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またケンカ/ドゥルーズ『差異と反復』ゼミの第2回に向けて予習して出てきた疑問点
2026-09-09 16:41

またケンカ/ドゥルーズ『差異と反復』ゼミの第2回に向けて予習して出てきた疑問点

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サマリー

妻との喧嘩が原因で、ドゥルーズのゼミにリアルタイムで参加できなくなった筆者が、予習で見つけた疑問点を語る回。特に、構造主義の基準とされる「記号解」における「現実解」「想像解」の二項対立と、ラカンの精神分析における区分との関係性について、筆者独自の解釈と疑問を提示する。また、ドゥルーズが想定する「循環」構造がヘーゲル主義とどう異なるのかについても考察する。

妻との喧嘩とゼミ参加への影響
はい、えーっと、お久しぶりです。9月の9日、水曜日、夕方の4時41分です。
えー、今日は仕事休みで、えーっとね、また朝から、えー、妻と大喧嘩しまして、
うーん、もうね、いい加減嫌になってきてまして、
うーん、まあちょっとこの前本当に、まだ1ヶ月も経ってないですね、前に大喧嘩してからそんなにまだ2、3週間しか経ってないと思うんですけど、
また今日もね、朝から、うーん、なんか、言われて、うーん、まあ自分としては妥協、妥協というかね、まあ自分が折れたというつもりで、もうこの話は終わりにしようと、
うーん、言ったんですけど、その上からかぶせてまた、ぐちぐちぐちぐち言ってくるので、まあ喧嘩になりましたね、ということで。
でまた例のごとくね、あのー、もう離婚やどうやと、もう無理ですという話もね、出て、で結局、まあ奥さんも仕事の時間になったんで出ていきましたけど、
まあね、疲れますよね、本当にね、もう疲れました、本当に疲れます、勘弁してくれと言いたい気持ちですが、まあまあ詳細はね、もう言っても仕方ないことなんで、失礼しますが、
まあそういうことがあって朝からテンションがダダ下がりまして、うん、でまあまあそれでも、うーん、まあ貴重な休みなんでね、やらないといけないことはやるべきことを進めようということでやってました。
まあ今度のね、まあ、えーとドゥルーズのね、サイト反復ゼミ、これね結局、まあそれが今回の喧嘩の原因でもあるんですけど、えーともともとね、あのー、まあ金曜日のね、各週金曜日の夜10時から1時間半、まあリアルタイムで参加させてほしいっていう風に言ってて、
でそれはまあ妻はね、あのー、まあまあしぶしぶながら、まあいいよと言ってくれてたと思ってたんですけど、まあ今日の朝になって蒸し返されて、永遠とうん、文句を言ってくるので、じゃあわかったもうやめるわと、もうリアルタイムで見るのはやめますわと、諦めます、妥協しますと、あなたに譲りますと言ったんですけど、
結局、それでもね、なんか気に入らないみたいで、そもそも、まあ家でね、あの本をね、まあ読んでくれるな的なことを言われて、まあそんなんねえ、なんで家で本読んだらあかんねえって話になってくるしこっちからしたら、そこまで言われる筋合いはねえと、そんなんは約束できませんと言ったら、まあ、
喧嘩になったっていうところなんですけど、まあまあそういうことが言いたいんじゃなくて、まあ要はね、もともとえっと、まあサイト反復ゼミはリアルタイムで参加していろいろ質問とか、まあその場のね生のゼミなんでね、雰囲気を味わって、味わうことでやっぱりより理解もね深まるかなと思って楽しみにしてたんですけど、
まあちょっと今回、まあちょっとリアルタイムでの参加っていうのがやっぱりね、どうやら難しそうかなという感じになってきてるので、まあでもね直前になるまでわかんないですけどね、結局奥さんまた直前になったらまたいいよとか、まあ気分次第なんでね、言い出すことがあるんで、
まあほんまに受けられないからちょっとよくわかんないですけど、とりあえず今朝の時点ではやっぱり嫌だみたいな感じで言われて、まあ渋々私もそれで承諾しましたんで、まあ多分アーカイブでの主張になるので、まあそのまでの質問とかおそらく直接質問投げかけたり小林先生にねっていうのはできないかなと思うんですけど、
でもまあ自分なりにね、このドゥルーズの初期の何を構造主義として認めるかっていう論文をね、誠読してまして、まあね色々こう疑問点がねかなりやっぱり出てくるので、まあ直接これ聞きたいなっていうことばっかりなんですよね。
なので直接聞けないのはめちゃくちゃ痛いしもったいないな、こんないい機会があるのにっていう感じなんですけど、まあしょうがないから後でまあちょっと文章にしてまとめて質問をするしかないかなと今のところは思ってます。
構造主義の基準とラカンの理論の比較
でまあ何が要は疑問なのかと言いますと、要は構造主義っていうものが題材になっていて、その第一の基準として記号解というところが取り上げられてるんですが、そこで現実解と想像解というものの二項対立が上がってくるんだと。
そこにおいてはまずは現実解と想像解が相互浸透して結合するような形であったりとか、逆に現実解と想像解が分かたれてね鋭い境界が作られるんだというような形でね。
少なくともその二つの両者の対立とか相互性というものに留まった形で伝統的な解釈としてはそうなっているんだというような話があって、
その後でですね、それよりも一段深い解創として記号解というものを発見して認定することであるというようなことが言われてまして、
