ヨハネ21:20-15からの礼拝メッセージ。2026年10月18日録音。(聖書朗読は()まで。導入は()からです)今回はヨハネの福音書のメッセージの最終回です。この最後の箇所で、ペテロの人間臭い態度とそれに答えたイエス様の言葉、そして著者ヨハネの言葉から学びます。噂話しや不必要な詮索する誘惑に陥ったり、人と比較したりせず、イエス様を信じ従い神の栄光を現す歩みをするために次の3つの点から見ていきましょう。(1.詮索好きの悪癖()、2.自分の仕事に打ち込む()3.信じ続け、従い続けるための聖書())原稿を読む:人でなく主だけを見つめて従う:ヨハネの福音書21:20-25|Kishio
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サマリー
ヨハネの福音書21章20〜25節をもとに、ペテロがヨハネの将来を尋ねた場面から、他人への詮索や比較をやめ、イエスに目を向けて従う歩みを語る。ペテロとヨハネは性格や役割が異なるが、ともに神に用いられたため、自分に与えられた役割に集中することが勧められる。さらに、信じ続け従い続けるために、必要な御言葉が聖書に与えられていると説く。
ペテロの詮索とヨハネへの噂
それでは読みします。ヨハネの福音書、21章20節から25節です。
イエスは振り向いて、イエスが愛された弟子がついてくるのを見た。 この弟子は夕食の席で、イエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのは誰ですか?」と言ったものである。
ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか?」とイエスに言った。 イエスはペテロに言われた。
私が来る時まで彼が生きるように私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか? あなたは私に従いなさい。
それでその弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。 しかしイエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、
私が来る時まで彼が生きるように私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか? と言われたのである。
これらのことについて証しし、これらのことを書いた者はその弟子である。 私たちは彼の証が真実であることを知っている。
イエスが行われたことは他にもたくさんある。 その一つ一つを書き記すなら、世界も、その書かれた書物も、書物を収められないと私は思う。
以上です。今日はこのところから、人ではなく種だけを見つめて従うと題しての言葉からお話をいたします。
御名さんおはようございます。 今日も晴れやかな朝となりました。
先週からですが、夏日の日も含めて天気の良い日が続いておりますので助かりますね。
さて長らく見てまいりましたヨハネの福音書、いよいよ今日がですね最後の箇所です。 そしてそこにはですね
今日のところは主に3人の登場人物が登場いると見られています。 イエス様とペテロ、そしてもう一人ですね御名さんぜひ覚えていただきたいのはイエスが愛された弟子、おそらくこの福音書を書いたヨハネではないかと言
われています。
ですからイエスが愛された弟子ヨハネ、そしてこの福音書を書いた人という、そういう前提で今日も最後まで話をしますので、そのことを頭に入れておいてください。
そして今日の箇所ではですね、またペテロが人間くさい言葉を発しています。
まあそういう言葉とそれに応えたイエス様の言葉、そしてヨハネの言葉から私たちの信仰の糧になるように3つの点から見ていきます。
最初ですね、調子が悪くておかしい。
1番、詮索好きの悪癖、ちょっと極端なタイトルをつけましたけどこんなとこ見ていきましょう。
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついてくるのを見た。この弟子は夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、主よ、あなたを裏切るのは誰ですかと言ったものである。
ここから読んでみましょうか、3、ペテロは彼を見て、主よ、この人はどうなのですかとイエスに言った。
21章の20節、21節ですね。
この最後の場面でもペテロの人間臭さが現れ、そしてどこか滑稽な様子が描かれていますね。
この直前ペテロは名誉挽回の機会を与えられました。
このイエス様を賛同知らないといったその罪を回復するために、おそらくイエス様はペテロに私を愛しますかというご自身の愛の確認、
そしてそれを踏まえた上で、私の羊を飼いなさいという新たな使いのちを授けました。
それを過ちの3回と同じ回数を繰り返して、ペテロに名誉挽回の機会を与えました。
そしてその直後に、おそらく浜辺を歩いていたんでしょうね、イエス様とペテロが歩いていた後ろを主の愛された弟子ヨハネがいるのを見て、
主よ、この人はどうなのですか?と、私はこうだけども、この人はどうなのですか?と尋ねたわけですね。
自分は牧者として証明を受けました。そしてペテロはやがて十字架で殉教するという、そういう予告まで与えられたわけですから、
じゃあこの弟子はどうなるんですか?ということが気になったのではないかとも思われます。
