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#363 墓に残された布~復活のしるし、罪と死からの解放 26/9/6
2026-09-06 23:32

#363 墓に残された布~復活のしるし、罪と死からの解放 26/9/6

ヨハネ20:1-10からの礼拝メッセージ。2026年9月6日録音。(聖書朗読は()まで、導入()はからです)マグダラのマリアがイエス様の墓を訪れると、その体と頭を包んでいた布だけが残されていました。それが復活の証しであること、そして復活したイエス様は、私たちを罪と死の力から解き放つ救い主であることが分かります。それらのことを以下の3つの点から見ていきましょう。(1.墓で見つけた亜麻布(),2.死と罪の布を解き放つイエス(),3.見て信じ、聖書で確信する())

原稿を読む:墓に残された布:ヨハネの福音書20:1-10|Kishio

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サマリー

この礼拝メッセージは、ヨハネの福音書20章1-10節に基づき、「墓に残された布」というテーマで語られています。マグダラのマリア、ペテロ、ヨハネが空の墓を発見した場面から、イエス様の復活の証拠としての布、そしてそれが示すイエス様の死と罪からの解放について解説します。さらに、弟子たちが「見て信じた」経験と、聖書を通して信仰を確かなものにしていくことの重要性が語られ、私たちも日々の経験と御言葉を通して復活のイエス様の救いを体験し、確信していくことを奨励しています。

朗読と導入
それでは朗読します。新約聖書、ヨハネの福音書、20章1節から10節です。
さて、宗の始めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラノマリアは墓にやってきて、 墓から石が取り除けられているのを見た。
それで走って、シモン・ペテロとイエスが愛された もう一人の弟子のところに行って、こう言った。
誰かが墓から朱を取っていきました。 どこに朱を置いたのか、私たちにはわかりません。
そこでペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも早かったので、先に墓に着いた。
そして身をかがめると、 天布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、天布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた布は、天布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
その時、先に墓に着いたもう一人の弟子も入ってきた。 そして見て信じた。
彼らはイエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書をまだ理解していなかった。
それで弟子たちは再び自分たちのところに帰っていった。
以上です。
今日はこのところから、墓に残された布と題して御言葉からお話をいたします。
空の墓の発見とマリアの反応
御名さんおはようございます。
少しですね、先週中頃から涼しくなってですね、
昨日は9月下旬ぐらい、今日もそうなんでしょうかね。
雨降りなお、今日も冷たい朝になりましたけれども、
共に礼拝ができる幸いを感謝しています。
さて、墓に残された布。
今日はですね、空の墓に駆けつけたマグダラノマリアとペテロとヨハーネの場面から、
復活したイエス様による救いと解放の約束についてですね、
少し3つの点から見ていきたいと思います。
一番最初、墓で見つけた雨布ということですね。
ちょっと出だしの部分を読んでみましょう。
20章1節3。
さて、週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、
マグダラノマリアは墓にやってきて、墓から石が取り除けられているのを見た。
イエス様が埋葬されたのは金曜日の夕方でした。
季節は3月下旬から4月頃です。
今のいわゆるイースターの頃ですね。
その直後の日曜日の朝、暗いうち、3月4月の朝といったら、
多分ご時代でも暗いかもしれません。
その暗いうちにマグダラノマリアはイエス様が埋葬された墓に行ったのです。
なぜかというと、イエス様は十字架から取り下ろされて、
比較的早く埋葬されたので、
マリアは改めてイエス様のお墓に御礼や尊敬の意を込めて、
高位を塗りに行きたい、そう考えて安息に近づけた。
日曜の朝、暗いうちに真っ先に墓に向かって行ったのです。
しかし墓に着いてみると、このように入口の蓋が取り除けてあったわけですね。
彼女は何が起こっているのか分からず、
泥棒か、あるいはイエス様の敵たちがイエス様の御遺体を盗んでいったのではないか、
そのように考えたわけです。
当時ですね、墓泥棒というのは珍しくありませんでした。
ですからローマの法律でそれを罰する規定があったほどだったのです。
そういうこともあったので、
マリアは泥棒がイエス様を盗んでいったのではないかと思って、
動揺してこの弟子であるペテロとヨハネの下に走って駆けつけて行ったのです。
そして時代劇だったら、
大変です、大変ですと言って、
誰かが墓から種を取って行きました。
どこに種を置いたのか私たちには分かりません。
私たちにと言っているから、おそらくマリア以外にも何人かいたのではないかと思われています。
ペテロとヨハネの墓への駆け込み
そしてそのことを聞いたペテロとヨハネは、
急いで走って墓に向かって行ったわけです。
おそらくヨハネが若かったので、
多分私と競争したらお二人の方が勝つと思いますけど、
ぜいぜいハンハン言いながらペテロが行く先を、
早速と若かりし頃の若いヨハネは墓に走って行って着いたわけです。
先に墓に着いたわけです。
そして彼は身長だったんでしょうね。
着いたんだけれども、身をかがめて
そっと墓の中を覗いてみると、
薄暗がりの中にイエス様の体をまいていた
天布、リネン、朝の布を見つけたんですね。
長さ4メーターくらいあったんじゃないかと言われています。
その天布だけが残っている、そのことをヨハネは確認したわけです。
するとヨハネが中を伺っていると、
ぜいぜいハンハン言いながらペテロが追いついた。
そしてペテロはどんな人ですか?
