1. 空地的ジンブン学
  2. #15 サブカルチャーはもはや「..
2023-07-05 45:35

#15 サブカルチャーはもはや「サブ」ではない?

サブカルチャーはSNSの隆盛によって「サブ」ではなくなった? SNSが全てを表層にしてしまっている/手軽な快楽が考えや向上心を麻痺させている?/より良くなる時代が終わってニヒリズムが蔓延してしまうなら芸術の役割とは?

サマリー

最近、サブカルチャーがもはやサブカルチャーではなくなっているということについて考えています。ツイートすることによって、ダザイの作品が表面化されてしまう可能性があります。ぼーっと生きていい時代になったことで、人間らしさも失われてきたのかもしれません。ただ、余暇の時間を大切に使って自分を向上させることも重要だと感じています。バイトの時間が生まれることによって、快楽だけで生きていくことはできません。未来への創造力とともに、自己成長を追求することが求められます。

00:01
藤原です。松崎です。
中村です。
というわけで、「空地的ジンブン学」。
開けたね。
松崎恒例のレッドブルね。
そう、レッドブル。開封の時にね。
開封の時にね。
いや、俺結構朝の授業前に飲んじゃうからさ、レッドブル。
夜前にね。
正しい飲み方してるね。
朝飲んでるね。
夏ブルけどさ、レッドブルってさ、味で飲んでるよね。
いや、味でしょ。
マジ?
味で飲んでる。
おいしくない?
あと適度なカフェインの刺激感もあるしね。
カフェインが入ってることによって、コクみたいなのがついてるよね。
かもしれない。
デカビタとかより絶対うまい。
分かるね。
デカビタ的な味の中で一番うまいのがレッドブルだから、レッドブル飲んでみるとか。
後味がすっきりしてるんだよね、レッドブル。
デカビタとかって後味すっきりしてるんだよね。
俺の飲みにしても結構後残るもん。
砂糖の種類違うのかなって感じだよね。
分かんない。
単純に企業努力なんじゃない?
ぶどう糖が多いと後味が多い気がする。
そうなんだ。
あと人工甘味料がね。
レッドブルちょうどいいよな、味と刺激の具合が。
なるほどね。
というわけでね、今回はですね。
SNSと趣味の関係
最近思うんだけどさ、
サブカルチャーがさ、もはやサブカルチャーじゃなくなってんじゃないかって思うんだよ。
SNSとかが流行ってさ、
自分がさ、趣味がさ、
趣味じゃなくなるみたいなとこない?
みたいな近い話だと思うんだけど。
そうでもねえか。
あともうちょっと噛み砕いてほしいな。
趣味が趣味じゃなくなるっていう。
例えばさ、
まあいろんな趣味もそうなんだけど、
例えば山登りが趣味ってなった場合ですね。
それがSNSの活動を通じてさ、
自分一人でやることじゃなくて、
みんながやることになってたりするじゃない?
だから私だけの趣味じゃなくなるって感じ?
だから趣味がさ、
個人的なさ、
小さな生活の中で習慣としての喜びじゃなくなってきてるなっていう。
あれだよね。だからそのこう、
SNSに上げることによって、
上げるためにやってるみたいな、
目的としての逆転していく感っていうことでしょ?
思わるし、
上げることで活動の内容も変わってくっていうかさ、
見せるようになってくんだよね。
そういう意味でさ、
だから純粋に切手を集めるだけが趣味の人だったら、
最近いないんじゃないかなって思うんだよね。
そうだよね。レアな切手をアップロードしたいもんな。
英語の例文でさ、
趣味は切手を集めることですってよく見たじゃん。
コレクティングスタンプって。
でも最近はさ、
切手を集めたらさ、
切手を集める人として繋がっちゃうし、
切手を上げちゃうし、
そういう意味で厳密的な趣味も変わってきてるなって思うのよ。
それってあれでしょ?
この、
女子高生が自分のインスタに
アオハルとか付けるみたいなのもあるよね。
のもあるかもしれない。
そういう側面ってSNSってあるじゃん。
そうだね。俯瞰しちゃうもんね。
自覚的に。
いろんなことが自覚的になっちゃうね。
確かに。
いろんな目でこう、普通にこう、
自分の生活に他者の目が入り込んでくる感というか。
そういう意味じゃめっちゃポストモダンじゃんね。
そうだね。
その、
サンプリング的なとこもあるってことだよね。そういう。
全部、
その、
データベース化されちゃってるみたいな。
そうかもしれない。
それ以降、
自然に。
人間がそうなりつつあると。着実に。
それとは話もちょっと変わっちゃうかもしれないけど、
でもサブカルチャーもそういう面があるなと思ってて。
ありそう。
あと、
アニメとメインカルチャー化
映画とか。
よく思うのはアニメとかかな。
アニメとかも、
アニメを見る人ってすごく多くなってるじゃん。今。
見ない人より多いよな。
俺がアニメオタクだったのって、
大体2014年から15年くらいなんだけど、
アニメを見てる人は明らかにアニメの雰囲気って違うんだよね。
アニメ業界の金の入り方も違うし、
アニメを見てる人の人数も違うし。
何のアニメとかやってた?2014年。
2014年に流行ってたのはね、
知ってるかわかんないけど、
やはり俺は青春ラブが間違ってるとか。
懐かしいね。
懐かしいね。
ラブライブとかね。
確かに雰囲気違うね。
確かに。
もうちょっとあれだよね。
なんか、
垢抜けてないよね。
そうだね。平成アニメだよね。
今は作画コストも違うし、
配信があるから、
アニメもリアルタイムでテレビで、
深夜に見なくても見れるよ。
売り方とか全然違うもんね。
全然違う。
グッズ展開のレベルも違うし、
市場規模がやっぱ違う。
当時からコミケの規模はそんな変わってないけど、
それ以外の規模が。
そういうコミケとか、
そういうメイン層というか、
ディープな層じゃないところの広がり方が
全然違うなと思うわけ。
サブカルチャーもそうであると思う。
そう。
そういう意味でアニメとかって
もはやメインカルチャーじゃないかと思うね。
最近の、
例えば、
タイアップアニメ多いじゃない?