このように、他人について不必要な詮索をするということは、また噂をするという問題は、この弟子の筆頭と見られるペテロだけではなく、当時の教会にも見られた問題でした。
今日詳しく扱えませんが、パウロもですね、コリントの教会でそんな目にあって、あんな奴は人ではない。
パウロではなくて、アポロに私はつくんだという、そういう文化が現れたりした。そんなことが起こりました。
まあ、そういう誤った噂の拡散を防ぐために、今と似てますよね。SNSでバーッと広がっちゃうような。
その拡散を防ぐために、著者ヨハネは、自分に対する誤った噂ですから、それを打ち消すために、わざわざこう書いているんですね。
23節。それで、この後でも詳しく見ますが、イエス様の答えを聞いた後ですけども、
それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。
しかしイエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、私が来る時まで彼が生きるように私が、たとえですね、望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか?と言われたのである。
噂の真相は、イエス様のサイリンの時まで、私、ヨハネが生き延びるということではないんですよ、と。
イエス様が本当に言いたかったのは、たとえそうであっても、ペテロさん、あなたに何のそのことが関係ありますか?ということが本当ですよ、と言ったわけですね。
噂がどういうか、その真相ということはですね、そういう話題は、今の時代では、今風に言うと、美味しいコンテンツですよね。
ネットしかり、週刊誌の話題しかり、テレビのワイドショーやニュースしかりです。
もちろん、国民として知らなきゃいけないこともありますけれども、必要はない、例えば芸能人の噂なんかをですね、詮索するということがあったりします。
かつてですね、噂を信じちゃいけないよってね、
某リンダさんの歌が流行りましたけど、まといた言葉ですが、その言葉のようにペテロはイエス様にはっきりと言われました。
あなたに何の関わりがありますか?私が来る時まで彼が生きるように、私が望んだとしても、それがあなたに何の関わりがありますか?と言ったわけですね。
これはですね、ギリシャ語でもともと書かれているんですけれども、直訳すると、
もし私が、ヨハネが、私が来るまでずっと生きながらえたとしても、それを私が望んだとしても、それがあなたに何であるということなんですか?
英語でちょっと難しいんですけど、英語の訳では、What is that to you?
それが、それがあなたにとって何ですか?
ギリシャ語でちょっと難しいんですけど、What is that to you?
あなたに対して、あなたに対して、すごいシンプルで単刀直入な言葉で、それがあなたに何の関係があるんですか?と言っているんですね。
私たちはですね、ある人への愛の現れとしてその人に関心を示すことは、
聖書でも言われている健全なことです。
けれども、興味本位の詮索は問題である。それがペテロとイエス様とのやり取りからもわかるわけですよね。
でもイエス様は単にペテロを、ある意味勇めた、出席しただけではなくて、もっとペテロに今度は積極的に前向きな言葉を、
彼のこれから行く末を導く前向きな言葉をも掛けられたんですね。
そのことはですね、実は私たちに対しても前向きで積極的な言葉を掛けてくださり、私たちを導いてくださるということにも関わっています。
人と比較せず自分の役割に集中する
2番目、自分の仕事に打ち込む。
ちょっと繰り返しになりますが、読んでみましょう。21章の22節。
イエスはペテロに言われた。
私が来る時まで彼が生きるように私が望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか?
あなたは私に従いなさい。21章の22節です。
イエス様は噂話へと関心が向きそうなペテロに、積極的で前向きな言葉も掛けてくださったんです。
実は気がついた方もいますが、先週見た21章の19節でもですね、書いてありませんけど、
イエス様がペテロにね、あなたは年老いたら行きたくないところに道連れてきますよと言った最後に掛けた言葉は、私に従いなさいという言葉でした。
その時と同じように、ここでもペテロに私に従いなさいとイエス様は繰り返し語られたんですね。
でも、もっとですね、ここではペテロを意識した、従いなさいという言葉になっているんです。
なぜなら、少し難しいんですけども、
ギリシャ語の原文を見ると、通常必要のない主格代名詞のあなたという言葉がわざわざつかれています。
日本語の聖書でもよく見ると、ここに赤で書きましたが、あなたは私に従いなさいと入っている。
そのギリシャ語の原文は難しいんですけど、見ると、スーモイアコルセイといって、モイというのは英語のmeと同じように、私にアコルセイの従いなさい。
スーというのはスーモイアコルセイじゃなくて、あなたはというギリシャ語の主格代名詞です。
英語のyouだから他でもない、あなたは私に従いなさいと、イエス様は力説しているんですね。
このことから私たちはこう信じることができるのではないでしょうか。
私たちが他の人のことが気になっている時に、イエス様は私たちの目を覚ますように、あなたは私に従いなさいと声をかけてください。
そしてご自分の方を向くように、他の人ではなくて、ご自分の方を向くように、先週のペトロの名前を呼びましたけども、