明らかにここで想定されているのは精神分析とかフロイトの精神分析、現実原理、快楽原理とかが出てきたりとか、ラカンの父の名とかっていうのが取り上げられていて、
明らかにこの現実解想像解っていうのがラカンとかフロイトの精神分析の文脈からここは延用されているんだというような形なのは読み取れるんですが、
ただそのラカンの言うところの現実解想像解とかの区分と、少しここで言われている区分というのが直接適応してこないんじゃないのかなと自分的には思ったわけなんです。
ラカンの言う区分というのは、想像解、象徴解、現実解と分かれていて、想像解というのはイメージの領域であると、象徴解というのは言語の領域である、現実解というのはそのどちらでもないものであると、ざっくり言うてしまうとこういう区分がされているわけですね。
この順番にも表れているように、ラカン的な話でいくと、想像解、象徴解というのが自分の理解では一応二項対立というかそういう区分があって、
そのさらに深いものより深いものとして現実解としてそのどちらでもないものというものが想定されているのかなという自分は理解をしているんだけれども、ここで言われている、
ドゥルーズのテキストに何を構造主義として認めるかにおける第一の基準の記号解においては、現実解と想像解というのが二項対立的に同列として扱われて、それよりも一段深いものとして記号解というものが言われていると。
じゃあ、現実解想像解というのがラカンでいうところの現実解想像解に当てはまるとすると、ここで言われている記号解というのはラカンの区分でいうところの残り一つ残った象徴解というものが該当するしかないんですけれども、
ただ、ラカンでいうところの象徴解というのはどちらかというと現実解よりもそこの浅いもの、要は想像解と象徴解の、想像解と象徴解というのがある種同列であって、その奥にあるのは現実解というのがさらにあるので、
ここでもし記号解というのを象徴解というふうに捉えると、ラカンの理論と自分としては整合しないんじゃないかなという感じがしたということですね。
ラカンの理論とここで言われている現実解想像解記号解というのがどこまで厳密に整合性を持って考える必要があるのか、そういうところに少し自分は聞いてみたいなと思ったわけです。
はい。でもね、第1回目の講義でも言われていたように、ドゥルーズというのは要はいろんな哲学者とか科学的な知識とかね、それこそ精神分析の知識っていうのを持ってきて自分の理論として展開するけど、
それを自分なりにアレンジして使うんだという話もあったように、ここで言われている現実解想像解記号解というのをそこまで厳密にラカンの理論と当てはめて、
これがこれと対応しますよねっていうふうに厳密に対応関係を考える必要はないのかもしれないなという気もしますね。
要はあくまでもラカンのそういう用語法とかざっくりとした考え方っていうのをドゥルーズはここで取ってきているだけで、
それはあくまでも現実解とか想像解記号解っていうのは、ここで言われているその用語というのはドゥルーズの中で定義した、あくまでもドゥルーズ独自の用語なんだというふうに解釈するべきなのかなというところですよね。
今しゃべってみてやっぱりおそらくその後者というか今言ったドゥルーズはラカンの用語法とかを延用しているだけで、その中身の各用語の意味っていうものはドゥルーズが独自にここで哲学的に展開しているものなので、
そこまでラカンの理論に引っ張られる必要はないんだということなんじゃないかなと自分的には思えているんですが、
そのあたりちょっと専門家である小林先生に聞いてみたかったというのはあるんですが、直接聞くのは難しそうなところがリアルタイムでは参加できないってなったら文章かなんかで質問してみようかなと今のところは思っていますというところですね。
循環構造とヘーゲル主義
そうですね、でもやっぱりここで第一の基準の記号解というところで、いろんな風向であったりとか、アルチュセールの名前が出てきたりとか、いろんな他の人の名前とかは出てくるんですけど、
やっぱり一番想定されているのはこの精神分析的な現実界、想像界、記号界っていう区分ね、それが一番援用されている気がするので、そことのどうリンクがあるのかというのをちょっと聞いてみたいですね。
あとは64ページの1行目、要は現実界、想像界、記号界というものが3つの組であると、その構造というものは少なくとも3つ組であって、3つなければ構造は循環しないだろうというようなことを書かれているんですよね。
それじゃあ循環というものをドゥルーズは想定しているのかと。
現実界、想像界、記号界というものが循環関係にあるんだというふうにドゥルーズはここで言っているとしたら、これって全然ハンヘーゲル主義ではないんじゃないかと。
結局、ハンヘーゲル主義というのは要は同一性ということですよね。
1つのものが2つに分かれて、最終的にまた1つ上のレベルの1つのものとして結局最後統一されるという考え方。
それが円環になっているということですから、ここで言う3者ですね、現実界、想像界、記号界が3つ組になって循環しているとしたら、これはある種ヘーゲル的な構造というものが想定されているとも言えるのではないかと。
ちょっとこじつけっぽい感じですが、そういうふうな疑問も持ちましたね。
そのあたりかな、気になったのは。第一の基準という部分で気になったのは自分的にはそういうところですね。
そのあたりちょっと質問してみたいかなと思いました。
ちょっとだいぶしゃべったので、これぐらいにしておこうと思います。
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