最近。
売れてるバンドは。
そうね。
夜遊びとかさ、
今夜遊びアイドルやってて、
おしのこってアニメの主題歌ですけど、
もうそういう枠でやってんじゃん。
夜遊びがおしのこやってて、
それでおしのこの1枠が90分って話聞いたんだけど、
そういう配信だからおしのこできるっていうかさ、
そういう幅広いジャンルになってて、
もうその、
SNSの影響とサブカルチャー
あとネット文化ってものが
メインカルチャーに近いんじゃないかなって思うんだよね。
最近の。
最近のお笑い、若手お笑いとかも、
明らかにネット的なお笑いだったりするんだよね。
そうだね。
掲示板的なものを使ったりとかね。
にちゃんとかにこどんとかのお笑いに近い。
真空ジェシカとかよく出てるよな。
あとしもふり妙上も、
聖夜が動いてることに対するそしなのツッコミが、
そしなが一言でツッコミながら説明してる。
あれもにこどんの赤米って言われてる。
そういうのとか、
明らかにそしな意識してるし、
あとボカロとかが最近の、
ボカロとかのネット音楽の文化が、
今明らかに夜遊びとか、
そういうメインの、
一番売れてる線の曲の文化を作ってるかっていうのがあるんだよ。
そこがないまぜになってきてて、
もはやSNSの流線によって
サブカルチャーもサブカルチャーではない感じがするというか。
はいはいはい。
するなと思うんですよね。
サブカルチャーがサブカルチャーであった時代はどうだったの?
その時代って俺ら生きてた?
生きてないよね。
生きてないよね。
多分。
多分。
俺らがサブカルチャーに触れるような年齢になった時は
すでに始まってたかもしれない。
俺ら子供の頃はまだそうだったかもしれないけど。
子供の頃もそういう時間なかったかもしれない。
その過渡期にあったかもしれない。
すごいメインカルチャーになってるなーと思いながら見てた。
でもあれじゃない?
ジューム喫茶でクリームソーダ。
そっちのサブカルチャーもあるよな。
サブカルチャーではないじゃん。
正確に言うと。
サブカル的な文脈にあったものがメインカルチャーで消費されてるじゃん。
だってあれイケてるんでしょ。
イケてるらしいね。
サブカルチャーって結局世の中のイケてる基準じゃイケてない人たちの集まりだったわけじゃん。
本当は。
その中でね。
ヒアルキーみたいなのがあるみたいな感じだったもんね。
SNSのおかげでサブカル的な衣装がイケてるっていうことになってるっていう時代に
メインカルチャーよりもイケてることになってるもんね。
そういうさ、今はオタクがナードじゃないっていうか
オタクがナードじゃないんだよね。
今でもいわゆるスクールカーさんのトップにいる人の中には
オタク的な価値観を持ってる人は少ないかもしれないけど実感としてね。
だけどやっぱり昔に比べて
スノビズム的にサブカルチャーに浸っている人が
そういう風にスノビズム的に消費されているっていうのはあるのかもしれない。
それスノビズムじゃないじゃない?普通に。
スノビズムと近い構造で。
スノビズム的だったものがむしろ普通に世の中のイケてる基準になってるじゃない?
今はね。
納得したよ。
別に私の方がすごいとかいうことでもなく
普通にそれがイケてるからっていうものになってると思うよ。
どっちかっていうと。
あとやっぱあるのは
サブカルチャーが共通の話題としてSNSにあるから
それに対する話題についていく観点をよく見ますよね。
オタク論評で。
最近はアニメを見たり漫画を読んだりすることを履修って言うじゃないですか。
それやっぱオタクの価値観が出てるみたいなことをネット記事で見ましたよね。
なるほど。
でもどうなんでしょうね。
昔からそうなんじゃない?
それこそ論化けとかさ
あと不揃いの果実とかさ
みんな見てて次の日学校で話すみたいなさ
一緒なんじゃない?そういう意味で履修。
履修ってだからスノビズム的な履修じゃなくて
わらについていくための。
そうそう。一般的な話とか。
そういう意味で今のアニメが論化け化してるってことかもしれない。
それはそうだろうね。
そうだね。
そうだと思う。
だからサブカルチャーの中でスノビズムみたいなのが
また中にさらに包まれてる感じがいるよな。
潜影化してるよね。
でも結局そこについていくフォロワーたちは
サブカルチャーの中にいるわけじゃん。
スノップじゃない人たちも普通にいるじゃん。
だからそういう意味で普通に
また潜影化してたものなんだけれども
それがメインカルチャーで上がっちゃうみたいなすごい流れ見るよね。
そういう流れ。サブカルチャーで。
SNSで経験化してるっていうのもあるよな。
だって本当はもっとサブカルチャーって
もうちょっとシリアスなもんじゃん。
昔のオルタネティブな文化って。
例えばもうちょっとアングラっぽいのもあったりするし
もうちょっとメインで取り扱わないようなこと扱ってるわけだからさ
結構わりと深刻なこと扱ったりする中でさ
だからそれこそクリープハイプ、朝の犬問題じゃん。
クリープハイプとか朝の犬だって
ちゃんと向き合ってやってるじゃん。
いろいろ。人間の痛みとか。
心の闇の部分とか。そういうのちゃんとやってるけど
そういうのがSNS的に表層でしか
救われてないから、救い取られてないからこそ
そういう内実が切り替えしてるからさ
SNSのサブカルって本当のサブカルとは全く違うじゃん。
でも俺思うのは朝の犬とかってちゃんと書いてるからこそ
誰が読んでもいいと思うんだよね。
それが読む人が多くなったからこそさ
朝の犬を読むような層だけじゃない人にもちゃんと届くような作品だからこそ
朝の犬用の立ち位置が今までとは違うように感じるっていうのがあるかもしれない。
大友とかもそうだもんな。
SNSの表面化
表層だけ消費されてる感はあるよね。
消費できるようになってるよね。
マスに届いてるから。
言うてでもSNSと生活って離れてるところもまだあるからさ
そういう意味でそこまで
意外と距離はあると思うけどね。
サブカルチャー自体と表層だけ消費されてるっていうのは
まだだから自分だけのサブカルチャーってのは全然あると思うけど
表層で消費されてるパンみたいなのはそんな感じじゃないかもしれない。
すごい表層で消費されてると思うよ。
それも表層じゃん。クリームソーダだって。
クリームソーダそうか。
SNSって表層じゃん。全てが。
なるほど。
絶頂を入れることが感じる。
俺的にはSNSが表層だからっていうのはあると思う。
表層のツイートではあるんだろうけど。
でもクリームパイプはこの人たちにとっていいと思ってるんだなって思っちゃう。
なるほど。
いいと思ってるんだろうけどなんだろうね。
でもその捉え方の知りやすさってのはこっちの尺度かなって。
だから個人の中で分離してるんじゃない?