あなたは私に従いなさいと、何らかの形で声をかけてくださると信じることができるんだと思うんですね。
この箇所にはあえて言うと、他人との比較してしまうということも問題として見え隠れするんですね。
その解決のヒントもあるのではないかと思います。
ペトロはヨハネと自分を比較した。
人が他人と比較する理由は、自分よりある人が劣っていれば自分が安心したり、
ある人が自分よりも何か優れた部分があると落ち込んだりしてしまうわけですよね。
でもそういう、隣の芝生は青いなんて言葉がありますが、人との関係で自分の価値を測ると、
価値は本当は違うんですけども、上がったり下がったりしてしまう。
自分が不安定な、難しいかもしれませんが、精神状態に時に落ちちゃうことがあるんじゃないかと思うんですね。
今日の箇所を21章も含めてよく見ると、非常に興味深いことがあるんですね。
それは、ペトロが断然前に出てますよね。
面白いくらいに。
でもその影に著者ヨハネ、宙の愛された弟子が見え隠れしているんです。
ちょっと言うと、さりげなくヨハネは自分のことを登場させているんですね。
なぜそんなことをしているかというと、ある学者に言えば、
弟子として目立つペトロと対をなすような、まさに生徒同のようにバランスをとっているような登場にも思えるんです。
もちろん同はペトロです。
少し詳しく見ていきますけれども、
例えば今日の冒頭でペトロがイエス様に対してヨハネを指差して、この人はどうですかと言った時に、
ヨハネの副しるし象でこう紹介してましたよね。
この弟子は夕食の席でイエスの胸元に寄りかかって、
主よ、あなたを裏切るのは誰ですかと言ったものである。
これはいつかというと、最後の晩餐の席。
その時の出来事を、著者が自分のことを言っていると思うんですけど、
あえて思い出させています。
なぜか、この胸元に寄りかかるというのは、
イエスが父の懐から来たということを連想させる親密な関係を表しているんですね。
だから、目立つイエス様に注目を置かれているペトロはいるけれども、
実はヨハネも密かにイエス様と親しい関係なんですよということが示唆されています。
目立たないけれども、イエス様の胸元に食事に寄り添って、
イエス様と親しい間柄なんですよということがここに示唆されています。
そして、もう一つあります。
21章の24節、今日の最後の部分で、
この福音書と著者について、おそらく、著者ヨハネがこう証言しています。
これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。
ここを読んでみましょうか。
私たちは彼の証が真実であることを知っている。
これはおそらく、1節によると、
著者ヨハネが自分の書いたものを全部指して締めくくりに書いているのではないか。
私たちはというのは、おそらく文学的表現ではないかと言われていますけれども、
簡単に言うと、著者ヨハネ自らがこの福音書の有用性を記しているんです。
診断に値するし、20章の終わりでは、イエスを信じるために書いた。
これらのことからわかることは、
どうなるペテロと静かなるヨハネの比較と、
そして両方とも大事な弟子だということがわかる。
それが、比較という問題の解決のヒントになるわけですね。
ヨハネと違って、ペテロは、
使徒の働きの最初から、エルサレムの大都会の真ん中で
大々的に説教して、いっぺんに5000人を洗礼に導きました。
ヨハネはその影に隠れていましたね。
そして、こういう言い方はふさわしくないかもしれませんが、
みんながわかるように十字架の上で殉教したわけですね。
一方、このヨハネは弟子の中で一番長く生きたと言われています。
おそらく、エルサレムはここですよね。ガリダエコはこの辺として。
ヨハネはおそらく最後、エペソビトの手紙の
エペソの教会の牧師になったんじゃないか。
そして、この辺りに小さなパトモスという島に流されて、
そこでヨハネの牧師録を書いたのではないか。
島流しになって、おそらく余いのちを全うしたのではないかということです。
だから、殉教した彼、ペトロに比べると流れて、
あえてわかりやすければ、少し地味な存在だったかもしれない。
けれども、この福音書を書いて、
当時の教会にも、そして今の私たちにも、
良い大きな影響を及ぼして、神の栄光を表したということが、
これらの記述からわかるわけですよね。
現行にないですけど、
イエス様のお墓に行った時も、ペトロが先に墓に入ったじゃないですか。
でも、最初に信じたと書いたのはヨハネでしょ。
ペトロは行動するんだけども、ヨハネはもしかしたら静かで、
思考が優先するタイプ。もしかしたら利発かもしれない。
それを見てすぐわかったし、こういう福音書を書き上げた。
でも、あまり満たさなかった。
でも、ペトロもヨハネも、
共にイエス様の栄光を表すような存在だったということが、
ここで読んでわかるわけです。
英語で少しきつい表現らしいんですけど、
Mind your own business という言葉があるんですね。
直訳すると、柔らかい日本語で言うと、
人のことを気にせず、自分のことだけしていなさい、という表現の意味なんです。
Mind your own business
直訳すると、自分の仕事だけに心向けなさいよ。
よく、私もそんな問題ひどくないんですけど、
ちょっと誰かのことを詮索するようなことを、
アメリカ人に英語で言うと、
Mind your own business
