1. お茶漬けナイト
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2023-12-27 29:51

【4-3】自己肯定感と愛と怒りの関係性

自己肯定感が高い人は自分に対してフィードバックをもらったときに怒りの感情にならないのではないか。自己肯定感が低い人に対してはその人に対する攻撃でもないしむしろその人のことを想っている、肯定していることを伝えることが、怒りを鎮めることになるのではないかという話をしました。また市民に対する文化の感覚の違いがあるし、文化の違いがあることを認識することの必要性を話しました。

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サマリー

自分の才能や欲求に気づき、絶対的な自己肯定感を持つことは重要だと考えられています。人間力やスキル、自己肯定感が高い人は、怒りを爆発させることが少なく、自分を好きでいられると言われています。また、自己肯定感は子育てにも関係しており、自己肯定感が高い人は他人の否定にも影響されずに受け止めることができると言われています。私たちは、自己肯定感と相手の感情への対応、イタリアの場合と日本の場合の違いについて話し合っています。話題は、自己肯定感、愛、怒りの関係性についてです。日本の文化では、他人との調和や周りの反応を気にしながらコミュニケーションすることが重要とされていますが、他の言語で話す場合には自分の意見をはっきりと述べることが求められることもあります。

絶対的な自己肯定感の重要性
今夜もお茶漬けナイト夜食くらいの時間帯、口寂しく、また心も満たされていない、もやもやしている時に帰ってきてくれたような気分で聞いてほしい、そんなポッドキャストです。
何かさ、それで言うとさ、俺今、自分の才能とか自分の欲求とは何かみたいなことをちょっと見出す、何だろう、スクールワークショップに通ってて、その中で自分に気づきがあるんだけど、やっぱりさ、その絶対的な何かって自分なんだと思うんだよね。
信じられる絶対的な何かって、自分が信じられる絶対的な何かって自分だと思うんだけど、
じゃあその今までの経験、成功体験が、
その絶対的な何かになるかというと、必ずしもそうじゃないというか、
なんかね、絶対、成功体験からもっともっとその、
何だろうな、純度を高めるというか、抽象度を上げていくと、
その時代に左右されない何かってあると思うんだよね。少なくとも俺はあったんよね。
こういうものが自分の強みなんだな、しかもこれ別に時代に左右されないなっていうのはあって、
なんかこう、人間力的なところとか、
まあ、俺の場合はハードスキルもあったりするけど、
だから人によっていろんな経験してると思うけど、それってなんかこう、時代に左右されないその、
何?えっと、人間力みたいなものに落とし込めるんじゃないかなって思ってて、
だからね、別に時代に左右されないと思うんだよな。
その絶対的な何かというのは。
そういう意味で言うと、その、ちょっとこう、自己分析は必要なのかもしれない。
自分がその培ってきた、
その強み、スキル、才能っていうのは何かっていうのは、
その、振り返ってみるっていうのはアリなのかもしれないね。
時代に左右されない何かを自分は持っているという前提で。
めっちゃ難しいなって、今話聞いてて思って、
なんか、人間力やスキル、強み、才能、
なんか、なんか偶発的に起きた経験の中で、
何が一番特殊的だったか、みたいなところなんかなって、
話聞いてて思って、
で、なんか、その、
信じられる絶対的な何かって、確かに自分、
やっと、私もなんとなく思っていて、
なんとなく、こう、
過去だけが自分を形取るものだったり、
そういうものでもないかなとも思ってて、
うんうんうん。
なんか、未来のポテンシャル?みたいな。
うん。
で、なんか、うち結構、その、
その、えりが言ってくれた絶対的なものが欲しくなるっていうのが、
なんか、最近では、なんか、自分をどれだけ好きになれるかっていうか、