表層に出てくる強さと。
松崎っていうのはクリームパイプとか朝の犬が純喫茶のクリームソーダ的になってるってこと?
そう。
そういうのはあるかもね。
一緒に協力的に受け入れられてるわけじゃん。
そこごちゃ混ぜになってるじゃん。すごい中身が。
その表層の話と自分だけの話が。
確かに純喫茶のクリームソーダ的に扱われてるなって思うのはあれですね。
最近ツイッターにあるようなサブカル漫画はやたら近隔じゃん。
マジ?
あれか。
どういうこと?そういうのある?
ダザイ読んでるとか。
それこそダザイとか三島とか誤解されやすい作家だからこそそういう風なのあるかもしれない。
派手だしね。作品としても。
人間も派手だったから。
そういう文学に対する消費感みたいなのあるかもしれない。
そういう意味だと自殺してる作家の中だとさ、有名作家の中だとさ、
芥川ってそういう消費されないよな。
確かに。
いやでも消費されてると思うよ。
でもやっぱダザイと三島ってそういう似てる人同士じゃない?
うん。
なんでやろ。
書いてることに距離感じゃない?
そうだね。やっぱ芥川は距離感を持ちてるもんね、単純に。
ある程度頭で書いてるもんな。
内的なもので書いてるよな。
確かにね。カッパ読んでて別にないもんね。
そういうサブカル的なエゴサとかないもんね。
河童も自殺だけど、河童の自殺はやっぱエゴじゃないんじゃない?
そうだね。
河童はやっぱ日本の美しさしか書けなくなって戦後になって、それも書けなくなって死んだけど、
SNSとサブカルチャーの乖離
そういうのはやっぱ普通にサブカル消費的な意味ではあってないんだよな。
そうだね。
やっぱダザイとかの、別に大敗してる人じゃないけどさ、大敗っていうイメージはつけまとってるじゃん。
大敗の香りみたいだもんね。
そういう意味で今のサブカル消費の中に絶望主義みたいなのが多いかもしれない。
三島はダザイの絶望主義的なところを批判してるけど、三島も割りかし本当に絶望した人でもあるし、
自殺してる分は絶望してる人は絶望してるんだが、
でもやっぱ三島の前教徒のあれだってめっちゃフリー配信されてるじゃん。
この問題の根本はさ、自殺してる作家を読む人はさ、そういう風に消費してる人はおそらく自殺しようと思わなかったことがないってことだよね。
そうだね。かせつじさがない表層になる。
SNSって装置自体がそういうのをさ、表層にしてしまうのかもしれないけどね。
だから実態とは違っていてもってことでしょ。
少なくともSNSにアウトプットするってことはさ、そういう形外化させることだよね。
その視点が大事かもしれない。
だからダザイを本当に読んで本当にダザイのことをわかってるって言い方もあれだけど、
ダザイがちゃんと理解して響いて、
でもそれをツイートすることによって140字の中である種の形外化して実態と乖離が進んじゃってるってのがあるかもしれない。
4枚でな。
だってその1個のツイートだけがあるいは拡散されて俺の目にも届くような状態になってしまった場合は、その人の文脈との乖離があるし。
だからそういう意味で。
それをなんか切り取って見ることがこの情報のソースになっちゃってるから。SNSで使う人にとって。
SNSって上から下のこのラインしかないから多分。奥に行けないから。タイムラインっていうものの構造がね。
下がれない。深いところに行けないようになってるもんね。構造上。
なるほど。確かに。
1個のパッケージにもなっちゃうしツイートすることによって。
ダザイってたまに読むと、前読んだ時以上に精錬だよね。
あーそうだね。
ダザイって結構涼しいよね。
そう。ダザイって。
特に中期とか初中期は。
カラッとしてるよね。なんていうの?意外と。
うん。
こう、そういうさ、自殺とかさ、それこそ何?心中とかさ。
人間資格的なさ、こう、なんか、何?こう、赤黒くてこう、じんめーっとしてるみたいなイメージ。
じゃん。パブリックイメージ。
うん。
の割にさ、ツガルとかさ、あと何だろう、思い出とかも。
不学とかね。
そう、不学とか。
まあでもあの時期は、ダザイが精神的に安定してる時期に書いてあるからね。
それはそうだよね。
でも意外と初期作品のさ、思い出とかもさ、割となんかすごい。
てかダザイの作、何だ?作品、作家としての中核がさ、意外とそのなんかジベジベしたイメージの場所じゃないってことだよね。
社用でさえも割と。
でも俺はその後期に書いてる、戦後に書いてる、社用とかあれは本当に最後に人間資格で最後カラッとしてると思う。
人間資格ってカラッとしてるところの絶望感がいいんだよね。
どっちかっていうと。
そういう、本当にダザイがカラッとしてるのは、ダザイ自身が自分が内戦からも遠いからなんだよ。
たぶん同型文革だから。
自重として出てくるんだよね。内戦だから。
ダザイが本当にこう思ったっていう時に、もうダザイはそのところと自分が離れて、それをもうはたから見ちゃってるっていう構造があるじゃない。
ダザイの小説って全部。
だからこそカラッとしてるのかもしれない。
自分と視点が一致してないからダザイって。
自分が書いた時、いやなんかそれは嘘なんですっていうのがダザイだから。
なるほどね。
そういう意味でダザイがカラッとしてるかもしれない。
そういう意味で三島の方がジメッとしてる感もある。
そうか。おとぎ造詞のさ、俺ダザイで一番好きなおとぎ造詞なんだけど。
序文がさ、空襲で防空壕に入る時に娘が昔話とかしてくれてセガンデーみたいなのを書いたんだけどさ、
戦争の空襲が起きてる時期に書いてる割にさ、なんか遠いんだよね。
そこの戦争の暗さみたいなのないんだよね、序文って妙に。
でもダザイはそれに意図的にやってるかもしれない。
だから人間資格だって、例えば主人公ヨウゾウってやつだけど、
ヨウゾウは明らかにダザイのことを書いてるんだけど、
最初の一文目はさ、一文目が大事なのは人間資格で大事なのは、
一文目は恥の多い生涯を送ってきましたじゃなくて、
私はその写真を三度見たことがあるから。
そこがダザイの本当に大事なところなんだよね。
だと思うんだよね。
でさ、結局ダザイはこの話を書くっていうことは、
自分が考えて書いたんじゃないですかがさ、あるんだよね。
っていうところをやっぱり理解するとですね、
たぶん恥の多い人生を送ってきましたが、
一文目だと思ってる人多いんじゃない?