思うより先に行動する、ちょっとずつ猛進型ですから、
怖がることなく墓の中に入っていったんですね。
そしてヨハネが見つけた、この同じイエス様の体をまいていた天布を見つけました。
そしてその天布があったことを見つけただけではなくて、
中に入ると外から見えなかったイエス様の頭だけを巻いていた布も見つけたというんですね。
これから分かるように当時は体を巻く長い布と頭を巻く布が別々にあったんです。
体に香油を塗りましたから、腐敗臭防止のために高価な香油をこの間言ったけれども30キロ近く塗った。
そしてその香油が顔にかからないように顔に布をかけたらしいです。
あるいは顔というのは尊厳がありますから、その遺体への尊厳あるいは尊敬を込めて頭に別の布を巻いたそうです。
大体80センチから50センチぐらいですね。
ちょっと大きい、ちょっと不謹慎かもしれませんが足吹きマットぐらいなんでしょうかね。
そういう小さい頭用の布だけまた別々のところに置いてあったことをヨハネが見つけたわけです。
入り口から見たヨハネには体の布しか見えませんでしたけどペテロに吊られるように中に入っていったヨハネはやはり見た。
別々のところにその頭用の顔を覆っていた布もあった。
そのように言っていたわけですね。
ちょっと最初の場面は出来事の描写で終わりましたけれども、
死と罪の布を解き放つイエス
2番目、そしたらもう少し意味を考えていきましょう。
2番目、死と罪の布を解き放つイエスということを考えていきます。
二十章7節読んでみましょうか。
イエスの頭を包んでいた布は、
泡布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
よく親御さんが息子さんに、
脱いだままの寝巻きそのままにして布団から出て学校行ったなんてね、
畳みなさいなんて怒るかもしれません。
自分がそのまま布団の上にあったりするかもしれません。
そんなだらしないことじゃなくて、
実はここにも秘密があるんです。
亡くなったイエス様の体を包んでいた泡布と、
頭を包んでいた泡布が墓に残されていた。
しかも、表現違いますが、わざわざ一緒にはなく、離れたところ、
別々のところにそれがあったと、わざわざ書いてあるというところが大事なんです。
そこにはなぜ、どういう意味があるか。
まず、そこから墓泥棒が持っていたんじゃないということがわかります。
墓泥棒は、わざわざ丁寧に布を取って盗まないんです。
漫画に出てきそうですけど、そのまま、えっちらおっちら運ぶわけです。
ましてや、体を包んでいた泡布も、そこにふりかけられていた香料も、
非常に高価な貴重なものだったので、
今、よくニュースである、盗んで転売する。
そういうこともできるほど貴重なものなので、
泡布だったら布や香料を残しておくわけがない。
そういうことから、イエス様の体が蘇った。
イエス様が体を持って復活したんだということが、この描写から示唆されている。
これを書いたヨハネは、そのことを示していることがわかります。
それだけではなくて、非常に大切なメッセージがここに込められています。
御名さん思い出したと思いますけども、
この死んだ人をくるんだ泡布の話、ラザロのよみがえりのところで出てきましたね。
この11章で、イエス様がよみがえらせたラザロの様子と比べるとわかるんです。
その部分、11章の44節を見てみましょう。
ここに書いてありますね。
ラザロよ出てきなさいとイエス様が言った後の出来事です。
スルトから読めないかと読んでみましょう。
スルト、死んでいた人が手と足を長い布でまかれたまま出てきた。
彼の顔は布で包まれていた。
イエスは彼らに言われた。ほどいてやって帰らせなさい。
ラザロはぐるぐる巻きのままでてきたんです。
この死ぬ人を包む布に包まれたまま、顔も包まれたまま出てきた。
そしてイエス様が誰かにほどいてやって帰らせなさいと言って、誰かがほどくようにいのちじたわけです。
墓から出てきたラザロはですね、誰かにこの雨布を解いてもらわなければいけなかったんですね。
それは何か。
彼は自分の力で死と死がもたらす罪の束縛から自分を解き放つことができない。
そういうことを示唆していると言われています。
自分でこの死んだ自分を巻いていた布を解き放つことができないということは、
彼が縛られていた死からも、そしてその死をもたらした罪の束縛から、
