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2025-08-26 17:36

Episode3 Supplement〈オヤジギャグのアート化〉

「ながらで聴く未来ものがたり」

• 移動中に
• 朝の準備中に
• 寝る前のひとときに
 

今回は12分半。
“池袋から代々木”に山手線で移動するくらいの時間で、まだ起きていない未来に触れる。

 

下記noteのコラムを元にNotebookLMで音声化しています

 

note URL:

https://note.com/daisaw33/n/n4e1ea0c4159a

サマリー

今回のエピソードでは、オヤジギャグのアート化というユニークな視点から、文化的な創造活動として再評価される可能性を探ります。オヤジギャグが日本の伝統芸術と類似している点や、言葉の見立てに基づく楽しみ方が論じられ、コミュニケーションのギャップについても考察されます。このエピソードでは、親父ギャグの深い意味やそれを用いたコミュニケーションのアートについて掘り下げています。また、オヤジギャグが単なるジョーク以上の価値を持ち、日本の文化における伝え方に新たな視点をもたらす可能性について議論されます。

オヤジギャグの基本的理解
ノト丸
さて、今回のテーマはですね、多くの人がまあ日常で耳にする、もしかしたらちょっと苦笑いしちゃうかもしれない、オヤジギャグです。
ブク美
ああ、オヤジギャグ。はいはい。
ノト丸
ただですね、今日我々が手元に置いている資料、これコラムなのかエッセイなのか、このまあありふれた、そしてしばしばくだらないって言われちゃうオヤジギャグをですね、なんとアートの域にまで高められるんじゃないかと、そういう提案をする非常にユニークな視点なんですよ。
ブク美
へー、アートですか?オヤジギャグを。それはまた大胆な。
ノト丸
ええ。で、あなたが共有してくれたこの資料は、そのオヤジギャグの価値をまあ根本から問い直して、文化的な、さらには芸術的な可能性まで探ろうとしてるんですね。
なので、今日の我々の目標というか探求はですね、このまあ大胆な提案の根拠はどこにあるのか、そしてこの考え方の先に一体何が見えるのかっていうのを、あなたと一緒にじっくり探っていきたいなと。
ブク美
面白そうですね。あの、オヤジギャグって確かに誰もが一度は聞いたり、あるいはうっかり言っちゃったりした経験あるかもしれないですよね。
ノト丸
ありますね。
ブク美
その一般的なちょっとネガティブなイメージの裏に、実はなんか文化的な側面とか言語的な面白さがあるんだって、この資料はそういうことを言ってるわけですね。
ノト丸
そうなんです。その一見取るに足らないものに光を当てるっていう、その試み自体がまず面白いなと思って。
ブク美
ええ、興味深い視点ですね。
ノト丸
じゃあまずはその足元から固めていきましょうか。
はい。
まずオヤジギャグって一般的にどう見られてるのっていうところから入ってるんですね。よくウィキペディアの記述なんかが引かれますけど。
ブク美
よく言われる特徴ですね。まず単純で安直だと。その安直さが時として聞いている方に、意味はわかるんだけどなんか笑えないっていう独特のこうジレンマというか苦痛を与えるみたいな。
ノト丸
わかります、その感じ。
ブク美
それからコミュニケーションとして相手を楽しませたいっていうよりは、自分がこれを言いたいんだっていうなんか欲求が前に出ちゃってる感じがすると。
ノト丸
ああ、なるほど。
ブク美
でもそれでもってなんか笑いを期待しちゃってるみたいな。そういうある種の矛盾みたいなものがあるんじゃないかって言われてますね。
ノト丸
特に資料によると10代とか20代前半のいわゆる若い世代からはオリジナリティが無いとか、安易すぎるっていうのでけっこう嫌悪感を持たれることも少なくないと。