うんうんうん。
この、自分をどれだけ、なんだろう、
うん、好きな、うーん、なんだろう、
自分をどれだけ好きにならなくてもいいんだけど、
こう、自分の、
自分が好きなことをしているのかとか、
うん。
なんか、その、やっぱ最終的に追求するところって幸福なんかなと思っていて、
うん。
で、多分なんか、その、なんだろう、こう、別に幸福になりたくなくって生きてるみたいな人いないと思うんだけど、
うんうん。
だから、どこかしらさ、ただでさえ、こう、その、感情がたくさんあって、いいものばっかりじゃなくって、そもそも。
うん。
子育てと自己肯定感
自分の中でのコンフリクトだけでも大変なのに、こう、周りの人の影響もとかあって、それが良き、良き影響もあれば悪い影響もあるなっていうところの中で、こう、いろんな、こう、環境で左右される自分が発生すると思うんだけど、だから、そのときに、なんか、めっちゃ強いな、この人って思うのが、自分好きな人やねん、うちの中に。
うんうんうん。
なんとなくやけど、別にその人が、どうあれ、なんか、
思んない人でも、おもろい人でも、こう、そんなんとか全く、一緒にいて心地いいとか心地よくないとか関係なく、こう、自分が好きっていうことを思ってる人ほど強い人いないなって。
うんうん。
最近、思うことが。
うん。
うん、あって、なんか、やっぱ、親、親としてもさ、なんか、別に今じゃ、私、親ではないんですけれども。
うん。
うん。
なんか、ニブリングスって呼んでる、おいとめいがいるんだけど。
うんうん。
ニブリングスが。
大登場やね。
ニブリングスがさ、もう、可愛くて可愛くて仕方がないんだけど。
うん。
なんか、やっぱ、親的な感情になることもあって、不安なこととか、終わってほしいとかっていう、絶望とか。だから、そん中で、もう、与えたくても与えられないっていうか。
うん。
うん。
あと、どんだけ、こっちががんばっても、きっかけあげるの難しいからなと思うのが、自己肯定感だと思っとって。
うん。
なんか、どれだけ、褒めたとしても。まあ、まあ、褒めかたにもよると思うけど。
子が自分の中で何のものさせて 自分を見ていてそれで足りない
足りないって思うかもしれない でもなんかそのもう物させとか
じゃなくて溢れるくらいのコップ でええねんって
わかんねんけどなんか子供には すごいこうその自分がやってる
こと反省することも辛いことも たくさんあるけどこう自分を自分
が好きでいるってことは誰にも 与えてもらえないことだからなんか
そこをねなんか確立してほしい 自分もそうやけど
いやマジで確信だね なんかそれが私の中のなんか絶対
的な何かやねんけど ねあすごい語っちゃったよ
愛情と相手次第
汗かいたわ いやさ自分を好きな人とか自己肯定感
が高い人ってちょっと最初の話 戻っちゃうんだけど怒り爆発する
ことないと思うんだよね 自己肯定感が高かったりとか自分
を好きな人がフィードバックもら った時に感情的になることって
ないと思うの 例えばそのさっきの俺のケース
で言うと
私の人生なんで否定するんですか っていうリアクションにならない
と思うんだよね 自己肯定感が高かったり自分が好き
な人っていうのはさ なんていうの自分ちょっともう認め
られてるから あとえ他人が自分の人生を否定して
こようとも 何言ってんだろうみたいな人
別に関係ないしっていうふうに もうさばけると思うし
なんなら捉え方が変わってくる と思う別にこの人私の人生否定
してるわけじゃないわっていう ふうに捉えられると思う
感情的にならないと思うだから 言うのを言ってるとすごい革新的
だなと思うのは やっぱ自己肯定感とか自分を好き
になることっていうのをどれだけ 広めていけるかっていうのは重要
なテーマだなって思うし 一番今日の最初の話に戻るとさ
他人の怒りをどう裁くかってさ なんか怒ってきた人に対して私
はあなたのこと好きですって言 ってあげることなのかもなって
ちょっと思った って思う
私のこと私のこと好きですっていう ふうにそれ好きってね男女の好き
