1. 樋口聖典の世界
  2. 違う文化の違うルールを想像する
違う文化の違うルールを想像する

サマリー

今回のエピソードでは、異なる文化圏のルールや価値観について考えることが重要だと話されています。人々が異なる文化に触れる際には、単純にダメだと判断せずにその文化を尊重することが求められています。文化人類学的なアプローチに興味があり、フィールドワークも行っています。人間がいる以上、それぞれの認識や文化の違いを理解することが重要です。

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今、福岡市の自宅の方から北九州市、小倉クロスFMに向かって車を走らせております。時刻は朝の9時52分でございます。
青駅荒野トークショーの第2弾
今日リリースされたんですよ。古典ラジオの青駅荒野ゲスト編。
これ、確か2年前か3年前ぐらいに、漫画編で青駅荒野が2回目に出てきて、そこでヤンキーの話をするっていうね、田川にいるヤンキーの話をするということで、結構反響あったんですけども、
青駅荒野トーク会、トークショーと言ってもいいでしょうね。青駅荒野トークショーの第2弾ということで、今回はヤンキーを超えたヤンキーの向こう側、尖りっていうことについて話してるんですけど、
まあどうなんかな、僕はめちゃくちゃ面白いと思ったし、古典の二人というか、深井さんややんさんとかもめちゃくちゃ面白いって言ってくれてて、実際収録ではギラギラ笑ってて、終わった後もやっぱりあの話は良かったなみたいな話はしつつも、でもやっぱ全員の中でこれ本当に出していいんやかみたいなところはあったんですよね。
一般公開していいような類のものなんだろうかと。まあちょっと下品注意っていうのがタイトルに入ってると思うんですけど、下品っていうのも一個あるし、もっと言うといろんなホモソーシャル的な視点からもちょっと大丈夫かなとか、パワハラモラハラみたいな視点からも大丈夫かなとか、
古典ラジオのブランディング的にも大丈夫かなっていう視点とかもあって、なんかちょっと大丈夫かなっていうのは僕は勝手に心配してたんですけど、深井さんが出すっていう、もうほぼノーカットでこれは、しかも古典クルー限定配信じゃなくて一般公開で出すって強くもう覚悟を持って言って、
それで出すことになったっていう経緯があるんですけど。まあまあまあ、もう正直僕とか青柳とかはどう思われても全然いいとは思ってるんですけど、古典的にね、これがいいというか、出す価値があると思ってリスクを取って出すっていうことを決めたっていうのが結構素敵やなって普通に思ったんですよね、僕は。
っていうのがありました。で、なんかそこで語られてたのが、やっぱりこう文化人類学的な視点があるよねっていうのをヤンヤンさんが言っていて、本当にこの視点が大事だと思ったし、多分それを伝えたいから出したと思ったんですけど、要は違う文化、つまり自分たちが知っている文化、生活している文化と違う文化圏のものを見たときに、
単純に下品とか野蛮だとかそう思うのは簡単だと。でも果たしてそれでいいのかみたいな。で、今の文化人類学の世界ではもう絶対ダメだよねっていう風にNGになってると。そこの民族、そこの部族、そこの国にはそういう文化があるのだから、それは尊重しましょうよと。
で、一般的、西洋的な価値観ですよ。西洋的って言っていいんかな。一般的っていうのは何が一般的かわかんないですけど、どう言ったらいいんやろな。メインストリームが作り上げているなんとなくの雰囲気としての一般的というか、そういう価値観の中で言うと、これってダメだろうみたいなものも多分その文化圏の中だと大事な儀式だったり、そういうコミュニケーションの取り方っていうか。
普通に行われているっていうことがあるみたいな話だと思うんですけどね。で、なんかこれってさっきわかりやすく国と民族みたいな話はしましたけど、本当に同じ国同じ地域に住んでいても全然違う文化っていうのがあって、これもう皆さん結構経験されてると思うんですよね。
