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#368 名誉挽回と最期の時 26/10/11
2026-10-11 24:52

#368 名誉挽回と最期の時 26/10/11

ヨハネ-19からの礼拝メッセージ。2026年10月11日録音。 今日の箇所にはイエス様が、かつて大失敗をしたペテロの名誉を挽回し、新しい使命を与えことが記されています。さらにイエス様は彼の最期の時についても予告しています。この箇所の背景と共に、私たちに関わることも取り上げます。(1.罪責感からの解放と名誉挽回、2.すべてを知っている主にゆだねて、3.最期にさえ神の栄光を現す)

原稿を読む:名誉挽回と最期の時:ヨハネの福音書21:15-19|Kishio

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サマリー

ヨハネの福音書21章15~19節をもとに、三度イエスを否定したペテロの回復と、その後の使命について語る。イエスは三度「私を愛していますか」と問い、ペテロを罪責感から解放するとともに、「私の羊を飼いなさい」と新たな使命を与えた。ペテロの「あなたはすべてをご存知です」という告白には、自分の弱さも回復の道も知る主に委ねる信仰が込められていると説明する。さらに、ペテロの最期が十字架を意味し、それでも神の栄光を現すものとなると示されたことから、望まない最期であっても神の栄光を現し得るという希望を語る。

ペテロの三度の否定と名誉回復
ヨハネの福音書21章15節からお読みします。
彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた。 ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛していますか?
ペテロは答えた。 はい主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です。
イエスは彼に言われた。 私の子羊を飼いなさい。
イエスは再び彼に、ヨハネの子シモン、あなたは私を愛していますか? と言われた。
ペテロは答えた。 はい主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です。
イエスは彼に言われた。 私の羊を牧しなさい。
イエスは三度目もペテロに、ヨハネの子シモン、あなたは私を愛していますか? と言われた。
ペテロはイエスが三度も、あなたは私を愛していますか? と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
主よ、あなたはすべてをご存知です。 あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。
イエスは彼に言われた。 私の羊を飼いなさい。
誠に誠にあなたに言います。
あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。
しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、他の人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。
イエスは、ペテロがどのような死に方で、神の栄光を表すかを示すために、こう言われたのである。
こう話してから、ペテロに言われた。 私に従いなさい。
以上です。
今日はこのところから、名誉挽回と最後の時を話して、見事号からお話をいたします。
御名様、おはようございます。
今日も晴れやかな、まさに快晴の日。
そんな日が続いていますが、感謝して、礼拝に集えることを喜びと思います。
先週、ノーベル賞を受賞した。
色紙の人でね、びっくりしましたね。
テレビでも出ていましたが、自転車を自分で手で押して、ヘルメットをかぶって買い物に行くような、どこにでも見られるような、ご高齢の方なんですけどね。
陰に隠れるような地道な研究者が、ノーベル賞という、世界的に有名な名誉挽回とまで言いませんが、その名誉が知らしめられるわけです。
まさに今日の箇所では、イエス様がペテロの名誉を挽回した、そんな機会なんですね。
私たちは多かれ少なかれ、そういう過去の失敗とか過ちから、回復されたいとか、もう一回取り戻したいということがあるかもしれません。
そんな私たちにも関わるようなことを、今日取り上げていきたいと思います。
3つの点を見ていきます。
私たちの将来にも関わることにも見ていくんですけども、まず最初は1番。
在籍官からの解放と名誉挽回ということを見ていきます。
先週の大寮の後、朝食をガリダイコで弟子たちがイエス様ととっている時の出来事だということなんですね。
彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた。
ヨハネノコ・シモン、あなたはこの人たちが愛する以上に私を愛していますか?