ラザロは、人は自分の力では自由になることができないんですよ、ということがこの出来事からわかるわけなんです。
ですからもう御名さんわかったと思いますが、
つまりイエス様は誰からでもない自分自身を縛っていた雨布に縛られることなく復活したんですね。
それゆえイエス様は当然、罪と死に縛りつけられるようなお方ではないわけです。
ですからイエス様ご自身は救い主としてその復活のいのちを持つ神として、
罪と死に囚われている人を解放することができるわけなんです。
そして墓から出てきたラザロは残念ながら死んでしまいますね。
またおそらくよみがえらされた後も人ですから、
罪との戦いを死ぬまで経験せざるを得なかったわけですよね。
実は私たちもラザロのようにイエス様に罪と死から救われたものではありますけれども、
かつては罪と死の鎖に縛られて身動きが取れなかった。
しかしイエス様を信じてその罪と死の束縛から、鎖から解き放たれたわけですよね。
でも墓から出てきたラザロ、墓から出てきても罪との戦いがあり、
やがて死を迎えたラザロのように、私たちもイエス様の救いのいのちをいただいた後も、
罪に絡みとられてしまうことがあるかもしれません。あるでしょう。
あるいは悩みや思い患いの鎖に縛られてしまうということがあるのではないでしょうかね。
そしてそれらの中でもがき苦しむうちに、いつの間にかぐるぐる巻きにこの死の布に囚われてしまうような、
そんな経験をすることがあるのではないでしょうか。
しかしそのようなことで囚われてしまった時にですね、
ふと目を見上げてですね、十字架のイエス様に目を向けて、そして墓からよみがえられた。
罪と死のなあめから自らを解き放って、神によって解き放ってよみがえられたイエス様のことを思い出してですね、
イエス様、囚われている私を救ってください、助けてくださいと祈って、
このイエス様の救いを新たに覚えていくことができるのではないかと思うわけです。
これが2番目です。
見て信じ、聖書で確信する
3番目。
見て信じ、聖書で確信する。
続き読んでみましょう。
20章8節9節。
その時、先に墓についたもう一人の弟子も入ってきた。
そして見て信じた。
彼らはイエスが死人の中からよみがえなければならないという聖書をまだ理解していなかった。
このペテロと一緒に墓に駆けつけたもう一人の弟子、イエス様に愛された弟子というのは、
この福音書を書いたヨハネと言われています。
このヨハネは、ここの箇所で見て信じたと言っているんです。
この前もですね、墓に体をまかれた布があるのを見た。
見たということを非常に大事にしているんですね。
実はヨハネの福音書は、7つのしるしとしての奇跡があると言われています。
一番最初が、カナの婚礼の水が葡萄酒に変わった奇跡。
そしてそのクライマックスの奇跡は、ラザロのよみがえりの奇跡でした。
実はそのしるしとしての奇跡が7つもあるんですけれども、
そのクライマックスの1つが十字架のしるしでしたね。
十九章35節にヨハネはですね、
イエス様の脇腹を兵士が突き刺したが、血と水が分かれて出てきた。
それを見た者が目撃しているのである。
その証は本当であると言っています。
それはどういう意味かというと、
イエスは体を持って本当に死を体験したということを言っているんですけれどもね。
そうやって見て証言しているということを彼は大事にして、
自分の福音書の信頼性の根拠としています。
そしてここでは、この復活の殻の墓と置き去りにされた布を見て、
それを信じたと言っています。
つまりこれまで7つの奇跡はですね、
本当はそれを見た人がイエス様が神なら救い主だと信じるために、
7つのしるしが起こされて、そして記されてきました。
そしてそのクライマックスの復活の出来事をヨハネ自身が見て、
イエス様を救い主だと信じたんですよということを、
わざわざここで自分の独白としてですね、書いているわけなんです。
まあ、そこから私たちがですね、知ることができるのですね。
ちょっと過ぎてしまいましたね。
ヨハネの福音書では、11章の謎のよみがえりまでイエス様の7つのしるしとしての奇跡が記録されています。
ヨハネはそのクライマックスとして、
目撃者として十字架と復活を見たものとして証言して、
自らもイエス様を神から使わされた神なら救い主であると信じたと告白しているんです。
とにかく見て信じた。
まあ私たちはですね、今イエス様の復活した姿も見ることはもちろんできません。