なんかビジネスパーソンの文化圏と、あとはその家族の文化圏、家族って言ったらいいんかな、地域の文化圏って全然多分違って、PTA的なコミュニティとビジネスパーソン的なコミュニティで優先順位も全く違うしコミュニケーションの取り方も全く違うみたいなものって実は体験してるはずなんですよね。
で、ビジネスパーソンだったらある程度相手に失礼かどうかよりも素早く合理的で効率的なコミュニケーションが求められるみたいなものが大事ですよね、とされていることが多いですよね。
なんかこう、メールの文章が丁寧でなくてもいいから分かりやすく端的に短くしかも返信を早くするみたいなのが例えば作法としてビジネスパーソンの中であるとすると、例えばじゃあ地域的なコミュニティの中では別にそこそんなに合理性とか速さとか求められてなくて、それよりも丁寧さとか、あとはなんかこうなんですかね。
まあしきたりに劣っている。まあしきたりって言うとまたビジネスパーソンの中でもしきたりがあるからややこしいんですけど、一見合理的ではないと思われているけど、例えば最初に挨拶が必要とかね、文面の中に。
で、その集団の中で一番偉い人にまずは感謝をしてから本文に入らないといけないとか。
まあなんか分かんないけど、いろいろあると思うんですよ、連絡ごと一つと言ってもね。
で、それが実は完全に分断されているわけではなくて、一人の人間が同時に同じ時間軸の中で違うコミュニティ、つまり違う文化圏に入っていて、で、こっちはこのコミュニティではこうするけど違うコミュニティではこうするみたいなことを使い分けていてみたいなことが普通に起こってるんですけど、
判断や価値観の影響
あまり実は明確に意識せずとも生きてこれるから、そこをしっかりと明確に認識してないみたいなことが結構起こっていると思ってるんですよね。
だから、実は同じコミュニティの中で同じ文化を共有していると思っていてもそれぞれ違う文化圏からの影響を受けているから、なんかこうほぼ同じ感覚で生きていると思ってたらいきなり違う、
自分の文化の中にないことをされるみたいなことをすると、あいつは調子に乗っているとか、あいつは悪いとか、あいつは下品だみたいなふうについつい思っちゃうみたいなことって結構あるなと思っていて、
なんかこれね、よくありますよね、こういうこと。完全に分かっていると思っているから、あいつはこうこうこういう時にこういう行動をとるだろうというのはまずは予測としてあって、予測としてありますよね。
その予測通りしないということはこちらに悪意があるんだとかね、こちらのことを軽く考えているんだというふうについつい短絡的に考えちゃうみたいなことは結構あるような気がしましたね。
なんか、これよく聞く違う話で言うともう一個例を言うと、例えばじゃあ何がいいかな、葬式とかが結構わかりやすいんかな、葬式とかって親族の中で親族というかなんかこうあるじゃないですか、
例えばじゃあおばあちゃんが亡くなりましたっていうのがあったときにじゃあ母親である人ですよね、おそらくおばあちゃんの旦那さんが生きてたらその方になるだろうし、旦那さんが亡くなってたら多分長男とかになるかな、
まあわかんないですけどその母親の方がいろいろ取り仕切りますよね、葬式やおつやを取り仕切ると、これが日本の文化になってますよと。
で、その中で例えばじゃあどこまで呼ぶかっていうのは基本的には母親の判断になりますよね。どうするつって、親戚一同呼ぶってなったらここまで、ルール的にはここまで遠い親戚まで呼ぶってことになると結構大変やからもうここまでにしとくかみたいな、
例えば範囲とかもそうですし、じゃあここはおつやと葬式には声かけるけども四十九中とかはもうここを呼ばずにうちらだけ、この範囲でするかみたいな、本当に近い親族だけでやるかみたいなこととかもあるし、
じゃあどのくらい盛大にするかとかもそうですよね、この人はものすごく地域の中でも貢献してきたし顔が広い人やからやっぱりいっぱい呼んで盛大にやらなきゃっていう人もいれば、
いやもう別にまだコロナ、特にもうちょっと前のコロナ禍とかはそうでしたけど、あんまり今その人に会うというのはリスクがあったりするから、個人周りにしようと、そっちの方が実際お金もかからないし、正直身の回りの人って金銭的に厳しい人多いから、あんまり盛大にすると結構それで負担になるっていうところが逆に不満になったりとかして出てくるから、