そういう意味で消費されてるんだろうね、ダザイは。
なるほどね。
TikTokの快楽
感は究大ね。
感は究大。
ダザイって感は究大って使うよね。
使うね。
なんか特に後期使うよね。
晩年とかよく出てきます。
感は究大ってことでさ、
SNSがやっぱりそういう、
いろんなものを表面化させていくのもあるよね。
あるね。
やっぱりそういう意味じゃん。
なんか音楽とかでさえそうなってるもん。
時間自体がさ、
今サブスカールかそうでもないけどさ、
Twitterで拡散された音楽とかってTikTokとかに近いんだけどさ、
その、やっぱりなんか表面、
引用でもないその、
表装だけ撮ってるみたいなの多いよね。
あるね。
TikTokがな。
TikTokとかもそうじゃん。
表装より奥にアプローチできない
そう。
フォーマットじゃん。
Twitterとかもそうじゃん。
なんならそういう、
SNSが流行ったんだって奥がないからなのかもしれないし。
そうだね。
TikTokが流行ったんだって奥がないことの優越性みたいなとこあるじゃん。
奥がないから気が楽だしな。
TikTok最高だからね。
よく言うよな。
30秒で見てさ、
何?
それこそもうさ、
大風呂だよねマジで。
ちょっとした、
ちょっとした大風呂みたいなのを、
30、
まぁ15秒だよね。
元はね、今伸びた。
今多分なんか3、4分ぐらいまでいけるらしいけどさ。
うん。
とりあえずさ、こうスワイプしてさ、
別に面白くなかったらすぐスワイプしちゃえばよいじゃん。
うん。
で毎回このした瞬間に何か来るんじゃないかっていうこの、
前の動画と次の動画がこう7,3ぐらいで終わりになってる時に、
うん。
もう人間って絶頂を迎えるじゃん。
うーん。
こう快感がバッてきてさ、
でその後も、
またバッていったらさ、
何て言うんすか、
すごいずっと刺激与えられてる状態じゃん。
それこそ。
うっそだなぁ。
でさ、もうそれぞれの奥にはいかないわけだからさ。
うーん。
いやだから、
そういう意味でさ、やっぱ人間っていうものがさ、
やっぱどんどんさ、
表層だけになってくっていうのもあるんじゃない?
それ見て。
うーん。
表層だけになってく傾向ではあるよね。
ずっと。
快楽、
単純な快楽の方に走ってるっていうのもあるんじゃない?
うーん。
考えないもんね。
TikTokとか見てると。
何で生まれたんだろうとかさ。
うん。
で俺はさ、
俺すげー動いてることがあって、
すごい予備校知恵のように尊敬してる先生がいたんだよ。
はいはい。
で、その時ね、
俺がね、受験生の時ってちょうどね、
ちこちゃんに叱られるが早い時期だったのよ。
はい。
ちこちゃんに叱られるが最初に跳ねた時。
はいはい。
おじさんがみんな見てた時。
うん。
その時に、
なんでああいうのが、
NHKっていうのはああいうのを流行らせるんだっていうのを言ってたよ。
うん。
先生が。
ああいうとこはNHKの姿勢が出てるって言ってたよ。
うん。
でも人間はぼーっとしていいように頑張ってきたんだ。
うん。
今やっとぼーっとできる時代が来たのに、
うん。
ぼーっとしていってんじゃねーよっていうのはおかしいって言ってたの。
うんうん。
先生が。
俺それすげー覚えてんだよ。
うん。
なるほどね。
なるほどね。
見てたわ。
うちの母親も見てた。
俺の父親も見てたよ。
うちの母親はもう、
ぼーっと生きていい時代
母親以外のね、
ベクトルに見てないから、
何のために終わってなかったけどね。
うん。
いや、あれ見てたところで、
ためになるものでもないんだもん。
そこから何か吸収してなかったけどね。
ああ、俺の父親番組が面白いって言ってた。
あのなんかさ、
小話とか再現ドラマとかやってんじゃん。
ああいうのが普通にちょっと面白かった。
ああいうのがおもろいよね。
あとなんか、
岡村の雑談とか、
あとなんかちょっとさ、
端でさ、
その、
緩和みたいな感じでさ、
岡村とチコちゃんとゲストがちょっと喋ってるみたいな。
あるね。
あと最後のトークとかもさ、
ああいうの番組として面白くて見ちゃうもん。
わかる。
うちの母親もさ、
結局最後のトークとかずっと見てさ、
楽しみみたいな感じだった。
あとこう、
バラエティと違って、
おじさん的にも普通にちょっと好きなさ、
あのちょっとした教養感とさ、
そのノリが合わなきゃいけないし、
チューニングが合ってるよね。
そういう意味でやっぱ、
NHKしか見られなくなるじゃん。
モトナルとかケノン。
そういうとこあんのかもしんない。
まあでも、
ぼーっとして、
ねえ。
いい時代なのか、
なのか、
今は。
時代な、
そんなさ、
ぼーっとして生きていられるほど
いい時代でもなくないか。
でもさ、
なんかぼーっとしているには、
いるために必要なものっていうのが
構成されてないんじゃない?