けれども私たちはですね、ヨハネのように日々の歩みの中で、
このイエス様が救い主である。
イエス様が私を助けてくださった。
そういう確かなしるしを経験できるわけなんですね。
そしてそういうイエス様が私を確かに救ってくださった。
イエス様の復活のいのちに預かったという確かな経験からですね、
私たちの信仰も確かにされていくわけです。
私は信じたって言えるわけですね。
ですからまあこのことを期待して、
檻に触れて、イエス様私を助けてくださいと祈ることができるわけです。
さらにですね、ヨハネは大事なことを言っているんですね。
ここでですね、ここから言っています。
見て信じたけれども、彼らはというのは自分も含めた弟子たち、
マリアを深めた女性と男性の弟子たちは、
イエスが死にの中で蘇らなければならないという聖書をまだ理解していなかった。
これはですね、逆説的な言い方をして、
聖書をこの時理解していなかったと言いながら、
イエスの復活の事実を聖書を通して理解して信じることが大事だと訴えているんですね。
御名さんご存知かもしれませんが、
この後、20章の後半とか21章でイエス様は、
見ずに信じるものは幸いだと言ったりとかですね、
聖書の言葉をまだ悟らないですかと言っている人たちによって、
聖書の言葉を通してイエス様の復活の確信を得るということを教えている、
大事だと伝えているわけですね。
ですから私たちの信仰生活も、
聖書の言葉に露台を置く時にですね、
さらに確かなものとなるわけなんです。
言ってしまえば、もしかしたら救いが見えない、
救いの時が見えないと思える時でもですね、
聖書の約束の言葉に出会って、
神の救いを待ち望んだり、確信することができるわけです。
その時にですね、私たちの信仰の露台が、
神様によって確かにされていくわけですね。
そういうわけで、最後にですね、
ちょっと余談になりますけど、
じゃあイエス様の復活を、
どの聖書の箇所が指し示しているんですか?
実は学者の中でいろいろ議論があるんです。
こことあそこだ、2つか3つくらいあるんです。
でもそういうことと同時に、
イエス様も言っているんですが、
旧約聖書全体を見れば、
それがわかるという形であります。
ちょっとそれは、余談なのかもしれませんけども、
最後にですね、
そのイエス様の復活を指し示しているとされている、
紙片の言葉、そして神の救いが喜びであるということを、
証ししている御言葉を紹介して、
終わりにしたいと思います。
結びと祈り
ちょっと途中まで読んでいきますね。
祈りの紙片ですけど、
それゆえ私の心は喜び、
私の胸は喜びにあふれます。
私の身も安らかにすまいます。
ちょっとここから長いですが、
読んでいきましょう、3分。
あなたは私の魂を世に捨て置かず、
あなたにある経験なものに滅びをお見せにならないからです。
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。
満ち足りた喜びがあなたの見前にあり、
楽しみがあなたの右に常しえにあります。
そのような祈りもなりますけども、
この御言葉を覚えながらですね、
復活のイエス様を日々体験し、
そして御言葉によって確かにされていく、
そのような信仰の歩みを進めていく、
お互いであり教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
私たちの救い主なるイエス様、
あなたのお名前を賛美いたします。
今日は墓の殻を見つけ、
またイエス様の御遺体を撒いていた、
天布を見つけた、
マリアやペテロやヨハネの出来事から学びました。
どうぞ私たちが日々の生活を通して、
復活のイエス様の救いを見ることができますように、
我がこととしてイエス様の救いを日々の出来事、
また日々の問題の中で体験していくことができますように導いてください。
と同時にどうか聖書の約束を通して、
神様の救いを確かな土台として生きていく、
そのような私たちでありますように、
教会でありますようどうか導いてください。
目には見えませんが、
イエス様が私たちと共にいてくださること、
御言葉を通して復活の御自身を表してくださることを信じて感謝いたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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