なんかちょっと今回は個人周りにしようみたいな判断とかいろいろありますよね、それっていうのはもしはおそらくこれがいいだろうっていう自分の中にある判断基準で決定しないといけないわけじゃないですか、もちろんその全員に相談できないから、
特に葬式とかってスピード感がめちゃくちゃ大事だから、身近にいる何人かだけに相談して、じゃあ今回はこうこうこういう方針でバンバン進めていくみたいなことが必要になってくる中で、難しいんですよね、全員納得させるみたいな。
何が多いかな、呼ばれなくて怒るとか、呼ばれて怒るとかないと思うから呼ばれなくて怒るみたいな例があるんかな、例えばちょっと遠い親戚ですよね、ちょっと遠い親戚って言ったら、
じゃあその亡くなった方のお父さんの兄弟の、よく知ってくれてたところの息子さんの家族とかわかんないですけど、そういうちょっとこう遠いところが、ここはいいかつって呼んだら気遣わせるというか来ないといけないから、
気遣わせて今回やめとこうってなったとしても後々、なんで呼んでくれないのってなったりするとかっていうのが普通にあると思うんですよね。
それは当たり前ですけど、怒らせようと思ってその判断してるわけではなくて、自分の中でこっちが正しいだろうと思ってその判断をするけど、実はそれが不正解になるみたいなことがやっぱりあるじゃないですか。
本当は聞ければいいんですけど聞いた時点で誘ってるのと同じことになるから、聞くっていうことができない中で想像で判断するとかですよね、なるから、これ超むずいなっていうのがあって、
これで大事な時って怒らないっていうことだと思うんですよね、なんていうか、とか相手のことを悪いやつと思わないというか、怒らないまではできていても、なんであんなことするんやろうね。
あの人は昔から変なところあるししょうがないからもう別にいいんやけど本当あの人ちょっと失礼な人よねって言って心の中で思ってしまうみたいなことも僕の中では結構嫌だなというか良くないと思ってるんですよね。
もちろん短絡的に思うのがダメって言ってる話です。
あのいろんな関係性の中でやっぱりこいつクソやなと思ったらクソと思うとかは思う自由はあると思うんですけど。
何やろうなぁ、よくその人のことを知らないというか、クソの人が何を価値判断基準としていてどういう行動原理で動いているかということを深く理解しようとしないまま判断するっていうのは結構僕はやりたくないし危険だなと思ってるんですよね。
だから結構なんか僕いろいろ相談を受けたりとか単純に愚痴を聞くことってあるんですけど聞いてくださいよみたいな、こういう理由でこんなムカつくことがあったんですけどもう相手のやつやばくないですかみたいなこと僕まあまあ聞くことがあるんですけど。
それでそういう時ってまあ本来やるべきではないと思うんですけどついついでもそれって向こうからするとこここういう感覚でやったんじゃないみたいなだから別にそれ起こるようなことじゃなくないってついつい言っちゃうんですよねなんか相談主に対して。
反論するみたいになることがまあまあ多くて僕の中で本当はこれやっちゃいけないと思うんですよねだって多分普通に愚痴言ったりとか相談してくることって問題解決したいから言っているわけではなくて単純に感情の共有とか共感をしてほしいから言っていることって結構あるからなんか本来そこで相手の価値観はこうかもしれないからあなたは起こるべきではないみたいなことを言うってその相手の目的から外れていることではあるから
本来僕はやっちゃいけないしやらない方がいいと思ってるんですけどついつい僕の性癖として気を抜いてたらそういうことをやっちゃうんですよねただなんかついついこう相談主の敵ですよね言ったらムカつかせてくる相手のことを僕が肩持つみたいなことの構図になってなんかこうちょっと口論みたいになるみたいなことがたまにあって