ブク美
うーん、まあそうでしょうね。
ノト丸
具体的に嫌われるポイントとして、安直さ、同じギャグを繰り返す、時々下世話な内容、この3つがよく挙げられると。これはあなたもなんか思い当たるところあります?
ブク美
うーん、まあありますね。でも同時に言う側にもまあ言い分があるというか。
ノト丸
ああ、なるほど。
ブク美
資料でも触れられてますけど、本人たちも「まあくだらないよなこれ」って半分わかってて。
でも場の雰囲気を笑わせるとか、あるいはなんか親近感のつもりで潤滑油みたいに使ってるっていうケースも結構多いんじゃないかって。
はいはいはい。
でも問題は、その聞く側、特に若い世代はギャグそのものの面白さとか質を結構ストレートに求めちゃう。
ノト丸
ああ、なるほど。
ブク美
でも言う側はどっちかっていうと場が和めばいいやみたいな機能を重視してたりする。
この期待しているもののズレ、これが世代間の溝を深めてるんじゃないかっていう分析ですね。
ノト丸
なるほどね。だからそのギャグを言う人のキャラクターとか関係性によっては許されたり、むしろちょっと微笑ましい感じで受けたられたりもするけど、
ちょっと度を超えると、途端にうわー寒いとかしつこいなーって反感まっちゃう。
この境界線がすごい曖昧で難しいわけですね。
ブク美
まさに。で、その境界線って言う側が思ってるよりもずっと手前にあることが多いのかもしれないですね。
資料にもありますけど、話してはこれぐらい平気だろうって思ってても聞き手は内心、うわーまた始まったみたいにうんざりしてるとか。
この認識のギャップが親父ギャグを巡るコミュニケーションを複雑にしたり気まずくさせたりする原因なんだろうなと。
ノト丸
いやーここまではなんか親父ギャグあるあるみたいな話ですけど。
文化的な創造活動としてのオヤジギャグ
ブク美
そうですね。
ノト丸
ここからがこの資料のなんていうか本領発揮というかすごく刺激的なところなんですよ。
ノト丸
筆者はこの一般的には低く見られがちなオヤジギャグを単なるくだらない言葉遊びとかで終わらせないで、
ノト丸
人間の言語能力がこう進化する中で生まれてきた文化的な創造活動の一つなんだと。
ブク美
文化的な創造。
ノト丸
それに踏み込んで日本の伝統的な無形文化なんかにも通じる価値があるんじゃないかってそういう主張をしてるんです。
これかなり大胆じゃないですか。
ブク美
いやーそれはかなり大胆な話ですね。
ここで特に興味深いのはその根拠として日本の伝統芸術、特に見立てっていう美意識ですね。
これとの類似性を言ってる点です。
ノト丸
見立てですか。
ブク美
見立てってご存知かもしれませんが、庭園で石を島に、白砂を海に見立てるとか、
ああいう感じであるものを形とか性質が似てる別のものになぞらえて、
そこに本来ないものを想像力で補って楽しむっていう結構高度な美的な遊びですよね。
ノト丸
はいはいありますね。
ブク美
その精神、つまりAをBと見るみたいな連想力とか想像力を働かせる遊びを、
ノト丸
言葉の世界でやってるのがオヤジギャグなんだっていう見方なんですね。
ブク美
言葉の見立てですか。
そうなんです。
具体的には言葉の音の響きが似てること、いわゆる駄洒落ですね。
それとか一つの言葉が持つ複数の意味を利用して、
何か予期せぬ連想とか意味のジャンプを生み出す。
これを言葉の見立てと呼んでるわけです。
ノト丸
例えば布団が吹っ飛んだみたいな古典的なやつも。
ブク美
まさにそれも音の類似性で、
布団っていうものと吹っ飛ぶっていう動きを結びつける、
一種の言語的な見立てなんだと。
ノト丸
なるほど。
ブク美
その通りですね。
言語が持つ音とか意味の多義性を使った言葉遊び自体は、