とかじゃなくてよ 人間としての好きだけど人間として
好きですっていうふうに言われてる 人に対してさなんか怒らない
気がするし怒ってるときにそう 言われたらなんか怒り沈む気が
すんだよね いや少なくとも俺そうだなと思
って なんかさ子育ての話にまた戻って
ちゃうけど子供ってやっぱそういう こう感触起こしたりとかイライラ
とかさ嫌々とかってあるじゃん なんかそういうときにすごく大事
なのって怒ってそのやっぱ感情 的になると話がやっぱ聞けなく
なっちゃうのよ特に赤ちゃんって まだそういう脳が脱脱が完全じゃない
からそういう感触起こしてるとき って本当に分からないのよ何が
起きてるかもうその感情とかにな っちゃってそういうときってやっぱり
言葉にしてしないほうがいいのは まあ大したことないよとか転ん
でうわーっとかなっちゃったら 泣いてることに対しても大した
水平じゃないからみたいじゃなくて やっぱり泣いてうわーってもうぐ
ちゃぐちゃになってる子をやっぱ 抱きしめてそうだよねすごい今の
気持ちなんかいろんなことが起き ててねつらいよねっていうのを
やっぱ言葉にしてあげて言葉に できないからまたそれで受け止め
たらそれでも大したことないよ とか言葉にしてあげて言葉にできないからまたそれで受け止めたらそれでも
私はここにいるよっていうのを やっぱ示すっていう言葉じゃない
やっぱその例えばハグするとか 近くにいるとかやっぱその触られると
嫌な子もいるんだってそういう 感触をそういうときは気持ちが
収まったら私はここにいるから いつでも終わっておいでみたいな
感じで言ってあげるとかやっぱ その示すっていうのがすごく大事
らしくてそれっていうのも結構 今の話だと大人もそうなのかなって
思った なんかそういうときに
すぐに抱きしめるとかはちょっと 難しいかもしれないけどでもなんか
ここにいるなんかどういう状況が あったとしても私はあなたのこと
をその人間として否定してるその 気持ちも否定してるわけじゃない
しそのその人がその今いろいろ 起きてる状況っていうことは
全く否定してないそれをあなたが 感じてるものだけど何か変化が
そこであってまたこう話したい なってなったらここにいるし
あなたはだめだって不自然でしょ 全然それでこうじゃ本当にこう
何かが縁が切れるとかそういうこと じゃなくてまだあなたは肯定します
それでも肯定しますって何かそういう ことなのかなってちょっと
うんうん俺もそう思う もうそこから先はね相手次第だから
ね嫌われる勇気でさっていう本 でさアドレア心理学の中でさ課題
の分離っていうのがあるんだけど さもうあの自分が自分が自分が自分が
自分が100%頑張りきったその先は相手がどう思うがもう相手の課題であって
自分の作用はもう効かないっていうのがあんだけどさ
自分が精一杯愛情を示してその先に相手がどう感じるかっていうのも相手次第だからね
自分は精一杯愛情を示すっていうのはやった上で
その先は相手次第かなって思うな
そうだね
なんか本当そう思うと自己肯定感って本当重要だよね
自己肯定感と相手の感情への対応
それをできる子育てで言うとそれをできる親でまずいないとできないじゃん
なんて言うがないと
でもやっぱ自己肯定感のあまり高くない人がそれをやるの難しいと思うんだよね
相手がバーンってなってる時に
大丈夫これ受け止めるよって
そのやっぱずしっと受け止められるような状態じゃなきゃいけないから
その人もさやっぱ相手の感情で揺らいじゃうと
いいよとか言っときながらあんまりそうじゃないとさ
作為的になっちゃうからね
心からできないっていう状態になるのね
なんかそれで言うと俺さっき言うがさ
なんていうの
心からできないっていう状態になるのね
心から思ってないけどという感じなのかな
あえて言いたくないって言ってたやん
わかるよって言いたくないみたいな
なんかそれって
俺別に言うはすごい
気持ちとしてはその相手への
なんだろう愛情はあるんじゃないかなって思ってて
単純にその言葉のテクニックとして使いたくないっていうことなのかなって理解するんだけど