なんとなく。
ぼーっとするためのさ、
下支えになってるものがさ、
なくない?
そういう意味で。
それこそ、
歴史とか文化とかさ。
いやーでも多分、
ぼーっとさせてんだと思うよ、
システムが。
まあシステムがね。
うんうん。
いやでもシステムはさ、
システムが回ることしか
考えてないわけじゃない?
うんうん。
なんかそこでさ、
システムにさ、
それがなあ、
正解なのかって
突きつけるのがやっぱ
人間なんじゃないの?
あと、
歴史とかがない分、
ぼーっとしたいのかもしんない。
こっち側が。
うんうんうん。
その、
もう、
自分がさ、
正解がないじゃん。
どうしていいのかも
わかんないし。
はい。
っていう場合の中で、
何をするべきなのか、
今自分はどうすべきなのか、
どうやりたいのかっていうことを
考えるには、
考えてもしょうがないかも
やっぱ。
うんうん。
歴史を作ってると思う。
まあ、
確かにね。
普通に失われた30年の中で、
まあ、
TikTokは日本だけじゃないけど、
失われた30年の中で、
日本がさ、
どんどん良くなる時代が
終わってってさ、
うんうんうん。
もう、
どうしても、
どうしても変わんない感が
やっぱあんじゃないの?
うんうんうん。
我々の中に。
何をしたところで、
結局政治は悪くなってく
一方だし、
経済も悪化する一方で、
何も声を上げたって
しょうがないっていうかさ、
うんうんうん。
もう理不尽なことに
対抗する力もなくなってさ、
うんうんうん。
それも我々を奪われてしまって、
うんうんうん。
理不尽なことを理不尽なこととして
受け止めた上で、
うんうんうん。
そういうもんでしょって割り切って、
うんうんうん。
考えないようにしていきたいっていうのは、
うんうんうん。
割と社会のムードとして
ある気がするけどね。
うんうんうん。
いやあ、
でもやっぱそれはさ、
ニヒリズムとかがさ、
蔓延してくんじゃないって
めっちゃ思うんだよ多分。
うん。
そうだね。
やっぱりさ、
うん。
これ、
このポッドキャストで
これ、
このポッドキャストで
喋ってないっけ?
いろんなところで喋ってるから
分かんなくなっちゃうけどさ、
はい。
今死ぬ授業を取ってるのよ。
はいはい。
その中でさ、
なんかまあ、
結構だからやっぱその、
なんていうの、
精神的な話になってるっていうかさ、
救われることなく生きる
観念的な話になってる。
そうね。
なんかでさ、
その、
人間はどうやって救われるか
みたいな話になった。
うんうんうん。
それでさ、
なんか、
いろいろ言ってる中でさ、
一人がさ、
その、
いや人間なんて結局
救われないんだから、
救われないと思いながら
生きてけばいいみたいな。
うんうんうん。
結局、
みんな死ぬんだから
救われないじゃんみたいなことを
言ってたんだけどさ、
うんうんうん。
でもさ、
なんていうの、
死んじゃうから
救われないと言っても、
それをなんか、
なんていうの、
それに開き直ってさ、
うんうんうん。
開き直らないように
生きれないかっていうのが
人間の文化なわけじゃんって
俺はその時
すごい思ったんだよね。
うんうんうん。
でもやっぱさ、
そういう意味でさ、
やっぱその、
この、
いろいろその、
ぼーっと生きていい時代になったことでさ、
そういうなんだろう、
まあ、
なんていうの、
人間らしさっていうのもあれだけど、
うん。
そういうのまでさ、
失われてるんじゃないの?
っていうのを
最近ちょっと感じてるんだよね。
分かる。
っていうか、
失われ始めるんじゃないかっていうか、
もっと失われていくんだろう。
によって?
によって。
あー。
だって、
別にタイでもさ、
生きていけるわけじゃん、
ある程度は。
そうだね。
そうだね。
広域的な話じゃないですか。
うん。
いやー、
そうかもしれない。
今だって、
あのー、
もはやさ、
こういうふうに生きるべきだっていう、
我々のこの模範概念がなくなったことによって、
多様性社会によって。
うん。
そういうことで、
もはや、
自分が、
こう、
弱者から抜け出したいっていう感覚もないのかもしれない。
弱者のまま、
うん。
救われたい。
うん。
っていう概念になってきてるかもしれない。
うん。
なるほど。
確かに、
なんか、
自分がこう、
弱者であるみたいなことに、
すごい自覚的である気もするしな、
そういう意味で。
うん。
なんかあの、
なんだ、
そこも開き直ってるというか、
うん。
失われていく多様性
そういう意味で、
まあ、
その多様性って言っても、
まあそれジェンダーの問題とかと違って、
例えば、
それこそ学歴とかでさ、
今まではコンプレックスを抱えて、
その分社会で生き抜いてきた人もいれば、
うん。
そのままこじらしてきた人もいるかもしれないけど、
うん。
でもそういうコンプレックスとか、
劣等感みたいなものを、
多様性ってものによってなくしちゃって、
うん。
そこで次に行ける時代じゃなくなったのかもしれない。
うん。
うーん。
そうね。
そういう意味で、
向上心っていうのがなくなったのかもしれないよね。
うん。
そう。
だってなんか、
より良くなろうとか、
なんだろうな、
そういうことを考えなくてもさ、
うん。
やっぱ生きていけるもんな、
単純に。
うん。
ああ、そうだね。
だってそういうことさ、
もうさ、
15秒間で忘れちゃえばいいわけじゃん。
うんうんうん。
で、
なんとなくシステムのさ、
うん。
乗っ取って生きていって、
次また貝だけで埋めてっていう風にさ、
うん。
生きていけるようになってるよね、
どんどん。
うん。
なってるね。
やっぱり人間、
最大の敵であり最大の味方って、
暇だからね、
マジで。
うん。
空き時間じゃん、
結局。
あと夜じゃん。
夜のさ、
その、
眠れない時間とかじゃん。
そうだね。
ベッド入って電気消して、
そっからの眠るまでの30分とか。
ほんとか。
あるいはさ、
それがさ、
例えば1時間半になったりした時にさ、
うん。
みたいな、
なんつーの、
そういう、
もっと普段、
ね、
見えてないところが見えてくるみたいなことがさ、
減ってるんだろうね、
単純にやっぱり。
うんうんうん。
やっぱ結局さ、
父親的な、
父親が言うさ、
ずっとスマホ見せてもお前何も考えなくなるぞ、
みたいな、
うんうん。
こと言ってるけどさ、
でもやっぱ考えなく、
なるんだよね実際。
うん。
