川崎病との闘い
おはようございます、こんにちは、こんばんは、のんもともりんです。
この放送は推し散らかしチャンネルやけんということで、
今日はね、やっと一区切り着いたので、ちょっと報告します。
何かっていうと、息子の川崎病の定期検診がやっとで終わったんですよ。
7年。7年です。7年。
本当によく頑張ったな、私って感じです。
息子ももちろん頑張ったんだけど、いやマジ私よく頑張ったよっていう。
あのね、マジでワンオペで子供の通院して仕事してやりたいことやって動くって、
まあ涙いての気持ちじゃ持たないんですよ。ぶっちゃけ言うと。
でも私は本当子育てと育児だけだったら、家族から私は逃げていたと思うんですね。
つまらないって言って。嫌だって不満ばっかり言って。
だから私は自分のやりたいことをやれているこの現状が一番の幸せなんですよね。
だから大変じゃないの?とかよく言われるけど、むしろそれをやってない方が私は嫌だ。
やりたいことをやれるこの環境と今がすごく幸せだなって本当に思います。
じゃあこのエネルギーをもて余して、多分やりたくないことやってたら私のことだからきっと救急車に運ばれていただろうし、
やりたくないことをやると体調不良で出血とかしちゃうタイプなんで、ずっと多分寝込んでるんじゃないかなって思います。
でね、自分の子供が3歳の時に川崎病になったわけですよ。
あれは忘れもしません。寒い日でした。
喉が急に腫れてるんです、自分の子供が。
え?って、ママ痛いよって言ってるんですよ。
救急に運んで行って、でも救急の先生は大学生みたいな、研究生みたいな人で、
うーん、なんとも言えないんでもう一回来てください朝にって言われて、
救急車で運ばれた先が家とは全然違う埼玉の西区の救急病院で、そこからの帰りの車なんてないんですよ。
え?っていう状態で、周りは田んぼだらけで、急いでパパに何もない、交通機関も周りも田んぼだらけで何もないから迎えに来てって言って、
で、やっぱり朝になっても状況は良くなってなかったので、家具治療センターに行って、緊急入院して、
クリスマスもお正月も小児病棟で過ごすっていう日々だったんですよね。
もう私はあの日々は辛かった。本当に辛かった。
朝起きた瞬間子供から帰りたいって言われて、寝る時も帰りたいって言われて、一日中帰りたいって言われるあの日々。
帰りたいよねって思って。
小児病棟だから子供と一緒の小さなベッドで親も寝るんですよ。腰痛くなるから、私も生きてられないんですよね。
だから夫と交代合体に、夜ちょっと家に帰って寝させてくれ、これ体が持たないって言って、
3日に1回とかそういう感じで家に、夜帰って寝て、早朝に病院に行ってみたいな日々を2ヶ月くらいやってたかな。
運良く、原因不明ではあるけど良くなって、
1年に1回とか検診があり、
あと本当に大丈夫か詳しい検査をするために東京イカシカ大学に1週間検査入院して手術、家庭で検査をやったりとかもしたんですよね。
人ってどうしようもない時に祈るんだなっていうのを感じたんですよ。
祈りしかないんだなって私は感じたんですよね、あの時に。
診察で言われ自分の子供が痛いって言ってる時に、
母親の思い
病院の方はたくさんいろんな準備やってくれて、入院やってくれて、
目の前で先生が説明してるんですね。
でもその説明聞きながら意味がわからないんですよ。
何川崎病ってっていう状態から入って。
診察中に涙が止まらないのね。
ポロポロポロポロ。
涙ってこんなにもポロポロ落ちていくものなんだなって、
泣いてる自分をどこか俯瞰している3メートルぐらい斜め45度後ろぐらいの自分が見てて、
私ってこんなにポロポロ泣くんだって感じたのをよく覚えています。
人の命の大切さを自分の子供たちに考えさせられたし、
体感をくれたいい経験だったと思っています。
なんかね、これはね、
私はこの体験をいつか作品にしたいって思ってるんですよね。
やっぱり入院、子供の入院がね、
親にかなりベンタル的にも来るし、
持ってかれるんですよね。