別に日本に限らず世界中の文化にあると思うんです。
ノト丸
まあそうですよね。
ブク美
ただこの資料はユニークなのは、
日本の美意識のコアな部分にある見立てっていう概念と結びつけようとしてる点ですね。
これによって単なるオヤジの寒いジョークが、
文化的な深みを持つ表現行為として再評価できるかもしれないって、
そういう主張なんですね。
ノト丸
いや面白い。
ブク美
ただ正直なところ、この見立てとの比較は、
ちょっとオヤジギャグを買い買い被りすぎというか、
肩入れしすぎじゃないかっていう気もしなくはないですけどね。
ノト丸
私もそこはちょっとうん⁈と思いました。
例えばすごい計算された庭園の見立てと、
瞬間的に思いついたみたいな安直なダジャレを同じレベルで語るっていうのは、
ちょっと飛躍があるかなとも感じますね。
ブク美
そうですね。
ノト丸
この点、資料はさらに補強するようなこと言ってますか?
ブク美
資料ではですね、さらに韻を踏むこと、
つまり言葉のリズムとか音の響きに対する、
なんか心地よさみたいな感覚的な価値も、
オヤジギャグの中に潜んでるんじゃないかって指摘してますね。
ノト丸
ラップのライミングみたいな。
ブク美
そうそう、そんな感じです。
意味だけじゃなくて音の気持ちよさ、
みたいなものを追求する側面があるんじゃないかと。
これも言葉を単なる意味を伝える道具としてだけじゃなくて、
その音とか音楽的な側面を楽しむっていう、
人間のもっと根源的な欲求の現れなんじゃないかと、
そういう捉え方ですね。
なので、言葉の見立てに加えて、
この音へのこだわりみたいなものも、
オヤジギャグを文化的な創造活動として見る根拠になるんだと。
親父ギャグの再評価と提案
ノト丸
見立てと韻、なるほど。
日本の伝統的な美意識とか、もっと普遍的な言語の音楽性、
そういう視点から光を当てることで、
オヤジギャグの価値を再発見しようと。
意欲的な試みだっていうのはよくわかりますね。
これを大局的に見ると、
普段我々がくだらないなって切り捨てちゃってるようなものの中に、
実はもっと深い文化的なルーツとか、
人間の原画的なクリエイティビティの目みたいなものが隠れてるのかもしれないっていう、
その視点は確かに示唆に富んでますよね。
ブク美
ただそこでやっぱり疑問が残るわけですよ。
もし親父ギャグにそんな文化的な背景とか可能性があるんだったら、
なんで現実にはあんなに嫌われたり、
少なくとも微妙な反応をされたりすることが多いのかって。
単に聞き手の理解が足りないからだっていうだけじゃ、
ちょっと説明つかない気もしますよね。
ノト丸
まさにそこが次の重要なポイントで、
筆者もその問いには答えてるんです。
なんで嫌われるのか、その理由をオヤジギャグが持ってる、
あの典型的な構造、つまりどうでもいい取るに足らないような内容を、
すごく安直なひねりのない方法で表現する。
この組み合わせ自体にあるんだって、分析してるんですね。
ブク美
ふむ、内容の軽薄さと表現の安直さ、この2つがいつもセットになってるから、
我々の頭の中に、安直な表現イコール価値のない内容だし、
価値のない内容イコール安直な表現で十分だよね、みたいな、
なんか思考のショートカットというか、バイアスができちゃってるんだと。
ノト丸
そういうことですね。これは重要な問いを投げかけていますね。
ブク美
無意識のうちに、表現の形がシンプルだと、
中身まで浅いって判断しちゃう傾向、あるかもしれないですね。
オヤジギャグはその典型例だと。
ノト丸
そうなんです。この、くだらないものはどうでもいい価値しかないんだ、
という固定観念、この思考バイアスこそが、
オヤジギャグの可能性を閉ざしている現況じゃないか、
って筆者は考えてるみたいで。
ブク美
なるほど。
ノト丸
そこで、めちゃくちゃ大胆な提案が出てくるんですよ。