それさ、
考えたくないからみんな見てるんじゃん。
うん。
うんうん。
ね。
わかるわかる。
でもさ、
考えないでいる時間があるからこそ、
考える時間が生きてくるんだっていう風に、
俺は、
俺はスマホ見てる時は思うけど。
わかる、
俺もそうだよ、
俺も、
何か、
いい時間なんだと思いながら見てる。
そう。
そう。
でもそれが、
あまりにも多分、
でも俺ももう、
やっぱ休日スマホみたいなのも終わっちゃった、
というかするわけじゃん。
うんうん。
そういう時にやっぱ、
そういう考えないでいい時間出るメリハリがないっていうかさ、
うんうん。
ってなってきて自分が向上していかなくなる感はあるよね。
うん。
あるよね。
いやー俺バイト始めたのよ。
そういえば始まった久しぶりに。
うんうん。
1ヶ月半ぐらいしなかったもんね。
うん。
やっぱね、
すると生活に張りが出るもんね。
うんうん。
なんかこう、
メリハリが出るよね、
本当にその、
なんか、
自分でコントロールできない場面が増えてくるだけで、
なんかこう、
うん。
ちょっと話違うけどさ、
逆に余暇みたいになってる。
余、
なんだろ、
何もしない時間みたいなことになってるんだよ、
その。
何もしない時間。
だから授業出る以外何もできないって言う人だよね。
うんうん。
そうだから、
スマホを見てない時間的な感じになってる。
その、
バイトと快楽の関係
バイトの時間がその自分の生活の中に置いて。
あー。
バイトの時間がもうその。
そう。
それがあることによってなんかこう、
何か結局バイトって真面目に働かないといけないじゃないですか。
そうだね。
ね?
うん。
結局規約とかもあるしさ。
うんうん。
いろいろそういう、
何日入りますって言って入ってるわけだから、
責任があるじゃん。
うんうん。
そういう時間が生まれることによってやっぱなんかこう、
そうだよねその、
ずっと快楽だけで生きていける、
わけよ結局ある程度。
うんうん。
自分一人暮らしだし。
うん。
大学だって別にね、
大学なんかその全部授業出ないといけないわけでもないじゃん。
うんうん。
ってなるとさ、
ずっと快楽で生きていけるけどさ、
うんうん。
それにバイトが入ったっていうことでさ、
こう、
快楽の気持ち良さもやっぱ上がったよね。
うんうん。
あーそういう意味で。
うん。
だからさ、
そういう意味でさやっぱさ、
多分人間快楽ばっか、
貪ってきてるとどんどんこう、
霧が出てくるんですよ。
ぽんやりしてくるだろうね。
うーん。
でもそういうさ、
うん。
そういう時にさ、
うん。
いやじゃあずっとTikTok見てればいいじゃんとかさ、
はい。
そういうのじゃないでしょって言ってく役割がやっぱ文学だと思ってたんだよね。
うん。
ニヒリズムに対抗するのって文学とか芸術の役割じゃないのっていう。
そうだよね。
だって文学なんていうのはニヒリズムに、
ニヒリズム的な文学もあるけど、
うんうん。
最も対極にいない。
うんうん。
ニヒリズムなんてやってもしょうがないじゃんっていう意味で、
そうだね。
やるのがきつすぎるものが文学だから、
うん。
そういう意味で文学はさ、
うん。
まあTikTokの15秒に対して、
うん。
あるいは、
うん。
AIの先生とかにもよく言われるけど、
うん。
文学の役割って何だろうっていうのを考えた時に、
うん。
結局、まあ死ぬから救いがないんだっていうのもあれば、
うん。
死しか救いがないんだっていうのもあるけど、
うん。
でも結局生きてる間の救済っていうものを用意していくというか、
うん。
生きてる間自分が自分で作っていくっていう感覚、
文学と芸術の役割
うん。
をやっぱ文学が肯定すべきなんじゃないかなと最近僕は思ってるんだよね。
なるほどね。
文学が引いては文化芸術ね。
そうだね。
でもなんかそれを、なんだ、
それをさ、文学を必要としてる人の範囲がさ、
っていうのは多分変わってないよな、そのサブカルチャーがその、話戻るけど。
いや、なんか文学がサブカルチャーをメインカルチャー化してったことに反対して、
文学がどんどんムラ打ちにいってる感はあるよね。
そうね。
文学はもともとサブカルチャーというよりはメインカルチャーだから。
うんうん。
いや文学が世の中に作用してきた時代っていうのは別にそんな長くないけど、
うん。
ね、近代明治からって考えれば別に100年くらいだけどさ、
うん。
なんだろ、もっと短いかもしれないよね。
うん。
50年くらいだったのかもしれない。
うんうん。
文学が世の中に作用してた時代っていうのは。
うん。
だから、まあ映画もスターンのか盛り上がってくるのか分かんないけど配信によって。
うんうん。
これから違う芸術の形態が出てくるかもしれないけど、
うんうん。
新しいムーブメントとして。
でもやっぱり、どっかしらにはそういうことに対する抵抗みたいなものはさ、
うんうん。
文化ってものが必要なんじゃない?って思うんだよ。
うん。
カウンター枯れちゃったしね。
まあそれもあれだよね。戦後詩人がなんで読まれなかったかっていう話だよね。
うんうん。
その三好達治とかの時代は、誰が読んでも分かるし、誰が読んでもいい、知らねえってなったけど、
戦後の詩人たちと、たとえば荒地派とかの詩はさ、
アユカワとかね。
そう、読んだ後に考えさせちゃうから、
うんうん。
読者を。
だからそういうものを大衆は好んで読みたがらないみたいな。
なんかアレチガとかの詩人って認識間違ってるか分かんないけど、
うん。
なんか責任を置いてるところは大衆とか社会に対してじゃなくて、
そうだね。
そう、自分たちのその分断とか、もう一個人の中にその詩の責任を置いてるから、
うん。
そういう意味ですごい共感得られにくくなってるんだよね。
まあ実存ってことだよね。
そうそう。
言ってしまえば。
実存って多分共感得られにくいから、割と。
そうだね。まあ実存を暴くのって疲れるからね。
だりぃからね。
だりぃから。
すごい。
俺もね、実存を暴いてるよりね、TikTokでJKあらる見てたいっすよ。
うーん。
そりゃ。
そりゃ、そりゃなんだよ。
でも俺はさ、思うんだよ。
はいはい。
でも人間は実存を暴かざる、暴かざるを得ないんじゃないの?っていう。
いやでも暴かざるを得ないまでいかないんじゃない?このままだとどんどん。
そうかもね。
表層で終わっちゃうから。
じゃあさ、なんでさ、よくなんないといけないの?
