それでは朗読します。ヨハネの福音書19章38節から42節。
その後でイエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスの体を取り下ろすことをピラトに願い出た。
ピラトは許可を与えた。そこで彼はやってきて、イエスの体を取り下ろした。
以前、夜、イエスのところに来たニコデモも、もつ薬と人工を混ぜ合わせたものを百リトラほど持ってやってきた。
彼らはイエスの体を取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って香料と一緒に天布で巻いた。
イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこにまだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。
その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。
以上です。
今日はこのところから、「信じ歩む時は今。」と題して二言葉からお話をいたします。
御名さん、おはようございます。
今日は8月の第5日曜30日です。
豪雨があちこちで広がっていて、おととい福井県で被害が出ているようですが、
今日は涼しいですが、これからまた暑さをぶり返して残暑も厳しくなるようですので、お互い気をつけて歩めればと思います。
さて、先週はイエス様が十字架で息を引き取る場面から見てまいりました。
そして今日はそのイエス様の埋葬の場面です。
今日二人の人が出てきます。
有又屋のヨセフとニコデモという人です。
どちらもサンヘドリンの議員でした。
そして実はイエス様を十字架につけた死亡者も有又屋のサンヘドリンの議員たちだったわけです。
ですからこの二人はそのメンバーだったんですね。
このイエスを丁寧に葬る、埋葬するということで、有又屋のヨセフとニコデモの行為は非常に危ない行為だったんです。
一番危険なのは、日本でよく統議拘束というのがありますよね。
国会の決議の時にある党が党に違反したら投票してはいけません。
実はニコデモとヨセフがしたことはその統議拘束に違反するようなことです。
つまりサンヘドリンの議員はイエスを死刑にすることを決めて動いたわけです。
それに反してこの犯罪人、神を冒涜したイエスを後でも説明しますが、
丁寧に葬るということはサンヘドリンの意向に反する、
そして彼らの地位も危ぶまれる、批判ももちろん的になる、そういうリスクがあったんですが、
この二人はそれを臆することもなくイエス様を埋葬しました。
ですからこの二人のこととイエス様を取り上げます。
そこから私たちが過去を後悔しないで、今イエス様を信じて歩んでいく、
そんなことを考えたり、信仰の糧にできたと思います。
3つの点からお話ししますが、一番最初は、
時を経て信仰の実を結んだニコデモというところですね。
19章39節、もう一度読めるかと読んでみましょう。
前に夜イエスのところに来たニコデモも、
もつ薬とアロエを混ぜ合わせたものを、およそ30キログラムばかり持ってやってきた。
ちょっと今日朗読した聖句と違う引用なんですけれども、
今日のところでは100リトラと書いてありますけれども、
およそ33キログラム、そういうイエス様を葬るためのユダヤの習わしに従って
こういうものを持ってきたということですね。
ここからこんなことがわかるんです。
イエス様とその御言葉を信じるには、時があるんだということなんですね。
実は、御名さんもそうかもしれません。
初めてイエス様の名前を聞いたり、聖書の言葉に触れた時にすぐ信じた方いらっしゃいますか?
私は時間が経ってから信じました。
その時は何も思わなかったとしても、時を経てイエス様を信じますと深刻学する人もいれば、
クリスチャンであるならば、あまり最初に読んだ時にピンと来なかった聖書の言葉が、
時を経て、あるいは何年か経って、そういう意味だったんだと身に染みて、
わかる時が来るかと思います。
ここで登場したニコデモが実はその実例なんですね。
今日の箇所でわざわざこう書いてあります。
前に夜、イエスの所に来たニコデモ、わざわざ書いてあります。
私たちの使っている聖書では、以前、夜、イエスの所に来たということです。
この以前の夜とは、いつか、御名さん覚えていますか?
何章でしょう?三章ですね。
ヨハネの三章に、ニコデモがイエス様に神の国に入るにはどうしたらいいんですか?と、
尋ねてやってきた場面があります。
そこの箇所を引用して読んでいますけれども、三章の一節二節にこうあります。
さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。
ユダヤ人の指導者であった。
この人が、夜、イエスの元に来ていった。
ここでわかりますように、彼はユダヤ人の教師ですから、聖書をよく知っているわけです。
そして、神様のことにも精通していたはずです。
しかしながら、イエス様が救い主であるということがわかりません。
そして、イエス様から批判されていますね。
あなた方はユダヤ人の教師なのに、そんなこともわからないんですか?
人は新しく生まれなければ、神の国に入ることができませんと聞いて、ニコデモは答えて
どうやって人は、もう一回母親の体内に戻って生まれることができるんですか?