そういうことであってる
その通りでございます
なんかその場を凌ぐために言いたくない
なんか目的が違う
なんかその人のことを
なんか赤ちゃんの人のプラスアイが言ってくれた
自分の子供だからさ
幸せを願って願ってやまないじゃん
本当は心のどっかで
でもさ現実を直面するとさ
もうキオティックじゃん
例えば感情ぶつけられるのもキオティックじゃん
なんかその時に
こう心から思えない言葉って使いたくないなって思う
というか思うこともあって
でもこれをスキルとして習得できたらいいなって
健康なのって思ったから
もうなんかすごいデレンマ
だから
なんかそうだな
なんか相手が
怒ってる時って
カスタマーのために
だったらなんだけど
私はその人の気持ちを一旦受け止めるのね
テクニックとして
こうお感じですよねとか
分かります私でもこう思いますねとか
言うんやけど
それは本心じゃなかったら言わんねんけど
なんかその
むずいな
なんかさ自分が
意図したいこととさ
結構
なんかがさ見合わん
時がある
なんか自分は
その人の感情
とかも
受け入れてあげたいって思うような
慈悲があったらやんねんけど
なんか人間同士やからさ
別にぶつかってもええやんって思っちゃう
自分もって
なんか人を傷つけずに
生きるとか無理やしって思ってん
なんか自分もいっぱい人傷つけたのに
なんか自分だけ被害づら
とかも
できないし
被害しやずらか
だからなんかすごい
なんかじゃあその
日常で起きるこう
なんていうのか
感情の揺らぎの中で
他の人の感情の揺らぎと
自分の感情の揺らぎの中で
どう
どう自分は折り合いをつけるのか
っていうのことしか考えてないから
本当にその場しのぎでは
だけでは言いたくないって思ってる
イタリアと日本の対応の違い
でもエギが言ってる子供への対応って
投資に近いというか
その子が大人になった時の
幸福度に
投資することだから
その目的を達成すると思ったら
私は言えるなと思うんだけど
それはさ
友達やお客さんにさ
全く関係ないけど
でも思うときもあんねん
いやー私は
仏に
仏にはなれます
たまに思っちゃう
仏やな
そうそう
俺ゆうがさっきから言ってくれてるけど
感情をあらわにするのはいいと思うんだよね
怒りが出ちゃうのも人間だからね
それで言うとさ
まあ怒りが出ず
怒りとして
なんかちなみにこれまた
嫌われる勇気の本に書いてあったんだけど
人間の怒りってなんで怒りが出るかっていうと
その感情を言葉にできないときに
怒りというものは生じるって書いてあった記憶があって
だから完全に言葉にできたら
怒りすら覚えないって書いてあった記憶があるね
ほほーって思ったんだけど
だから完全に言葉にできたら
まあ怒りにならないんだろうなと思いつつ
まあ怒りが出てもいいと思う
でこれでさっきさえりが言ってたさ
そのイタリアでの経験の話を聞いてさ
なるほどなって思ったんだけど
まあ別に怒りをぶつけ合ってもよくって
たださそれを引きずらないっていうのまたこれ重要な話よね
その場限りみたいな
だからそのその後の人間関係に栄光を及ぼすような
その引きずり方じゃないんだよねきっとね
ほんとその
なんていうの時間
何かのその目的に対して
何かの目的に沿って怒りというものをお互いぶっつける
だけど一旦そこから離れると
ケロッとまた元の関係性に戻れるみたいな
世界観なんじゃないかなと思ってさ
やっぱどこまでもその
自分の人格を傷つけられたみたいな
そういう捉え方をしてしまうと
まあそれはずっと引きずるから
そういうことじゃないよねっていう
自分で話して思ったんだけど
なんでそんなさじゃあさイタリアの方々はさ
そんな分けられるんだろう
今思ったけど
例えばねその例で言ったらさっきの具体的な例で言うと
じゃあそのディスカッションが終わって
もうみんなバーンってなった後に
もう時間がないから時間で切ると
いなくなって
それぞれの仕事に戻っていくわけだけど
その後にもう仕事に
今没頭してそのこと忘れちゃうかっていう
多分忘れてる人もいるだろうけど