罪責感からの解放と新しい使命
ここから読んでみましょうか。
ペテロは答えた。
はい、主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です。
イエスは彼に言われた。私の子羊を飼いなさい。
ここでイエス様はペテロにシモン・ペテロと言って、私たちに当てはめれば名字と名前を呼んで呼びかけたわけです。
これはとても厳粛な意味があります。
10月1日は日本中で内定式、卒業式、入学式、正式名称でフルネームで呼びます。
御名さんも何かのきっかけにフルネームで呼ばれるとドキッとしたり、背筋が伸びるような感じがしますけれども、
ペテロもイエス様にフルネームで呼ばれたわけです。
なぜか、ご存知のようにイエス様が逮捕された時、ペテロは3度もイエス様を知らないと言ってしまったわけです。
この3度もイエス様を知らないと言っていた言葉は、多くの学者も言っていますが、彼の罪でした。
そして、罪や在籍官は、ペテロはこの時、大量をしていたのですが、彼の心の奥底に檻のように溜まっていました。
豆乳を私は好きで飲むのですが、芝の方に置いておくと、下の方に固まってしまいます。
そういう檻のように、彼の心の奥底に3度知らないと言った罪や在籍官が留まっていて、何かを後ろめたい、すっきりしない気持ちであったのではないかと思われます。
この3度もイエス様が問いかけたのは、ペテロの心の奥深くにあった檻のように溜まっているものに触れて、
ペテロを癒して、解放する、そんな役割があったのです。
3度の質問、それ3回彼がイエス様を知らないと言ったのに合わせて、3度、あなたは愛しますかと問いました。
心の奥の中に留まっていた罪と在籍官にその質問によって、イエス様はペテロの心の深くに触れて、彼を癒して、その重荷から解放した。
そういう問いかけだったわけです。
今申し上げましたように、この3度のやりとりはペテロの名誉挽回の機会にもなったわけです。
彼はご存知のようにリーダー的存在でしたね。
そして、最後の晩餐の席でしょうか、他の弟子たちの前で彼はこう言い放ったんですね。
主よ、なぜ今ついていけないのですか。あなたのためならいのちも捨てます。
と、逮捕される前夜、弟子たちの前にこのように言いのけたわけです。
でも、この大幻想後の直後にイエス様はペテロの失敗を予告しましたね。
そして、あなたはニワトリが鳴くまでに3度私を知らないと、イエス様は言ったわけです。
その失敗を予告した、この2人のやりとりを他の弟子たちは見ていたわけですね。
これは想像の域は出ないんですけども、もしかしたら弟子たちの中にはペテロの失敗を見て、
それを見たことか、いつも生意気な口を叩いているからみたいな、そういうふうに思った人がいたかもしれません。
そういう中でですけれども、イエス様は人々の前で彼の名誉を挽回する機会を与えたわけです。
繰り返しますが、2つの意味があって、
1つはペテロの心の中に留まっていた罪の加釈とか、そういう彼を解放してあげること。
そして対外的には、彼の信頼の回復といいますかね、名誉の挽回の機会を与えて、
私の羊を飼いなさいと言って、新たな使いのちを他の弟子たちの前でもう一回授けてあげたわけですよね。
そのような厳粛な呼びかけを持って、愛の告白に導いて、新しい使いのちを与えることによって、
他の弟子たちの前で、彼をもしかしたらまた弟子のリーダー、筆頭のように任いのちしたとも言われています。
余談になりますけれども、「使徒の働き」って読んだことあります?
あれね、よく読むと、私に言わせれば主役が3人いました。
カゲの主役は聖霊ですね。イエス様がいなくなった後、聖霊派で。
そして、もう一人の主役は大伝道者のパウロですよね。
もう一人の主役はおそらくペテロです。
イエス様がいなくなった後の表の主役の一人としてペテロがいたわけです。
そんなこともあるように、ペテロの名誉の挽回の機会として、
そして彼の心の痛みを癒して新たな使いのちを与えたというのが、
ペテロとイエス様の賛同のやり取りだったわけですよね。
御名さんはどうか分かりませんけれども、もしかしたら私たちもペテロのように、
かつての過ちや犯してしまった罪のゆえに、
自らを責めてしまったり、後悔してしまうことがあるかもしれません。
あるいは他の人の目が失敗のゆえに気になってしまうことがあるかもしれません。
でもこれを見たように、イエス様はそんな私たちの心の奥深くに語りかけてくださる。
そして聖書の言葉で語りかけてくださるかもしれませんけれども、
あるいは祈りの中で私たちを癒してくださる。
そして、罪が許されている確信を与えてくださるわけですよね。
そして、必要ないのちを挽回の機会を与えて、新たに送り出してくださる。
そんなイエス様の恵みと憐れみがここで見て取れるわけです。
このような私たちに対する神様の恵みと憐れみについて、
詩編の中でこういう美しい御言葉があるので見てみましょう。
詩編103編の9節と10節です。
主はいつまでも争ってはおられない。
とこしえに怒ってはおられない。
ここから読めるかと読んでみましょうか。
私たちの罪に従って私たちを扱うことをせず、
私たちの都がに従って私たちに報いをされることもない。
この神様のイエス様の憐れみ、恵みということを覚えて