そのバイアスを壊すために、わざと逆をやってみたらどうだって。
ブク美
逆ですか?えっというと。
ノト丸
つまりですね、とんでもなく重要で、示唆に富んだ深い内容を、
ですよ、あえてものすごく安直なオヤジギャグの形式で言ってみる、
っていうのを推奨してるんです。
ブク美
えっと?
ノト丸
内容と形式の間にものすごいギャップを作ることで、
聞いた人の意表をついて、既存の価値判断を揺さぶろう、
っていう、そういう試みですね。
ブク美
なるほど。それは確かにかなり挑発的なアイディアですね。
大事なことをオヤジギャグで言う。
これってなんか、経験を積んだオヤジだからこそできる、
ある種の高等テクニックだって筆者は言いたいのかもしれないですね。
ああ、そうかも。
長年の経験で培った知見とか洞察、プラス、
もしかしたら長年磨き上げてきたダジャレのセンス。
ノト丸
これらを融合させて、単なる言葉遊びじゃない、
なんか深い余韻を残すような、
真のオヤジギャグに消化させるべきだ、みたいな。
ブク美
そうそう。聞いた側が、
え?今のギャグ、くだらなくて思わず笑っちゃったけど、
あれ?でもなんかすごい大事なこと言ってなかった?みたいに、
一瞬戸惑うような。
親父ギャグの深層
ブク美
そんな笑いと深い洞察が同居するようなギャグ。
これこそが、もしかしたら若い世代が無意識のうちに、
知見豊富な先輩とかに求めている知恵の伝達方法なのかもしれない、
とまで言ってるんですよね。
うーん、それは面白い視点ですけど、
でもかなり高度なバランス感覚いりそうですよね。
ノト丸
確かに。
ブク美
一歩間違えたら、ただ単に大事な話を茶化してるだけじゃん、
って思われかねないし。
あるいはギャグの部分ばっかり印象に残っちゃって、
肝心の中身が全然伝わらないとか、
そういうリスクもありそうですよね。
この昇華された親父ギャグっていうのは、
言うは易し、行うは難しいって気もしますけど。
ノト丸
確かにそのリスクは資料も暗に認めているのかもしれないですね。
はい。
だからこそ、百戦錬磨のオヤジの経験値が生きるんだ、
みたいな言い方をしてるんでしょうね。
安易にやると失敗するけど、熟練すればできるかも、
みたいなニュアンスですかね。
ブク美
なるほどね。
ノト丸
そしてこの内容と形式のギャップを利用するっていう考え方。
これはもう一つ、しばしば敬遠されがちなコミュニケーション、
いわゆるオヤジの説法にも応用できるんじゃないか、
って筆者は話を展開してるんです。
ブク美
ああ、オヤジの説法。
これもまた聞く側にとっては、
ちょっと耳が痛いというか煙たいと感じがちなやつですね。
ノト丸
ですよね。
ブク美
確かに内容は正論だったり、
ためになる話だったりすることも多いはずなのに、
なぜか素直に聞けない、
みたいな経験はあなたにもあるかもしれないですね。
ノト丸
ありますあります。
で、筆者の分析によると、
その理由は多くの場合、
大事なことを真正面から難しそうにとか、
あるいは偉そうに言っちゃうからじゃないかと。
ブク美
ああ、なるほど。
ノト丸
内容の重要さとか正しさが、
逆に聞き手の心理的な壁を高くしちゃってるんじゃないか、
っていうわけですね。
ブク美
なるほど。
メッセージ自体は価値があるのに、
その伝え方、デリバリーの仕方が、
相手の受け入れやすさを下げちゃってると。
ノト丸
ええ。
ブク美
そこでさっきの親父ギャグのロジックを応用するわけですね。
オヤジの説法こそ、オヤジギャグで表現してみたらどうだ、って。
ノト丸
まさにそれです。
人生の教訓とか、
仕事上の大事な知見とか、
本来なら真面目に語られるべき重い内容をですね、
あえてユーモラスで、
一見すると安直な、
でも実は計算されてるかもしれない、
ギャグの形式に乗せて伝えてみる。