でも他の場でなんかあの人さみたいな
なんかあの部署のあの人でさ
レッスンに行ってあのことにつってこう言ってたんだけど
また愚痴というかなんか
まあいろいろ感情を込めて
他の人に話すことっていうのはあると思うし
あると思うというかあるんだよね
なんかそれはすごく
ただなんか面白いなって思ったのは
なんかイタリア数で言って本当に面白いなって思ったのは
なんかやっぱそういうこう
愚痴ったりとか
結構
怒ったりとかその意見が
自分の意見が相手と違うっていうことに対して
恐れが全くない
そこか
なんかそのそれをむしろ楽しんでるの
それがよく分からなくて私は
なんか私もやっぱり経験というか
自分の性格上
相手と意見が違うのはいいとしても
なんかそこをそんなになんかもう
超楽しそうなので
なんかその会話
二人の会話とか例えば
なんかもう日本人からすると噛み合ってないじゃん
が永遠と続くようなやつなんだけど
例えば友達がさ
二人でさご飯とかしてて
なんか一人がさ
私最近さなんか
なんだろう
なんか靴買ったんだとかって言うじゃん
でさ相手がさ
その何言うかなと思ったらさ
日本人的な感覚で言うとさ
新しい靴買ったんだへーみたいな
どこで買ったのとかさ
なんかどんなのとかさ
なんかへーって何が良かったのとかだけど
イタリア人的パターンで言うとそこで
へー私も靴買ったんだ
とか
なんか私カバン買ったんだとか
なんか全然こう噛み合ってないような
感じになるとこがよくあるの
でなんか
もう下手するとだからその
なんかその革全然良くないじゃん
とか
え?そこで靴買ったの?みたいな
でそれバカッとなるわけ
でもその会話自体は
なんかこうポジティブな経験なんだよね
なんかそこがすごく私にとっては
目から鱗で
なんでだろうと思って
それがだから
そうだから傷つけられてないんだよね
うーん
いやさっきえりぃ言ってたもんね
なんか日本は和を大切にするからって
さらっと言ってたの
どういうことかなって思ってたけど
今メイクセンスしたわ
だからあれだよね
日本はやっぱ
考え方がマッチしていることがゼラもんね
それぞれ違う
同じ意見を持ってることが気持ちいいっていう世界観が
な気がするよね日本
だけど違う意見を持っていることは全然気持ちいいって
そうなったらその結構前提が違ってくるね
うん
ちょっとずれるかもしれないけど
市民教育と市民性について
やっとこそは初めて市民教育をしてきた
甲斐があったなって思ったんやけど
なんか市民性によるっていう部分が多い
大きいっていうのも
があるかなって今話聞いてたって
市民性っていうのが
例えばヨーロッパとか西洋とかっていう括りにすると
もうフランス革命とかさ
自分の人権を勝ち取るためにさ
暴動を起こしたりとかさ
その歴史の中で確立してきた市民観っていうのがあるから
その市民とはっていう定義が
やっぱ西洋では人権のある
権利のある人間っていう定義に近くて
その東側
全員じゃないけど
こっちはどちらかっていうと
市民っていうのはいい人なんだ
っていう価値観があって
それはこの孔子とか
ブッドとかから来てんねんけど
なので価値観からすると
自分の権利とかなんかっていうよりも
自分と他の人
特に年上の人と自分と自然
環境ってことやねんけど
その繋がりのハーモニーを
昭和性をできるのが良い
自己肯定感と日本の文化
だから自分の権利とかなんかっていうよりも
されてるから
だからもちろん
感じたのが
エリの話と
マサの話聞いて感じたのは
ここにすごい
起因がありそうだなと思って
イタリアでの経験
愚痴ったり怒ったり
相手と違うことが
別に良い
なぜなら私は
私として
そういう権利があるくらいの勢いで
いると
やっていて
ちょっと文化的に違うかもしれないけど
でも
日本のコンテキストになったら
やっぱその
周りの人が
どう感じるかとか
周りの人との調和とかっていうのが
優先される
という価値観を文化として
共有してるから
そりゃ周りの目も気になるし
その人が
靴買ったのから
自分
私も靴買ったのから
カッペンみたいにもならんと思って