ニヒブツとかAが言ってますけど。
別にいいじゃん。気持ちいいし。
なんか気持ちいいものなんか5ポイント嫌いなりしてもう死んじゃえばよくなるって言われたときのさ、答えをさ、我々は持っているのか?
いや俺はあるよ。
うん。
気持ちいいにしては君嫌なことないの?って思っちゃうのよ。
うーん。
あー。
なるほどね。
そういう答えか。
っていう俺は今思ったよ。
なるほどね。
俺の答えはね、将来未来への責任だね。
あー。
俺の答えは未来への責任だな。まだ生まれてない人たちへの創造力を持つことだよね。
あー。
俺はやっぱ、なんて言ったろ。気持ちいいにしてはTikTok見てるだけじゃ生きていけないんで。
そうね。
生きていくためには学校も行かなきゃいけないし、働いて水に浮きなきゃいけないし、料理だって作んなきゃいけないし、ゴミだって捨てなきゃいけないでしょ。
そういう人間の根本的な生活が変わりなく動いてるわけで、そこに絶対問題が起きてて、君も暴力されるし、君も暴力に加担しているし、そこについてちゃんと我々は考えていかないと、どんどんどんどん君の快楽すら失われていくんだよっていうのはある。
それこそ松崎の思うように、未来に対する責任というのはあると思うんだよ。
でもそれと同様に現代に対する責任も我々にあると思う。今の世の中に対する責任。
で、先人たちがさ、私が読んできたような偉大な先人たちの言葉というのは、それは我々への責任というよりも、彼らが現代に対して、彼らが生きている時代に対してちゃんと問題意識を持って、回答を出してくれたからだと思うんだよ。
その回答が時代によって哲学において批判されたり、あるいは発展させられたりとかして、時代の交渉を経て、今も学問というものがめくめくと続いているのであって、文学もそうじゃない。
文化自体もカウンターの繰り返しで、名称号的にどんどん先に進んできたわけじゃん。
そういうふうに、俺は絶対に今は文学はだからこそ、現代に対する何か姿勢というものを打ち出さなきゃいけないんだと思う。
別に答えはなくてもいいから、少なくとも問い続けることはやめちゃいけない。
それは文学を書く上での責任感はみんな持つべきだと思う。芸術をやる上ではない。
少なくとも、俺はもともと学者になりたかったと思うけど、問い続けることだけやめちゃいけないんだと思うんだよ。
今の現状認識に対して。起きている暴力を暴力じゃないのって言えなくなったらやっぱり終わりなんだよ。
そういう意味では、ニヒリズム的な人にさっきの話を返すとしたら、何かやってる、特に芸術全般やってる人がニヒリズムには違うよってなるよね。
現代に対する責任感と自己成長
その責任がないよね。その責任がないものをさ、未来に対する創造力っていうのは最もだけど、
それで言うと、現在に対する創造力っていうのもフジョンの言う通りではあるけど、それよりも自分自身に対しての責任みたいなのがあるじゃん。
何かやるものにおいて。それがないと、たぶん続けられないし、やる意味なくなってくると思うんだよ。って思うよ、俺。
学生だからかもね。ニヒリズム流行するの。
社会に出たら変わるかもね。
よくなりたいと思ってる?自分ら。
個人が?