うんうん。
これもまた、形式と内容のギャップを狙った、
逆転の発想ですね。
ブク美
片肘張ったお説教じゃなくて、
くすっと笑えるギャグとして出すことで、
聞き手の心のガードを下げて、
メッセージを届けやすくする、みたいな狙いですかね。
ノト丸
そういうことだと思います。
ブク美
これはさっきの昇華された親父ギャグよりは、
もしかしたらやりやすいかもしれないですね。
ノト丸
あ、そうかも。
ブク美
ギャグの軽さが、
説教の重さを和らげるクッションになるみたいな。
ノト丸
そうかもしれませんね。
教訓めいた話をストレートに言われると、
うってなるけど、
なんか面白いギャグの一部として聞かされたら、
まあ一理あるかもなって、
ちょっと素直に受け入れられるかもしれない。
うんうん。
あるいはギャグとして印象に残ることで、
後になってから、
ああ、あの時のあの言葉、こういう意味だったのかもって、
じわじわとその深い意味が効いてくる、
なんていう効果も期待できるかもしれないですね。
ブク美
内容の重さと形式の軽さが生み出すその意外性、
それがメッセージを際立たせて、
記憶に残りやすくする可能性があると。
もちろんこれもまたバランスが大事で、
単にふざけてるだけだと思われないような、
絶妙な調整が必要なんでしょうけど。
ノト丸
ですね。
では、これは一体どういうことなのでしょうか。
今日我々が深掘りしてきたのは、
日常にあふれたオヤジギャグを、
単なる寒いジョークっていうレッテルから解き放って、
日本の伝統的な見立ての文化にも通じるかもしれない、
言葉のアートとして再評価して、
さらには大事な知恵とか教訓を効果的に伝えるための、
コミュニケーションツールにまで昇華させよう、
という非常に野心的でユニークな提案でした。
ブク美
この資料の確信というか、言いたいことは、
表現の形式と内容の組み合わせを、
意図的にいじってみることで、
我々が無意識に持っちゃってる、
これは価値がある、これはくだらないみたいな、
既存の価値観とかバイアスに揺さぶりをかけようっていう、
そういう試みにあると言えるでしょうね。
くだらないって一言で片付けられちゃうようなものの中に、
実は見過ごされてる意味とか、
新しい使い方の可能性が眠ってるんじゃないの?
って問いかけてるわけです。
オヤジギャグをきっかけにして、
我々の認識の枠組み自体を問い直そうとしてるのかもしれないですね。
ノト丸
オヤジギャグをアートとか知恵の伝達手伝って捉える。
この視点、あなたはどう感じましたか?
これまで聞き流してたかもしれないオヤジギャグが、
ちょっと違って聞こえてくるようになったでしょうか?
あるいは、これからあなたが誰かに何か大事なことを伝えたいなって思ったとき
日常的な表現の再評価
ノト丸
どんな言葉で、どんな形式で伝えようかなって、
少し考えるきっかけになったかもしれませんね。
ブク美
最後にこんな問いをあなたに投げかけて、
この探求を終えたいと思うんですけれども、
今回我々は親父ギャグっていう非常に身近でともすれば、
取るに足らないって思われがちなコミュニケーションの形に注目しましたよね。
でも我々の周りには、他にも似たようなものがあるんじゃないでしょうか。
例えば、SNSでの短い言葉のやり取りとか、定型的な挨拶とか、
あるいは仲間内でだけ通じる内輪のジョークとか。
そういった日常に溶け込んでる、一見すると深みがなさそうな表現とかコミュニケーションの中にも、
実は我々がまだ気づいていない、その文化ならではの価値とか、
あるいは何か新しいコミュニケーションを生み出すためのヒントみたいなものが隠されているのでしょうか。
17:36

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