相手や自然との調和を
考えてたら
この人は
この子と話したいんだろうな
じゃあ
この質問聞こうかな
みたいになるかもしれへんかな
興味あるかないかは別として
興味ないから絶対聞かへんねんけど
そういう例外もあるっていうのも
前提として
やっぱ
歴史や宗教が物語る
人間観
みたいなのがあるよね
あるね
めちゃくちゃ興味深かった
そうだ
それはでも本当にそうだと思う
私みたいに
そういう文化を行き来して育ってる人からすると
それが言語化できる
年齢に至るまでに
それを実体験として
何回も何回も積み重ねてきてるから
本当そう
やっぱりこう
行ったり来たりしてるから
どっちつかずみたいなところもあるから
すごく不思議だったもんね
子供の時とか
なんで
例えばその私未だにちょっとそういうとこあるけど
やっぱりその日本で生まれ育ってる人と
会話するときって
結構すごくちょっと
なんて言うんだろうな
やっぱすごく相手に寄り添わなきゃなっていう
ちょっとどこかです
意識が普段よりも
なんか芽生えてるというか
自分の中でも
もうちょっと意識してることが多いなって思う
だからやっぱ会話した後の
なんかエネルギーの使い方が
やっぱ違うなって
だからすごくその相手は
こういう風に
今話の舵を取ってるのかなとか
こういう風なことについて
もう少し話したいのかなとか
っていうのがやっぱり
期待されてるんだなっていう
自分にもそれを期待してるんだなっていうのが
すごく
あって
ただそうじゃなくて
英語が多いけど私の場合は
英語もイタリア語もそうか
そうじゃない言語で話してるときは
やっぱりなんか
なんかこうその
寄り添うっていうか本当に
自分の
自慢を
固めるじゃないけど
なんか相手が自分
相手が何かについて話してるときは
寄り添うっていうイメージよりかは
自分のこう
自分の意見が何かっていうことを
うんなんか明確化しようとしてる
自分なんか脳の働き方が違うなって思った
脳の働き方が
すごいわかる
なんかめっちゃさ迷わへん
なんかたまにさ
そのなんていうの
文化
バックグラウンドとかルーツがさ
あの複数あって
複雑な
コミュニティにいるときに
どっちのカード出そうって思ってる自分がいる
周りを気にしてる自分と
自分の意見も言わなきゃっていう
プレッシュを感じてる自分もおったり
でも別に
なんかさ
日本でさ別に
黙っとっても
なんか意見ないことは思われへん
っていうか
人を聞いてる子だなって思われると思うんだけど
なんかなんか
英語話者の友達と話すと
黙ってるっていうことは
エンゲージしないってことだから
あの
なんていうの
意見ないとか
思んないんやろうなって
思われるっていう
話者から自分がどう思われるかっていうのも
気になる
だからなんか両方思ってるから
そう思わせるのも申し訳ないから
異文化コミュニケーション
話しとこうとか言わないと
なんか外交的にならざるを得ない自分がいて
ちょっと申し訳ないねんけど
Eの話聞いたら
あ、それですって思ってた
面白い
そういう時でもさ
どっちの方が楽なの?
レース的に
両方楽じゃない
なるよね
俺も両方楽じゃないのか
何やろう
なんか一番楽な状況が
何かって言ったら
その
誰かがさ
前職でさ
このミーティングでのルールは
あの
make space and take space
って言ってる人がいて
他の人のために空間を作るのと
自分のために
その空間を取っていく
自分の意見を喋るときは喋っていく
相手の意見を
相手が意見を喋れるようになるために
譲る
なんかもう
それがあれば
私は
なんかそこに心地よさを感じる
やっぱなんか
文化がわからない
っていうのは当然だし
バックグラウンドもわからないっていうのは当然だから
それを尊重できるのが
そういう
そういう
その人が言ってたゴールデンルールなんかも知れへんなと
なんとなく感じてる
今週はここまでです
また次回お楽しみに
29:51

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