東京イカシカ大学院に入院してたときに、
いろんなお母さんと休憩室でお話ししたりしたときも、
それは感じましたね。
もう、どうしようもない現実と、
突き沿わないといけない現実と、
何かしたいけど何もできない現実が、
まざまざと体感させられるんですよ、病院って。
この下界にまだいるって幸せだよなって、
あの頃のことを思い出したら思うんですよね。
こっちで動けるってすごい幸せ。
牢獄に入っているような気持ちになるんですよ、病院の中って。
それをね、私は一度経験しているので、
子供を産むときも長期入院してたから、
そのときもほぼほぼずっと天敵打ちっぱなしで出れなかったけど、
なんか、いろんなところに動けられる。
だから、子供が元気って本当それだけでもハッピーな話なんですよ。
でも、欲が出るじゃない、人間って。
頭よくなってほしいとかさ、
もっといい子であってほしいとか、
発達どうしようかなって、発達追求行くけど、
その間、携帯をデザリングのやり方を覚えて、
そこの部屋でやるしかないのかな、仕事とかいろいろ今思っているんですけど。
思っても仕方ないので、デザリングのやり方を覚えて、
デザリングのやり方を覚えて、
デザリングのやり方を覚えて、
デザリングのやり方を覚えて、
思っても仕方ないので、デザリングのやり方を覚えて、
思っても仕方ないので、デザリングのやり方を覚えて、
小学校のお母さん待つ部屋が、机があればそこでやるかと思っています。
いろんなことがたくさんたくさん、
自分が起業してきて起こってはいるんですね。
全てに恵まれたかって言ったら、いや全くっていう。
いや全く恵まれてないっていう。
多分これだけいろんなことがあるから、
何くそで頑張ってこれたのかなって。
負けず嫌いで頑張ってこれたのかなって思うんですよ。
だからこういった環境がないと私は甘えるし、
基本自分で動かないから、
自分が動くためにきっと選んできたんだろうなって思っています。
そう思う機会をくれたその病気とも、
今日でお別れだったから、
川崎病の定期検診が終わって、
よしこれで時間が自由になるぜと思ったら、
明日からはもう一人の息子の発達支援と精神科の方にも
この1週間行ったりするから、
1人が終わってまたもう一人。
重ならなかっただけでもよかったかなと前向きに思っています。
発達のお母さんはいろんな思いになるのをすごくわかります。
私がそうなんで。
だから本当に無理せず過ごしてほしいなって、
何度も何度も配信で私が言うのは、自分がそうだからです。
とにかくお母さんは、お母さん自身が笑顔になれることを
第一優先に動いてほしいって思います。
それだけなんですよ、子供の幸せって。
お母さんが落ち込んでたら子供も落ち込むから、
それ以外は別にいらないって思います。
いろいろ欲しくはなるけどね。
だからもしね、もし川崎病のお母さんがいる人が誰か聞いてくれてたらいいんで、
これからの支援
治らない病気だけど治るから。
基本原因不明と言われてるけど、
点滴するものが決まってるし、処方するお薬っていうのも決まってるので、
基本は治るようにこの世ではなっています。
原因不明と言われてるけど。
保証はできないです。その状態によるんで。
だから辛いかもしれない。きついかもしれない。
なんで私が、なんでうちの子がって思うかもしれないけど、
分かるよ。絶対分かる。私は当事者だから。
でもちゃんと病院は対応してくれるから、
大丈夫だし、どうか自分自身を大事にしてほしい。
って言いたくて配信しました。
あの、ほんと病院のね、
昭和2巻で入院してるお母さんたちのメンタルはマジでやられるので、
たくさんいろんな人に頼りまくって、
自分自身を甘々にさせてほしいなと思って配信しました。
私は今日で川崎病のお母さんというものをやっとで終わります。
これからは特別支援に行くお母さんとして、
またこの状況を楽しんでいこうと思っております。
それでは皆さんお疲れ様でした。
じゃあねー。バイバーイ。
♪ 誓うのよ 昨日の私 さよなら