何度も立ち上がる私たちでありたいと思います。
すべてを知る主に委ねる信仰
2番目ですね。
すべてを知っている主に委ねて。
21章17節でこうあります。
ペテロはイエスが三度もあなたは私を愛していますかと言われたので、
心を痛めてイエスに言った。
ここから読めるかと読んでみましょう。
主よ、あなたはすべてをご存知です。
あなたは私があなたを愛していることを知っておられます。
イエスは彼に言われた。私の羊を飼いなさい。
もう3回も言ったら、しつこい怒られるかもしれません。
ここで赤い字で表示しましたが、
この主よ、あなたはすべてをご存知ですという言葉は、
今までの2回のペテロの答えの中にはないんです。
3回目に初めてペテロがイエス様に
主よ、あなたはすべてをご存知ですとわざわざ言っているんですね。
それはここにとても大事な意味あるいは彼の信仰が込められているからだと思います。
ここに書いてあるように、
3回もあなたは私を愛していますかと言われたので、
ペテロは心を痛めたというわけですよね。
この3度のやり取りの中でペテロは自分について
もしかしたらこう考えるようになったかもしれません。
この箇所をある学者は、
第一コリントの13章の1節から3節と照らし合わせて解説するんですけれども、
3節だけ抜粋しましたけれども、
愛についての御言葉ですよね。
タウロが言っていますが、
たとえ私が持っているもののすべてを分け与えても、
たとえ私の体を引き渡して誇ることになっても、
愛がなければ何の役にも立ちません。
この3節にわたって、
私がどんなにキリスト者として、
死の弟子として立派なことを言ったりやったとしても、
愛がなければ無意味ですとタウロが言っているわけです。
このような愛の基準に照らし合わせたかごとくですね、
ペテロはイエス様に3度あなたは私を愛しますかと言われる中で、
もしかしたら私はそれほどこういう意味で、
イエス様を純粋に愛していないのかもしれない、
と思ったのかもしれませんよね。
あるいは、私の羊を飼いなさい、
3回言われた時にですね、
そんな大事な使いのちを私は果たすことができるだろうか。
かつてあやってイエス様をいなんで失敗もした私だ。
そういう自分の自信が揺らいなのかもしれませんね。
でも、この自分の自信が揺らぐということは、
もしかしたら健全なことかもしれないですね。
なぜなら彼は自信過剰ゆえにですね、
大言壮語を言い放ってですね、失敗したわけです。
ですから、そういう自分のことも思い出して、
自分の弱さや、いざとなったら逃げてしまう弱さとか、
そういうものを彼はイエス様との賛同のやり取りの中で、
帰り見てですね、心を痛めて、
あなたは全てご存知ですと言ったと考えることもできるんじゃないでしょうかね。
その言葉の意味はどうなのかなと私なりに考えた時にですね、
ペトロはこう考えたんじゃないかと。
イエス様は自分の欠点や弱さも全て知っておられる。
そしてその上でイエス様は新たに踏み出す一歩も用意してくださるし、
新しい使いのちも知っておられる。
だからそういう、まさに自分の失敗も回復の道も知っているイエス様に
委ねていこうという思いを込めて、
あなたは全てをご存知です、あなたに委ねますという信仰が
この言葉に込められているんじゃないかなと考えたわけですね。
御名さんはそういう告白や気持ちに共感できるでしょうかね。
できる方も多いと思いますけれども。
実はこのような信仰告白はですね、聖書のいたるところ見られますけれども、
例えば代表的なものの一つは予部の告白です。
もう考えられないような試練にあった予部はですね、
友人との問答、友人から責められ責められ責められした中で、
神の御言葉を聞いて、神の技を思い知って、
こういう信仰告白をしましたよね。
予部書、予部記の42章2節、ちょっと長いですけど読んでみましょうか。
あなたには全てのことができること、
どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。
このようにですね、全てをご存知であり、何でもおできになり、
私たちを導いてくださる、そんなイエス様に、
あなたは全てをご存知ですと委ねていくお互いであり、
教会でありたいと思います。
最期にも神の栄光を現す
最後、3番目、最後ですけども違った字でですね、
最後にさえ神の栄光を表すということを見ていきましょう。
今日の箇所で少しどういう意味なのかなと謎めいたところがあります。
その中で最後の言葉を抜粋しました。
20章19節、イエスはペテロがどのような死に方で神の栄光を表すかを示すために、
こう言われたのである。
こう話してからペテロに言われた。
私に従いなさい。
これどういうことかというと、この前の18節でですね、
イエスさんペテロに言いましたよね。
あなたは若い時には自分の行きたいところに自分の帯を締めて行きました。
私も今朝ベルトを締めて来たんですけども。
だけども、あなたが年を取ったらあなたは両手を伸ばし、
他の人があなたに帯をして望まないところに連れて行きます。
これ謎めいた。どういう意味なのか。
年を取ったら家にあなたが連れて行かれるってね、
そんなイメージかもしれませんが、これは実は十字架を意味するそうです。
この両手を伸ばす、そして帯というか紐でくくられるというのはですね、