といわゆるトンチンカンな答えをしたわけです。
しかし、彼はこの時、学者たちはニコデモはイエスの信じて弟子だったと言っている学者もいますので、
イエス様も信じていました。
最初におそらくイエス様に出会ってから、3年ぐらいは経っていました。
その3年の月日を経て、彼はイエス様の言葉の意味を理解して
イエス様を救いのした十字架の栄光を目にして、信仰が芽生えました。
私たちの信仰も時を経て芽生えるということがあるでしょうね。
最初にイエス様を信じた時もそうだったかもしれません。
あるいは、イエス様を信じて千年を受けた後も、似たようなことは起こり続けます。
以前理解できなかったり、受けられなかった聖書の言葉を新たに理解して、信仰が新たに芽生える、
そういう経験をする、あるいは何度かしたことがある方もいらっしゃると思うんですね。
そして、クリスチャンの生涯はそれの繰り返し、それが私たちの御言葉と共に歩む喜びにもなるわけですね。
そして私たちがそれだけではなくて、誰かにイエス様の証をする場合、あるいは御言葉をプレゼントしたりする場合、何とも思わない人がいるかもしれません。
でも、そういう方々の中にも、時が来ればイエス様を信じる人が起こる。
あるいは御言葉を求める人が出てくる。
それがいつか分かりませんけれども、そういう時が訪れるということを信じていきたいと思います。
ちょっと似たような話をですね、いつも紹介している証の本からお知らせしますけれども、
この60代のある女性ですね。
おそらく20代の頃、会社の制度を使ってアメリカの語学学校に留学したそうです。
たまたまバスの中から教会を見つけてですね、教会に行ってみようと思ったんですね。長老教会だそうです。
歩いて20分かけて行った。アメリカって本当に広いから、歩くってすごいんですよね、車車駆けになって。
でも20分かけて行ったら、簡単に言うと教会で歓迎されたわけです。
たまたまそこで知り合った男性の家での政権に出た時にですね、日本にいたことがある男性から
俺日本にいたけど聖書持ってるけど日本語で読まないからあげるよって、その女性は日本語の聖書をもらったんですね。
その方がこんなこと言ってるんですね。
ある日、聖書を読んでストンと落ちた瞬間がありました。納得できたというか信じられた。
具体的な政府ではなくて、それまでクリスチャンを迫害していたパウロがイエス・キリストに出会って
自らのいのちを顧みずに宣教活動に歩き始めたのは、復活が事実だったからだと思えたのです。
復活したイエスの体があって信じなかった人に触れさせた。でもイエスはずっとそこに存在しているわけじゃなくて、
消えてまた別のどこかに現れた。聖書に書かれてある通りのことがきっと起こったんだろうと信じられたのです。
そして彼女はアメリカで洗礼を受けてですね、そして帰国したそうです。
余談ですけど彼女は科学者なんですね。科学の会社で勤めたので、理屈に合わないことは信じなかったんだけども、
別のところで言うのは、理屈じゃなくてストンと聖書のことが分かった。復活が信じられたと言っているわけです。
このようにですね、私たち最初に信じる時もイエスさんを信じた後もストンと御言葉を理解できる、そんな時が来るかと思います。
聖書の言葉は時にね、パンとか種に例えられますよね。
そういうパンや種がやがて実を結ぶことを御言葉と関連して考える場合が多いんですけども、
そういう聖句を九百から二つご紹介しますね。
ちょっと読んでみましょう。伝道者の書、十一書一節3。
あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。
そして四篇、百二十六の五から六。
涙と共に種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。
種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰ってくる。
私たちが聖書の御言葉に触れ続けているならば、やがて実を結ぶんですね。
パンを水の上に投げるような無駄になるのかなと思いますけども、そうじゃない。
試練の時にまた試練にある人に御言葉を伝えるならば、
その時に私たちが御言葉に触れ続けていくならば、時を経て信仰に至る。
自分もそうだし、そういう方が起こる。そんなことを信じて歩んでいきたいと思います。
二番目、今度はヨセフですね。
隠れていたが現れたヨセフ。
十九章38節
その後で、これはイエスが十字架を引き取った後ですけど、
イエスの弟子ではあったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、
イエスの体を取り、片付けたいとピラトに願った。
ここら辺で見ましょう。
それでピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスの体を取り下ろした。