よくなりたいと思ってないかも。
よくなりたいと思ってる。
めっちゃ思ってる。
で、今なんでかなって考えてたのよ。
それで自分に対する責任もあるけどさ、結局さ、文学とか芸術一般なんだよね。
単純に小学生の時とかにさ、サンティクジュピーとか読んでさ、わぁ、世の中ってこんなすげぇ人いるんだってなるとさ、これぐらいすごくなりたいなっていう。
そういう意味だね。
そういうのが植え付けられてるからこそさ、やっぱりだからなんかその、それこそ、気高くて高潔な人間になりてぇみたいなさ、憧れみたいなのあるよね。
宮台真嗣が言ってたけど、やっぱ観戦同期っていうんだよ。
その人の目標があって、そういう人になりたいと思うことが一番そういう意欲とかそういう全てに繋がってくんだみたいなことを14歳からの社会とかで書いてたけど。
そういう意味じゃ、俺の場合は完全にね、そういう小学生、高学年から中学の時に読んだ作家とか、あるいは聞いたミュージシャンとか、そういうのに比べたら自分まだまだだよなっていう風に常に思ってるから、なんかそのニキリズムにいかないっていうか。
そういう憧れに対する好調心がある。
まだ続いてるから、多分。
あとなんか、俺今話聞いて思ったのは、俺が憧れているものの対象がそういう好調心がある者たちなんだよ、分かる。
それもあるね。
それが結構あるわ。
確かにそれもある。
やっぱちゃんと成長する作家みたいなのがかっけえなと思う。
そうだよね。
そうでありたいと思いながら見てるから、そこもめっちゃあるなと思った今。
いや俺としてはなんかこう、現状の自分の良くなさみたいなのが大きいかな。
なんかこう、その意味でね、憧れてる作家みたいなの昔はいて、特に学者になりたくて大学受験勉強した時は、行きたい大学もあったし、
こういう学者になりたいとか、こういう研究したいとか、先行の研究者とかの話を聞いたりとかしてなりたいもあったけど、
どんどん自分の人生がさ、孤独増していくと、人と別れ合いなくなってくると、やっぱり自分の人生としての責任感みたいなのもある。
なるほど。
あとやっぱり、自分が10代の間に良くなりたいと思って、その理想の姿になりたき近いんだけど、今の自分は。
でもやっぱ、普通に社会で生きてると他人を傷つけるし、いろんな人に嫌なこと言っちゃったりとか、人を怒らせたりとかするから、
そういうのに対して毎回向上心を持つから。
同じような話だよね。
成長としては明らかに良いものを立てるようになりたいというのがありますね。参加として。
だからその根底には先人がいいんじゃない?いると思う。
でもそれさえもなくなってきちゃうんじゃない?みたいなのがあるじゃん。
話戻してってこと?
そういう意味で、快楽とかシステムの中にある自然状態になっちゃう。
だから藤原雄が誰かを傷つけて、もっといい人間になるんじゃなくて、思えてるのは良いことだけど、
そこを覚えるっていうことが実は困難なことになっていくのかもしれないじゃん。
無視されちゃうってことね。
なんでこんなにさっき言ってた不安みなことを言ってるんだろう、俺とも思うけど。
分かんないもんね。
そういう意味で、文学。
俺はこの前、新庁で村上春樹が文学の役割みたいなのを。
文学をなぜ、疫病と戦争の時代に小説を書くのかっていうのを。
アメリカの大学の講演のやつを載せたんだけど。
その時に、文学は長い時間をかけて書かれて、長い時間をかけて読むテキストだと。
で、村上春樹自体は5%の人は小説を読むのをやめないと思う。
歌詞読みは51度的に。
って思うって言ってて。
俺はこれちょっと時代認識と違うなと思ったのよ、春樹は。
文学の役割と責任
いや、その割にはもっと文学死んできてるでしょって思ったんだよ。
でも実際文学は死んだのかもしれないけど。
でもやっぱ、本を読む人がいる以上は責任あると思う。
例えば、俺、映画と小説やってて、どっちも多分、俺が生きてる間にどっちも亡くなるかもしれないけど。
文化庁界でもやっぱ、姿勢っていうものは大事だと思う。
どういう姿勢?
生きることへの肯定とか、人間自体の肯定だよね。
あと、より良い人間であろうとするとか、向上心とか。
まあ、てか、善人の肯定というか。
よくあることへの肯定みたいなね。
人が人らしくあること、人が人らしく良いと思うことに対する肯定みたいなのは。
やっぱり、それを先、今文句が死んでたとしても、今小説書いてますけど、やっていく必要があるんじゃないかなと。
不条理に対する抵抗っていうかね。そこから目を背けないこと。神が言ってるようにあるかなっていう。
なるほどね。
そういう意味で、あれかもね。生きるとか死ぬとかいう時代じゃなくなっちゃって、死がすごく遠ざかってるからこそ、こういう、そういう、快楽とかによって、快楽とかニヒリズムによって、不条理から目を背けるような時代になってきてるんですね。
死によって目を背けるとかじゃなくて。
確かに。
ニヒリズムでもいいんじゃないの?別に。文学が村社会になってるのと同じで。
そこまで敵を気にかけてあげる必要はなくないかって結構思うんだけど。
ないと思うよ。ないと思うけど、個人的な姿勢として。
敵に気をかけることがさ、人に気をかけることがさ、人間的であるんじゃないの?あるよ。
なるほどね。
家族とかさ、家族って例えするけどさ、格好つきの家族なんだけどさ、身の回りとか、自分の文脈とか、中にある人、でも今実際文学ってそうなってんじゃん。
文脈の中にある人とかじゃない限り、救おうとしてるのかもしれないけどできてないじゃん、現状として。
だからね、どうすればいいのかなみたいな話になっちゃうけど。
単純に隣人に対する想像力を失いたくない感があって。
なるほどね。
優しくあるって話だよね。
なるほどね。文学自体は優しくあるべきだった。
文化っていうものが。
優しくあろうとすること自体が不条理に対する抵抗なんだよ。
でもやっぱり世の中の不条理に対して、抵抗すべきなんじゃないかと思う、文学のところで。
なるほど。
優しさと不条理への抵抗
こんな不条理がはぎこってるからこそ。
特にイケ病と戦争の時代だからこそ、今、嘘は書けない感はある。
不条理はない、物語は書けないっていう感覚がどこかに確かにある。
全然話揃えていったけど、結局頑張ろうって話になっちゃったね。
藤原のノートと一緒だね。
最近はその構文やめたから。
結構前だよね。
季節の話、過去を思い出す、現在に立ち返る、決意っていう構文でしょ?
でもこれさ、普通だよね。
普通だよ。
別にとっぴりのことじゃないよ。
とっぴりのことじゃないんだけど、2回連続に結論一緒だったの。
2回連続に書かなきゃいけないって言って終わったの。
ノートを書く時点で、そろそろ何か書かないとマジなノートでも書くから始まってるからそんなんじゃん。
サブカルチャーがメインカルチャーになったって話から全然遠ざかったね。
結局なってるからさ、その上でってことでしょ。
というわけで、ここに藤原のリンク貼ってあるからね。
ノート読んでください。
書かないといけないからね。
あっ、口のノートもあるんで。
口のノートもあるね。
おつかれさまでした。
おつかれさまです。
45:35

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