このイエス様の十字架の時に両手を伸ばして十字架の横棒に紐をくくられましたよね。
そして十字架の処刑場まで引かれていった。
そのことを表しているんじゃないかというのが学者の間で一致しています。
だからイエス様ペテロはやがて十字架にかけられて最後を迎える。
そう言ってこの言葉を述べたわけです。
余談になりますけど、私がちょうど40年前に旧ソ連に行った時なんですけど、
たぶん今のサンクトペテロブルムか、昔レニングラドって言ったんですけどね、
エルミタージュ美術館というのがあって、そこに行ったらですね、
あの時キリスト教を禁制にしてたのにですね、ロシア席にあったんですけど、
いっぱい聖画があるんですよ、キリスト教の。
その中のたぶん一つに、エルミタージュか他のオデッサの美術館か忘れましたけど、
ペテロの殉教の絵があったんですよ。
有名な御名さんも知っているかもしれませんが、どんな絵かというと、
ペテロが逆さの十字架につけられている。
これはね、結論から言うとあくまでも伝説に過ぎないんですけど、
ペテロがたぶん十字架で死んだというのはその通りなんですけど、
あくまでも伝説として残っているのは、ペテロが十字架にかけられる時に、
私はイエス様を裏切ったから、
同じ十字架にかかる言葉を拝むし、と言って逆さに十字架にかけられた。
これは本当に伝説なんですけども、
それくらい彼は使徒としての生涯を、
殉教に至るまで全うしたということが事実として、
あるいはそういう伝説にもなって語り伝えられているわけなんです。
そしてこの十字架で最後を迎える、それについてですね、
ペテロは告げられたわけですけども、
先ほど申し上げましたようにペテロは、
自分がこのイエス様への献身や愛を全うできるか自信がなかったわけですよね。
だからあなたは全て御存じですと委ねたんですけども、
イエス様はあなたは生涯を全うして神の栄光を現すと断言してください。
言ってみればですね、このようにイエス様はペテロがどう一生を得るかさえ御存じだった。
その上で神の栄光を現すとさえ断言したわけですよね。
同じようにイエス様は私たちがどう一生を得るかさえ御存じだと考えられたでしょうかね。
望まない最期にもある希望
9月に経路の日があったりしていろんなことを言われててね、
その時びっくりしたのは、今労働人口がありますよね。
労働人口の7分の1が高齢者だったんです。
7人に1人が、どこを指して高齢者か分かりません。
多分私も入ってると思いますけど、高齢者だったんですね。
まさに、おとといの新聞にもありましたけど、
今ね、市営の仮想場が、経営が逼迫していて、
1週間待ち10日待ちなんてのがあったりとかですね。
すごいそれも困ってる。
そんな中でよくね、就活とかアドバンストケア・プランニングっていうね、
ことがよく聞かれます。
そこは特にね、どう生きるかだけじゃなくて、
どう自分が死を迎えるかっていう備えもしましょう。
そういう流れだと思いますね。
そんな中で、自分が望み通りの最後を迎える、
そういう意思表示の機会としても、
そういう就活やACPっていうことを考えることがあると思うんですね。
あんまり言うとあれですけど、どうやってね、最後を迎えたいか。
ピンピンころりがいいとか。
理想は自分が望んでいるような最後を迎えることだと思います。
でもこんなことはあんまり言いたくないんですけども、
もし不幸にも自分の望まないような最後を迎えたとしても、
まさにペトロがそうだみたいな言い方をされてますけども、
もし自分の望まないような、本当はこんなこと言いたくないんですけども、
その最後を迎えたとしても、私たちは神の栄光を表すことができる。
そう信じることができるのではないかと思うわけですね。
なぜかそれは、イエス様が私たちの全てをご存知だから、
言われることができるわけです。
そのことを信じて歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
来週はいよいよ福音書最後の箇所ですね。
そしてペトロらしい質問からですね、いろんなことが端を走っていく物語で、
ヨハネ山福音書が終わっていきます。
そのところを取り上げたいと思います。
それではお祈りしましょう。
天の神様御名を賛美いたします。
弟子のリーダーであったペトロが、
三度イエス様を否定して、
罪を後悔したり、心の痛みを覚えておりました。
しかし、そんな痛みや罪をイエス様が心を奥深くに語りかけ、
癒し、彼を解放し、また新たな使いのちへと送り出してくださり、
そして生涯のこの道筋も、
栄光を表すと告げてくださったことを感謝いたします。
あなたは私たちの過去も、現在も、そして未来もご存知です。
そしてその生涯を通して、
あなたが私たちを通して、
栄光を表してくださる、
そのように信じることができることを感謝いたします。
どうかそのようなイエス様の導き、
神の栄光を表す生涯が与えられることを信じて、
歩んでいくお互いであり、
境界ありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど御言葉に応えて、
黙祷する時間を持ちましょう。
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