問題でもなくなってきてるんだよね、
って思う。
まあそれはだってみんなが仕事して、
役割分担になれたっていうのが資本主義なわけで、
そういうのが秩序としてあるわけだから、
そこの根本から帰ってさ、
例えばみんながみんな国に管理したら同じ仕事をしてっていう、
やり方は別に正しくないんだってことは、
正しくないっていうか、
間違いを生みやすいってことは歴史が証明してるわけだから、
なくともそこまでそのために社会を変えろとは思わないし、
そういう仕組みの上でどう生きていくかが問題だと思うから、
いびつになるべきではないとは思う。
うん。
いびつになる、いびつになっている問題があるから、
いびつになっているから問題が生まれて、
こういうのが生まれるんだと思うんだけど、
他のいびつさにもこう迷惑を受けるべきっていうかね。
本当に狭い、もっとミニマルな話でいくと、
例えば俺と友達で、
俺ばっか苦労してるとか、
友達ばっか苦労してるっていうのがおかしいわけで、
本当に単純な話で、
話してる時にお互いの気持ちを考えようってことでしょ。
相手の気持ちを考えればいいってわけじゃない。
俺の気持ちも大事にして、
相手の気持ちも大事にしちゃったらしいよね。
そうなんだよ。
そんな当たり前の結論にきついじゃない?
こういう話って。
でもその結論からすると、
授業で手を挙げる話は、
それはそれでいいんじゃないかってなるよな。
ただあっち側がどうなのかわからないのか。
いや、でも、
僕も手を挙げるから君も手を挙げようよなんじゃないの?
いや。
うーん。
それが一番正しい、正しいですか。
でもさ、
俺が手を挙げたいから挙げるから、
君たちは静かでもいていいよっていう考え方もできるじゃん。
その役割分担として。
それはもうなんか。
いや、違くね?
そこはもう。
俺が言ってんのは、
俺が手を挙げてる時もあって、
君がある人どこかで手を挙げてる時もあって、
それに任せている部分を、
俺が意識的であるべきだってことだと思う。
あー。
別にそれは代償あるよ、それはそれぞれ。
例えば、
それはそうだと思う。
それぞれの関係で、
誰かの優しさにも代償があるから、
でも、
俺も多分誰かの自己犠牲を強いてるんだなって、
その具体例は思いつかなくても、
思っておくべき。
確かに。
中道キッズが今頭に浮かんだわ。
これはもう、まとまんねーな、でも。
教室のみんなが応援してくれたことが分かんなくても、
でも、
俺は、
誰かに、
誰かが、
やってくれない時も俺がやってるように、
俺がやってない時も誰かがやってくれるんだろうなと思うけど、
そういうふうに思うべきだと思ってても、
みんながみんな、
ヒロイズムで生きてるわけじゃないから、
大変なんだって話なんだよね、前提としては。
今前提に戻ったけど。
前提に戻ったら、
みんながみんな、例えば、
あの時は、
俺でいくと、
藤原くんが手を挙げてくれたから、
例えば、
俺が、
分かんないこととかできないこともあるから、もちろん。
それをやるとか。
だから、
それは論理としてはうまくいくけど、
そうは、
世の中で成り立ってないやん。
今何分撮ってる?
めっちゃ撮ってるやん。
うん、多分40分ぐらい喋ってる。
40分ぐらい喋ってる。
締めるタイミングがね、全然見つからないんだよ。
締めるタイミングをずっと探してる。
めっちゃ何分喋ってる?