いやだってそれね僕からしてもやっぱ向こうの言い分はこうかもしれないからとか向こうの価値観はこうかもしれないからとかあと実は相手もこういう体験をした上でその文脈の中でこうやってるかもしれないからそれは簡単に起こっちゃいけんのじゃないみたいなことをやっぱ言ってるんですけど
ふと途中で俺別にかといってそのなんていうんですか相手というか向こうの怒らせた側の相手と同じ価値観でもないし見方でもないしそもそも会ったこともなんか話したこともないし名前すら知らんかった人なのになーとかいうのを後でふと気づいてやばいやばいみたいな反省するっていうことが結構あるんですけど
なんかねそうなんですよねなんかこれなんか思い出してきたな色々なんか僕とかは特に自分がやった言動とかを全部全部じゃないかなるべく世の中に発信するようにしてるから多分そういう誤解を受けてきたこともあって
まあ一番公開してるやつで言うとマサですかね弟子のマサとかの話とかを世に公開した時にやっぱりこういやこれは違うんじゃないみたいなことがコメントとしてあったんですよね
これはもう普通にモラハラパワハラだろうみたいなコメントがあったんですよねでもちろんそれは言う気持ちわかるんですよねその真摯に受け止めたいと思っていてそういう方のコメントも理解できるというか一般的な社会からするとモラハラパワハラと思われるようなことを普通に僕はまさに対してしていたのでめちゃくちゃわかるんですけど
ただこれ例えば上司部下の関係だったらモラハラパワハラになると思うんですけど僕の中では弟子っていう関係性の中でそれやってたんですよねだから明確にこう肩書きもやっぱこう
その関係性が上司部下ではないっていうことを明示するために弟子師匠っていう肩書きをつけていたしそう呼び合っていたし
でまさともそこに関しては合意決して取れてたと思ってるんですよねでこれ
まあそのこういうコメントあったよねって話をまさとしたらそこに関して僕は全然何も思ってないですねって言ってたのはおそらく本心だと思うんで
だからまさの中でもその弟子師匠という関係性の中でコミュニケーションとってたってことは多分そこに関しては納得してくれてたと思うんですよ
だから僕とまさの間の関係性の中では成立していることだけどやっぱり周りから見た時に一般的なコミュニケーションのやり方とだいぶ外れているしおそらく時代的にも古いという認識だったと思うんですよね
なんかそれで悪いことというふうなレッテルを払えるみたいなこと結構あるなと思ってて今回実はねコテンラジオに関してもそういう話が若干出てくるので
なんかこう僕の話も出てくるんで僕とその登場人物の関係性の中で行われている話だから
なんかこれがどういう意味を持つのかみたいなものを想像しながら聞いてもらえるとある意味フラットに聞けるのかなと思ってますね
だからなんかこう面白いですよね同じ文化で生きててもみんなの頭の中にある常識とかこれが良い悪いみたいなものとかっていうのが全員違っていて
人間の認識や文化の違い
実はそれはコミュニケーション取れていると思っている人間同士ですらも取れてないことがあるってなるともう僕は怖くて何もなんか明確にこれが正しいみたいなことは言えなくなっていくんですけど
まあでもねなんかどう言ったらいいのかな
なんかちょっと一周してて
わかんないから何もできないってなりすぎるのも違うから
わかんないけどもういいやしゃーないって感じになってきてるんですよね
わかんないからといって動けないだと何も進まないから
もうなんかわかんないという謙虚さと
もうある程度分かっていることは分かっているとして前に続き進んでいくっていうことの両方が大事なんじゃないかなっていうのはやっぱり最近思うっていうのがあって
いやなんかそんなこんなんでねなんかこう
年に何回か来るやっぱりこう文化人類学的なアプローチというかフィールドワーク的な物事の捉え方っていうのに最近すごくまた興味が出てきていて
なんかねちょっと実は勉強ちょっとしてるんですよね最近ねまあまあまあとかもあって
いやー難しいけど面白いなと思いますねこの世界
人間がいる以上自分の認識で全員見てるから面白いですよね
20:09

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