アリマタヤのヨセフもサンヘドリンの議員で、別の箇所ではお金持ちであったこともわかりますし、
神の国を待ち望んでいた。そんなことが書いていたんですね。
しかし、彼にも非なんとまで言いませんけども、そんなところがあったんですね。
私たちもないでしょうかね。
あの時こう言っておくべきだったな、後悔したり、あるいはこうすべきだったと振り返って、
思い悩んだりすることがないでしょうかね。私しょっちゅうあるんですけどね。
けれども大事なことは、今イエス様の弟子としてどう生きるかが問われているということですね。
その姿勢を私たちはアリマタヤのヨセフから学ぶことができるわけなんです。
このアリマタヤのヨセフですけれども、
彼は先ほど申し上げたように、イエスの遺体を下げ渡してほしいとピラトに申していましたけれども、
2つのリスクが少なくともありました。
同僚の議員たちから非難に遭う。
そして2つ目は他でもないイエスの処刑を決めたピラトですから、
そんなことを申していたら、どんな目に遭うかわからないリスクもあったわけなんです。
しかしヨセフに関して今日の箇所では、はっきりとイエスの弟子と書いてあります。
イエスの弟子だと。
でも彼は恐れていて隠していたとはっきりと書かれているんですね。
その隠れていたと明言されてしまっているわけですが、
実は先ほども言いましたけれども、彼は秘密にしていましたけれども恐らくそれに悔やんだのか。
あるいはイエス様の十字架を見て、神の栄光を見てですね、
今こそ信仰を大胆に告白して行動する時だ、そして恐れずにイエス様に使える時だと決断をして一歩を踏み出したのではないかと思われるわけなんですね。
私たちも繰り返しますけれども、過去の過ちに囚われたり後悔に囚われる必要はないんですね。
そうじゃなくて、今思い立った時こそイエス様に使える機会があるわけですね。
いつですか?今でしょ?というね。
数秒前に十字架が入りましたけれども、イエス様の弟子として行動を起こすのはまさに今、その時だ。
もしその時を逃したとしても、もう一回チャンスは訪れるんですね。
ここで隠していたと言っているけれども、別に視聴者ヨハネはヨセフを非難しているわけではない。
そうじゃなくて、今はこうやって弟子として大胆に行動しているということを書いているわけですね。
ヨセフはですね、おそらくイエス様の恵みによって、十字架のイエス様の姿を見て心を動かされて、
まさに自分もしようと思ったんですけど、それ以上にイエス様の十字架に心を動かされて大胆になれたわけですから、
神様によって心を動かされて行動したということができるかと思います。
あともうちょっと書かなかったんですけど言えることは、表面的には隠していたなんて悪いことじゃないですか。
信仰を隠していた。
でも、なんて言うんでしょうかね、いいんですよ、ちょっと極端ですけど、
人ってどう変わるか分からないです、私たち。
だから自分の言動とか人の言動を見て、自分はダメだ、あの人はダメだって言うんじゃなくてですね、
分からないんですよ、どうなるか、私も人も。
だからパウロなんかはですね、先走った判断や裁きはしてはいけませんって言っていて、
私が好きな政府はですね、パウロがですね、私は自分のことさえも裁きませんって言ってるんです。
なぜなら私が良いことをしても悪いことをしても、本当に私のやったことを評価するのは神様なんですって言ってるんですね。
だからレジュメに書かなかったんですけども、こういうところから人もそうですけど、
自分のもっとこうすればよかったな、できない自分がいるなっていうところにがっかりしないでですね、
自分についても神に動かされて何が起こるか分かりませんから、ある意味寛容に。
そして人に対しても表面的に裁かず寛容に信じていける。
かつてはそうだったけども、イエス様に会ってこうなりましたと言えるお互いでありたいと思います。
ちょっと脱線しましたが、フィリピン2章13節にあるように、神様は志を与えてことを行わせてくださる方です。
そして過去がどうであれ、まさに今こそその時が来たと思ったら、
心を動かされてイエス様に従う何か行動を起こせば良いわけですよね。
そんなことをパウルは先ほど言った言い言葉と関連して、第2コリントンの6章2節でこう言っています。
ちょっと読んでみましょうか。
神は言われます。私は恵の時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。
確かに今は恵の時、今は救いの日です。
まさに過去はどうでもいい、未来も分かりません。
今、目の前にある状況ですね。
その時その時、神様に従っていく思いが与えられて、
過去はどうでもいい、未来が分からないけど、その時その時、
神様に会って弟子として一歩踏み出せれば幸いではないかと思うわけです。
それでは最後、埋葬されたイエス様のところから少し見ていきましょう。
今日の最後の部分でこのようにあります。
19章41節3、読んでみましょう。
イエスが十字架につけられた場所に園があって、