まあいいか。
だから、
だからこう、そういうふうに、
なるべきだと思ってるけど、
俺が手を挙げた時みたいに、
みんなが俺にやってくれてることがあって、
俺もそれを分かっていたいと思うんだけど、
なかなかそうは回っていかないよねって話。
うーん。
いや、逆にさ、
また話に長引くけどさ、
だからこそ逆にもう軍国主義でいっちゃえってのもあるよね。
個人の感情を置いて、
全てを制度でコントロールしてしまえばいいじゃんっていう。
そりゃよくないじゃん。
っていうマキシマムな考え方がついちゃうよね。
でもそれが全体主義じゃん。
まあね、そう。
全体主義の方が人って幸福なのかもしれないっていうさ、
考えなくていいからね。
ディストピア的発想もあるしね。
こんなこと言ってるけど、
別に俺もシステム側には立ちたくないと思ってる。
ある種、俺も一人の作家としては、
そういうふうに、
一人に任せてしまったりとか、
っていう人もある種、
システムに対抗してるんだっていうのをさ、
考えていかなきゃいけない。
芸術の役割
難しいよな。
人間らしさって難しいよな。
社会化されない部分なのかさ、
社会化された上で制度をちゃんと守るってところが
理性なわけでもあるじゃん、同時に。
そのセミゲイの時代だよな。
だから最近ね、思うんだよね。
これ口も混じるけどさ、
芸術系の大学に来てもさ、
自分が普段、ちゃんと考えてることを
考えて質問したりしてもさ、
場の中でそれこそ浮いてるじゃないか、
そういう感じになるじゃないか。
ってことはやっぱり、
芸術系だけじゃなくても
そういう人がいるってことなら、
作品を見てる間とか、
作品を触れてる間だけは、
社会から離れてもいいんだよっていうことの
受け皿として芸術があるしかないのかなって。
すげー愚痴だな。
愚痴なんだよ。
すげー愚痴だな。
だから芸術で自分がやってるじゃないか、
表現するじゃん。
的な生き物で普段からあることが
社会的に許されない。
社会的に不利益を籠る。
ならば、人は芸術にアクセスした時だけ
そういう存在になれるっていうものとして
芸術があるのが一番いいのかなとか
思ったりしたな。
そういう風に受け入れられてない?
そういう風に受け入れられてたけど、
それをもっと
芸術だから違法権ってのは
おかしい話じゃない?
とか思ってたのよ。
結局、社会の中で
そういう風に
住み分けしてしまうことが一番
何か物事が健全に回っていくのかもしれないなとか。
芸術に対する挙法を。
それはね、間違ってるとは思ってたんだけど
肌身ではそれが一番適切なのかもな
みたいなことを考えてきた。
なるほどね。
でも俺はね、
社会システムと俺
こういう話、最終的には
社会と個人の話になってきたけど
こういう時に常に小学生の時に
小学生かわからないけど、いつ見たか覚えてるけど
ずっと頭の中にあるけど
エルサレム賞の
壁と卵の話じゃん。
でも
あれも俺は毎回間違ってると思ってるんだよね。
例えば現代においてユダヤ人がやってることが
本当に正解なのかどうかっていうのと
それは一面的だなって思うんだよ。
壁と卵、社会システムと俺っていう
括りじゃどうも上手くいかないと思う。
俺はすごくね、
高校卒業してから2年間は
すごく社会に弾き出された感覚があったから
社会システムと俺だと思ってた。
俺はずっと社会システムに対する
今の世の中が間違ってる違和感について
考えてそこを書くべきだと思ってた。
それが技術のやることだと思ってた。
俺はなんかもっとね、
だんだん最近は視野が広がってきたっていうか
社会システムと個人っていうのの
集合体が社会なんだっていうかさ。
みんな嫌なことがあんのよ。
みんな社会が間違ってる。社会に何か不利益がこむったって思ってんだよね。
俺は高校卒業してから2年間は
自分的にもきつかったから
社会と自分っていう構造になってたけど
俺一人暮らしてたし。
これから多分芸術家やっていくべきことって
自分の痛みだけじゃなくて
誰かが社会に対して
個人として攻撃されてるとか不利益をこむってる
違和感を感じているっていう部分もありつつ
誰かが誰かを抑圧してる。
自分も抑圧に加担してて
自分も抑圧されてるっていう
そういう社会と自分の相互関係にあるっていうかさ。
結局、高校卒業してから2年間学んだことは
社会から弾き出された人も社会の中にいるんだっていうのを学べたから
俺も誰かのことを抑圧してるんだってことに
敏感であるっていうのがいわゆる時代だと思うけどね。
長村くんから続いて終わろう。
これは正解のない話だから。
別にポッドキャストって正解出すのでもいいし。
教室での手の挙げ方について
正解がないからまとまらないよね。
正解を
立てるための問いの立て方じゃない。
どうしようかな。
俺は感想あるけどね。
選挙に行こう。
選挙ってそういう意味で行くべきだよね。
それぞれの感じている
本当にもっと単純な話なの。
どうやるのが政治的に正しいとかじゃなくて
普通に今
自分の生活にこういう問題があって
ゴミの処理の問題でもなんでもいいんだけど
公約でこうしてくれるって言うから投票するっていうのの
集合体が選挙っていうのが選挙の考え方だから。
じゃあこれ結論は
選挙に行こうでいいですか。
そんな啓発する?
選挙への投票について
警報が大事だと思うよっていう話を
次ぐらいで話したい。
ではまた次回。お疲れ様でした。
53:19

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