そんな人のことも、私のこともいいから、
ほっといて、みたいなニュアンスなんですけど、
直訳すると、
Mind your own business
あなたの仕事だけMind、気にしてなさいよ。
他の人のことなんか詮索する必要ないから、という意味なんですね。
でも、あなたの仕事ということに目を向けています。
このことが、やっぱりペトロに対するイエス様の言葉からも、
浮かんでくるというか、私たちに当てはまるんじゃないかなと思いました。
行動派で目立つペトロと静かで、考えが先行するのはヨハネ。
ペトロはヨハネのことを気にしていました。
わかりませんし、もしかしたら私たちも、
動的な人は静かな人に憧れたり、
静かな人はアクティブな人に憧れたり、
人を見て、ああなりたいな、こうなりたいな、
ああだったら、もっと神様に用いられたんじゃないかな、
って思うかもしれません。
でも、Mind your own business
自分の仕事、自分の与えられた神様の役割に集中しなさいと、
そういう言葉を受け取ることができるのではないでしょうか。
昨日、立川の昭和記念公演で、
駅伝の予選会がありましたね。
ニーザーのある大学は、今年は予選会を取らなかったみたいなんですけども、
ペテロがもしかしたら体育会系かもしれませんね。
でも、ヨハネは静かで文系かもしれません。
御名さんどっちか分かりませんけども、
そういう動的なペテロ、静かなヨハネ、
御名さんはどちらのタイプなんでしょうかね。
でも、そういう違ったタイプであっても、
二人とも神様に用いられました。
ですから、私たちも自分自身がですね、
神様にあってユニークに作られた存在であるということを信じて、
そして役割が与えられているということを、
その役割を受け止めて歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
そんなことと似たような真理を、
パウロはまさにエペソの教会、
ヨハネが牧師であったであろうエペソの教会に書いていますね。
ちょっと長いんですけど、頑張って読んでみましょうか。
実に私たちは神の作品であって、
良い行いをするためにキリストイエスにあって作られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
良い行いがあらかじめ備えられていますから、
人を見たり将来を見て心配するんじゃなくて、
目の前のことで、神様は何を私にしようとしてくださっているのかな?
どうやったら最速でこれができるかな?
と考えて生きていくことが大事なんじゃないかなと思います。
信じ続けるための聖書
これが2番目。最後は簡単にいきましょう。
その上で素晴らしい指針や導きがあることを最後に確認します。
3番目。信じ続け従い続けるための聖書。
21章25節、ヨハネの福音書の締めくくりを読んでみましょう。
イエスが行われたことは他にもたくさんある。
その一つ一つを書き記すなら、
世界もその書かれた書物を収められないと私は思う。
これはよく文学的な大げさな表現で、
世界もその書かれた書物も収められないと言っているそうです。
そういうことなんですけれども、全部書いたわけじゃないよ。
なぜかそれは多すぎず、しかし十分な量を選んで書きましたということです。
だから私たちがいっぱいいっぱいになって混乱しないように、
その時その時に生きていくのに十分な御言葉が、
実は聖書として私たちに与えられているとも信じることができるわけです。
私たちの目的はイエスさんを信じ続けて、従い続けて神の栄光を表すということですよね。
そのためにヨハネの福音書もそうですし、聖書全体も書かれています。
ですからそのことを信じながら日々の糧としても、
聖書に親しんでいく、読んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
その聖書についてパウロがこのように書いていますから、
これを最後の締めくりとして読んでいきましょう。
ローマヴィテの手紙の15章4節3。
かつて書かれたものはすべて私たちを教えるために書かれました。
それは聖書が与える忍耐と励ましによって私たちが希望を持ち続けるためです。
神であり私たちのいのちの源であるイエス様をですね、
聖書から見出して希望として歩んでいく教会でありお互いでありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様御名を賛美いたします。
最後の最後までペテロは人間臭い、そのような様子を晒しておりましたけれども、
そのペテロとイエス様のやりとりを通してまた私たちにイエス様を見つめて、
そしてイエス様の御言葉に従って歩んでいく、
そのような導きを与えてくださったことを感謝いたします。
どうぞ神様、私たちが自分自身を見ながらまた日々の生活の中で、
何が神様に与えられた使いのちなのか、私は何が好きなのか、何ができるのか、
そのことを捉えながら日々目の前のことに本当に全身全霊を取り組みながら歩んでいき、
やがてあなたの栄光を表すお互いでありますように。
どうかそのためにも日々聖書の御言葉を通して、日々または出来事を通して、
あなたが私たちを導いてくださるようにお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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