そこにはまだ誰も葬られたことのない新しい墓があった。
この新しい墓ですね。
実は今日の場面はイエス様が埋葬される場面、御遺体しかない場面です。
でもそこの場面からさえも、
ヨハネはイエス様が王なる救い主であるということを証言しています。
これは丁寧に見ると分かってくる、興味深いところなんですね。
まずイエス様のように、自分を王とした者はローマの反逆罪という、
そういう罪人です。
そういう罪人はどうなるか、十字架の上で死んだと。
そのまま残されるんです、十字架の上に。
するとどうなるかというと、
こういう励ましがやってきてですね、
その十字架の上の死体を追がむんです。
枯らすと。
なぜそんなことをするか。
今もね、大河ドラマとかやってますけど、なぜ死刑所を晒すか。
それは政府、ここであればローマの権威を示すため。
背くとこういう目に合うんだぞという見せしみのために、
十字架の上で死んだ者、
このユダヤ人の王と実生した者は、
十字架の上に晒されて、
猛禽類の餌食になっていたわけです。
しかしどうですか、ここで。
イエス様はヨセフを願ったヨセフに対して、
ピラトは渡したわけですよね。
ここからもですね、
ピラトは本当はイエス様が無罪だったと、
そう信じていたことがわかるわけなんです。
そして当然イエス様は犯罪人ではなくて、
復活に向けて葬られていく救い主だということもわかるわけですね。
そしてもう一つはですね、
大量の紅油が埋葬のために使われましたね。
30キロなんです。
普通に30キロの紅油って聞いてもピンとこないですけど、
30キロの紅油を持って墓まで行くってどうですか。
今ね、日本でお盆の時期ですけど。
30キロの紅油を持ってお墓行くのは大変でしょ。
実はそれほどすごいことであって、
おそらくニコデモは裕福な人だったから、
たくさんの下辺を連れてイエス様の墓まで行ったんじゃないか。
その行列はまさに王の埋葬のようでもあったかもしれません。
でも何よりもこれだけ多くの紅油を使うというのは、
尋常じゃないんだそうです。
まさに王様の扱いなんですね。
だから100リットルの、ここでは難しい書き方をしてますけども、
もつ薬と人工30キロって書いてあるところから、
これは王の埋葬だっていうこともある。
そのことからもイエス様が犯罪者ではなくて、
王なら救い主だってことが明かされています。
そして真新しい、誰も葬られたことのない墓に葬られたって書いてありますね。
実はこの十字架の死刑囚はどうなるかというと、
同じエルサレムの郊外ですけど、
共同墓地に捨てられるように埋葬されるのが常なんです。
犯罪者なんですから、ローマ人、犯行人。
しかし真新しい、誰も使ったことのないお墓に丁寧に埋葬された。
そこからもイエス様がただ者ではない、
まさに神なる救い主だっていうことが、姦淫も見られるわけです。
さらにもっと興味深いことは、
真新しく誰も葬られたことのない墓に、たった一人で葬られたってことは、
もしこの墓が空になったらどうですか?
3人ぐらい葬られて空になったら、誰がいなくなったかわかんないでしょ?
でも一人だけだったら、イエス様だけだったら、
お墓が空になった時に、イエス様がいなくなったんだ。
イエス様が復活したんだってことがわかります。
だから実は、誰も葬られたことのない真新しい墓に葬られたということから、
ヨハネは復活の兆しをここで姦淫は見させているんですね。
このように見てきましたけども、
イエス様がご遺体として埋葬される場面からも、
私たちはイエス様が大なる救い主になるということが、ヨハネによってわかるわけです。
そして空の墓、一人で新しい墓に葬られたということからも、
やがてイエス様は復活するんだということが垣間見られていきます。
まさに闇の中に朝日が見えるような復活の光が、
希望の光がこの箇所からも差し込んできているんですね。
このようなことから、まさに私たちが希望が死んでしまったと思うような時があったとしても、
その希望は死なない。
そして何も先が見えないと思った時でも、
空の墓のように復活の兆しが見えるんですね。
ですから、そのような死しかない、希望が死んだと思える時でも、
イエス様の希望の光があるんだということを信じて、
神様に信頼していく、復活のイエス様に信頼していく、
そんなお互いであり、教会でありたいと思います。
そんな復活の希望を、パウロが力強く証した御言葉を最後に読んでいきましょう。
もう一回まとめのために読んでみますね。
このようにイエス様は、埋葬の時でさえも、王なる救い主であることが証されています。
そして復活が空の墓によって示唆され、希望の光が垣間見えるのです。
ですから私たちにとって、希望が死んだと思われるような時であっても、
イエス様は神なる救い主として、私たちの信仰を呼び覚まし、
復活の希望を与えてくださると信じてまいりましょう。
じゃあその希望を表したパウロが書いた御言葉を読んで終わりにしたいと思います。